17時55分。
夕陽がまっかにその身を燃やして、地平線に溶けて行くなか、パンデモニウムはやってきた。
まるで山が動いているのかと錯覚するほど巨大な、城壁つきの都市。
聖都にあるという100メートルの見上げる尖塔を横倒しにして、三十七本分必要な大きさの三角錐。
パンデモニウムの中央、聳え立つ城のバルコニーで、ロマンスグレーの髪を撫でつけた貴族風の魔王はミルシットの街に目を細めた。マントがはためく。銀の釦は赤色に染まっている。
「いよいよだ」
既に眼下では兵士となる小鬼やトロル、その他数万の魔物が列を成して向かっている。ミルシットの街攻略の手段は、魔物で敵対する兵を殺し、街そのものはパンデモニウムで轢き潰す。
そして、何処にいるか分からぬ大巫覡を殺す。
こうすることで女神教の誕生を阻止し、勇者そのものを発生させなくする。
ごほ、と濁る咳。
魔王はバルコニーの手すりに掴まる。
未来で、魔王にとっては現代で首を斬られる直前まで追い詰めた勇者。その誕生を過去から防ぎ、未来に戻ることで生き延びるのだ。
この戦いは彼にとってそういうものだった。
「く、ふふ」
先の戦いではミルシットの街から出て防衛線を築いた者たちを蹴散らし、勇者を孤立させ、勝利した。
今回もまた、同じことの焼き直した。
当たり前のように蹂躙し、勝つ。
生るぬい風。また咳をひとつ。
ごほ、という濁った音がした。魔王は口許を抑える。
「ごほっ……ふ」
咳を握り込んだ白い手袋にはドス黒い色が滲んでいた。未来の勇者につけられた傷は癒えない。確実に体力を削り続けている。よもや、あの刃が今もゆっくりと頸に食い込み続けている結果がこれなのかもしれない、と魔王は想像した。詮無いことだ。考えた所で、生き延びる道は一つしかない。
数多の命を踏み躙ること。
未来の人類の戦力のひとつ、勇者を消すこと。
防がれるはずの悲劇を上演すること。
「王よっ、血が……!」
近くに控えていたメイドが慌てて白い布を持ってくる。
彼女は長い耳に褐色の肌で、甲斐甲斐しく魔王の手袋を取り換え、水差しからコップに水を注ぎ渡した。
「気にするな」
続けて伸びてくるメイドの手を制して、逆行の魔王は思う。
唯一の考慮すべきものは、英雄、ギャレヲンの攻撃だ。あの、長身の女傑。未来で名は聞いたことがないが、とんでもない存在であった。
“ねじ曲がる光”のインティ・ギャレヲン。
周囲にある光子を集めて、束ねて、押し込んで、圧縮して、撃ち出す。
臨界する圧縮の段階では周囲の空間は光子の悲鳴のように甲高い音を奏で、周囲の明度は低くなる。
簡単にいえば極太のレーザーだ。
あれはパンデモニウムを止める可能性がある。事実、前回の戦いではミルシット軍を追い詰めたタイミングで放たれ、後退を余儀なくされた。
金属が溶けるのではなく、蒸発するほどのエネルギーの束。
咄嗟に防壁を展開しなければ、危険であった。
故にタイミングを見極めなければならない。ギャレヲンの一撃を。連発は出来ない、溜めが必要な攻撃を。
切り札をどのタイミングで切ってくるかが、この勝負の決定的な場面となる。勝負がどう転ぶかが決まる。
中盤、押し込まれた際の押し返しとして撃ってくるか、最終盤まで溜めに溜めて起死回生の一撃となしてくるか。
「このまま、大巫覡まで届くでしょうか」
魔王を不安そうに見つめるメイドを横目に、横に控えていた騎士が問うた。
尻尾の生えた、鱗を持つ女性だ。魔王の隣に立てるほど信頼と実力が認められている。彼女は傍に佩いた騎士剣を少し撫でて、魔王に伏目がちに視線をやった。魔王は断言する。
「届くとも。我らは進む。全てを踏みつけてでも」
振り返りもせず、ミルシットの街だけを見て。
澱みない、迷いのない回答だった。ごほ、とまた咳をする。後ろに撫でつけてある髪が一束はらりと落ちてきて、彼は血のついた手袋でぐいっとかきあげた。
「同じだ。何年も、何十年だって」
眼下では魔王の軍と、ミルシットの城壁に展開した兵士たちが睨み合っている。緊張感が高まっている筈だ。だが、バルコニーはそこまで大きくもない風の音が聞こえるほど、見方によっては寂しい場所だった。
騎士は街の方を見て、夕陽を背に、一人立つ魔王に目を細める。
「若。辛くはありませんか」
騎士が問いかける。
魔王は振り返らない。街を、戦場を見ている。
「何を。それも、懐かしい呼び名までわざわざ掘り起こして」
彼はなんだなんだと笑いながら、魔力を瞳に込めた。間も無く最前列の魔物がミルシットの城壁に辿り着く。
街の中にはいくらか兵力が残っているようだが、圧倒的な質量の前にはどうにもならない。戦いとは。あらゆる要素を計算して、事前に積み重ねて、そして結果が生まれる。
詰めて詰めて、詰めていくのだ。
魔王は息を吐きながら笑った。
「生きながらえさせる。この国は、この国の民は、何百年経とうが、守り続ける。当初と同じく、我を信じ、後ろからつい来るがよい」
魔王が言うと、騎士の女性は黙った。そしてゆっくり、含むような口調で魔王に返答した。
「我らは既に、充分助けられましたよ。その事だけは、留めておいてください」
魔王は答えない。
騎士の方に一度も振り返らない。
ただ、風に紛れるくらいの小声で囁くだけだ。
「無理だな。人は、自分の運命からは逃げられないのだ。己の選んだ選択肢の後に続く道という、運命からは」
魔王は、堕ちた時と同じ瞳のギラつきのまま、ミルシットの街を見た。
戦の先端で嘶きが聞こえる。戦いが始まった。逆行の魔王は腕を振り上げた。
「進め、進めェ! 鏖殺だ。すべて均し、潰し、我らが予定通り、このままのながらの通り勝つのだ!」
ミルシットの城壁から矢が雨のように放たれる。
魔物たちも咆哮をあげ、空気を揺らし突撃する。
どれだけかかるだろうか。
30分、もしくは1時間。それとも数時間は持ち堪えるかも知れない。どちらにせよパンデモニウムで轢けば終わりだ。
思考は明瞭。
今にあの街も夕陽と同じ血に染まるだろう。
あとは、どう大巫覡を探すか。
ミルシットの街を滅ぼした後も、勝利条件を満たすために考えなければならない。ミルシットの街よりも、先のことを。
そう、思っていた。
「──ぬ?」
街の方から、ギラリと一瞬、輝きが見えるまで。
太陽の光すら霞む、強烈な輝きが、瞬きの間に挟まるまで。
「総員ッ、伏せろォォ!」
魔王は反射的に叫んでいた。
考える暇は無かった。体が既に、全力で反応していた。
叫ぶと同時に、両手に展開する防護の魔術。パンデモニウムの前方に、幾何学模様を組み合わせ、歯車のように回転する複雑な魔術が組み上がり、噛み合い、防壁と成す。
「何が」
メイドが言葉を紡ぎかけて、ひと呼吸したあとに、街からは──
全ての光を塗りつぶす、極大のレーザーが、飛んできた。
◆
80話 先手必勝タンゴステップ
◆
「ぬ、おぉぉぉおッ!」
パンデモニウムの城を消し飛ばす一撃。
周囲の光すら奪いながら、あたりを暗くしながら飛んでくる、瞬き一つで眼前に到達する、間違いないギャレヲンの一撃。魔王はパンデモニウム全面に展開した防護壁に刻まれた、魔術の歯車を全力で回転させ、強度を上げ続け、鼻や目から出血しながら必死に防ぎ続けた。
(いつ撃ってくるか、どこだとは思っていたが、開幕早々!!)
目を焼く光の壁は、質量を伴って全てを埋め尽くす。
もはや視界は真っ白でしかない。視界は情報を伝えることを放棄し、聴力は甲高く防壁が悲鳴を上げる音だけを伝えてくる。
パンデモニウムの外に既に展開済みの魔物たちは運が悪かった。消し飛ぶか、甚大な被害を受けているだろう。
「ぬぅぅぅぁぁッ!!」
何秒経った。
魔王は白くなっていく思考の中、考えた。
まだ1秒、2秒。永い。無限にも思える。
防壁は綻びが生まれればそこから浸透するように極光が入ってくる。まるで横倒しになった大瀑布を防いでいるようだ。
意識を途切れさせれば、内部が食い荒らされて術式が崩壊する。故に、全箇所を修復しながら、澱みなく魔術を回し続けるのをパンデモニウムを覆う範囲で展開し続ける。
「ご、ほ」
魔王の口から血が垂れる。
目の前が暗くなってくる。禁忌を犯した回避も出来たが、ギャレヲンのような相手ならば効きはしない。使えるのは、あのよく分からない勇者くらいが限界だ。使い勝手が悪いのだ、逆行の魔王が持つ能力は。
「ま、だ、だ……ァ!」
光が弱まる。
手に掛かる負荷が徐々に抜けていく。
これさえ防ぎ切ってしまえば。ミルシットの切り札さえ防ぎ切ってしまえば。
あとはもう、相手に対抗の手段はない。こちらに被害も出ているが、立て直しなどいくらでも効く。
「──ッ──ァ!」
パァンという音と共に、視界が晴れる。
極光は放出を止め、宙に散っていった。スパークが名残りのように空中を数度瞬いて、暗くなっていた周囲の空間も正常な明るさを取り戻す。
グラデーションになっている夕焼け空が見える。
逆行の魔王は髪を乱し、血をあらゆる穴から流しながら手すりにもたれ掛かった。
パンデモニウムは健在だ。
傷もない。壊れてもいない。守り切った。
「は は 」
ミルシットの唯一の切り札から、都市を。
魔王軍はまだまだパンデモニウム内にいる。数千は削られたが、継戦能力に支障はない。
「は、ははは」
夕焼けに照らされながら、腹を抱える。首から嫌な血が滴るが気にしない。駆け寄ってきたメイドの支えを受けながら、魔王は口の端を限界まで吊り上げてゲラゲラと声を上げた。
「ははははッ! 防いだぞ! そうだ、無駄にしたなぁ、切り札を!」
片手で欄干を掴み、体重を支えながら、魔王はパンデモニウムの門を開いた。ガコンと重低音がして、中から温存されていた魔物がワラワラと出てくる。その数はすぐに数千に達するだろう。
これが、笑わずにいられるか。
相手に対抗の手段はもはやなく、やる事は変わらない。
「魔王軍、前進!」
とうとう一斉に万に届く魔物たちが街に攻め入っていく。
魔王は号令を出した後、疲れたようにバルコニーに設置されていた椅子に座り込み、息を整え始めた。
あとは、蹂躙するだけ。
それだけだ。
◆
「魔物接近! 数は──六千!」
「弓兵隊、構えェ!」
ミルシットの街、城壁内部には盾で守りを固めた兵たちが固唾を飲んで待っていた。
目の前には、赤茶色の砂を覆い隠すほどの魔物の群れ。
「第一射……てッ!」
合図と共に弓矢の雨が城壁から降る。ミルシットの城壁に取り付いていた小鬼たちが何十も矢の直撃を受け倒れていく。だが、そのすぐ後からまた新たな小鬼が登ってくる。群れ、ではないのだ。もはや波である。生きている、魔物の波。それが城壁に押し寄せ、打ちつけている。
小鬼が手に持った武器で城壁を叩く衝撃で空気が振動する。
鉄と、夕方の熱気と、相手を殺す意思が混ざり合って、戦場はむわりといやな湿度が立ち昇るようだ。
現在応戦しているのは、城壁の上の弓兵たち。
そして城壁の中には数百人の歩兵隊が隊列を組み、守りを固めていた。
城壁内部で待機している彼らの任務は、街に入り込んできた敵の排除。現在の主力は城壁に展開している弓兵達である。
「第二射……てッ!」
800を僅かに下回るほどの数で彼らは城壁上から矢を放つ。
ミルシットの街に最早守るべき市民はいない。だから、街を囲う大きな城壁を、前線拠点でやったような攻撃を防ぐ壁にそのまま応用すると言う大胆な策に出たのだ。
時折、城門を打ち破ってかすり抜けて入り込んでくる魔物がいる。街の内部に侵入されれば、主力たる弓兵は街と内部と外からの挟撃に遭う。だから、それを防ぐための歩兵隊だった。
「前方、トロル1! 2小隊は前列、後列に3小隊だ!」
おお! と40人ほどの兵が壁を抜けてきた大男のような魔物、トロルに掛かっていく。
指揮官の男が声を張り上げ、剣を持った兵たちが突撃していく。
魔物が武器を振るい、血が流れる。
誰かが気合を入れるように叫んで、また一体、魔物を屠る。
その、後ろから魔物が現れる。
戦いは終わらない。
そして、勇者ルークは。
「ふっ……ふっ……」
7人の小さな集団で、砂漠を走っていた。
場所は、ミルシットの街から出て、迂回した地点。
熱砂を蹴り上げるルークの夕焼け色になった瞳には、空を埋め尽くすような大きさのパンデモニウムの側面が映っていた。戦場の外れだ。
ギャレヲンの一撃に戦場の視線が集中している時に、彼らはミルシットの街を出ていた。
つまりは、別働隊。
彼らの立てた作戦は単純明快。
街に籠城して、全滅するまでパンデモニウムを
「間も無く侵入する。注意しろ」
戦闘の、赤茶色の装束で全身を覆った特殊な兵士が小さな声で合図する。
ルークたちが選んだ戦術は。
パンデモニウムに少数で侵入し、直接魔王を
つまりは街に残っている兵士は囮なのだ。兵士らは託したのだ。
この7人が、作戦を遂行し、魔王を倒して、ミルシットの街を守ることを。後ろに避難を続ける市民を守ってくれることを。
「行くぞっ」
勇者一行。
パンデモニウムに侵入。
◆
街中で、弓兵の矢の雨を掻い潜って侵入してきたオーガに片腕を吹き飛ばされた指揮官は叫んだ。
「持ち堪えるのだ! まだだ! こんな所でくたばってはならぬ!」
ドバドバと命の温度を垂れ流しながら。真っ青になって冷や汗をかきながら。幅広の、指揮官に与えられるサーベルを振り上げて唾を飛ばしながら。
チャリと彼の胸につけられたロケットが戦場の衝撃で開く。
中にある魔術で再現された家族の姿の絵が戦いの最中、ただ男の胸にあった。
「回り込めぇ! まだ、死んではならぬ!」
彼は叫ぶ。
命の限り。あの、決死隊が魔王の頸に届くまで。
自分より一回りも若い、あの青年を思いながら。
「行け、行け、行けェ!」
最後の作戦が始まる。
魔王の首を落とす作戦が。