――――ぞわり。
「(!?)」
あの違和感が鳥肌を巻き起こし、俺はハッと顔を上げた。
目の前にはディスプレイ。見慣れたハズの仕事場。
妙に片付いた机の上に、数年前のダービーウマ娘の写真を添えたカレンダー。
「(これは……)」
「おーい、早くこい。始まるぞ!」
状況を理解するよりも先に聞こえる声。いつもの先輩の声だ。
ただそれでも、おかしい。
「ったく、しっかりしてくれよ」
「ええ、ああ……すみません」
「ちゃきっとしろよ? 学園生とのコネクションは駆け出しのお前にゃそうそうありつけないんだからな?」
チーフがくれたチャンス、しっかり活かせよと笑う先輩。
おかしい。そのチーフとやらは、今では先輩の肩書きのはず。
「(となると、やはりここは……)」
ここがトレセン学園でないことは疑いようがない。
そしておそらく、俺がいる「今日」は今し方までの「今日」ではない。
「(なにが起きている?)」
疑問ではある。疑問は尽きない――――だが、既に理屈では説明できないことが起きている。
「(スティル、スティルインラブ)」
心の中で反芻する。
世界が忘れてしまったトリプルティアラウマ娘の名前を。
「(大丈夫。俺はまだ、覚えている)」
となれば、ここは波風を立てずに乗り切るのが吉だろう。
先輩に従いミーティングルームに向かい、この後の段取りを確認しながら来客の到着を待つ。
「学園生は大人顔負けの子もいるし、学生ならではのアイデアを出させたら降参だよ」
先輩の話が正しいのなら、トレセン学園の広報委員会が来年のパンフレット作成と入学希望者向けPRをプレゼンしてくれるらしい。
つまりは学生達の企画に大手メディアがお手伝いという構図だが……それだけ、学園との繋がりを記者たちが欲していることの現れでもある。
そして、ノック音。
「お、きた。どうぞー」
「失礼します」
――――ぞわり。
指先の血液が煮える感覚。さっきよりも強い。
俺は表情を崩さないようにしつつ、扉から入ってくるウマ娘たちへと視線を注ぐ。
「(この中に、いるはずだ)」
スティルインラブと繋がるウマ娘――――もしくはスティルインラブ本人が。
「(誰だ? どこにいる?)」
そう、情けないことに俺はスティルインラブの顔をまだ思い出せていない。
アドマイヤグルーヴもシンボリルドルフも彼女の名前こそ口にはしたが、写真の類いを残していた訳ではないから当然ではあるのだが。
だが俺の期待に反して、身体のうずきは巻き起こらない。違和感が霧散していく。
「(勘違い、だったのだろうか)」
落胆した時、最後のウマ娘の後ろから、学園の関係者がひとり。
「!」
いた。いた。いた!
――――スティルインラブに繋がる、なによりも重要なその人物。
「ええと……なにか?」
スティルインラブのトレーナーとの縁は、はっきり言って偶然だった。
トレセン学園の業務委託に帯同してきた彼。向こうは新人トレーナーでこちらは新人記者。
同じ駆け出し同士、交わした「名刺」が「祝杯」に変わるのにそう時間は掛からない。
「(そうだ、そうだ――――ようやく思い出した!)」
俺が彼女を、スティルインラブを忘れずにいられた
俺は彼女を、スティルインラブの走りを見届けたのだ。
「(俺はスティルインラブの、正確には目の前のトレーナーの番記者だった)」
番記者。
分かりやすく言えば、専属トレーナーならぬ専属記者といったところ。
国民的エンタテイメントを牽引する競走ウマ娘と、そのトレーナーの物語を広く広く国民に届けるための存在。
そして目の前の彼を、彼とスティルインラブの蹄跡を。
俺は取材し続けていた……おそらくは、二人が消えるその日まで。
「(しかしどうやら、彼はまだスティルインラブに出会っていないらしい)」
俺の記憶の中の彼は、担当ウマ娘をほっぽり出して学園の仕事をやるようなタイプではないはず。
彼はいつもスティルインラブの傍に居た――――もしくは、スティルインラブがいつも彼の傍にいた。
そして今、ここにスティルインラブはいない。
「(となると、彼はこれから……)」
その時、閃きのように記憶が蘇る。
それで、俺が「今日」にいる理由もよく分かった。
――――彼は今日、スティルインラブに出会うのだ。
「はっ、はっ、はっ……!」
しかし人生とは、どうして上手くいかないもの。
広報委員会のウマ娘たちを見送り、学園代表としての彼と事務的な仕事を片付けたまではよかった。
ところがその後、チーフから降ってきたのは唐突な雑務の山。それ自体はどうでもいいというのに、特急で今日片付けろと。
はっきり言って無視したいところだったが、今の俺が持つ「記者」の肩書きはスティルインラブを覚えていられる最後の命綱。
上司の不興を買うわけにはいかず、哀れ残業と相成った訳である。
「――――つっても、それで見逃したら意味ねぇだろッ!」
俺は彼に、スティルインラブとの出会いを何度も聞いた。
それこそ祝勝会を開く度に、ふとした取材の瞬間に。
しかし彼は、それを決して語ろうとはしなかった。
知りたい。
知りたい、知って、それを記事にしなければ。
それは記者の使命感というより、もっとちっぽけな俺の願望――――スティルインラブというウマ娘の蹄跡に焦がれた、等身大のファンとしての気持ち。
学園でのスカウトでなかったとは聞いている。
入学前から交友関係にあったとは聞いていない。
そして、俺は何日もの日々の中から「今日」に来た。
もっと正確に言えば、この記憶にない残業に導かれて「今夜」にきた。
ならば、今日、その今夜。
ふたりはどこかで、出会うはずなのだ。
「(だとしたら三女神サマは、ずいぶんな試練を課しやがるな!)」
見つけろと。
日付と時間を指定されたところで、肝心の場所は示さずに。
「(だが俺にだって意地はある。それに――――)」
今日の俺は、昨日までの新人駆け出し記者ではない。
トレセン学園の生徒なら学園からそう遠く離れた場所にはいけない。そして競走ウマ娘が向かう場所はいつだってレースに、走りに関わる場所。
――――ぞわり。
「みつけた」
そして、彼女はいた。
月明かりの下、薄暗い朱のトレセン学園ジャージに身を包んで。
緩やかにウェーヴする栗毛。柔い夜風に吹かれるリボン。重力に惹かれたヴェールのようなメンコ。添えられた流星。
そして紅く光る、彼女の瞳。
その腕には、ひとまわりは大きい大人。
「あら」
「――――きみが、スティルインラブ」
その言葉を繰り出すことに、迷いはなかった。
彼女がスティルインラブでなければ、誰がスティルインラブだというのか。
「ええ、そうよぉ……ワタシがスティルインラブ」
「そうか。はじめまして、だな」
けれど、俺は彼女を知らなかった。
本当に不思議な話なのだけれど、俺は彼女を知らない。
――――そんなことが?
――――こんなに、鳥肌が立っているのに。
――――身体中の血が沸騰して、飛び出していきそうなのに。
「こんナ遠くまデ追い掛けてクレるなんテ」
だが、彼女はやはり、スティルインラブだ。
「アナタ、執念深いノネ」
「……そりゃ、そうだ」
俺はここまで追いかけてきた。
スティルインラブを、二代目のトリプルティアラウマ娘を。
「俺は執念深いんだ」
それじゃあ取材をしようかと俺は手帳を取り出す。
今のスティルインラブはトリプルティアラウマ娘となるまえどころか、トレーナーと出会ったばかりのウマ娘。
そんな彼女を取材できる記者なんて――――俺以外に、いない。
「無粋なヒト……――――運命ハ、重イのヨ?」
「それをたったの数センチの余白に書き記すのが、記者の仕事なものでね」
じゃあ始めようかと、お気に入りの万年筆を取り出す。
新人の頃には零してばかりだったインクも、今ではすっかり馴染んだもの。
「それじゃあまずは……――――!?」
しかし最初の質問が口を出るより先に、俺は目の前の光景に目を見張る。
彼女――――スティルインラブの紅い
「どうしたんだ、なにか……?」
思わず駆け寄ろうとした俺だったが、次の彼女の言葉に足を止める。
「ヒドい、ヒドイ……カ弱い乙女ガ、こんナニ重たい
「……」
ウマ娘を専門に扱うレース記者でなくとも知っている事実として。
ウマ娘の身体は一般的なヒトよりもはるかに強力で、強靱だ。
「じゃあ最初の質問は……」
――――ピシャリ!
「痛った!?」
――――ピシャリ!
「え、尻尾!?」
――――ピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャピシャ――――ピシャリ!
「痛いッ!? 痛い! こら尻尾でヒトを殴るんじゃないっ!!!」
結論から言えば、とんでもない目にあった。
「ふぅ、ふぅ、ひい……ついたぁ……」
なにせ自分の体重と同じくらいの重さはある成人男性――――スティルインラブのトレーナーを担いで、彼の住むアパートまで歩かされる羽目になったのだ。
「はぁ、はぁ……」
息も絶え絶えの俺。一方の彼女は澄まし顔。なにも持っていないのだから当たり前。
しかし、タダで転んでなるものか。
「俺はここまで付き合ったぞ。さあ、取材させてもらおうか?」
すると、信じられないことに彼女は首を横に振る。
「はぁ……? 勘弁してくれ、それじゃ骨折り損じゃないか!」
俺の抗議の声も彼女はバ耳東風。
それから顎であっちを見ろと言わんばかりに空の一角を指す。
そこには満月。
ずいぶんと傾いて、もうすぐ地平線の下に沈む満月。
「月? 月がどうしたっていうんだよ」
「また、アレが満ちル刻。逢イまショウ?」
「…………そしたら、取材に答えてくれるんだろうな?」
俺の問いには答えず、彼女は背中を向けて去っていく。
「なんだったんだ……?」
とはいえしかし、俺に選択肢などはないわけで。
なるようにするしかないと諦めたところで、ようやく意識が足下の
「とりあえず、コイツは部屋に突っ込んでおくか」
そうして、俺と「彼女」の奇妙な関係が始まった。
「彼女」――――――スティルインラブという少女の中に棲まうのだというもうひとりのスティルインラブ。
彼女が現れる条件はふたつ。
ひとつは……強者との競り合い。
もうひとつは――――
「――――満月」
彼女はいた。
月明かりに照らされる、その舞台の真ん中に。
「集合場所くらいは、指定して欲しいんだけれど?」
「約束ナンテできナイわ? ワタシは、あの子なのだカラ」
どういうものなのかは知らない。
けれど現状――――駆け出し記者が災いして誰とも取材に至る信頼関係を築ききれていない俺にとって、唯一の取材できる相手が「彼女」。
「さあ。今日も取材をさせてくれ」
もちろん対価は払うよと、小さな小箱を今夜も取り出す。
普段のスティルインラブのカロリー計算が狂わないよう、究極的にはレース以外に悦を覚えないのであろう「彼女」が満足できるようにと頭を悩みに悩ませて辿り着いた月替わりの
「……今日モ普通ね」
「手厳しいな」
そんな俺の苦労を一口で丸呑みにする「彼女」。これで甘味を寄越さなければ俺のことを喰うとか抜かすのだから始末に負えない。
「ともかく、きみの話を聞かせてくれ」
けれど「彼女」から聞き出す学園の景色は――――まさに宝石箱だった。
「彼女」は強いウマ娘にしか興味がない。
その執念深さといったらレース中に表の人格を突き破るほど。
だからこそ……「彼女」の話は
俺は彼女の言葉を一字一句漏らさず聞き取り、翌日以降の時間を全て捧げて分析する。
それは決して学園の外に漏れることのない情報の塊だ。名前も外見的特徴もいっさい興味のない「彼女」の話から個人名を特定するのは大変な困難を極めるが……それだけに、解読できれば記者としては大きなアドバンテージを掴める。
『おい。お前の言うとおりにしたらスゴいネタが獲れた! これはハネるぞ!』
そしてそのアドバンテージを使って、俺は記事を作る。
宝石への道しるべを辿り、財宝を見つけ出し、それを世界に広めていく。
「アナタ、不思議ね」
「そうか?」
「全部、自分の手柄にスルことモできるのに」
「今の全力」だという……既に完成形に近い走りをみせてくれた彼女。
そんな彼女が、紅い瞳で俺を覗く――――俺が「彼女」を覗くように。
「それじゃ、世界が飢えてしまう」
俺ひとりが集められる情報は少ない。
ヒト一人が、どうしようもなく頼りない足で稼げる情報しかない。
「俺は、とにかくレースへの注目を集めたいんだ」
「なぜ?」
そんなの決まっている。
「『スティルインラブ』を、歴史に残すため」
彼女が遺されなかった日々から俺は来た。
ぽっかりと消えてなくなった彼女を、違和感としてしか感じられない日々から。
「アナタ……かわいそう」
「そうかな?」
「彼女」が腫れぼったい眼で俺を見る。
「飢えているのね…………ワタシと、同じ」
それから彼女は、くるりと回って背を向ける。
「
「飢えないため?」
聞けば、スティルインラブのトレーナーは「彼女」に従うことを求めているらしい。
それは最高の獲物を喰らうため――――罠を張るため、真っ当なレースをすること。
「それで、きみは従うことにしたわけだ」
「ええ。……もっと満たされるために」
「そうか」
真っ当にレースをする。
順当に勝ち上がって、大きなレース、G1レースに挑み、勝つ。
それは即ち――――トリプルティアラウマ娘の誕生に他ならない。
「それは、いいな」
俺の視線を受けた「彼女」が、微笑む。
「そうでしょう? アナタなら、そう言ってくれると思った」
「当然だ」
これで――――スティルインラブの名前は永遠の存在になる。
そして俺は、永遠の存在になった彼女から最高の記事を書き出す。
「それにしても、今日のきみは随分と饒舌だ」
「そうでもないわ……だって、ワタシは『私』だもの」
そうしてスティルインラブは勝った。
見事に「彼女」を使いこなし、険しい春の桜咲く舞台、年輪の積み重なった樫の大樹、最後に残る紅葉の冠。
その三つの栄冠を掴み、トリプルティアラウマ娘になって――――
――――そうして「彼女」は、消えた。
表面上、スティルインラブとそのトレーナーに変化はない。
俺が普通の顔をして取材を申し込んでも、何事もなかったかのように対応する。
だから彼女の
「スティルインラブの次走は金鯱賞か、となると狙いは大阪杯か?」
そんな呑気なことを先輩が言う。
いや、勝てませんと言うわけにはいかない。口が裂けても。
「(スティルインラブは、いま。栄光の頂点にいるんだ)」
トリプルティアラ、続けてのエリザベス女王杯。
彼女が魅せた活躍に、ファンは期待の視線を注いでいる。
――――あの期待が、熱を孕んだ狂騒になるには、まだ足りない。
「(しかし今日までのスティルインラブは、明らかに「彼女」を使って勝利を掴んできた)」
それが出来ないとなれば、彼女はここから……降るばかり。
「まあ、それも定めか」
少なくとも、スティルインラブというウマ娘は世間に強烈なイメージを残したのだ。
きっとこの日々からスティルインラブが消えることはない。
俺が執心してやまない二代目のトリプルティアラウマ娘は、残された。
「(それに「彼女」が消えたなら、きっと「彼女」は満足したのだ)」
トレーナーとスティルインラブが用意した極上のフルコース。
それを味わい尽くして、飢えることもなく眠ったのだ。
それで、良いことにしようではないか。
――――――――だからこそ、俺は。本当は喜ぶべきか迷ったのだ。
金鯱賞のあと、現れた「彼女」を見たときに。
そして月夜の草原で魅せる、原初の走りを見たときに。
「久しぶりだ」
駆け寄って、手帳とペンを取り出した俺。
草原を駆け抜けた彼女は、三日月のような笑顔。
「ええ。でも――――会うことはないわ、あなたとは」
「……取材拒否、か」
その言葉が、残念でないかと言えば嘘になるけれど。
彼女の蹄跡を記録する記者から、単なる傍観者になるのは残念だけれど。
「わかったよ」
「聞かないのね?」
「いいや、わかるさ」
見れば分かる。
今の「彼女」は――――スティルインラブそのもの。
「おめでとう、すべてを手に入れたんだな。きみは」
――――それからの日々は、最高だった!
宝塚記念は言い表しようのないほどに素晴らしい走り。
ジャパンカップで明確に刻んだ、歴史に残る大レース。
記者冥利に尽きるなんてものじゃない。
スティルインラブの足跡を追うだけでドラマが生まれ、彼女が息を吸うだけで世界は浄化されていく。
これはなるほど。取材拒否も当然だ。
もしも彼女の眼前で浴びたなら、俺は飢えるどころか飽食で腹をはち切らせて死んでしまっていただろう。
そして、これでは終わらない。
『全ての強者を打ち破りッッ!! 圧巻の走りを見せました!』
勝者は……――――!
『スティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブスティルインラブ』
――――きみは夢を追い続ける。
走って走って走り続けて走って。
「(勝つんだ、きみは。ありとあらゆる強者に)」
「――――――――退学?」