苔の冷たさが頬にあった。
夏の終わりみたいな、涼しさが身体を包んでいる。
(──いい香りがする)
香木のような、鼻の奥に抜けるような爽やかな香りがした。
森の底、にいるような。水のせせらぎが聞こえて、薄目を開ける。
「……ぅ……」
ゆっくりと起き上がりながら、重力を感じながら、固まった身体がほぐれていく。森だ。それも、水気がある。
見慣れた、見慣れない景色。最近、別の場所に飛ばされ過ぎて慣れてきたかもしれないと思ったが、いや、そんな事ないな、とすぐに思い直した。こんなおかしな事、当たり前になってたまるか。
ルークの前に広がっていたのは、深い森の奥と形容すべき自然だった。木々の隙間からは白い光の筋が差し込んでゆらゆらと揺れている。木の密度はそれほど高くはなくて、時々倒木があり、鮮やかに苔むしていた。
ルークはその、斜めに倒れている倒木に引っかかる形で倒れていたようだ。今は起き上がり、腰を低くしゃがんでいる。
瞬き。不思議とここは時間が流れていない感覚があった。カランコエの気配がない。勇者は一気に目を覚まし、姿勢を変える。最大限の警戒態勢だ。装備は解除されている。いつものシャツ姿だ。木の上で両足を揃えたまましゃがみ込み、周囲を伺う。空は青い。左手側には小さな清流が流れている。
『警戒せずとも、こっちに来たらどうだ』
声がした。深い、低く響く男性の声だ。
ルークは慎重に近づく。倒木を超え、すこし湿った地面を踏み、木を二、三本超えた先には開けた場所があった。陽光がカーテンのように差している。
『少し待て、いま一局終わる』
目の前に広がった光景は、ルークを存分に悩ませるものだった。勇者は頭が痛そうに手で抑え、ハァーと深いため息をついた。
『して、おはよう』
「なんで……生きてるんですか……」
そこに居たのは、ロマンスグレーの髪を後ろに撫でつけた、鋭い目つきの男。中年に差し掛かるくらいの見た目だが、顔には若々しいエネルギーが満ちている。ピンと通った背筋。相変わらず貴族然とした姿だが、今は白いカッターシャツだけで少しラフな格好だ。
『ふむ、別に生きてはいないさ。貴様に負けたよ、我輩の完敗だな』
魔王は木を曲げた、曲線が綺麗なシンプルな椅子に座り、書き物机くらいの高さの小さめのテーブルを見つめていた。テーブルの上には黒と白の駒がある、ボードゲームが置いてあった。
『これは伝言であり、そして、勝者へのボーナスステージだ。もうこの世界を去る我輩から貴様に伝える須臾の間だよ。終われば消える』
結局、どうしようもないことばかりだ。
ルークは諦めて、無人の椅子に腰掛けた。いつでも動ける姿勢で。きし、と微かに鳴ってテーブルの上がよく見えた。
『はい、詰みだよ、魔王』
ルークの左横、魔王の対面に誰かが座っていた。
まだ声変わり前や少年の声。
あまりに当たり前で、夢の中でおかしな場面を当たり前に受け止めてしまうみたいに、ルークはその存在を見た。さっきまで、居たのに近くできなかった。目で見ていたのに、声を聞いて居たのに、今この瞬間まで認識まで辿り着いて居なかった。すべての感覚がすり抜けていた。全身で冷や汗をかく。
「な、な……!?」
魔王の対面に座るのは、腰より長い蒼い髪を持った、少年。
王族のような煌びやかな服を纏って、眠たげな瞳には針が2本ずつ現れていて、1秒ごとにカチ、カチと音を立てて動いている。
ルークをここまで連れてきた張本人。おそらくはネベトと同じ、神に類するもの。
「なぜっ……!?」
『じゃ、いくから。ばいばーい』
少年は持っていた最後の駒を盤面に置き終わると、何の感慨も無いような軽さで手を振って、椅子から立ち上がった。付いていけないルークは固まったままだ。魔王は分かっていたようで、むむむと盤面を渋い顔で睨むと、はぁ、と息を吐き出し、椅子の背もたれに体重を預けた。
少年はテーブルに背を向け、歩き出す。存在が薄く、霧に包まれるように消えていく。このまま去るのだろうなと分かったところで、彼はくるりと振り返り、最後にルークに視線を合わせた。
『これにて末の妹は救われた。じゃね。おつかれさま、勇者』
そして、ぽしゅ、と。
少年の姿形は跡形もなく消えていた。後に残ったのは背もたれに体重を預け、天を見上げる魔王と、椅子から半ば腰を空かせているルークだけだ。
静寂が森の中を漂っている。ルークは眉間に深い皺を刻んだ上で、色々と言いたいことはあったが、絞り出すように一言。
「……説明を、求めます」
『うむ』
そうして勇者は改めて席についた。
◆
「そもそも、なぜ、あの少年……神ですか? と貴方が対局をしていたんですか?」
様々な疑問はあるが、ルークには二人(どちらも人ではないが)が盤面でゲームをしていた繋がりが謎だった。
だから必然的に最初の疑問はこうなる。魔王はるゆく座った状態で鷹揚に頷いてみせた。
『彼が我輩の“取引相手”だからな』
ルークは思い出す。
思考は白くぼんやりとしてきたが、かき集め形を成す。
確かこの魔王は、未来でとある勇者に殺されかけており、それを防ぐために根本から勇者という存在を消そうとやってきたのだと語っていた。女神教の発生をそもそも阻止すれば、勇者は未来永劫生まれない。
『我輩の死の最中、もう間に合わないタイミングで、
魔王の指す存在は、あの少年のことだろう。
『“過去に戻る事を許可してやる。代わりに、負けたら道具になれ”、とな』
ざわりと、ルークの全身の毛が逆立った。
では。では?
この魔王が過去に、あの砂漠にやって来た原因は、あの少年ではないか?
この戦いで大勢死んだ人間は、間接的に彼が殺したとも捉えられるではないかと。
血管がばくばくと言っている。視界の情報量が増える。
『相手は超越した存在だ。何万年、何十万年の時に遍在するものだ。人の善悪なんかで測れない大きな目線で動いている。そんな彼にとって、人間の命一つなど砂漠の砂粒一つより小さな存在に映る。そういうものだよ』
魔王はルークの質問を先取りするように答えた。
それに、と付け加えて。
『この被害は、もともとあったものだ』
カチャ、と盤上の駒に触れながら魔王は言う。
元々? ルークの思考は疑問を呈する。
『この街は元々、別の魔王が襲撃していた』
「別の魔王……記録に無かったと思いますが……」
ルークも勇者の端くれ。記録を見て、王国の図書館を探し、過去の魔王の戦闘や被害状況は学んだ。いつか役に立つと信じて。それがどう今につながっているかは分からないが、当時はそれが正しいと思って勉強をしていた。
『その魔王の名は……む、◽️◽️◽️◽️◽️をしっているか?』
「え? 何と言いましたか?」
ルークは魔王の言葉を聞き返す。ちょうど固有名詞にあたる部分がぼやけたように聞き取れなかった。たいてい、魔王が司るものや、象徴的なものが入る部分だ。
『だから◽️◽️◽️……む? ◽️◽️……だったか? いや…………あぁ、もう欠片すら残っていない。取りこぼした』
ロマンスグレーの男は眉間に皺を寄せながらぶつぶつと繰り返す。聞き取れない部分の固有名詞は繰り返すたびに短くなり、要素が欠落していったようだった。明らかに異常。ルークの警戒心は強くなる。
『これは……。当時の魔王討伐の時に、概念ごと消されているな。凄まじい。やり過ぎだ。焚き火の小火を消そうとして、森ごと抉り取るようなものだ。こんな芸当できるのは、秘匿の杖だろうな』
ともかく、正史と殆ど同じなのだ。
と魔王は言った。
この旅は、助けられなかった人たちは。ルークがして来たことは、意味のないことで──と思考が及びかけた所で、コツン、と魔王はテーブルを指先で叩いた。そしてルークの視線を指先から自身の目に移すと、ゆっくりと目を閉じた。
『だが、我輩が生きていたら、避難民は助からなかっただろうし、被害は歴史以上に拡大していただろう。貴様の所為だよ。敗者の我輩には、歴史の修正権が無い。どうしようもない。歴史の修正力の中に収まった』
そうですか、とルークは相槌を打つ。
この会話も唐突なことで感情が追いついていない平坦な返事だった。ただ、今は情報収集をしなければという冷静な部分が判断を下して、素直に魔王の話を聞いていた。
『では、本題を端的に言おう。とにかく、人類は勝てないのだ。善の陣営は勝てないのだ。それを伝えたかった』
「勝てない? 何を言ってるんですか? 何の話ですか?」
やや暴投気味に投げられた話に青年は目を白黒とさせる。
魔王は表情を変えない。当たり前を話すように言葉を続ける。
『
「魔王と、人類の?」
『そうだ。いずれ来たる、すべてを滅ぼすもの。すべてを分解し、結合を断ち、虚無に戻すものの初期たち』
何を言っている?
勇者の頭は回転して意味を咀嚼しようとする。
だが、追いつかない。魔王の言葉は加速する。何かが剥がれ落ちていく。
『大いなる敵が、いずれ復活する。生きるものたちの敵が。魔王の発展系だ』
よくある出鱈目話かと思った。
そうであれと思った。
『
魔王はジッと、目の前を見据える。
譫言を言っているようにも思えた。狂人の戯言にも聞こえた。
だが、魔王の瞳だけが凪いでいた。そこが何よりおかしかった。
『
何なのだ。
何なのだ、この話は。魔王の発展系?
わけがわからない。勇者は頭痛さえ覚える。魔王は止まらない。
『そして、
「……なんと?」
じくじく痛む頭を抑えながら、痛みで涙目になりながらルークは聞き返す。魔王はゆっくりと唾を飲み込み、言葉を検めるように慎重に、口を開いた。
『すべての魔なるものの頂点と位置付けられるもの。
──魔神。それが奴の呼び名である』
『あの少年の神は探している。守る術を。魔神が目覚めた時に対抗する手段を。あらゆる善悪を超えて、次元の守護の為に。まぁ……それでも、あの少年は来るべき時に備えて動くものたちの中で、いちばん手段を選ばない手合いだがな』
長々と語った。本当に凄まじい情報量だった。
頭がクラクラする。
世界の命運も、行く末だとか、そういう話だ。
なぜこの男は自分に話した? 分からない。ルークは頭が痛んだ。
一拍を置いて、静かな時間が流れた。そして魔王はゆっくりと言った。
『あとは──聞きたいことはあるか? 何でも。個人的なことでも、いくらでも、何でも答えよう。我輩のできる範囲ならば』
何でも答えるぞ、と魔王は言った。
何を聞くべきか、とルークは思った。目の奥が痛い。
この空間のせいなのか、思考がばらけそうになる。
何を聞く? 聞くのか? そもそも、目の前のこの男はルークの不倶戴天の敵だ。なぜ普通に話している?
頭骨の中が痛い。ガンガンとする。
当たり前に話していたことにおかしくなる。
この男は人類を多く殺め、生活を壊し、進んできた。砂漠で、仲良くなれた人を奪った。ルークに約束をくれた人を巻き込んだ。そしてルークの身近な人までも奪った。悲劇を作り続けて来た。
そうだ。
そうだ。何を言ってもいいのならば。
いま、言葉を交わせるのならば。
糾弾すべきだ!
ルークの頭の中で、自分の中の欠片が叫んだ。
だが言葉は出てこない。
許されざることをした奴だ。
罵れ、口汚なく、今までの怒りをぶつけろ!
頭の中で、ひどく冷酷な自分が叫んでいた。
相手をなるべく傷つけるような鋭利な言葉と表情で、切り裂いてしまえ、と。
そう、思った。
「……何かって……なにかって……」
でも、そうはならなかった。
ルークの中の大部分を占める感情は、結局、煮えたぎる怒りよりも、ずっとずっと悲しみの方が大きかったからだ。
湧き上がるような赫怒の衝動はなく、失ったものを考えるたびに川の底のような冷たい水の感覚だけがあった。
『何でもいい。本当に、何でも』
魔王は静かに言う。その、しおらしいような態度が、懺悔をするように思えて頭が熱くなる。
うるさい、黙れと思う。
今さらそんな、善人面をしないでくれ! ルークは思う。
『言葉にしてみろ。それが大事だ』
だって、この魔王は、ルークが見て来た数々のあの砂漠での悲劇を引き起こして来た存在なのだから。
だけど、その、相手をなじる酷い言葉は出てこなかった。喉からつっかえたように止まってしまった。
代わりに溢れて来たのは、居なくなってしまった人の記憶だった。
初めて会った、あの島の天幕の中。
カッコいいと思った横顔。
病体の魔王を倒した時の、最後に見せた満足な笑い顔。
カフチェク共和国を離れた時の、船から降りる時の晴れやかに寂しさを混ぜ込んだ顔。こちらを揶揄う楽しそうな目尻。
救護院で的確に指示を出し、治療をする姿。
蒼燕帝国を物珍しげに見渡す彼女の顔。春の庭で一緒に座った椅子。茶に眉を寄せた顔。珍しい食べ物をよく買って食べていた頼りになるひと。
旅の経験が浅いルーク達を、よく宿を見つけたり、情報を集めたり、手助けしてくれた頼りになる背中。
初めてルークの産まれた大陸に降り立つ、あの穏やかな遠くを見る目。
ダイアー魔術学院の医務室で陽だまりの机で書類を書く真剣な顔。
自分でもおかしいと思う。
「……ぅ、……ぐ……ぅ」
『貴様……』
でも、魔王を前に、勇者は涙が止まらなかった。
この話が、砂漠での旅が終わると分かって、彼女と別れると分かって、次々と寄せてはかえす記憶たち。何気ない一瞬。
「なに……も、……なにも、……ぃう、ことは、……ない……」
必死に嗚咽を止めようとしたが、後から後から押し寄せてくる。
勇者は自分の身体のままならなさに腹立たしくなる。手のひらを強く握る。
そして、横に座っていた魔王は少し驚くような声を漏らした後、静かに、勇者の上をなぞるような言葉をこぼした。
『貴様、向いていないな、本当に。驚くほどに。殺し合いに向いていない』
黙れ、うるさい。
そんな言葉は、ひくつく喉のせいで言葉にならなかった。
記憶が駆け巡る。ルークの脳内を鮮やかな色合いがフラッシュバックする。
魔王は嗜めるような、慰めるような声色で続ける。
『なのに、どこでそんな殺しの技術を学んでしまったんだ貴様は。どうして、こんな場所まで来てしまったんだ』
結局。
全てを終わらせて、魔王をその手で討った勇者は“殺してやりたい”、よりも、ただただ、悲しかった。
静かな時間が流れる。
水のせせらぎが響いている。
『……我輩の』
きし、と椅子が軋む音がして、魔王が天を仰ぎながらぽつりと呟いた。
『我輩の力は正確には“やり直し”。“未来を選択する”力である。セーブした場所を起点として、あらゆる可能性を観て、一つを現実のものと出来る』
それは、独り言のように。
ルークには相手が何を考えているのか、分からなかった。魔王は続ける。
『元々未来視は、人間であった頃から持っていた。そして、見た。我輩の国が、人類側が、どう足掻いても勝てない未来を』
だから、国民を救う為に魔の側に与した。
勝てる側に乗り換えた。
それが魔王の語る、ひどく簡素な来歴だった。
『だが、まぁ、結局は──何もうまくはいかなかったなぁ』
木枯らしに飛ぶ葉っぱみたいな言葉だった。乾いて、寒くて、人生が凝縮されたような時間のこもった言葉だった。
『間違いは、降り積もる。正解を選んだつもりでも、大不正解のこともある。だから、まぁ。うまくはいかんなぁ』
ルークは俯いて顔を上げられない。
魔王は喋り続ける。視界がぼやけてくる。思考がバラバラになっていく。目覚めの感覚。肌が曖昧になって、消えていく。
「あなたの、生き方は……まちがいだ……」
やっと絞り出した言葉は、捉え方によっては相手を傷つけるものだ。だけどルークは否定しなければならなかった。あんなに部下に想われておいて、あんなに過去の都市を大事にしておいて。なぜ、こんな風になってしまったのだ、と。
『そうだな。間違いだった。あるものを尊べず、足りないと喚きながら、不足だ、と自分を抓りながらやってきた。多くを傷つけてきた』
だけど、と魔王は穏やかに言う。
ルークの思考は白く染まっていく。
『我が旅路が。間違いが。苦悩が。痛みが、いつか珠になって、傷ついた貝の真珠がごとく、誰かの耳元を飾ることを願う。贖罪は出来ない。我輩は汚れた存在だ。だから、願うだけだよ』
森が光に包まれていく。
魔王の存在が希薄になっていく。
『さらば。勇者。我輩を討滅せし者。まだまだ続く貴様の旅路に祝福あれ』
腹に響く声を聞きながら、ルークは目を閉じた。最後に、声だけが、遠くにいくルークの意識に呼びかけた。
『時間だ。決して、我輩のようにはなるな。同じ道には来るな。こちらには、何もなかった。貴様は──』
そう言って。
最後に魔王は忘れたように、あぁ、と付け足して。
さっき言ったように。正史では失われなかった命は──まぁ、取り戻せる。
だから。
『貴様は、ゆけ。仲間と共に。終わりまで。旅の終わりまで。そしてこれが──神より貴様に近き魔王からの、最後の餞別である』
こうして、勇者の意識は微睡に消えていった。
目覚めだ。
◆
『おきた?』
聞き覚えのある声に、ううん、と返しながら青年は起き上がる。
頭が重たい。カランコエの声が思考をさらって、クリアにしていく。
しゃらんと音がして、少し髪の伸びた少女がぺたぺたとルークの額や頬を触っていく。冷たい。
目を開けた先には翠の天井があった。あと、魔女の白髪が。空は覆われているが不思議と閉塞感は無かった。
「なまえは?」
「……ルーク」
「すきなものは?」
「えっ、と……」
「だいじょうぶそうね」
なんとも雑な意識確認である。
彼女の紅い瞳はルークの目を捉えていた。契約の繋がりがある為、別に人の形にならなくてもルークの状態は確認できるはずだが、この時勇者はそこまで頭は回っていなかった。
周囲を見渡す。
どうやら、大通りの外れの、無人の家の壁にもたれるように座っていたようで、人混みが見えた。人間、小人、獣人族。色んな種族が当たり前のように歩いている。
ルークのいる所は少し脇に逸れた所で、静かだった。通りまで数メートルある所、後ろには階段があって、下には蔦や木々でいっぱいの、小さな無人の公園があった。
ルークは目を閉じる。睫毛を何度も涼しい風が撫でていた。
「帰って、きたのか」
「そうみたいね」
遠くをちいさな龍が旋回しているさまが見えた。
きっと、偵察をしてくれているのだろう。
「そっか……」
行く時も唐突だが、帰る時もいきなりだ。
大きな、神の物語に巻き込まれた一幕。凄まじいものだった。
まるで全て夢みたいで、ちゃり、と耳につけた翠の飾りが揺れて、現実だと分かる。
「そっ、かぁ……」
身体はひどく疲れていた。
全て水を含んだ土のように重たく、微睡むような疲れ。
街は前に見た時と同じように、不思議と太陽の明かりは全ては遮られず、木漏れ日のようにあたりに降り注いでいた。木の下にある国土は、涼しい風が吹いて気持ちがいい。風に乗って緑の匂いがする。
この旅で何を得たのかと問われれば。
ざわめきが聞こえる。
道ゆく人たちが、買い物の話、魔物の話、くだらない世間話をしている。
何を得たのかと聞かれれば。
きっと、目の前にあるこの街の当たり前の景色だ。
当たり前に、誰かの悩みがあって、当たり前にだれかが笑っている。日々の生活をしている。
空は、葉っぱが光を透過しているのか、キラキラと光って、まるで壮大な緑色のステンドグラスのようだった。
ルークは両膝の間に顔を埋めた。
街の喧騒は、どこか心地よかった。身体は、疲れていた。
◆
窓の外から日差しが、石造りの狭い室内を照らしている。
「…………」
焦茶色の髪を三つ編みにした少女は机の本を、無言でぺらりと捲る。
後ろには立てかけられた箒。雑巾は床でとっくに乾いていた。
日光に照らされた埃がキラキラと舞う少し本だらけの書斎の、真ん中に机で掃除途中に見つけた本を読んでいた。
それはとある砂漠地方の歴史書。
古ぼけた硬い表紙に、掠れた文字がある。
なんとなくでパラパラめくりはじめた本を、彼女はいつしか時間を忘れて読み耽っていた。本は終盤。色んな犠牲を出しながら魔王を討伐した所。
「…………」
彼女にとっては遠い時代の、遠い国の出来事。
なんだか知らない人たちが、知らない理由のために戦って、命を散らしていった。そんな戦場が、淡々と、しかし匂いすら感じるほど詳細に描かれている。
そして戦いは終わる。
短くも濃密な話の最後は、筆者、この本を書いた者のあとがきで絞められていた。
──冒険は、いつも唐突に。
赤い砂に攫われる、記憶のように。
砂漠の夜はいつまでも、星がきらきらと、輝いている。
たとえ歴史に名が残らなくても。
語られない、雑多な神官のひとりでも。
熱砂の記憶。
わたしの記憶。
あの冒険の日々は。
眠りの床で見る、微睡のように。
いつまでも、ひかってる。
この街を救った、紛れもない勇敢な者たち、そして、勇気とはなんたるかをその身で示した異邦人たち。
代表して、ルークさん。あなたに限りない感謝を。
別れの言葉は言えなかったけれど、八百年前から、八百年先のあなたに、惜しみのない感謝を。
約束、守りましたよ。どうだ!
著者──アル・スゥ・タ
「……ふぅーん」
少女はパタンと本を閉じて、感慨深げに息を吐いた。
なんだか長い夢を見ていたようだった。見知らぬ人たち。もう、名前も残っていない人たち。でも、確かにいたひとたち。
たとえ、時間が全てを削っていっても。
大事だと信じたものが消えていっても。
窓の外を見る。
空には鳥が、気持ちよさそうに飛んでいた。
今日も天気は、晴れていた。
……………………………………
………………
…………
……
しばらく、ルークはそうして座っていた。
そして、胸元に何か入っていることに気がついた。
「これは……」
取り出してみると、少し折れ曲がった親書で、ルークはこの度の目的を思い出す。この国に、親書を届けること。それが、ずいぶんなものなった。
「あぁ……」
手を握る。紙がすこしくしゃっと音を立てる。
勇者は座ったまま、また、顔を伏せた。
風が吹く。翠の香りがする。木々が囁く音がする。
雑踏から離れた場所は静かで、ゆっくりで。
「で、それは届けないのか?」
「いや、届けます。届けますけど……」
届けるが、流石に、疲れた。
だから少し休んでから行く。急かさないで、と。
様々な想いが去来する中で、なんとか答えた。
「そうか」
返された声に勇者はバッと顔を上げる。
そこには、翠の光をぎゃっこうに、一人の女性が立っていた。
すらりと長く、しなやかで、品があって、自信のある立ち方。
「なんだ、そんな顔をして。お化けにでも会ったか? あぁ、冗談だよ。分かってる。だから、ほら。泣かないでくれ。男の子だろう」
その、髪は背後の翠とよく似合う。
彼女はルークが言葉を失っていることに気がつくと、何かを言いかけ、やめて、言葉を探して、やがて頬をかきながら、すこし照れくさそうに言った。
「まぁ、あれだ。──ただいま、ルーク」
魔王の力は、過去のやり直し。
起きた選択肢を捻じ曲げて、未来を選ぶ力。
クリアしたなら、報酬がなくては、な。
誰かが笑った。
座った姿勢から、勇者は迷わず飛び出した。
【討伐完了】
逆行の魔王 パンデモニウム
ランク【EX】(規模によりB〜Sまで変動)
物語は続く。
とある勇者の活躍で、葬り去られた歴史の一部が変わった。
大きな川の、ほんの少しの漣。
だが、これで。
僅かに行動を起こした者達も、いたのだった。
そうして。勇者は、また。次の冒険へ。
これにて第六章の結びとなります。
ここまで読んでくださった方、感想をくださった方、お気に入り、評価をしてくださった方々。ありがとうございました。
たいへん励みになりました。そして、このお話を読んでいる時間が、すこしでもあなたの楽しみになれたのならば、本当に幸いです。
最後に一つ言っておくと、作中で言及された“視るもの”に関して、正体は読者です、ということはありませんので。それだけは、どうか。
では、またお会いしましょう。
ありがとうございました。
──調味のみりん