あなたが落としたのはきれいな無惨ですか? もっと汚いの 作:三柱 努
「慶蔵さん、当然ですが井戸は以前から毒に犯されていたわけではありませんね?」
無惨の問いに、慶蔵は珠世の身を案じながら静かに頷いた。
珠世の容態は進行していた。
口から血を吐き息も絶え絶え。毒が喉の奥を焼いているのだろう。
だが当の珠世も口で「大丈夫」と形し、無惨も隣の道場に続く壁の向こう側を睨んだまま。
珠世の身を一番心配しているのは慶蔵と恋雪という状況だ。。
「慶蔵さん、先ほど誰かが隣へ逃げていくのを見ました。心当たりは?」
「隣ですか? 剣道場が。昔は嫌がらせを受けていましたが・・・って、そんなことよりも!」
慶蔵としてはそれどころの騒ぎじゃない状況である。
だがその因縁こそ肝心だった。
隣の道場は慶蔵の道場の土地を欲しがっていた。
一悶着もあったが、一応は手打ちをして解決となっていた。
だが最近、道場の主が亡くなり、跡取り息子が道場を仕切り始めたところだった。
「なるほど。私が先ほど見たのは、おそらくはその跡取りの」
「おそらくは。いえ、間違いなく。申し訳ございません」
慶蔵の説明に無惨は推理した。
道場主の親という枷が外れたことで跡取り息子は約束を反故にして、それどころか慶蔵たちを殺そうとして井戸に毒を入れた。
それが容易に推理できる真相であり、真実でもあった。
この騒動に無惨と珠世は巻き込まれた形なのだ。慶蔵はそのことを深く謝罪した。
だが無惨の視線の先は珠世ではなく、隣の道場へと向いていた。
「これは、少し懲らしめてやらねばなりませんね」
無惨は腕まくりし、傘を手に取った。
「慶蔵さん、恋雪さん。私はお隣さんに行って、灸をすえてきます」
「え?」「鬼舞辻さん!?」
珠世を置いて出ていく無惨を、慶蔵と恋雪は引き留めようと思いながらも、珠世を放置して動くことができなかった。
珠世が口から血を吐きながらも、無惨の背に「行かせてはいけません」と手を伸ばしているからだ。
「珠世さん! 動いてはいけません」
珠世を必死に止める恋雪。
だが珠世は決して無惨の身を案じているわけではない。
むしろ、別の意味で嫌な予感がしてならなかったからだ。
何か余計なことが。面倒ごとに巻き込まれそうな悪手を、無惨が打ってしまう気がしてならない。
この日、道場には跡取り息子だけではなく、門下生67人が控えていた。
この門下生たちは、恋雪だけが毒を飲み、毒を飲まなかった慶蔵と狛治が復讐に現れる可能性に備えて跡取り息子が呼びかけていたのだ。
さらには念には念を。用心棒にと1人の博徒を連れてきていた。この博徒は江戸でも腕っぷしの強さで有名な喧嘩屋だった。噂では刀の玉鋼を素手で曲げ、指の力だけで九六銭を握り潰すほどと。
そんな敵が待ち構えた道場に無惨は上がり込んだ。
「たのもう!」
いかいもな道場破り台詞だが、無惨は単純に知識不足故にこれが道場にお邪魔する際の作法だと思っていた。
「あ? なんだてめぇは」
剣術道場の跡取り息子は無惨を睨みながら、しくじったという顔色を隠せないでいた。
井戸に毒を入れて逃げる際に目が合った客人。それが乗り込んできたことに息子は気付いていた。
「井戸に毒を入れたのは貴方ですか!」
「あ? 毒ぅ? 何の話か知らね・・・!」
だが状況を考えれば幸いだろう。慶蔵や狛治が乗り込んできたのではなく、客人が乗り込んできたということは、おそらく毒は成功したということ。
運よく毒を飲まなかった客人は怒りに身を任せ、毒に苦しむ3人を放置して乗り込んできた無情な男。
息子はそう推理した。
ならば都合が良い。
乗り込んで来たこの男を殺して、井戸に毒を入れた犯人だとでっち上げてやろう。
「毒を入れた犯人・・・そりゃテメェのことだろ」
「? 何を言ってるのですか?」
呆然とする無惨に対して息子はほくそ笑んだ。
「いいや俺は見たね。いや、俺たちは見たぜ。テメェが素流の道場の井戸に毒を入れたのを」
門下生たちは口裏合わせをすることなく状況を理解し、互いに「そうだそうだ」と頷き合った。
ただ一人、用心棒の博徒だけが「あ?」と状況を理解できず静かに首を傾げた。
だがそんなことに気付くことなく、跡取り息子は刀を手に無惨に迫った。
『どこぞの流れ者を斬ったところで誰が困ろうか』
カチンと鯉口を切る音が鳴る。
無惨は飛んで火にいる夏の虫だった。
そんな無惨が状況を理解しているのかしていないのか。
「なるほど。私を斬ろうということですか。ならば思う存分斬りなさい」
そう言い放った。
・・・・状況を理解しているのか? 門下生たちは目を細めた。
だがこれこそ無惨の秘策だった。
「みなさんで私を遠慮なく斬ればいい。みなさんが満足するまで、みなさんが諦めるまで、私は絶対に倒れませんから」
それはかつて無惨が野武士から子供を守りながらも抵抗できなかった苦い経験から生まれた策だった。
何もできないのと、何もしないのとは大きく違う。
何かを守るためには、結局は相手に勝つ。つまり相手が負けることが必要なのだ。
コチラが手を出さずして相手に負けを認めさせる。
相手が根負けするまで、いくらでも殴らせ、斬らせ、蹴らせるのだ。
鬼の強靭な体は、その気になれば並みの刀では傷すら許さない。無惨を出血させるほどの達人が現れたとしても、無惨は血が飛び散らないように力を込める技まで体得していたのだ。
百でも千でも斬っても倒れない無惨の姿に、相手が後悔や敗北感を抱く。
この方法で無惨は数十年、いくつもの窮地を乗り越えてきたのだ。
「さぁ!」
両手を広げ、門下生たちの攻撃を促す無惨。
今までの経験。野盗も野武士も、あらゆる悪党が躊躇うことなく無惨に斬りかかってきた。そして一刻もしないうちに誰もが音を上げていった。
だが今回は違った。
「クックククク。なんだよテメェ。“打たせ太郎”の真似か?」
それは跡取り息子の失笑から始まった。
「「あははは、あはははは」」
一斉に腹を抱えて笑い始める門下生たち。
「童かよ。よりにもよって“打たせ太郎”とか」「いい大人がよぉ」
門下生たちも次々と無惨を嘲笑し始めた。
ただ一人、博徒だけは状況を静かに見守っていた。
「え? 打たせ・・・え?」
今までに経験が無い状況に困惑する無惨。
ここで一つ、【打たせ太郎】と何か。
それは江戸に伝わるおとぎ話。
昔あった、とある村での出来事。
その村は幾度となく鬼の襲撃を受けていたが、そこに勇敢な旅人が立ち塞がった。
旅人は鬼に提案した。村を襲う代わりに満足するまで存分に俺を殴れと。
鬼は三日三晩に渡って旅人を拷問した。だが旅人は鬼が音を上げるまでたった一人で拷問に耐え続けた。
ついに鬼はその漢気に感服し、二度と村を襲わないと約束した。
と、いう話が全国各地で語られるおとぎ話だが・・・
その元になるのは全て無惨自身の逸話だった。
そうとは知らない無惨は茫然としながらも、跡取り息子の攻撃を待ち構え続けた。
この姿が跡取り息子の癪に障った。冗談のような児戯、本気で“打たせ太郎”を続けるつもりなのかと。
「ソレはもういい。さっさと死ねよ」
跡取り息子が刀を大きく振り下ろした。次の瞬間には無惨の首が飛ぶだろう。そう誰もが思い思わず目を細めた。
だが無惨は刀の刃分まで見分けるかのように、ジッとその刀の軌道を睨み続けた。
その時
「喝ッ!!!」
耳をつんざくほどの大声が道場に響き渡った。
その轟音におののき、跡取り息子は無惨に刀を当てる直前に手を引いてしまった。
轟音の主は用心棒の博徒だった。
「お、親分さん。何を邪魔するんで?」
意を削がれた跡取り息子。その様子に構うことなく博徒は無惨と息子の間に割って入った。
「あんた、イイ度胸だな」
そう言って博徒は無惨の胸を小突いた。
「本気で斬らせる気だったろ。“打たせ太郎”の生き写しだ」
博徒は少し微笑みながら、「え?」とキョトンとする無惨に一礼した。
一方で博徒は跡取り息子を睨んだ。
「あんた、イイ度胸だな」
そう言って博徒は跡取り息子の刀の刃を素手で掴んだ。
息子は博徒の言葉の意味が分からず「え? 親分さん?」と目を丸くする。
「毒を使うたぁ、漢じゃねぇな。しかも俺に秘にして。ぁん? 俺の顔に。花山組の顔に泥を塗るつもりか?」
博徒は握った刃に万力の力を込めていき、ついには…
ベキンッ
と鉄の刃を曲げ折った。
跡取り息子と門下生は、この光景を信じられず口をあんぐり開けた。
「隣の御客人。この喧嘩は俺が買った。アンタは帰って報告してやりな。明日からこの剣術道場はアンタらのもんだ、ってな」
博徒はそう言って着物を脱ぎ捨てた。
露わになった背には、大きな入れ墨が彫られていた。
それは大きな鐘を背負った、鬼のように恐ろしい形相をした男の入れ墨。
“打たせ太郎”の入れ墨。
彼の祖先を救った恩人の姿だった。
博徒は、無惨こそがその恩人その人だとは知る由もなかった。
そして無惨も、この絵のモデルがまさか自分自身だとは、全く気付かなかった。