「人生、やり直してえなあ……」
それが、俺の三十年にわたる人生最後の言葉だった。
いや、正確には言葉になっていなかったかもしれない。疲労困憊の身体を引きずり、深夜の横断歩道で信号待ちをしていた時、脳内でぼんやりと反芻しただけの願望だった。
鳴り響くクラクション。
世界が真っ白に染まる衝撃。
宙を舞う身体。
ああ、これが俗に言う『異世界トラック』ってやつか。ご丁寧にありがとうございます。
そんな訳で、俺は死んだ。過労とストレスで濁りきった社畜人生の、あまりにもあっけない幕切れだった。まあ、特に未練もない。強いて言うなら、推しキャラの新しいイベントストーリーが見られないことくらいか。
そう、俺には『推し』がいた。
『ブルーアーカイブ』というソシャゲに登場する、早瀬ユウカという少女だ。
完璧超人で、スタイル抜群で、クールに見えて実は面倒見が良くて、でもちょっとポンコツなところもあって……。ああ、ダメだ。思い出したら涙が。彼女の健気さに、どれだけ荒んだ心が救われたことか。
もし、万が一、億が一。神様的なサムシングがいて、人生のやり直しを許可してくれるというのなら。
どうか、あの子が幸せに暮らせる世界でありますように。
そんなことを、薄れゆく意識の片隅で祈った、気がする。
◇
次に意識が浮上した時、俺はひどく混乱していた。
まず、視界がぼやけている。何もかもが巨大で、ピントが合わない。
身体が思うように動かせない。手足をバタつかせるのが精一杯だ。
そして、腹が減るとか、眠いとか、オムツが濡れて気持ち悪いとか、そういう本能的な欲求しか思考を支配しない。
(……え、俺、赤ん坊になってる?)
理解が追いつかない。これが俗に言う『転生』というやつなのだろうか。前世の記憶は、霧がかかったように曖昧で、断片的にしか思い出せない。トラック、ゲーム、推し……そんな単語が脳裏をよぎるが、それが何だったのか、はっきりとは認識できなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
俺は今、とてつもなく無力で、誰かの庇護がなければ生きていけない存在だということ。
そして、俺を世話してくれる『誰か』は、ひどく優しいということ。
「あらあら、アキト。お腹が空いたのかしら?」
ふわりと身体が浮き、温かい胸に抱かれる。ミルクの甘い匂い。穏やかで、全てを包み込むような声。たぶん、この人が俺の母親なのだろう。この温もりに身を委ねていると、曖昧だった記憶も、前世のしがらみも、どうでもよくなってくる。
(まあ、いっか……)
新しい人生。悪くないかもしれない。
俺は、早瀬アキトとして、二度目の生を受けることになった。
それから数年が経った。
俺は三歳になり、たどたどしいながらも言葉を話し、自分の足で歩き回れるようになった。両親は優しく、家は温かい。絵に描いたような幸せな家庭だった。前世の記憶は依然として霞がかかったままだが、特に不便はない。今の俺は、ただの早瀬アキトだ。
そんなある日、人生を、いや、俺という存在そのものを根底から揺るがす出来事が起きた。
リビングでお気に入りのロボットの絵本を読んでいると、隣の部屋から母親の声が聞こえてきた。
「こっちへいらっしゃい、ユウカ。お兄ちゃんにご挨拶しましょうね」
(ユウカ……?)
どこかで聞いたことのある響き。
その名前が鼓膜を震わせた瞬間、頭の中に激痛が走った。まるで、固く閉ざされていた記憶のダムが、たった一言の鍵でこじ開けられたかのように。
———早瀬ユウカ。
———ミレニアムサイエンススクール。
———セミナー所属の会計。
———『100kg』。
———冷酷な算術使い。
———俺の、最愛の、推し。
「ぐっ……!?」
洪水のように押し寄せる前世の記憶。社畜として生きた三十年間。そして、その唯一の癒やしだったゲーム『ブルーアーカイブ』の膨大な知識。全てが脳内で再構築され、今の俺の意識と完全に同期した。
そうだ、俺は転生したんだ。
しかも、ただ転生しただけじゃない。ここは、あの『ブルーアーカイブ』の世界だ。
そして俺は———
がちゃり、とリビングのドアが開いた。
そこに立っていたのは、優しい笑みを浮かべた母親と、その足にしがみつくようにして、こちらを恐る恐る窺う、一人の小さな女の子だった。
腰まで届くかという、艶やかな菫色の髪。
透き通るような白い肌。
人形のように大きく、潤んだ紫色の瞳。
まだ幼く、あどけなさは残るものの、その顔立ちは間違いなく、俺がモニター越しに焦がれるほど見つめ続けた少女の面影を宿していた。
「ユウカ、あの子がお兄ちゃんの『アキト』よ」
「……お、おにー、ちゃん……?」
舌足らずな声で、少女が俺を呼ぶ。
その瞬間、俺の中で何かが、音を立てて弾け飛んだ。
(……天使か?)
いや、違うッ! 天使などというありふれた言葉で表現してはいけないッ!
これは、神が創造した最高傑作。美の権化。存在そのものが奇跡。歩く世界遺産。
俺の妹。
早瀬ユウカ。
「あ……ああ……」
声にならない声が漏れる。
目の前の光景が信じられない。前世で、あれほどまでに焦がれた存在が、今、ここにいる。しかも、血の繋がった兄妹として。
こんな奇跡があっていいのか? 俺は前世で国でも救ったか? いや、救ってない。ただひたすら会社と家の往復を繰り返していただけの、しがない社畜だったはずだ。
だとしたら、これは何だ?
神の気まぐれか? それとも、俺の最後の祈りを聞き届けてくれたのか?
どちらでもいい。
理由なんてどうでもいい。
ただ事実として、早瀬ユウカが、俺の妹としてここに存在している。
その事実だけで、十分だった。
俺はゆっくりと立ち上がり、ふらつく足で、その小さな奇跡へと歩み寄った。
母親が「アキト?」と不思議そうな声を上げているが、もう俺の耳には届かない。
一歩、また一歩と近づく。
警戒するように母親の後ろに隠れるユウカ。
ぐあぁッ! なんだその仕草!? 俺をキュン死させようとしてるのか!? そうか!? そうなんだろ!?
「……ユウカ」
俺が名前を呼ぶと、彼女はびくりと肩を震わせた。そして、母親の服の裾をぎゅっと握りしめながら、潤んだ瞳で俺を見上げてくる。
ああ、ダメだ。
可愛すぎる。
なんだこの生命体は。可愛いの臨界点を超えちゃってるよ。プルトニウムもびっくりだ。
存在しているだけで周囲の人間に幸福を与える効果でもあるのか?
もはや聖遺物か何かだろこれ(錯乱)。
俺はユウカの目の前で、そっと膝をついた。目線を合わせるためだ。驚かせないように、怖がらせないように。細心の注意を払う。まるで、ガラス細工に触れるかのように。
「はじめまして、ユウカ。俺が、お兄ちゃんだよ」
できる限り優しい声で、微笑みかける。
俺の顔を見て、ユウカは少しだけ目を見開いた。そして、ほんの少しだけ、母親の背後から顔を覗かせる。
(いけるッ……! 警戒が少し解けた!)
俺はゆっくりと、本当にゆっくりと、右手を差し出した。
ユウカは俺の手と顔を交互に見た後、おずおずと、その小さな手を伸ばしてくる。
(もらったッ! 勝ったぞッ!!)
そして。
ぷに、と。
俺の人差し指を、ユウカの小さな手が、柔らかく握りしめた。
その瞬間、俺の脳内に電流が走った。
なんだ、この感触は。マシュマロか? 天使の羽か? セ○バンさん、おたくのランドセル名を『天使の羽』から『早瀬ユウカのぷにぷにおてて』に今すぐ変更しましょう……!
いや、違う。これは、俺の妹の手だ。温かくて、柔らかくて、信じられないほど小さい。この小さな手で、将来あんな銃を操り、電卓を叩き、完璧な計算でセミナーを支えるのか。
感動で、視界が滲む。
「……あ……」
ユウカが何かを言おうと、小さな口を開く。
俺は固唾を飲んで、その言葉を待った。
「……おにーちゃんっ」
満面の笑み。
破壊力、数メガトン。
俺の理性は、天使の微笑みの爆心地となり、木っ端微塵に吹き飛んだ。
(あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!)
心の中で、絶叫する。
なんだこれは。なんだこの生き物は。可愛すぎて死ぬ。いや、一度死んでるけど、もう一度死ねる。むしろ何度でも死ねる。この笑顔のためなら、俺は世界の全てを敵に回せる。
俺は、決意した。 神よ、ありがとう。このチャンスをくれたことに、心から感謝する。
そしてク○ヴァーさん、見ててくれよおおおおおッ!!
この早瀬ユウカを、俺が!! 世界一幸せな女の子にしてみせるからッ!!!
原作の彼女は、苦労人だった。 リオ会長の失踪、セミナーの財政難、常識外れの生徒たち。その全てを、彼女は一人で背負い込み、完璧な計算で乗り越えようとしていた。その健気さが、痛々しくて、そして何よりも愛おしかった。
だが、もうその必要はない。
これからの彼女の人生には、この俺がいる。
俺がユウカの盾となり、剣となるんだ。
彼女を脅かす全ての障害を取り除き、彼女が歩む道に花を敷き詰め、降り注ぐ火の粉は全て俺が払い除けよう。
そのためなら、なんだってする。
どんな努力も惜しまない。
俺の人生の全ては、今この瞬間から、早瀬ユウカのためにある。
まずは、何から始めるべきか。
そんなの決まってるだろ?
まずはこの天使のような存在を、心ゆくまで堪能することからだッ!
俺はユウカの小さな手を握り返したまま、もう片方の手で、その柔らかな頬にそっと触れた。
(うおっ!? なんだこの弾力……! 赤ちゃんの肌ってレベルじゃねえぞ……!)
すべすべで、もちもち。まるで上質な絹ごし豆腐のようだ。高級中華の麻婆豆腐に入っていても、違和感はないだろう。
くんくん、と鼻を近づけてみる。
ミルクの甘い匂い。それから、赤ちゃん特有の、太陽のような温かい匂い。
ああ、浄化される……。前世で溜め込んだ三十年分のストレスが、全て溶けて消えていくようだ……(恍惚)。
「おにーちゃん、くすぐったい……」
きゃっきゃ、とユウカが笑う。
その声、その仕草、その匂い。全てが俺の五感を刺激し、魂を震わせる。
呪○廻戦の某ツギハギ呪霊ですら、今の俺の魂の形を知覚することは不可能だろう。
もう、迷いはない。 俺のやるべきことは、ただ一つ。
この、世界で一番可愛い妹を、甘やかして、褒めちぎって、肯定し続けて、自己肯定感MAXの最強完璧美少女に育て上げることだ。
計算? 算数? そんなもの、彼女にとっては呼吸をするのと同義だ。
俺がすべきは、情緒教育。
「ユウカは可愛い」「ユウカは天才」「ユウカは世界一」
この三つの言葉を、毎日百回ずつ囁き続けよう。
「アキト? 急にユウカの頬を触ったり、匂いを嗅いだり……どうしたの?」
「母さん……俺はッ! 俺は今ッ! 猛烈に感動しているッ……!」
「か、感動?」
「ああ! 俺に、こんなにも可愛い妹がいたなんて……! これは奇跡だ! 神からの贈り物だッ!」
「ふふ、大げさねえ。でも、仲良くしてくれそうで、お母さん嬉しいわ」
母さんは俺の異常なテンションを、兄としての自覚が芽生えた程度にしか思っていないようだ。それでいい。それでいいんだ。俺のこの底なしの愛情(という名の狂気)は、まだ誰にも理解されなくていい。
俺はユウカを正面から見つめ、高らかに宣言した。
「ユウカ。よく聞け。お前は、今日から世界で一番幸せな妹になるんだ」
「……しあわせ?」
「そう、幸せだ。欲しいものは何でも言え。お兄ちゃんが全部用意してやる。痛いこと、辛いこと、悲しいこと。そんなものは全部、俺が吹き飛ばしてやる。お前はただ、毎日笑って、健やかに育ってくれればいい。それだけでいいんだ」
「……? うんっ!」
まだ意味も分かっていないだろうに、ユウカはこくりと頷き、満面の笑みを浮かべた。
それだけで、俺の決意はさらに固くなる。
これが、俺の二度目の人生の始まり。
転生したら、最愛の推しが妹だった。
ならば、兄として、全身全霊で彼女を甘やかし尽くすのみよ!
この日、一人の重度のシスターコンプレックスが、キヴォトスに爆誕した。
この歪んだ愛情が、後に妹をちょっぴり(?)ヤンデレ気味に育ててしまうことになるとは、この時の俺はまだ知る由もなかった。
いや、たとえ知っていたとしても、俺の行動は一ミリも変わらなかっただろう。
だって、こんなに可愛いんだ。
仕方ないじゃないか。
俺はユウカの柔らかな頬をもう一度撫で、その愛くるしい笑顔を脳裏に焼き付けた。