Still in the (Red) Cocoon 作:レッド・ライン
情報等は2025年10月時点の原作を参照したものです、ご了承ください。
Record No.958
MET +341d 06:39
Phase:Reboot
Event:Break of tether
Status:Offline
Note:Farewell.
1枚の手紙が、突風に運ばれ飛んでゆく。
雲ひとつない、朝方の青空を舞うその中身……水でもこぼしたのか、朝露でも跳ねたのか。
インクで綴られた内容は一部が霞んでいた。
拝啓、愛しい貴方へ。
この気持ちは、きっと……私の口から伝えることはできないから。
それでも、伝えなくてはならないものだから……。
私の代わりに、あなたの心に伝えていただくべく……そして、形に残すべく、お手紙をしたためています。
大仰なことを書いてしまいましたが、深い意味はありません。
ただ……その。
私が恥ずかしくて、口にしづらい。それだけなのです。
これからお伝えすることは、私が羞恥心を乗り越えられた時……覚悟ができたとき……改めて、言葉でお伝えしたく思います。
私たちはいつも、貴方を"貴方"と呼びます。
大切な貴方、貴いお方。
ですが、もう一つの、とても大切な意味も籠めているのです。
ご存じでしょうか? 彼岸の方。彼方と書いても、あなた、と読むのですよ。
闇夜に浮かぶ……遠く届かないはずだった、眩しい貴方。
ずっと触れられなかったはずの輝く恒星は、ある日私たちの手を取って……代り映えの無い周回軌道から連れ出してしまったのです。
当時の貴方の視線は、貴方から受けた輝きを返す、私と共に生きてきた衛星に釘付けでした。
そして恒星に囚われた月はいずれ地に落ち、惑星もろともその身を砕いたでしょう。
そのような破滅的な愛で良いと、あの頃は思っていました。
ええ、今は違います。
消えることを怖れたから? いいえ。
傷付けることが恐ろしくなったから? そうではありません。
私は──。
「んん……」
自然と目の覚める、午前6時半。
「ふわぁぁぁぁ……ふ」
爽やかな目覚めというには、曇り空が邪魔をする空模様。
ちょっとした事情から相部屋のウマ娘はいない、質素な部屋で体を起こした。
「……」
つい昨日飾られたばかりの写真立てが、滲んだ視界に入りこむ。
写っているのは、遠くから駆けてくるトレーナー、そのずっと手前には、トロフィーを持たされ呆然と座り込むレッドラインと、そんな彼女に破顔し抱き着くスティルインラブ。
「何だったんだろ?」
寝ぼけた意識は、記憶を遡り前日へと飛躍する。
────ワァァァ!
聴こえるのは大歓声。
観客席に大切な2人を見つけ、直線に向けて駆けたのが、レースにおける記憶の最後だった。
(──う?)
極度の集中からか過程は吹き飛んでいて、気付けばゴールの先で座り込んでいる。
とっくに肉体は限界で、すぐ横になって楽になりたくて仕方がなかった。
(終わっ……た? ……誰が)
勝ったのか。
走り抜けた、走り切った、その実感はあった。
だが掲示板を見る余裕もなく、へたり込んで、ずっと息を荒げている。
周囲に人がいる気配はない。
並走していた娘らは背後、歓声の方でファンへ手を振っているのだろう。
笑顔で送り出してくれた2人、そして票を投じてくれた人達のために、立ち上がらなければならない。
ならないのだが。
(あれだけ練習して、この体たらく、か)
荒く息を吐きながら、無様に地へ座り込む己に失望する。
いくら力を籠めても、重すぎる足は震えて動かない。
──トップアスリートの世界、そこへ挑む過酷さが、これほどだとは。
(きっつぅ……)
G1という最高峰の場での競り合い、ふらつきながらも、己の見通しの甘さに腹を立てた。
血流の激しさに眩暈が起こる、座っているというのに姿勢を保てず、視点がゆらゆらと動き回る。
ごごう、ごごう。どくん、どくん。
耳をつんざくような実況と、ざわめきに混じって、血の巡る音と鼓動がうるさかった。
はぁ、はぁ、どくん、どくん。
吐息、心音、歓声、怒声、また心音。
届く音は悲喜こもごも。
──どくん。
震える手を地に突いて、吐きそうな胸焼けを押さえて揺らついて、焦点も合わず、順繰りに映す視界。
青空、ターフ、勝負服を着こんで、座り込んだ脚。
また戻って、夕焼け。
ぼやけた緑色、焦点の合わない視線の先に、赤いパンプスを穿いた踵。
────ドクン。
(……?)
冬の午後4時。夕焼けが差し込み、じき薄暗くはなるだろう。ただ……。
『……あ?』
ただ、瞬いた次の瞬間。
視界に飛び込んだ景色はあまりにも赤かった。
赤く、過ぎた。
雲も、並木も、芝でさえも。
瞳に赤のインクをぶちまけたと言われた方が、まだ納得ができるような……。
あまりにも自然ではない、鮮血の色。
そしてターフに──ゴールの向こう、誰もいないはずの場所に──朧げに見えた背中が、振り返った。
その背後に昇る、細い三日月に照らされた、そのドレス姿は。
(せん、ぱい?)
呆気にとられたレッドラインは、もう一つ重大な懸念が生じたことにようやく気が付いた。
(……静かすぎない?)
少女は時が止まったような錯覚を覚えていた。
あれだけの歓声も、話し声も、己の鼓動さえも。ピタリと止んで、ただ2人。
何が起きたのか? 振り向いてそれを確認したくとも、何故か遠方の赤い少女から視線が離せない。
(待って、待って待って)
歩み寄る憧れの人、しかし尋常ではない状況に焦りを覚える。
視界の先には、ヴェールを被り、目を細めてこちらを見つめる女、否。
『……』
──獣。
(狩られる!)
──怖かったんです、あの娘。
フラッシュバックするインタビュー、憧れに追いつきたくて幾度もレースを見た。
獰猛にすぎる走り、猟犬のように地を這う喰らい付き。
スティルインラブ……その姿をとったであろう何かの表情は、その時と酷似した、恍惚としたものだった。
『はぁ……』
静寂の中、鮮明に鼓膜へ届けられた吐息。
冗談ではなかった。10mは離れていたのに、これから牙を突き立てようかという息遣いを、耳元に感じたのだ。
(いや、やだ! 怖い、こわい!)
後ずさろうとするレッドラインの怯えは、自身の理解を超える、不可解な事象に由来したものではなかった。
吐息、視線、その内にこもる熱から、己は獲物だとみなされたのだと……これから追い詰められ、狩られ、喰らわれるのだと。本能的に悟ったが故であった。
ガチガチと歯が音を立てる。その瞳に見つめられた途端、心の中の何かが逃げ出したいと暴れ出した。
1歩1歩、歩みを進めてくる捕食者、自分は罠にかけられたのか? ここは狩場だったのか? 肉食獣と草食獣、必要なのは脚ではなく猟銃ではないか? 混乱を諫めようとして失敗する、理解できない光景をどうにか理屈付け、冷静でいようと試みながら、依然後ずさろうとして……。
(なんで!?)
脚がまだ動かないことに愕然とする、思わず悪態をつこうとし……。
(あぁっ、くそっ……!?)
声も出ないことに、続けて気付く。
当人はあずかり知らぬことだったが、真綿で締め付けたような痕が、喉や衣服の下、体のあちこちに浮かび上がっていた。
(誰かっ!? なんでっ、なんで!)
静寂、赤色、三日月と獣。
捕食者は、獲物の荒々しい吐息を頼りにこちらへやってくる。明らかに異常な状況だった、だというのに、誰も傍にいてくれなかった。
その、世界の冷たさに、少女は泣き叫びたかった。
一人はもう嫌なのだと、月夜は怖いのだと、慟哭したかった。
(いや、いやだ、嫌だっ!)
涙を浮かべ、恐怖に身を抱き、震えながら瞼を閉じて、訪れたのは……温もり。
(あ……?)
想像だにしなかった、柔らかな抱擁。
蕩けるような暖かさに、警戒心と恐怖が溶き解されてゆく。
(先、輩?)
きめ細やかな茶髪に隠されて、表情はうかがえない。
聞き慣れた声で、しかし慣れない口調で、耳元に囁かれる。
『大丈夫よ……』
(あなたは? この人は、スティルインラブ。 視界が、ぐるぐると混ざり合っているのは、なぜ?)
抱かれている少女の意識は混迷を極めていた。
ただ湧き上がるのは、敵意などなかったのだという安堵と、出所不明の……無数の疑問。
(大丈夫だよ。大丈夫だから……。ワタシは? ? あのレースは? うまくいったね。 ? どうなったの? この人は、誰なの? 貴方は幸せ? ええ。とっても。わからない。あなたは、誰なの。その先には、何があるの? がんばってね。答えて、応えて!)
抱き締める少女からの答えは、ない。
そして思い至る。立ち上がれなくなってしまうから、だからこの安堵が恐ろしかったのだと。
力のない抱擁は……やがてぎこちなく抱き返された。
(わからない……わからないけど)
矢継ぎ早に湧いた疑問はひとつとして解決されることなく、しかし不思議なことに、混乱は次第に鎮まってゆく。
由来の判らない安堵だけが、互いの心を支配していった。
キィンと、レッドラインの頭に耳鳴りが走る。
『うっ、あ……』
鋭い痛みにぐらつき、仰向けに倒れかける。
惑う視界の中で……よく知るその顔が、寂しそうに微笑んだ。
直後。
『──者ァ! ……レぇ──っ、ドぉ、ライン──ッ!』
ワァァァアァア──ッ!
つんざくような叫び声がスピーカー越しに響き、地響きのような拍手と、どよめき混じりの喝采が鼓膜越しに脳を揺さぶる。
『はい!?』
視界の赤みは既に消えていた。
『へ──?』
『おめでとうっ』
『え、わっ、先輩! あっ』
支えるように背後から抱き着かれ、瞬く間にトロフィーを渡され……唖然とした瞬間に撮られた一枚。
鮮烈に翌朝……つまり今朝のニュースを飾った写真だったが、世間は既に年末グランプリだとか、次年の新星についての話題で持ち切りになっていた。
他に目立った戦績がないからか、少女の勝利は時と共に、輝かしい世代の話題に埋没していく。
(あたし自身、忘れちゃってるもんねえ……)
スマホで朝のニュースを確認し、更新順から自分の名前が消えるのを眺めつつ、無頓着に思う。
極限状況がもたらした記憶の不整合なのか、レース後、表彰やインタビューを受けたはずなのだがとんと記憶になかったレッドラインである。
(ま、そんなもんよね)
世間の評判を言い訳に、己の不甲斐なさを誤魔化しつつ、ひどく簡単に、あっさりと納得した。
「ウマ娘に追いつけるはずないのに」
その点この人は妥協を知らないな、と。写真の中、トレーナーの必死な顔へ微笑んだ。
ウェアへの着替えを済ませ、朝のランニングの支度を整える。
「見ているしかできないって、もどかしいんだろうな……」
ちなみに、写真でへばった顔で倒れかけているその人物は。
とある結末においては、走り去った「あるウマ娘」を死力を尽くして追いかけ続け、遂には追いつき、並び立った人間である。
閑話休題。
いつかその逢瀬を止めた少女は、行ってきます、と小さくこぼすと、戸を開け歩み出した。
(でもいいの。見つけて、見ていてくれるだけで)
栗東寮の4階から階段を降り、いつものように寮母へとあいさつをする。
「おはようございまぁす」
ここで「あら、レッドちゃん」、と返ってくるのが常であるのだが……。
「……」
返事はなかった。
「?」
応接窓から覗き込むと、テレビのニュースを眺め、頬杖をついてぼんやりとしている姿が見えた。
(疲れてるのかな?)
少し大きめの声で呼びかける。
「おばちゃーん、外出してきますねー?」
「……」
やはり気付く様子はない。
「??」
さらに大きい声を出そうか考えたレッドラインだが、まだ7時前であることを思い出し、書置きを残すことにした。
『ランニングをして、市内の知り合いと会ってきます。正午には帰ります。 レッドライン』
書き終えた少女がペンを置き、走り去ってしばらく経ったころ。
「んん~、やっぱり朝はこれよね」
そう独り言をつぶやいた寮母が、耳からワイヤレスイヤホンを取り外して、部屋や廊下の掃除に取り掛かる。
「さぁて、お嬢様方を起こしに……あら?」
寮母が手に取った、切り取られたメモ用紙。
要件の書き記されたそれは、確かにレッドラインが書き記したものではあったが……先程と比べ、一つ、奇妙な点が生じていた。
「誰のかしら」
署名が消えていたのである。
Record No.949
MET +340d 07:12
Phase:Observation
Event:Transitioning toward L2 point
Status:Online
Note:Monitoring the situation.