ペンは剣よりも強し――――俺の大好きな言葉。
だから、俺は記者になった。
ペンと手帳で世界を奏でるために。
「おい、ここの文章。間違ってるぞ」
何度も言わせるなよと先輩が差し出してくる原稿。
いくつか入れられた朱書きの、ひときわ強調されたその修正。
「『3代目トリプルティアラ候補筆頭!』ってなんだ?」
トリプルティアラを獲ったのはメジロラモーヌだけだろ?
「ええと……ああ、そうでした。すみません」
ぞわり。
「(また、この感覚だ)」
ウマ娘のG1レースは大きく2つ、クラシック路線とティアラ路線に分けられる。そのうちのティアラ路線、桜花賞、オークス、秋華賞の3つを勝ったウマ娘は、トリプルティアラウマ娘と呼ばれることになる。
2つの色々な事情が重なって、この3つの冠を全て戴いたのは……長いことメジロラモーヌただひとり。
――――そうだ、それが正しい。
――――3つのG1レースに全て勝つなんて、そもそも難しいのだから。
理性がささやく。知識が裏付けする。
それでも、違和感が拭えない。気持ち悪い。
気持ち悪くて、弾かれたように修正稿を書き上げて……朱書きの紙を破り捨てる。
ビシャリビシャリと音がして、細切れになってゴミ箱に消える。
「お、おい……」
「ああ、いえ。大丈夫です。大丈夫」
目を閉じる。両耳を塞ぐように手を押しつける。
どくり、どくりと聞こえる鼓動。脈動に押し流されるように、違和感は溶けていく。
それで、全部消える。
「……それで、原稿はこれで大丈夫ですか?」
「おう。すぐ直してくれてサンキューな」
何か変なものでも見たかのような顔つきで去って行く先輩記者。
「なにか変なことでも、あったかな?」
疑問は尽きないが、記者にそんな些末なことを気にしている場合ではない。
「さて。今日の取材は――――」
記者の仕事がなにかと問われれば、とにかく人に会うことだろう。
専門家、街角の一般人、今をときめくスーパースター。
そして特にレース記者は、つねにスターを、次のスターを追うために足を運ぶ。
「ドゥラメンテさんはいられまーす」
スタジオに沸く拍手。カチコチな動きで俊敏に動くという矛盾した動作で入ってくるデビュー前の競走ウマ娘。
今日は話題騒然の新生ウマ娘。カメラも、マイクも、ボイスレコーダー、ペンとメモ帳ですら彼女の方だけを向いている。
きっと彼女なら、三冠ウマ娘も夢じゃない――――そうだろうか。
3つのG1レース。それを一年に一度も取りこぼすことなく勝つことが、どんなに難しいか。
「(もちろん、俺はレース記者。そんな夢のない記事は書けない)」
しかし、それでも。
3つのG1レースを勝つには、もっと根源からの――――。
「!」
ぞわり。
鳥肌が立つ、心臓が跳ねる。
足下がぐらつく――――足裏から、ナニかが這い出るような。
「(また、この感覚だ)」
前回がいつだったかは覚えていない。
けれど、それでも、この感覚には覚えがある。
忘れたなにかがうめいている。叫んでいる。
俺はなにを忘れているのだろう。
「ねぇ、あなた」
「!」
思いもよらぬ外からの刺激に、反射的に振り返ってしまう。
「大丈夫?」
そこに居たのは――――アドマイヤグルーヴ。
大きな白い流星に跳ねた藍色。ふんわりとした後ろ髪。
主な勝ち鞍は
「え、ええ……大丈夫、いつものこと、いつものことですから」
俺の答えに、それは大丈夫と言えるのかしらという表情をするアドマイヤグルーヴ。
それにしても、普段ドゥラメンテに帯同しているのはエアグルーヴだったはずだが……そんな俺の疑問に気付いたのか、彼女はバツが悪そうに視線を逸らす。
「私のことは気にしないで、今日はあの子を」
そうは言われても、今日の取材はスタジオを押さえて行う比較的大規模なものだ。
テレビカメラも回っているし、ペンとメモ帳の記者の出番はそこまで多くない。
「(そういえば、アドマイヤグルーヴも期待されたウマ娘だったか)」
桜花賞、オークス、秋華賞そのいずれもで1番人気。
多いに推されてのトリプルティアラは、しかしその1つしか彼女の手元にない。
そうだ、それほどにトゥインクル・シリーズは厳しい。
勝ち抜くには、ターフの上で栄冠を勝ち取るには……。
ぞわ。
「(また)」
ぞわり。
身体の芯をざわつかせる違和感。
寒くて熱い、脈打つ心臓の鼓動。
「……あの、なにか?」
視界の中に収まったままだったアドマイヤグルーヴが首を傾げる。
俺は誤魔化そうとして――――いや。
「ひとつ、聞いてもいいかな」
こちらを心配するような表情から一転、彼女の眼光が鋭くなる。
前髪から覗く対になった瞳が、俺を睨む。
「いいけれど、手短に」
「トリプルティアラに、足りなかったものはなんだ?」
口をついて出た言葉は、およそ記者らしくもない質問。
あまりに抽象的で、取材相手――――トリプルティアラの栄冠を望み叶わなかったアドマイヤグルーヴ――――への配慮に欠けた言葉。
「あ、いや。すまない、その……」
全身から血の気が引いていく。
どうにか取り繕おうとして言葉を探していると、彼女は小さくため息を吐いた。
「私に足りなかったのは」
ぞわり。
またしても鳥肌、
「私が、持ち合わせていなかったもの」
アドマイヤグルーヴはこちらを見据えてそう言い切る。
「それは、愛よ」
ぞわり。
「(これだ)」
確信だった。どうしてかは分からないが、ハッキリ分かった。
「(これが、あの違和感)」
何度も感じて、感じる度に退いていった。
潮の満ち引きのように襲い来る感覚の原因。
「……不躾な質問を、許してくれ」
だがそれは、アドマイヤグルーヴがもたらしたものではない。
「きみは、ティアラウマ娘を知らないか?」
3つのティアラを全て戴いた――――トリプルティアラウマ娘。
「……メジロラモーヌのこと?」
「違う!」
瞬間、スタジオ中の視線が突き刺さった。
思わず荒げてしまった声が、全ての衆目を惹きつけてしまったのだ。
「す、すみません……!」
慌てて身体の向きを変えて、頭を下げる。
マグマのような衝動と氷河のような後悔がぶつかって、身体の輪郭がぼやけそうになる。
「知っているのね、あなたも」
スタジオが平静を取り戻したとき、アドマイヤグルーヴはそう零した。
「あ、ああ……信じてもらえないかもしれないが、俺は知ってるんだ」
「忘れるわけがないわ、あの子のことを」
アドマイヤグルーヴは、ハンカチを片手にそう言った。
彼女の双眸は、過ぎ去ったレースの日々に向けられている。
「スティル――――スティルインラブ」
それが、ティアラの輝きを喰らい尽くしたウマ娘の名前よ。
「ドゥラメンテは、よかったのか?」
「一人でも帰れるわ。子供じゃないんだから」
アドマイヤグルーヴは、視界から消えるまで未来のスターウマ娘を見送りながらそんなことを言う。
……その突き放した言い様が、むしろ雄弁に彼女の心情を語っているのだが。
「それで、本題に入りましょう。あなた、どこまで覚えているの?」
「覚えているかと言われると、ほとんど覚えていないようなものだよ」
スタジオからほど近いコーヒーショップ。
ちょうど昼食と夕食の境目ということもあり、比較的にまばらな客入りの店内。
「ただ、いつも間違える。いや、思い出すんだ」
2代目のトリプルティアラウマ娘の存在。
ティアラ路線の話題に触れる度に、俺はそれを思い出す。
それが身体中を駆け巡る違和感になって、俺はなにがなんだか分からなくなる。
「けれど、すぐに忘れてしまう」
「でも、今日はよく覚えているのね」
「きみは。きみはいつも覚えているのか?」
俺の問いかけに、アツアツのハンバーグを口に運ぶ彼女。
間食にしてはやや重めなそれを嚥下してから、彼女は言う。
「忘れられるハズがない……地面にあいた穴を見て、それを知らないと言えるウマ娘を私は知らないわ」
「じゃあ、やっぱり『彼女』は」
「ええ。私から秋華賞を、オークスに桜花賞の栄冠も奪ったウマ娘」
スティルインラブ。
「だが、どこにも書いていない。ネットはもちろん、紙媒体の記事、会社の生原稿にも載っていない」
「そうよ。あの子はいなくなったの」
「どうして」
「それは…………」
アドマイヤグルーヴは言い淀む。
「……それは、分からないわ。私が知っているのは、ポッカリ空いた大穴だけ」
「それが、きみがトリプルティアラを掴むのに足りなかった『愛』ということか」
「スティルインラブは全てを持っていたわ。最初から」
その語りがスティルインラブという競走ウマ娘に向けられた羨望であることは明らか。
「私は、否定したかったの。あの暖かい『愛』を、ぬくもりを」
それが出来なかったから、彼女はトリプルティアラを獲れなかったと。
「なのに、あの子はいなくなった。全部を持っていたのに」
「だが、分からない……なんで居なくなったんだ?」
「私に聞かないで」
「そうじゃない」
ありえないのだ。
この情報化社会で、誰もがカメラを持っていて、気軽に全世界と共有できる時代に。
スティルインラブという一人のウマ娘が、ウマ娘だけが消えることなどありえるだろうか。
「……そうね、私の記憶が正しければ。最初はみんな覚えていたようだけれど」
「みんな、というのは?」
口にしてから、愚問だと思い直す。
アドマイヤグルーヴが、競走ウマ娘たちが1番多くの時間を過ごす場所なんて、決まっているではないか。
「やあ、待ちかねていたよ」
学園の門をくぐるより早く、彼女は俺に声をかける。
レースに関わる人間なら知らない者はいない――――皇帝、シンボリルドルフ。
「すまない。待たせてしまったか」
「ああ……いや、すまない。誤解しないでくれたまえ」
待ちかねたというのは、きみから連絡がくるのを待っていたからなんだ。
「?」
彼女の発言の意図が読めない。
学園の広報部に電話をして、彼女に繋いでもらったのはつい数時間前のことのはずなのだが……。
「うん。つまりだ、私は待っていた」
――――スティルインラブ、2人目のトリプルティアラウマ娘。
「彼女を覚えている、きみが現れる日をね」
一度見た顔は忘れない。
そんな皇帝シンボリルドルフの噂は有名だったが、まさか本当に覚えているとは。
「正直にいうと、ダメ元だったんだ」
「かくいう私も、ダメ元だったよ」
つまりそれは、俺という学園外の人間が彼女のことを覚えているということだろうか。
「彼女は、スティルインラブは学園を去ることを選んだ。だからね、私はもう何も出来なくなってしまったんだ」
生徒会長も無力だろう?
そんな冗談をいってのけるシンボリルドルフ。
「……だから、待っていたと。学園外でスティルインラブを探す人物を」
「その通り――――きみはいま、記者をやっているんだったかな?」
学外の、大人であるはずの俺を相手にしても気さくに話しかけてくるシンボリルドルフ。
子供にタメで話しかければ気分を悪くする大人も多いだろうが、そんな気持ちにはまったくならない……これが皇帝と呼ばれるウマ娘の威厳というヤツだろうか。
「俺は、スティルインラブのことを知りたいんだ」
「とすると、なにも覚えていないのかい?」
頷く俺に、そうかと漏らすシンボリルドルフ。
隠しきれない無念の表情は、しかしすっと持ち上げられた視線で霧散する。
「実は、個人的にしたためているレースの記録があってね。それを持ってこさせよう」
彼女を忘れたことのない私の直筆だから、きっと「無事」なはずだと彼女。
今なお存在するのかも怪しい記録があると信じて止まない彼女が、トレセンに君臨する生徒会長。
「期待しているよ」
まったく同感だ。俺も期待している。
スティルインラブに繋がる細い糸、それがまだ途切れていないと信じている。
「……ところで、これは個人的な質問なのだが」
生徒会室を立ち去ろうとした俺に、彼女は思い出したように問いかける。
「スティルインラブを見つけたら、どうするんだい。きみは」
「決まっている――――俺はレース記者だ」
レース記者の使命は、レースを記録し、伝え、後世に語り継ぐこと。
一瞬の連続で紡がれる壮大な歴史を、果ての向こうまで見届けること。
「取材をするさ」
「それだけなのか」
「それだけだよ」
なにせ、ペンは剣よりも強しだからねと言えば、皇帝は苦笑。
「その言葉は、権力者の