「勇者も……つかまえた?」
耳に届いたその声に、俺は目を細めた。
……いや、聞き間違いだろう。そんな馬鹿なことがあるはずない。
芳しい香りが漂う小さな部屋。
両腕は太い麻縄でぐるぐる巻きにされている。
だが――締め方は甘い。結びも雑で、力を入れれば関節を外すまでもなく抜けられるだろう。
むしろ、どうしてこの程度の縄に、妙な威圧感を感じる。
その違和感が俺の動きを止めさせていた。
「勇者って、本当にいたんだ」
10代半ばの少女?が、じっと俺を覗き込む。
さらりとした黒髪に涼しげな瞳。
無邪気に見える微笑の奥に、妙な計算高さを感じる。
「凛。勇者、目を覚ましたかの?」
奥から現れたのは、赤髪の女――いや、魔王だ。
両手鍋を抱え、穏やかな笑みを浮かべている。
古風で落ち着いた声色。だがその存在感は、さっき感じた威圧感の正体だった。
「魔王、お腹すいたからごはん食べようよ」
「うむ。では食すとしようかの」
二人は机を囲み、まるで日常のように食事を始めた。
――いや、解けよ!!!
「強いんだから自分で解けるでしょ?」
「勇者よ、か弱いふりをしても無駄じゃよ」
「違うわい。……まあ、この程度の縄」
俺は軽く肩をずらし、縄を抜き取った。
凛の目が輝く。
「ほんとに勇者なんだ……」
魔王は凛の頭を撫でながら薄く笑った。
「ふむ。じゃが、様子がおかしい気もするのう……」
「そりゃそうだろ、魔王に捕まってんだからな」
魔王は「ふふ」と笑い、湯気の立つ鍋を机に置く。
何もかも日常のような空気の中、俺だけが場違いな感覚に取り残されていた。
縄を解いた俺を、――凛は面白そうにじっと見つめている。
魔王はそんな凛の頭を、当たり前のように撫でていた。
「偉いぞ、凛。ちゃんと捕まえてきたじゃな」
「えへへ。勇者ってもっと怖い人かと思ってたけど……案外、普通?」
「普通ってお前な……」
思わず返すと、少女はくすりと笑う。
その笑顔が無邪気すぎて、余計に得体が知れない。
魔王の側にいるってことは、何か特別な理由があるはずだ。
だが本人はそんな雰囲気を一切出さない。
ただ子供らしく――いや、どこか計算高いようにも見える微笑を浮かべている。
「なああんた……本当に魔王なのか?」
俺は慎重に魔王を見据える。
薄い笑みを浮かべた女は、想像していた“魔王”とはかけ離れていた。――赤髪を除いて
魔物の軍勢を率いて世界を恐怖に陥れている“絶対悪”――そんなものはここにはない。
あるのは、穏やかに少女を見守る女の姿。
ただ、その瞳の奥だけが底知れない闇を湛えていた。
「そうじゃよ。お主ら人間が勝手にそう呼んでおるだけじゃがな」
「……だったら、なぜ俺を殺さない?」
「殺してもつまらんじゃろう?」
魔王は肩をすくめ、まるで茶でも飲むような調子で言った。
そのやり取りの間も、凛は俺をじっと見つめている。
その視線がどこか探るようで落ち着かない。
子供の目をしているはずなのに、やけに鋭い。
「ねえ、勇者さん」
「なんだ」
「寝込みを襲うのって、卑怯だと思う?」
凛は首をかしげて、さらりと放った。
俺は思わず言葉を失う。
「はあ?」
「魔王はね、“勇者ならいつでも襲いに来ればいい”って言ってるんだよ。でもさ、普通にやったら勝てないでしょ? だったら手段を選ばなければいいのに」
「お前なあ……」
とても少女の口から出た言葉とは思えない。
なんだこいつは。
「卑怯者の勇者なんて見たくないのう」
魔王がくすくす笑い、凛の肩を軽く抱いた。
どういう関係なんだ、この二人。
俺は気配を悟られぬよう、意識を集中させる。
魔力の流れを指先に集め、柄の感触を思い浮かべる――
次の瞬間、手の中にいつもの剣が形を成した。
光を帯びた長剣。その存在が、この家の異質さを際立たせる。
しかし魔王はまるで興味なさそうに視線を流しただけだった。
「勇者よ。少しここで過ごしていくがよい」
その一言で、背筋に冷たいものが走る。
この女は、俺が剣を出したことすら計算済みだ。
「ねえ、勇者さん。おじさんって呼んでいい?」
凛が俺の剣を見ても怯む様子もなく、にこりと笑った。
「……好きにしろ」
「ふふっ、やっぱり反応が面白いね」
少女の笑顔に背筋が冷える。
縄の痕が残る手首を握りしめながら、俺はどうやってここを出るかを考え始めた――。