潰走である。
戦いにはすでに負けた。今回の魔王──国丸々一つを魔に堕とした移動する最悪の厄災、歴史に名を刻む、六つの街を轢き殺したパンデモニウムは、想定を上回った。何もかも、物量も質も、ミルシット軍では対抗できない範囲にあったのだ。
交戦相手は、パンデモニウムから来る大軍勢。
および、パンデモニウム
この、“そのもの”自体がかなり厄介なのだ。直径3.7キロの大質量が動く。
中央が高く、城が立つその都市は、三角形をしている。側から見れば地平線が迫ってくるような圧迫感だろう。ねじくれた二十五メートルはある石の城壁で囲まれ、無限軌道でゆっくり移動する魔王都市は、背に太陽を背負えば日差しを隠すほど大きい。
城の頂点は二百五十メートルにも達する。
果たして、街が一つ、迫ってくるのはどんなに非日常か。
加えて、パンデモニウムは中に数万の魔物を抱え込んでいるのだ。
鏖殺将軍リオンダリも含めた魔物たちを。
だから、街の最高意思決定機関である神殿は、街の住民の避難をすることに決めた。
今までそうしなかったのは、避難では
周囲近辺の都市までは移動に一週間もかかる。何もかも、街の人間をすべて移動なんて考えていなかったから。
問題は、2つ。過酷な砂漠、途中の護衛や食料が必要なこと。
そして──迫り来る魔王を足止めする人員が必要なこと。
パンデモニウムは、1日に100キロ移動してくる。
時速にして約4.1km。文字だけ見れば、逃げ切ることは容易に思える。だが、この都市は昼も夜もなく
避難民が一週間逃げ延びるだけの日数を稼がなければ、ミルシットの街は全滅する。歴史や伝統、生活すら全て消し去って。文字通り、均さられて。
魔王がどれほど恐ろしいか、分かるだろう。
◆
現在時刻は24時31分。
ミルシットの野戦病院となった建物の、20人は入れそうな会議室は現在、突貫の司令所となっていた。
軍の人間が怪我のために多くこの病院に運び込まれ、たまたま集合した結果、成り行きでこの部屋が司令所となったのだ。
「つまり」
縦長の大机には地図が広げられ、ルートが引かれている。
ミルシット軍の将軍、参謀達は鎧を外したシャツの格好で、あるものは椅子に座りながら、あるものは煙草をふかせて、ランプに照らされながら頭を付き合わせていた。
「避難民の移動は、どれくらいの速さで可能か」
ひときわ傷跡のある、ミルシット軍総司令官は腕を組みながら低い声で尋ねた。眼鏡の参謀の一人は、静かに答える。まだ若い、才気煥発な男だ。
「鐘が一つ鳴るごとに、6キロほどです」
つまり、時速6キロ。
部屋の中でかすかに唸る声がする。紙がくしゃ、と誰かの肘で皺になる音がして、それだけ机の上に広げられた報告書や資料が多いことを物語っていた。
総司令官は何も言わず、続きを待った。参謀の言ったものは理想値であると知っていたから。若い男は眼鏡のブリッジを持ち上げながら視線をやや上にやって言う。
「休憩を含めると、えぇと、2時間に30分はどれだけ無茶をしたとしても休止は必要でしょうから、ですから……2.5時間で8キロでしょう。寝ないで移動したとしたら、日に70キロは移動できます」
「寝ないでか」
片眉をあげて、片腕に包帯を巻いた女性が呟いた。特別な駱駝を使った騎兵隊の小隊長だ。
「寝ている暇は、ないでしょう」
そう。
この会議の目的は、今後の避難計画の策定であった。
いかに、市民をミルシットの街から、近隣の都市へ避難させるか、という。
部屋の中で最高齢の、ベテランである歩兵隊の小隊長が傷のある唇を歪めて呟くように言う。
「子供も居るだろう。可能か」
「一部は難しいかもしれません。ですが、移動しなければどのみち全滅です」
「そうだな。そうだ。異常な相手を敵に回しているのだった」
魔王襲来という、非常時。従来の取り決めや前例、マニュアルなど役にたつ筈もない。だからこうして、かなり厳しい旅を選択させざるを得ないのだ。
ボボボ、とランプが音を立てた。壁際に控えていた兵士の一人が丁寧にランプ下部の給油口から油を継ぎ足した。
「やはり逃げる先は、ヤンクゥの都市か」
「まぁ、それしかあるまい」
「三〇〇キロ以上離れているが、他に案は?」
誰も答えない。
ふぅー、と鼻から吐き出すような深い息が部屋に響いた。
誰もが疲労の色を滲ませていた。血の匂いもする。
この場にいるのは、昼間の戦いで生き残った者だけだ。
来れなかった幹部もいる。生き残った中で、敗戦の被害をどれだけ減らせるかに考えはシフトしていた。
「魔物も警戒しながら、夜通し、か」
「兵力をさかねば、砂漠の移動は難しいぞ」
「だが、逆にそうであるならばかなりの距離は稼げるだろう」
うむ、と椅子にどっしり座った、大きな槌を傍に置いた工兵の隊長は頷く。普段であればやらないような無茶を、命と天秤にかけた結果実行するのだ。日ごろの移動にかかる日数計算からは考えられないほど進むはずだ。
だが、総司令官は険しい顔だ。
いや、総司令官だけではない。ミルシット軍の幹部陣が集まる、頭脳とも呼べる司令所の誰もが厳しい顔をしていた。なぜなら、みんな知っていたから。
「改めて、述べさせてもらいます」
眼鏡の参謀か、ほそぼそとしたざわめきを切り裂くように声を出した。
そして机の上に置かれた大きな木彫りの、三角錐の駒を指差し、一度ぎゅっと目を閉じてすぐに開けた。
「魔王の都市は、日に100キロは動きます」
馬鹿げた移動距離だ。
誰もが机の上を、それぞれの感情で見ている。
参謀は続ける。
「昼も、夜もなく、です」
場は静まった。
外からはキィキィと蝙蝠の鳴き声が聞こえる。呼吸音が聞こえてきそうな空間の中で、腹に響く声が膠着を破った。
「避難民は、5時間後に出発させる」
総司令官だ。彼は一度言った内容を再び、周知させるように口にした。ランプの火が揺れる。影がゆらめく。重苦しい空気は、深夜の中に溶けていく。命の決断は、闇夜に溶けていく。
「
壁に貼られた資料──主に戦場の敵情報、魔物の種類、魔王の能力の推察が書かれた紙を整理しながら、騎兵隊長の優秀な副官が補足した。
「到達時間は」
「18時間後です」
「正確か?」
「観測隊からの記録からの計算です。誤差は──ないかと」
「相手は魔王だぞ」
「今まで同じ速度だったんだ。変わらないということは、
「少なくとも、
総司令官は眠気覚ましに兵士が淹れてくれた、すでに冷めた茶を見ながら、机の上で手を組んだ。
これは、レースだ。
生き残りをかけた、捕まったら終わりのレース。避難民たち、街の人間が、魔王都市、パンデモニウムから逃げて、片道一週間の都市に逃げ込めるかどうかの。
「では、アドバンテージは13時間か」
パンデモニウムがミルシットの街に到達するのと、街の住民が逃げ始めるまでの時間差が。
「たった?」
「その間に40キロは先行出来る」
「計算は誰がやった」
「私です。時速3.2キロで進めば41.6キロの距離差が生まれます」
「不眠で移動を三日間できないか」
将軍である髭の男が言った。武力でのし上がってきた叩き上げの男だ。冷や汗をかく書類仕事の幕僚は苦い顔で首を振る。
「睡眠を削れるのは二日間までです。これも女性や子供がいる中で無茶をした数字です。これ以上は、根本的に瓦解します」
「では二日間で百……えぇと」
「154キロです」
「そうだ。百五十四」
ガリガリとペンが走る。
誰かの布が擦れる音と、咳き込み。外では兵士が桶をもって走り回っていた。
「で、相手はどれだけ縮めてくる」
「あー、……パンデモニウムの移動速度概算を時間で換算すると、4.17で避難民の移動速度は二日のみ2時間に30分休止の……で、──だから3.……いや、……3.2ですから」
ジャッと、紙に0.97の数字が踊った。
つまり。
「魔王は毎時0.97キロずつ距離を潰してきます」
机から顔を上げて、隈をつくりながら、顔色の悪いまま、ギラついた目で軍の参謀部に所属する男が言った。
「追いつかれる時間が分かるな」
「42.9時間後……です」
誰かが苛立たしげに頭をかく音が響き渡った。
夜中は既に25時を迎えようとしている。新たに兵士が入ってきて、熱い茶を配っていった。彼は片方の目に包帯を巻き、血が滲んでいたせいか距離感が掴めず、机の角に腰をぶつけていた。
「一度魔王との追いかけっこのことは置いておきましょう。街の方々が、最速の強行軍でいつ辿り着けるかです」
眼鏡の若い男が言う。
「二日間は最速で移動できる。それで百五十四キロ」
ああ、と賛同の声が上がる。誰も彼もが重たくなる頭を必死で回していた。
「三日目からは……2時間移動し、30分の休憩で、睡眠を挟む必要があります」
三十分は長いだろう、と声が上がった。睡眠を取るのならば、日中はもっと動けるはずだ、と。
「では、二〇分の休止で」
「十五分」
「なるほど、十五分で」
ガリガリとペンが動き出す。
睡眠時間は4時間半に設定されていた。ミルシット軍の行軍における、特別な場合の時間設定だ。訓練を受けていない市民に適用するのは酷だが仕方なかった。
「移動時間は約、一九時間半として……速度が……」
彼はぶつぶつと呟きながら計算式を書いていく。ミルシットの街が優れた技術と能力を獲得している理由の一つに、こういった学問分野が優れているという点が挙げられる。
彼は茫洋とした目つきで口元にペンを当て、何度も式を書き加えた。
「最速でヤンクゥの都市までかかる時間は、九十八時間……四日と二時間です……が」
「魔王が追いつくのは何時後だったか」
「四十二.九時間後」
司令所に沈黙が落ちる。
空気が薄くなったような錯覚。そして誰かが重たい口を開いた。
「大体、55時間。……市民たちがパンデモニウムから逃げ切るには、二日と7時間足りない」
それはわかりきった事を、言いたくはないがあえて言葉にしなければならないと言う苦いものを孕んだ言葉だった。空気すら不味くなる感触。軍の幹部たちは言葉が見つからなかった。ただ、夜通し続く会議のために点けられているランプの、油の匂いだけがいつもと同じだった、
時間を稼がなければならない。
近隣都市にはすでに伝令は送ってある。あの都市ならば
二日と7時間。魔王を足止めしなければならない。
可能か?
「無理だ」
誰もが同意した。ミルシット軍にもはやそれほどの足止めをできる戦力は残っていない。加えて、避難民の護衛のためにある程度兵士をつけなければならない。昼間の戦いで減った兵士をさらに減らして、時間稼ぎだと? 待っているのは、考えなくても分かる結末だった。
「移動速度を上げよう」
そう言ったのは、部屋の中で立って話を聞いていた長身の男だった。服の端々は擦り切れたり、昼の戦いのせいで皺になっているが、髪は整えられている。規律を体現したような男だった。総司令官の補佐を務める優秀な人物である。
バカな、と悲鳴のような声が上がった。
市民に無茶を強いている計画を、更に過酷なペースで進めようと言うのだ。
目をむいて、体格の良い若い小隊長が勢い余って立ち上がった。
「それでは脱落する市民が多くなる! 最初に死ぬのは、老人や子供たちですよ! 見殺しにする策は、まだ取るには早い!」
「もう時間はない。ある程度の犠牲は仕方ない」
「なっ、……! それでも市民を守る軍人ですか!」
どちらの言い分も正しい。
長身の男が選んだのはかなりハイリスクな策であり、確実に人死にが出る。まだ若い小隊長はそんな犠牲を許容する策を許すことはできなかった。
「それに、そんな移動速度どうやって……」
「兵士を使って追い立てる。付いていけないものは、仕方がない」
「あ、アンタは……!」
まるで人を荷物としか見ていないような言い草。ついに若い小隊長は、疲労と、長時間の会議が重なり堪忍袋の尾が切れて、男の胸ぐらを掴みにかかった。慌てて周囲の人間が止めに入る。ガタガタと机の資料が舞って、部屋の中は騒然とした。
「おい、落ち着け! バカやろう、こんなところで争ってる場合か!」
「だがっ、ですがっ!」
「座れ。マルキ。アウクィ副司令補佐の気持ちも汲んでやれ」
羽交い締めにしている男の一人が、興奮して掴み掛かっている小隊長の頭をボゴンと殴り、宥めるように言う。ぐっ、と殴られた彼が呆けた時、言葉は続けられた。
「この人は、一歳になったばかりの子供が避難側にいるんだぞ。分かるか? この意味が」
奥さんと一緒にな、と。
それだけで激昂していた若い小隊長は、水をかけられたように勢いが止まる。そしてまじまじと改めて長身の男の顔を見た。まるで観察するように。いつもなら不躾過ぎて、ふざけても行わない行為だが今はそれどころではなかった。
そして、相手の顔を見ながら、若い男は理解が追いついていない状態で、ポカンと口を開けた。
長身の男は黙って、感情のない瞳で羽交い締めになっている男を見下ろしているだけだ。顔に表情はない。ただ任務だけを考える者の顔だった。ゾッとする。何をどうしたら、愛すべき妻と、自分の血の繋がった子供を
いきりたっていた若い小隊長の男は力の抜けたようにすとんと椅子に座った。頭が痛くなるような現実だった。こんなバカな話があってたまるか。そして気がつく。目の前の、冷血な男は表情ひとつ動かしては居ないが、その手だけが深く握り込まれていることに。
「……くそっ。……取り乱しました。失礼を」
「いい。今は作戦を考えろ」
会議は続く。
魔王の足止めは二日以上必要である。少しでも市民の生存率を上げるには身体の弱い老人、女子供を犠牲にするしかない。
そうでなければ、ミルシットの街は歴史の中に、記録すら残さず、後世に何も紡げず、断裂してしまう。それがどんなに最悪なことか。
「やるせないな」
結果は決まった。
後は実行に移すだけ。守るはずの弱い者を見殺しにするという決断をするだけ。
「ああ、本当に──」
各々が立ち上がる。
言葉や合図はなかった。彼らもまた、死にゆくものだから。時間稼ぎは誰がするのかといえば、軍人たる彼らだった。
「やるせない」
皆が辛い顔をしているのは、自らが死ににゆくことではなく。
民を十分に守れなかったこと。軍人たる役目を果たせなかったこと。
そして、家族の未来に自分たちが行けないこと。
「仕方ない。仕方ないが、思ってしまうな」
入り口の兵士が不動の姿勢をとって、出ていく準備をする彼らに敬礼をした。難しい決断をした彼らに、同じ組織にいるものとして、心から。
「思ってしまうよ。平和な世に産まれたなら」
「こんなクソのような命令は下さずに済んだ、だな」
はは、と笑い声が響いた。
彼らは暗い廊下に足を向ける。
そして、気がつく。
部屋の出口。ちょうど暗がりにぼんやりと照らされるように、1人の青年が、立っていることに。
「君は」
と若い小隊長が呟いた。
魔王の力によって敵本陣に送られながらも、単騎で生還したという規格外の戦力。ボロボロになっても帰還した、不屈の男。敵陣ど真ん中を突っ切って来るなど、想像を絶する戦いだ。間違いなく、今回の戦いの一番過酷な場所の一つを担った男だろう。
薄い、小麦のような色をした髪の彼は、壁を支えにしながらも、しっかりと両の脚で立っていた。
「まだ、やりましょう」
彼は顔を上げる。
いたって温和そうな顔立ちに、この時ばかりは見る者をハッとさせるような迫力を携えて、夕焼け色の瞳で立っていた。
「命を使うと決めたなら」
彼は言う。魔王と戦うなら。
命を散らす作戦ならば。どうせならば、どうせならば。
「あの、ふんぞり返った魔王に、一矢報いてやりましょう」
そう、司令所に乗り込んできた18歳の青年は、小さな約束だけを携えてやってきた。
「僕は人類の最先鋒。誰かのためのつるぎ。戦いがあるならば、まだ戦うというのならば。僕は必ずあなたがたと共に行きましょう。それが役目だから。そうあるべきと規定したから」
彼は疲れた顔で、傷だらけの顔のまま。それでも口の端を吊り上げて、ニィっとどこか爽やかさすら感じさせる表情で、笑ってみせた。
「どうせ
ちりん、と彼の耳元で飾りが揺れる。
エメラルド色の石が嵌った、砂漠に生きたひとの意思が詰まった耳飾りをが。
風に吹かれ、やってくる砂のように。
時間と共に消えていく足跡のように、誰にも記憶されない隷属民ひとりの生きた証拠をひっそりと、抱えて。
「いっしょに、あの、綺麗な横っ面をぶん殴って終わりましょう」
彼は笑った。悪い笑みだった。
砂漠の夜は更ける。
砂に覆われた大地で、魔王が迫ってくる。
残された避難民を、どれだけ生き残らせられるか。
夜明けと共に。最後の最後の、戦いだった。