北の風のように冷たく。
北の大地のように硬い。
少女は雪原を駆け回る。
焚き火のように熱く。
スープのように温かい。
こういう、吹雪の中でも折れぬ信念をもつことこそ、冬に生まれた意味なのだろう。
意味を問われれば、彼女はそう、答える。
今際の際でも、そう、答える。
北方の大陸にある、カフチェク共和国。
ルーク達が居た、絶海の孤島、ドゥシアー島を有する国だ。
一年を通して寒く、短い夏と吹雪く冬の国。酒好きが多く、体格が良く、豪快なカフチェク人の故郷。
そこにあるツヴェート救護団、白布小隊の元小隊長がアスナヴァ=ニイである。
175に近い身長に、銀の髪。肩口で切り揃えられた髪には少しクセがある。本人はちょっとだけストレートが良いと思っているが滅多に口には出さない。
氷のように表情が変わらず、水晶のように透き通った女性。
そんなアスナヴァ=ニイは大事な事がある。
たとえば、旅に使う食料には管理簿をつけること。
辛いときほど自分の信念を守ること。
『シラーチ。キンジャール。プーシカ。ヴィットロカ……』
あとは、毎朝、日が昇る前にかつての部下に祈りを下げること。
宿では同部屋の小さな龍の少女や、白髪の魔女にも気付かれぬよう、ほっと。自己満足だと分かっていても、やらなければ身体がむず痒かった。
たとえば、酒を嗜むこと。
『また、おさけ? おいしい?』
『君にはまだ早い』
『魔女なのに?』
『関係ないだろう、それは』
新しい街に来た時は、なるべく飲んだことのない酒を見つけ、試してみること。特にあの青年と旅をするようになって、中央大陸に渡ってからは随分飲んだことのある酒も増えた。腰の小袋に入っている、色とりどりの酒瓶のかけらはそれだけでアスナヴァの美しい旅の記録だった。
たとえば、つまみは塩っけのある方を選ぶこと。
『つまみなら、うちの街だとこの豆がいい。おっ、お姉さんいけるクチだね』
酒に関して言えば、次の日に移動がある時は3杯に留めて、翌日に残さないことも、彼女の大事なことだ。ルーク一行の治療関連を司る彼女が正常な判断ができないことは、彼女自身が許せなかったから。
隅の方に記す程度のことなら、例えば髪の手入れにはペルシークの香油をつかうこと。
たとえば、誰についていくかということ。
『ねぇ。ぎもんなのだけど、どうして、そんなに
魔女の問いかけに、明確な言葉にはせず、しゃがんでさらさらの頭を撫でる。子供は可愛がるが、あんまり可愛がりすぎて嫌われないよう、キチンと自制すること。なるべく。
たとえば、趣味の本集めはあまり口外しないこと。
『それは何でございましょう、アスナヴァさま』
『気にしなくていい。あれだ……地図だから』
『! ではわたしも見たく思います!』
『あっ』
絵本を集める趣味は似合わないので隠す。
旅にはあまり持って行けないが、店先で眺めるだけで十分だった。
大事なこと。
大事にしたいこと。
たとえば、誰かを支えること。
『アスナヴァさん』
彼に、ついて行くこと。
『ありがとうございます。でも、僕たちから離れたくなれば、いつでも言って下さいね。──や、寂しいですけど』
あの、優しく、強い。
でもどこか抜けている勇者。
『アスナヴァさん』
泣いてしまうほど、穏やかな、茶髪の青年を支えること。
地獄の島で、手を伸ばしてくれた者。
血を見るのが、肉を絶つ感覚が嫌なのに。本当はただ、麦の畑でそよいでいたいだけなのに。本人の気質から、苦しむ人を見過ごせず、死地に飛び込んでしまう彼。
なによりも守りたい彼を、一番近くで支えること。
『安心しろ』
それが。
『君のそばは、離れないさ』
アスナヴァ=ニイの大事な事である。
彼の旅がおわるまで。
修めた医術と、年長者の経験で。
こちらを見る、太陽の日差しのような彼を。
◆
「ふっ、ふっ……」
「もうすぐ、大きな空間に出ます!」
ルークとカランコエを除いた、六人の討伐隊は魔王の城の廊下を疾走していた。魔王を見つける為だ。移動型の都市、パンデモニウムにある城のどこかに魔王はいる。
これを討伐しなければ、ミルシットの避難民は魔王に追いつかれ、全滅してしまう。だから潜入して大将首を落とす。それが作戦だった。
細剣を抜刀しているアスナヴァは息を切らしながら、絨毯の敷かれた通路を踏みしめ、曲がり角で先導する偵察兵の指示通りに方向を変えた。足裏から、贅沢な敷物の柔らかで力が伝わらない感触。本当にここは、魔王の根城なのにキチンと城なのだ。なんだか気味の悪いほどに。
「ルークはまだか」
「戦闘音は聞こえなくなりました。あの獅子に勝利していれば……」
隠密のミルシット兵がアスナヴァの問いに、走りながら言葉を濁し答える。ルークと別れて十数分。言いづらそうにしている偵察兵をよそに、銀髪を靡かせるカフチェク人は口元を微かに綻ばせた。
「なら、すぐに来るさ」
大仰な様子ではなく、周りを励ますから元気でもなく。
心の底から、
なぜ、と聞き返そうとした時、先を飛んでいた霞色の子龍が高く短く鳴く。
『ここの通路を右でございます!
一同に、解像度の上がった集中が走る。龍の瞳は黄金に、太陽越しの琥珀のように輝いていた。灯りのない、廃墟のような城の廊下を、窓から入る茜色が染め上げている。
がしゃんがしゃんと全身鎧を付けている、討伐隊の一人である大柄な兵士がバイザー越しに笑い声を漏らした。
『やるじゃねぇか、あのトカゲちゃん。大好きだぜぃ』
くくくっと声を漏らす大柄な兵士は更にスピードを上げて通路を走る。好戦的な性格は、背にある大きな斧からも見て取れた。潜入部隊に選ばれるほどの精鋭だ。
『我々も向かいましょう』
廊下は広く、天井まで五メートルは優に越す。窓は希少な向こう側が見える透明ガラスを三メートルの高さまで設置しており、等間隔に伸びている。先頭の龍がまた鳴いて、方向を更新した。偵察兵は感心したように走りながら息を吐く。
『……すごいですね。異邦人の方々はどれも特異だ』
偵察兵に言われて、アスナヴァはちょっとおかしかった。
確かに、アスナヴァ達──勇者のルークに、つるぎの魔女、過去を視る瞳を持つ龍。なかなかに個性的なメンバーだ。アスナヴァだけが唯一、それほど特異ではない自覚はある。だから、なんだかおかしかった。ずいぶん個性的なパーティになったものだ。
『あっ、……あれです』
先頭を走るミルシット兵が何かに気づいたように声を上げ、動きを徐々に弱め、足を止めた。
通路を曲がった直線の先。十数メートル前方には、深い翠の両開きの、三メートルは超える大扉が無言の威圧を放って佇んでいた。
「正に、だな」
装飾の付いたあちこちには神話のようなレリーフが刻まれ、満点の星空のようだ。どれも手が込んでいて、しかしところどころ経年の劣化により色が褪せたり、塗料が剥がれたりして物悲しさも同時に放っていた。かつてあった栄華が失われ、華やかさの象徴だった物だけが人に忘れ去られ取り残されている。そんな寂しさが。
「ここで少し待とう」
はい、と偵察兵は頷く。同時に何か小石のような道具を放って、あたりの確認をした。魔王の気配はなく、静かだ。また、他に魔物の気配もない。どうやら全て、ミルシットの街の攻略に出払っているらしい。
敵地ながら安全を確保できたと判断した一行は、肩の力を意識的に抜き、装備の点検を始めた。
時間は、ルークとカランコエが追いついてくるまで。既に場内に印は付けてある。彼らが城に入れればすぐこの場所にも気づくだろう。だから待つ。魔王戦を控えたいま、勇者ルークは貴重な白兵戦の戦力だ。
『本当に静かですね。不気味なくらいに』
四人いる偵察兵のうち、一番年若い男がつぶやいた。そして真剣な顔つきで腰の医薬品や細剣を見ているアスナヴァに視線をやった。
『確か……異邦人の方は、魔王とも戦ったご経験があると』
問われたアスナヴァは、頭の中で意味を咀嚼し、あぁ、と頷いた。
『そうですか。それならば心強いです。我々も密偵や隠密は経験がありますが、魔王となると初めてで』
だいぶ慣れてきた言葉の聞き取りに、銀髪の麗人はチン、と剣を腰に戻しながら首を振った。
「魔王は、どれひとつとして同じものはいない。性質も、特性も。未知の魔王ほど怖いものはないさ」
経験からくる言葉に、偵察兵はなるほどと納得した。それだけ、遠くを見るアスナヴァの目つきは真剣だったからだ。彼はまだ、どこか魔王と戦うこと自体がうまく想像できず、これから本当に戦うのか? と気持ちの面では思っていた。
「さぁ、準備しろ。何が起きても驚くな。動揺するな。私が死んでも、だ」
その言葉はあまりにタチの悪い冗談に聞こえて、あんまりにも本気の声色だったので、偵察兵の彼は口をつぐむしかなかった。
これから本当に魔王と戦うのだ。
人類の敵。強大な悪。動く災害の代名詞と。
カァーンと風で飛ばされた物が城にぶつかる音が響く。
何度も聞いてきた、取るに足らない音だが、人気のない広い空間ではよく響く。
玉座に続く道は城の中でも広く、柱の間隔も大きい。
六人の討伐隊は、そのうちの一本の柱の影に身を隠している。柱の表面はツルツルとしていて白く、貝殻のようだった。
『まだか?』
大柄な兵士が尋ねる。
アスナヴァも、通路の高いところに設置されている明かり取りの窓を見て、夕暮れの空に時間を数えた。
もしかしたら、迷っているのかも知れない。一度離れて、事前に決めておいた信号の道具を打ち上げるべきか、と考える。
ひゅう、と風が吹く。
玉座に繋がる扉が、何の気無しに開いて、奥にいた魔王が何段も上になった位置にある椅子で、不機嫌そうに眉を寄せていた。
『こそこそ隠れるなど、謁見にしては不適だな』
そう。玉座の間には、魔王が居た。
魔王が一言目を発するまで、誰も動けなかった。反応が遅れたのではない。ただ、
『なっ──』
その時、
「ご 、 ぁ」
『アスナヴァさま?』
龍は、彼女のすぐ近くにいた。
嗅ぎ慣れた薬草と消毒液の混じった、実直な仕事の人の匂いがして。
「 か はぁ」
すべて、鉄臭くなった。
『──アスナヴァさま!』
シュンカが悲鳴のような声を漏らす。
水の入った革水筒が弾けるように、ぱしゃ、と生暖かい液体が周囲に飛び散った。
麗人は貫いた石片が刺さったまま、腕の悪い人形劇のようにがくがくと震える手で、喉に手をやった。
『攻撃だッ! 備えろっ!』
鎧を着た大柄な兵士が叫び、玉座にいる、十数メートルは離れた魔王に向かって腰の斧を投げつけた。軌道は
『行くぞっ、行くぞ!』
一瞬の出来事で動きの止まっていた偵察兵を叱責しながら、大柄な兵士は玉座に駆け出す。すぐ隣で喉を貫かれた、さっきまで話していた人の突然の負傷に固まっていた偵察兵達は役目を思い出したように、それぞれの武器を持って魔王に走り出す。
『おぉッ!!』
3人同時に。大柄な兵士に続くように。魔王に向かって。
戦闘経験が長く、一番先に反応できていた大柄な兵士は偵察兵たちよりも先に魔王の元まで辿り着き、鎧を着たまま背中の斧を振るった。勢いのついた一撃は、さながら罪人の首を断ち切る処刑人のような勢いだ。
『そうか、あの街は、残る兵士も含めて、囮だったか』
だが、魔王が何もせずとも、足元の絨毯が何かに引っ張られて軌道がそれた。
魔王は玉座から、何の感慨もなく攻撃を受けたアスナヴァを見下ろし、遠くを見てつぶやく。
『そうか、そうだったか。我輩もまだ、読みが悪いな。精進せねば』
『なんっでか、当たらねぇ!』
ガンガンガンと斧が地面を叩く音が連続する。一足遅れて追いついた偵察兵達も暗器や鉤縄を魔王に投擲するが何一つとして、中年終わりの人間のような姿をした魔王の元まで届くことはなかった。
明らかに異常だった。異常が起きている。
魔王の異常が。
『アスナヴァさま、アスナヴァさま!』
ピィピィとシュンカが膝から地面につくアスナヴァの横で鳴く。銀の麗人は、自身の血で溺れながら、ごぼごぼと声を漏らした。
『 あ あぁぁぁッ!』
大柄な兵士の振る斧の勢いは強くなる。4人の偵察兵たちは大小様々な攻撃を繰り出し、薬品すらも投げつけているが、魔王には届かない。
『なぜ、なぜだ!』
『ごちゃごちゃ言うな! 攻め続けろ! じゃないと……』
ナイフが飛ぶ。
斧が振り下ろされる。魔王は動かない。優雅に顎に手を当てて、思考をしている。
「ぶ ぶふ……」
銀の麗人は鼻からもドロリとした血を流して、その光景を入り口から見ていた。戦端は、あまりに唐突に、意識の外から開かれた。それも最高に運の悪いタイミングで。
『しっかり、! えぇと、治癒の魔術は発動出来ますか! 石片を引き抜いてはダメですよ、血が……』
ちいさな龍は口で器用にアスナヴァの身体をつつき、転がすことで戦場から離脱しようとする。かつての小隊長は霞がかる思考の中で反射的にシュンカを掴み、できる限りの力で戦場の外に投げ飛ばした。
あの龍は、偵察が主な仕事なのだ。戦闘には向かない。だから。
りだつ、しろ。
『────! ──』
「ふ ふ」
残された彼女は、呼吸すらままならない張り付くように塞がれた気道で、しゃっくりのような笑いをした。戦場は遠く、自身は倒れている。
遠くに見える、魔王の視界外に飛ばした龍は意図を察してか、どこかに飛び去った。もう魔王にバレる心配をしなくて良いので、直接勇者を呼びに行ったのかもしれない。賢い子だ、と彼女は思う。
「ぁあ、 ……」
アスナヴァ=ニイはカフチェク共和国、ツヴェート救護団、白布小隊の元小隊長である。
魔王の支配する地獄の島から数年間生き延び、討伐を成し遂げた英傑の一人であり、医術を修める医者でもあり、細剣で魔物を圧倒できる戦闘力も待ち合わせる女傑であり、知識が豊富でルークの旅に欠かせない年長者であり、
「ぉ 、ぉ 」
ただの人だった。
銀の麗人は両膝をついたまま、正座のような状態で、地面に向かってこうべを垂れて、床の何もないところを手探りで動かしている。両の目は上に向き出し、もう片方の手で腰の医療道具を取り出そうとして上手く留め具が外せず手はおかしくなった機械のように小刻みに動いていた。
どれほど強くても。
どれほど優秀でも。
『いいか、攻めろ、攻めろ!』
アスナヴァ=ニイは女神に選ばれた勇者ではなく。
『っでも、攻撃が、なぜ!?』
世界を恨み、禁忌を犯した魔女でもなく。
『何かカラクリがあんだろ、探れ!!』
世界の理に干渉する、龍でもなく。
「ぐ、 ぶふ」
「…………」
再生能力のない。
致命傷を受ければ、当たり前の如く命を散らす。
だけど、それを知って、いつか運悪く斃れることもあると知って。
彼女はただの人の身で戦場に立ち続けた。
もう二度と、絶望に諦めてしまうものかと。踏み出すことを恐れなかった。
『いいか、取り敢えず時間を稼──いま、──』
そんな、ただの、人であった。
『ぉ ぉ ぉ っ!』
大柄な兵士の斧が椅子に座る魔王の首に迫る。だが軌道が不自然を描いて地面に落ちる。偵察兵達が黒く塗ったナイフを投擲し、一部炸裂する玉を投げる。ナイフは魔王の手前で天井から落ちてきた石で打ち落とされ、炸裂する玉はすべて
『ふむ、勇者が来ているか』
魔王は連続で攻撃を続ける偵察兵四名と、大柄な兵士の攻撃の中、全て当たらず、涼しい顔で何事もないように長い足を組み、思慮に耽っていた。
その姿は明らかに異常だった。
玉座の手前の通路では麗人が首を貫通する石片の血の海に頭から突っ伏し、動かなくなり、玉座では魔王が悠然と座っている。誰の必死の攻撃も一度も当たらず、攻撃を続ける五人の息だけが上がり始める。
『そろそろかな。ようやくか』
これまで全ての攻撃に眉一つ動かさなかった魔王が玉座からすくっと立ち上がり、正面にあつらえられていた、五メートル四方を超える巨大な窓を眺めた。
夕焼け空がそこには一面に広がり、すぐに黒い粒が大きくなって迫った。次の瞬間、ガラスの割れる音。
ガラスのプリズムのような破片の中を突き破りながら、空中で姿勢を変え、突撃してきたのは茶髪の青年。白い剣が夕焼けを反射してオレンジに染まっている。彼の顔には、激情の色。
ロマンスグレーの魔王は、貴族のような服の裾を払いながら、無表情に両手を広げ、自身目掛けて剣を振り下ろしてくる青年に作り笑いのように不均衡な笑みを浮かべた。
『ようこそ、勇者』
勇者ルークの視界には既に倒れた仲間が写っている。
それを知って、魔王は出迎えるような仕草をした。
おまえは、出遅れた、と。
『遅かったじゃないか。道にでも迷ったかね?
「──ォ ォ ッ!!」
勇者は限界まで目を見開き、口を開き、喉が潰れんばかりだ。
誰かが言った。
魔王討伐は決して一筋縄ではいかない。
ただ、単純に強い魔物と比べて、魔王は未知や特有のルールを持つ場合が多い。だから知識が必要で、初見の魔王ほど恐ろしく悪辣なものはないと。
だから、『魔王』なのだ、と。
『死ね、勇者。絶望を抱いて、人は呆気なく死ぬのだよ』
白い剣が閃く。
魔王の赤いマントがたなびく。
火花が散って
魔王戦──開始。