楽園より、幻想を揺蕩う 作:一般通過被験者
猪口才にも以前のデータを小出しにしますが、途中からの展開は再構成したいと思います。
時刻は深夜。
空には一片の雲もなく、皓々たる月が静かにその姿を見せていた。
淡く滲むその光は大地をやさしく包み込み、天頂にまたたく星々は、まるで遠いどこかの都市が夜空に投影されたかのような錯覚を誘う。
その光の届く下、一面に広がるのは深く鬱蒼とした森だった。
無数の木々が複雑に枝を絡ませ、わずかな月明かりすら地表には届かぬほどに密生している。
一度足を踏み入れれば方向感覚を失い、抜け出すのも容易ではないだろう。
どこからか聞こえる、獣とも人ともつかぬ不穏な声が闇の奥から響き渡る。
耳を澄ませば澄ますほど、その曖昧さがかえって不安を掻き立てる。
それはまるで、生者を追い返す警告のようにも聞こえた。
そんな森の奥深くを、一人の男が足音も小さく歩いていた。
吐息に揺れるのは、夜に溶け込むような濃紺の髪。
鋭く整った顔立ちには、冷静さと観察者のまなざしを湛えたエメラルドの瞳が光る。
目元には知性を感じさせる眼鏡がかけられており、彼の輪郭をいっそう印象深くしていた。
すらりと伸びた体は、180センチほどだろうか。
その細さにはどこか儚さすら感じさせ、生活感の乏しさが否応なしににじみ出ている。
だが、彼の姿に最も目を引かれるのは、その装いである。
足元には艶のある茶革の靴、脚には控えめなストライプの入ったスラックス。
灰色のカッターシャツの上に深緑のベストを重ね、さらにその上からは白衣を羽織っている。
まさしく、学究の徒というべき出で立ちだった。
「———こんな事になるとは……まめねこに留守番をさせておいて良かった…」
そう、心底面倒だといった風に嘆息する男———レオス・ヴィンセントは迷い込んだこの森の中を当てもなく彷徨っていた。
「………」
———どうしてこんな事になったのか。
今回も彼はいつものように日本へ行くため電車に乗っていただけだ。少し特殊な車両であったことは否定しないが、つつがなく運行しているはずだった。
しかしこの様子に鑑みるに、どうやら予想外のトラブルが発生したらしい。
彼は肩を落としながら頭を掻く。
「…勘弁してくださいよ…もぉ〜…」
◇
立ち止まっていても何も解決しない。
職業柄、そういったことはよく理解しているつもりだ。
ならば、まずは己の現在地を把握することが先決だろう。
幸いにも未知を相手にするのは慣れている。
予測不可能回避不可能、奇想天外はいつもと変わらない。
だからこそ、普通の人間なら戸惑うであろうこんな状況でも、只管に、ただ只管に面倒そうな顔はすれど、決して冷静さは欠かないのだろう。
「…」
重力はある。
空気もある。
少し暗いが、木や土の形状、色も己を見知ったものと変わらない。
何より空を見上げれば、木々のか細い隙間からいつも通りに仄光る月が見える。
候補としてまず思い付くのは日本だ。
トラブルを起こしたとはいえ、必ずしも日本に着いていないとも限らない。
到着地点がいつもと違い、投げ出されただけで日本に着いた事には変わりないのかも知れない。
次に地球によく似た環境を持った全く別の異世界。
もとより異世界に行く途中に起きた事故だ。
日本から見た異世界である己の世界だって、発展度合いは違えど時代を遡れば日本やその他の都市とそう変わらない風景が広がっていることだろう。
むしろこちらの方が可能性としては高い。
取り敢えずは予想外の事象に備えるためにも、此処は地球ではないと構えるべきだ。
何にしても情報がない。
自分以外に意思疎通の図れる存在がいるのかも定かではないが、まずは情報収集から始めるべきだろう。
そう思い、思考を現実に引き戻す。
相も変わらず眼前に広がるのは不気味な木々ばかりだ。
風に煽られさざめく様子はまるで己を嘲笑っているかのようにさえ思えてくる。
いつもの彼なら木相手であろうとも喧嘩上等と突っかかっていたかも知れないが、今は非常事態だ。
流石の彼でも眉間に皺を寄せる程度で、歩みを止めるようことはなかった。
◇
———どれほど歩いただろうか。
あれから彼は同じ方向に歩き続けた。
どちらに何があるのかもわからない。
しかし取り敢えず同じ方に進めばいずれ抜け出せるだろうという当たり前な考えの下の行動だ。
普段から運動はするものの、タバコにやられた肺には少々重労働と言える。
そうして途中休憩を挟みながら月が大きく傾くまで歩き続け———現在に至る。
先程よりも月明かりが目立っているようにも感じる。木々が減ってきた証拠だ。
所々に切り株があり、人間、あるいはそれに近い生物の生活の跡が見受けられることからも、恐らくは森の浅い部分にやってきたのだと予想できる。
安心感、ほんの僅かな達成感と共にため息が出る。
歩くのは好きだが歩かされるのはまた別だ。
ましてや足場の悪い森では体力の消耗が目に見えて違う。
暇があれば山を散歩する事はあるもののそれはそれ、これはこれである。
そんなことを思いながら彼が自身の苦労を労っている———そんな時だった。
背後からガサガサと草木が不自然に擦れ合う音がした。
ビクリと肩を振るわせ、恐る恐る振り向く。
「———」
———そこにいたのは四つ足の獣であった。
その姿は狼に近く、体高だけでもレオスの胸ほどまである。
大きく裂けた口からは
明らかに普通の狼ではない。
———差し詰め魔物、或いは
レオスはここが日本ではないという確信を得る。
振り向くその瞬間まで音を殺して近づいてきたのだろう。
姿勢を低くし眼前の獲物を見据える様子は、まるで狩人が弓を引いているかのようだ。
どうやら無事にやり過ごすことはできないらしい。
彼は懐に手を入れ何かを探るように静かに動かす。
取り出したのは———何かの薬品の入った小型のボトルだった。
彼は用意したそれをしっかりと握りしめ、改めてソレと対峙する。
そうして———目が合う。
瞬間、射った矢の如く飛び出す獣。
武器である爪を構え、獲物を仕留めんと振るう。
それをレオスは横に転がるようにして回避する。
ほとんど反射である。
普段から面倒ごとに巻きこまれることはあれど、流石に異形の獣に襲われるなんていうことはそうそうない。
獣の追撃が来る。
彼は再び避けようと試み横に跳ぶ。
しかし、体勢の整っていない状態からの回避であったせいか、右足を獣の爪が掠める。
当たったのは爪のほんの先端であったのにも拘らず、傷はかなり深い。
常人であればそこそこの傷と言える。
これで次の追撃を凌ぐのは難しいかも知れない。
それを理解しているのか、即座に獣が構える。
次の瞬間にはこちらへ飛び込んでくるだろう。
それを予想し、彼は立ち上がると同時に獣の方へ向かって先程の薬品を投げつけた。
突然視界に入ってきた物体を獣は反射的に攻撃した。
割れたボトルの中の薬品が獣の顔にぶちまけられるも、獣は気にした様子もなくレオスに襲いかかる。
しかしそれを彼は気にも止めず、もう事は済んだというように立ち尽くしていた。
構わず彼の方へ駆ける獣。そうして四肢に力を込め、飛び掛かる———かのように思えた。
———ここで獣に異変が生じる。
突如として悲痛な声を上げながら苦しみ出したのだ。
執拗に顔面を擦り、低く唸る。
すると次第に薬品を大量に被った頭部からは血が垂れ、肉が焼けるような不快な臭いがし始めた。
原因は疑うまでもなく———彼が投げつけた薬品だ。
———強酸。
それも濃硫酸すら比較にならないほど強力な化学熱傷を引き起こす劇物だ。
人間の腕くらいなら一瞬にして焼け落ちるだろうそれを獣は頭部から大量に浴びたのであった。
地面に転がり、苦痛から逃れるように暴れ始めた。
既に真っ白な頭蓋骨が表に顔を出し、それすら溶解されている。
それでもなお暴れるのだから大した生命力である。
やはりただの獣ではなかったようだ、などと他人事のように考える。
レオスはその様子を腐臭に僅かながら顔を歪めつつ、まるでカーペットに着いた小さなシミを見るかのような目で眺めていた。
———気づけば彼が負ったはずの足の傷も、何事もなかったかのように綺麗さっぱり消えていた。
結局獣の頭部が腐り落ちる様を最後まで見届けることなくその場を後にしたレオスは、先ほどと変わらず森を進んでいた。
もう抜け出せるという確信もあったのだ。歩みを止める道理もない。
果たして森を抜けた先にはどのような光景が広がっているのか。
できれば人がいて欲しい。
そんなことを思いながら気分転換にタバコでも吸おうとポケットに手を伸ばした時だ。
「———そこにいるのは誰だ」
———そんな声がした。
背後から聞こえた声に、ほんの少し逡巡する。
順当に考えれば自身以外あり得ないのだが、万が一のことを考え周囲を見渡す。
だが、こんな森、こんな時間に当然自分以外がいるはずもない。
「お前だお前。そこの白衣を着た———」
案の定自分のことであったらしい。
これなら安心して応えることができるというものだ。
「…私のことでしょうか?」
一応確認しつつそう返答する。
振り返ればそこにいたのは一人の女性であった。
腰まで伸ばされた、透き通るような水色の髪。
半袖のワンピースは紺であり、胸元を赤いリボンで締めている。
そんな麗人であった。
彼女が月夜に佇むその姿は一枚の美術品のようにさえ感じる。
しかし自分に用とは一体?。
まさか知らぬ間に彼女の敷地内に入りでもしてしまったのだろうか。
だとしたら謝罪しなければならない。
不思議生物を研究所から勝手に持ち出したり、不当な人体実験をしたりと、何度も警察のお世話になるようなことをしでかしてきたというのにこういう所は常識人なのである。
レオスが呆然としていると、彼女が再び口を開く。
「そう、お前だ。こんなところで何をしている。それもこんな夜更けに……男とはいえ人間が一人で来るような場所ではないぞ」
それをいうならあなたはどうなんだ、と。
そんなことを言いたくはなるが、彼女は恐らく善意でそう尋ね注意してくれているのだろう。
ならば相応の態度で返すのが礼儀というものだ。
「…いえ、私もよくわからないのですが、目的地へ向かう途中どうも事故が起きたようで…気付けばこんな場所に居たんです」
彼自身何が起こっているのかわからない、そう正直に答える。
彼女は悪人のようには見えない。
それに、外から来たレオスがやっと見つけた現地人だ。できる限り信用は得たい。
しかしこんな説明で果たして納得してもらえるのかどうか。
彼が次なる質問に備え自身の状況を整理していると———
「———…なるほど、状況は理解した。さぞ困っていたことだろう。まずはここを離れよう」
「………え?」
———ついて来い、と彼女が言う。
レオスは少々呆気に取られる。
思いの外、彼女がすんなりと納得したからだ。
そうなると逆にこちらが疑問を感じる。
「いやいやちょっとッ、待って下さい。もっと聞くこととかないんですかっ?」
流石に警戒心がなさすぎてはないか。
レオスはそう思い女性に尋ねる。
「…?……あぁ、偶にあることなんだ。外の世界から人間がやってくる事は」
偶にある事?
異世界に人が迷い込むことが?
彼女は『外の世界から』と言った。
もしかしなくとも自分以外にも頻繁に異世界を行き来する者達がいるのだろうか。
まあ、何にしても彼女は何か知っていそうだ。
まず聞く事は一つだろう。
「あの…一つお尋ねしてもよろしいでしょうか…?」
「何だ?」
「ここは日本ですか?」
『ここは何処ですか』ではなく日本かどうかを聞く。
全く知らない土地の名前を出されても日本かどうか判断できない。
すると彼女は予想通りといった風に用意していた答えを伝える。
「いや、ここは
———一拍を置いて言う。
「———ここは幻想郷。忘れ去られた者達が最後に辿りつく場所だ」
◇
———幻想郷。
案の定聞いたこともない土地である。
目的地ではないということが分かったとはいえ、マイナスがゼロになっただけであり、これは進展とはいえない。
それに少々気になる点がある。
「…私の知る日本ではないというのは?」
彼女の含みのある言い方だ。
ただ日本ではないというのではなく『レオスの知る日本』ではないと言った。
日本がいくつもあるというのだろうか。
それはつまりは
疑問に思い続けて尋ねる。
「そう急ぐ気持ちもわかるが、さっきも言ったようにここは危険だ。まずは一旦離れよう。話はそれからだ」
そう言われてしまうとこちらとしては引き下がるしかない。
彼女はいわば恩人であり、今現在唯一の情報源だ。
簡単に手放すわけにもいかないため彼女の言うことに従う。
そうして歩き出すとともに、彼女は話し始める。
「まずさっき言ったようにここは幻想郷という。外で忘れ去られた、あるいは幻だとされた者達が流れ込んでくる世界だ。そのため、外では紛い物とされた妖怪や妖精といった存在も暮らしている」
なるほど、と、妙に馴染みのある世界観に納得をする。
滅多に会わないものの、自身の世界でも鬼や吸血鬼、亜人といった人外たちが少なからず存在している。
なんならいきなり見たことも聞いたこともないような種族が出現することさえある。
そう考えるとすんなりと頭に入ってくる。
「そして、お前の知る日本ではないと言ったのは、幻想郷が日本の中に存在しているからだ」
そんな事はなかった。
そんな摩訶不思議ワールドが日本に存在するなど驚かずにはいられないだろう。
「幻想郷は結界によって隔離された世界だ。そしてそれは本来外から干渉する事はできない」
つまり、日本の何処かにはあるがその存在は隠されているということか。
そして自身の知る日本ではない、というのは確かに同じ日本ではあるが自身の知る常識内のモノではない、ということだろう。
ならば異世界というのは少し違うかもしれない。
彼は此処に来てようやっと自身の置かれている状況を整理する事ができた。
「成程。何となくわかりました。感謝いたします…えっと…」
「慧音。上白沢慧音だ」
「では、慧音君と…。私はレオス・ヴィンセントと申します」
「慧音君……」
お互いが名乗る。
慧音は何処か釈然としない様子であるが。
「ところで今は何処に向かっているのでしょう?」
そんな事には構わずと言った風にレオスは問う。
「…今向かっているのは———っ!」
何かに驚いたように立ち止まる慧音。
一体どうしたのかと後ろにいるレオスが彼女の前を肩越しに覗く。
そこには———
「コレは…思ったより危険かもしれないな…早く移動しよう」
———下顎以下の頭部を失った獣の死体があった。
慧音は周囲を警戒し始める。
この死体はまだ暖かく、死後そこまで時間が経過してはいないようだ。
ならばこれを襲った何かはまだ近くにいるかも知れない。
そう考えたのだ。
それを感じ取ったのだろう。
レオスが唐突に口を開く。
「
だから別に警戒する必要もない、と。
自分がやった事で彼女が無駄に気を張るというのは申し訳ない。
彼なりの気遣いである。
しかしそれを聞いた慧音はその鋭い目線を今度は
「…
彼の言ったことを復唱するようにそう尋ねる。その目には少しの警戒と疑いが込められている。
一体何を疑うと言うのだろうか。
レオスは何もやましい事などないと主張するように応える。
「ええ、此処にやってきた時に襲われまして。元々住んでいたところが中々に物騒でしてねぇ…色々持ってるんですよ」
そう言って彼は拳銃やナイフ、いくつかの薬品を彼女に見せる。
その様子を慧音はじっくりと観察するように眺める。
そうして、彼女の中で何か納得したのか———
「はぁ…分かった。それは災難だったな」
———と、嘆息しつつも彼を労い、再び歩き始めた。
レオスは不思議そうにしながらも、「はい」と相槌を打ちつつ付いて行った。