今回からいつくか閑話を挟んで、次の章です。
読み飛ばしてしまっても本編に差し支えはありません。よろしくお願いします。
閑話 魔女の休日 少年時代
カランコエは基本的に勇者ルークと行動を共にしているが、ときどき別行動もする。
二人は契約者同士ではあるが、別に縛られている訳ではないのだ。片方が死ねば、もう片方も死ぬが、少なくとも当人たちはそう思っている。
時々、勇者といつもいる白髪の少女が1人で歩いている所を見た兵士なんかはよくギョッとしているが、本人たちは気にしていない。夜になれば帰るし、大体の居場所は分かるのでルークも特に咎めないのだった。
頻度といえば、犬の散歩よりも随分間隔が広く、2日に一回だったり、一月に一回だったり。法則性はない。特段深い理由が無いため、気まぐれに行われるためだ。
そんなカランコエは今日も朝方から、ソラナム王国の城下町をぷらぷらと歩いていた。
勇者ルークがソラナム城へ、チャマ・ワイラへの親書を届ける任務の報告に行くので、別行動を選んだのだ。城で長々とお偉いさんの話を聞くのは好きではなかった。勇者は寂しそうな顔をしていたが。
「おや、嬢ちゃんひさしぶり」
「ええ、ひさしぶり」
そんな風に考えながら通りを歩いていると、髭を蓄えたふくよかな中年の男に声をかけられた。彼はここで庶民向けの食堂をやっている店主で、たまに見かけるカランコエを気にかけていた。ソラナム王国は小さな国だ。当然、顔見知り同士も多い。
店の入り口の前で、彼は酒の入った樽を運んでいた最中のようで、額には汗が浮かんでいた。季節はまだまだ夏の盛りで、もう午前中なのにずいぶん日差しが強くなってきている。
「まだ開店には早いが、何か食べてくかい? うちの娘もそろそろ起きて来るよ」
果実水くらいならすぐ出せるぞ、と店主は店の奥を指差す。カランコエは首を振って道の先を指差した。
「きょうは、いいわ」
「そうか……君が来てたって事知ったら、娘が“なんで知らせてくれなかったの!”って怒られるんだが」
はははと店主は笑いながら作業に戻る。ほんの冗談なのだろう。カランコエも気にせず石畳を歩き出す。
「またね」
「ああ、また」
カツカツと、魔女のブーツが音を立てる。時々日陰になりながら、道は続く。
カランコエは時々、子供に絡まれる。
オモチャにされる。
魂の禁忌を犯した魔女は子供のような身長に、クチナシの花みたいに白い髪。甘い香り。
いつも眠たげな目は深い紅で、深く切った傷跡のような血の色をしている。
そんな特異な容姿に、子供たちは当然興味を惹かれる。珍しいから。しかし見知らぬ少女に警戒して、たいていは遠巻きにひそひそ話をするだけだ。
彼女の纏う独特の雰囲気は、魔力を細かく感じられない一般的な人の場合、まるで一面の草花がある中で、風が吹いても決して揺れない一輪の花のように映る。人ではある。あるが、違和感があるのだ。
そんな彼女だが、王国の住民はたいてい、あの勇者と一緒にいるのだから大丈夫なのだろうと判断している。
しかし、時々好奇心と勇気が人一倍強い子供はカランコエに声をかける。
声を掛けたものが女子であれば、目立つ顔立ちのカランコエをお人形のように扱い、花を髪につけたり、それこそ髪型をいじって宿屋さんごっこや、家族ごっこ。酒場の看板娘ごっこに興じている。彼女らをよく可愛がってくれる歳上のお姉さんは酒場などで働いており、少女たちにとってはそのお姉さんこそが大人の象徴であり、綺麗さの象徴でもあったからだ。
意外なことに、カランコエは髪をどれだけいじられても、多少引っ張られて、子供ならではの少々雑が入る結い方でも大人しくしている。そして夕暮れ過ぎに子供たちを見送り、自身もルークのいる所に帰るのだ。遊ぶのは大抵。5歳から6歳のころの子供たち。家の中に居なければならないほど幼くもなく、見習いをやるにも若すぎる、街でよく遊んでいる年齢だ。
「おい、しらがアタマ!」
この日も三人組の男の子が道の先からカランコエに声を掛けた。先頭に立つ、擦り傷だらけの自信に満ちた表情のリーダー。傍には同じようにヤンチャ盛りの子供が2人いた。
「おい、おいって! ムシすんな!」
たいていの男の子はどぎまぎする心臓を抑えながら、白くて、見慣れなくて、なんだかミステリアスな少女にいい所を見せようと無茶な遊びをする。
橋の上から川に飛び込んだり、木の枝で作った釣竿で釣りをしたり、蛙を捕まえてバッと目の前に差し出して見せたり。
だが、悲しいかな。
彼らの前にいるのは魔女であり、勇者ルークとそれなりにいろんな場面と凄絶な戦闘を何度もしている少女であった。
「……なに?」
「あ、いや、べつに……」
ジロリと紅い目を向けられたリーダーはたじろぐ。手に持った、いい感じの枝が揺れた。別にカランコエは怒っておらず、ただ尋ねただけなのだが無表情は相手の受け取り方によってはかなりの威圧になる。
突然相手の視界に囚われたことにのけぞったリーダーは、それでも子供ならではの負けん気を発揮して大声を張り上げた。
「川まで、ヌシを獲りにいくぞ!」
「そう」
「えっ、いくのか?」
「いくけど」
この日、食堂の準備をしていた男は、遠くに見えた光景に何度も目を擦った。近所の悪ガキ三人組がいた。それはいい。別に処罰されるくらいの悪いことはしない範囲の奴らだから。だが、その後ろをてくてくと着いていく姿。真っ白な髪に、ブーツ。質素な麻のスカートの服の上に、前で留める袖付きローブを羽織った格好。
夏の道に見える陽炎かと思った。違った。
「大丈夫かぁ……?」
あの少女は髪も肌も白い。
それはつまりあまり外に出ないということ。外に出ないということは、何かしらの持病や身体が悪いのかもしれない。それを、あのガキ共の遊びに付き合ってしまったら、倒れてしまうかもしれない。
ちなみに肌が白いのは、面倒くさがってルークに剣の状態で運ばせているからだし、身体はそれなりに貧弱ではあった。
「一応、知らせとくか」
店主は暫く様子を見て、すぐに店の中に戻った。
◆
ソラナム王国は、城壁こそあるが、農業の盛んな国であるため壁の外に大きな農地を持つ。
三人の悪ガキ共とカランコエは、子供しか知らない壁の抜け道を通って街の外に出た。
「いつものとこでいいか?」
「いいんじゃない? あっ、仕掛けたワナどうなってるかな」
「ヌシいるかも」
「そんなワケないだろ」
キャッキャッと子供たちは駆けていく。壁の外。壁で日陰になっている所を抜けると、目が眩みそうになるほどの眩しい光が照らした。両側には広い農地。青々とした麦が風に揺れている。子供の身長では大きく見える作物たちが波のような音を奏でていた。
三人と一人はその真ん中にある作道を歩いていく。
「なー、しらが、オマエどっから来たんだよ」
「みんなおまえみたいな髪のやつみたことないってよー」
時々彼らは振り返っては、微妙な距離感を保ちながらカランコエに尋ねてくる。日差しが眩しい。彼女は目を細めた。
「しろいところよ」
「はぁ? なんだそりゃ」
「どこ? テーコク? それとも大陸の向こうにあるっていう、妖精のクニ?」
「さぁ。ようせい、かもね。──あなたたちをたべる、妖精」
いつの間にか足を止めていた三人をカランコエは無感情な瞳でジッと見つめる。突然、異様な雰囲気になって、リーダーを含めた三人はたじろぐ。
「……は、は! ばっかじゃねーの! 妖精なんか、いるわけねぇよ! 竜とか巨人とか、魔女とかとおんなじヨタ話だってのに!」
しかし、リーダーの少年は気丈に笑い、自身の怯えを吹き飛ばすように地面に落ちてる石を蹴りながら走り出す。あとの2人も釣られて走り出し、カランコエはてくてくと、両側を麦で囲まれた道を歩いていった。
静かな風が吹く。夏の日差しが全てを鮮やかにくっきりと照らしている。
周囲に人の気配はない。
空がどこまでも高く、青く、不安になるほど雄大にすべてを覆って広がっていた。
「おぉい! なにしてんだよ! はやくこいって!」
遠くで少年が手を振っている。
遅れているカランコエにちょっと苛立った様子だ。
カランコエは歩きながら、顎を伝ううざったい汗を感じながら、考えた。
ゆるやかな時間。
不思議な、どこに行き着くかわからない時間。
きっと、今日がそれまでの旅にあったような、明確な目的が無いからだろう。
この道がどこに行くのか分からない。どう行きたいかも明確ではない。
ただ、彼らは道の先へ走っていった。
空の上には白い雲が大きく、海をゆく船のように浮かんでいた。
子供達の声が響く。カランコエが体験し得なかった、幼少期。目の前で枝を振り回して、見慣れぬ少女に良いところを見せようとする少年たちの、幼少期。少年時代。
「…………あつい」
この光景に、カランコエに優しくしてくれた姉たちはいない。
綺麗な景色と一緒に、白い床にぶちまけられた一番上の姉の身体を覚えている。
みんなが泣いていた。
夏の空が見ている。
カランコエは、二番目の姉がすべてを吐き出しながら、嗚咽をしながら、びちゃびちゃと床を汚しながら冷たくなったことを覚えている。
風がぬるく、頬を撫でる。
気の強かった三番目の姉が、風邪を拗らせて、弱っていく姿を覚えている。もう、泣けるのはカランコエと四番目の姉しかいなくて、ひどく部屋が広かった。
四番目の姉が、瓦礫に押しつぶされるのを覚えている。
世界への怒りを忘れたことはない。
すべてをめちゃくちゃにしたのだから、すべてをめちゃくちゃにしてやると。思った火は消えない。カランコエはその怒りで己が魂を鍛え、叩き、鍛造したのだから。
姉たち。
カランコエの四人の姉たち。
無惨に、無意味と断じられるほどの内輪に閉じた出来事を以って死んでいった。末の妹だったカランコエは外の世界に飛び出し、いまこうして夏空の下にいる。外の熱気に汗を流し、涼しいところに早く帰りたいと思っている。服がベタつくのが嫌だと感じている。
そういう感覚を抱くたびに、彼女は周りに誰もいないような感覚に陥る。
空が青い。
この、夏の日はどこに続くのだろう。
カランコエは考えた。地面からは、むわりとした熱気が魔女を焼いて、彼女は鬱陶しげに眉を寄せた。
もはやカランコエしか覚えていない、優しかった姉たちの魂はどこに行く。
彼らの少年時代よ、どこへ行く。
魔女は夏の空に、ずいぶん眉を寄せて、睨みを効かせていた。
◆
「はぁ!? じゃあかえれかえれ!」
そんな声が響いたのは、昼下がり、午後も慣れてきたというあたり。
作道は途切れ、川のそばで少年たちが遊んでいた時のことだ。
「だから、ごめんっていってるじゃん」
「なら、かえれってこっちも言ってんだよ」
口論の原因は、リーダー格の少年以外の二人が家の手伝いで呼ばれていた事を思い出し、帰らなければならないという事だった。リーダーの少年はツンツンの頭を振って、二人に対する不満を隠さず、結局追い払ってしまう。
「マルクも、暗くなんないうちにかえんなね」
「…………」
二人のうち一人が振り返って手を振る。リーダーの少年は川べりに生えていた木の枝に座り、そっぽを向いてしまっていた。年相応、といえばそれまで。カランコエは木の下の草地に座り、川を眺めていた。幅は大人三人が横倒しになったくらい。近所の川だ。
「おい」
枝の上から声が響く。
「オマエは帰んないのかよ」
カランコエは首を片っぽ少し動かし、枝の上を視界の端に捉えた。
「まだ、ね。あなたは?」
と、聞くと少年は、表情に嘲りだとか、自嘲だとか、怒りだとか、色んな表情を混ぜた顔になって、誰かに表明するように荒々しく息を吐き出した。
「はっ、しばらくだれもいねーから帰るイミなんてねーんだよ!」
へぇ、と魔女は相槌を返す。
そして続けるように「親は、しんだの?」と聞く。少年はギョッとしたように肩を揺らし、枝が揺れた。葉っぱの擦れ合うざわざわとした音が川の音と混じって聞こえた。
「……生きてるよ。でも、ボーケンシャだからしばらく帰って来ねえ」
ふうん、とカランコエ。生きてるんだ、と小声で呟いた声は聞こえなかったようだ。
しばらく静寂が流れる。
もう少ししたら日暮れだ。魔女は午後の風に目を閉じる。
「──よし!」
そして思い立ったような少年の声が響いた。
「丘の上の、“こわれやしき” に行くぞ!」
魔女は嫌そうな顔をした。
◆
基本的に建物といえば城壁の内側に建っているのが基本だ。魔物がいるし、盗賊も出る。
だが、ソラナム王国の場合は軍が定期的に魔物の排除をしているので、城壁の周辺ならば危険度はそこまで高くは無い。だから畑の管理や風車の管理のために城壁の外に家がある場合も珍しくは無い。
街から歩いて一時間ほどの丘の上にある、古びた3階建ての白い塗料で塗られた家もまた、その一つだった。
「探検、だぞ。いいか?」
二十分ほどかけて移動した少年は、家を見上げて腕を振り上げる。木造の建物はあちこちが劣化して崩れている。周囲に物はない。入り口は木の板で塞がれている為、彼らは窓から室内に入った。
「よっ、と」
一階の廊下。光が壁に開いたあちこちの穴から差し込んできて、点々と雨風が吹き込んで汚れた壁を照らしていた。カビっぽい匂いがあたりに充満している。
「奥のへやに、魔法の鞄があるってハナシだから、取ってきてあいつらにみせてやろう」
少年はずんずんと奥へ進む。カランコエはふぅ、と息を一つ吐きながら、なんでこんなことになったと思いながら後に続いた。
「この部屋か?」
ギイィ、と壊れたドアが人の唸り声みたいな声を上げながらぎこちなく内側に開く。時間が止まったような室内には、脚が折れたベッドと、中身が引き出されて空っぽになったキャビネットが打ち捨てられていた。
「ちがうか、べつ、いこーぜ」
「はぁ」
ずんずんと少年は進む。この建物は子供達の間では有名な肝試し、度胸試しの建物で、大人たちは近づかないように厳命していた。外からの流れものが中に住み着いているかもしれない、犯罪の現場になるかもしれない、隠れていた魔物がいるかもしれない。もちろんある程度の治安はソラナム王国の軍や衛兵がいるとはいえ、念のためだ。
「ここもねーな」
少年は進む。
「2階か?」
ギシギシと揺れる階段を上がり、2階へ。同じような構造で何もなく、成果もない。中身は大抵持ち去られている。
「こわいか? オレはぜーんぜん」
途中で得意げに少年が言うが、カランコエはゆるゆると首を振った。
「手でもつないでやろうか?」
「つなぎたいなら、どうぞ」
疲れたように魔女は言って、手を差し出す。少年はまさかそんな風に言われるとは思っておらず、びっくりしたように言葉を無くしたあと、白く、細い彼女の手を見て、何か早口で捲し立てたあとに背を向けてずんずんと進んで行ってしまった。
◆
「やっぱさ、なんもないよな」
30分くらい二階を見て回っただろうか。
少年が言う。
「べつに、さ。オレもほんとにあると思っちゃいないよ」
疲れてきたのだろうか。
冷静さが戻ってきたのだろうか。少年はぽつぽつ、と歩きながら言葉を続けた。
「でもさ、なんかなー」
魔法の鞄とは、中身にどんなものを入れても重たくならず、見た目よりも遥かに多くを入れられるものだという。
子供からしたら、伝説の剣や魔法の杖よりも地味であまり盛り上がらないようなものであるが、活用方法は多岐にわたるだろう。
商人が持てば、あらゆる輸送コストとリスクが低減される。冒険者が持てば身軽に動け、それは生存率に直結する。
カランコエの視界には少年の、栗色のつむじが映っていた。彼は頭の後ろで両手を組みながら気もそぞろにあちこちを見ながら言う。
「もし、鞄見つけて、家においといたら、びっくりする、よな」
な、と彼は言う。カランコエは返事をしなかった。彼の親がどんな人間で、どんな趣味嗜好で、どんな声なのかも知らないから。答えようがなかった。だが、彼はそれでもいいらしかった。誰かに聞いてもらえれば。
「三階かー」
と階段を見つけ、彼は言う。
そしてもう、背後にいる少女の確認も取らず一歩踏み出した。ぎし、と音が鳴る。
カランコエは眠たげな目をぱっと大きくする。
「あ」
「え?」
聞いたこともなかった彼女の声に少年が上半身だけで振り返る。少女は手を伸ばしていた。次の瞬間、ばきん、という音と共に浮遊感が襲っていた。
「あっ──」
階段の木が腐食して崩れた。
地面ごと踏み抜いて、落ちる。視界が下を向く。運の悪い事に、落ちる先の床は崩れていて、一階までまっさかさまのコースだった。
死んじゃうかも。
それが少年の頭によぎった思考だった。
体が重力というどうしようもないものに引かれて落ちていく。主観で見た3階はとても高くて、もしかしたら地面にある尖った木に刺さってしまうかもしれない。お腹を貫かれちゃうかもしれない、なんでこんなこと──
後悔。
目の前が引き伸ばされる。数瞬の後に訪れる激痛まで、ただ待つ時間が延びる。
そう思った時。
──鍛造。
声が聞こえた。そして背中に衝撃。ぐえ、と声が漏れた。
何が起きたのかと見れば、木目調の剣が壁に突き刺さり、服ごと少年を縫い留めていた。
何が起きた? わからない。
剣に服を固定されて、ぶらんと揺れている。
3階の階段では、白い少女が手を差し出していた。マルクは手を掴む。冷たかった。そしてぐいっと引き上げられて階段に手が掛る。彼は身体をずりずりと伸ばしてなんとか這い上がった。下を覗き込むと、もう剣は跡形もなかった。
「はぁ……はぁ……」
少女は荒い息をしている。おでこに細い髪の毛が少し張り付いていた。彼女は呆然としているマルクの首筋に手を当てると、よし、とたげ呟いて背を向けた。
「もう、かえろ」
地面に座り込んだままのマルクは慌てて立ち上がる。今になって心臓がバクバクとしていた。まるで胸全体が揺れているようにうるさかった。
「なぁ、いまの」
「うるさい」
「いまのって──」
「うるさい!」
聞いたこともなかった大きな声に少年は驚く。少女は怒ったようにズンズンと進んでいってしまった。何が彼女を怒らせたのかは分からない。
ただ、後になって、思う。
あのとき、別に彼女の不思議な力を追求したかった訳じゃない。
なにか、ほじくり返したいわけでもない。
ただ、お礼を言いたかったのだ。
難しい高説があったわけでも、励ましの言葉があったわけでもない。
ただ、脈を測られて、よし、といわれた。
それだけでなぜか、世界に承認されたような気がした。深く息を吸えるようになった。肩が落ちた。
当時はそんな風に言語化出来た訳ではないけれど。
でも、ありがとうと言いたかったのだ。
◆
階段から落ちたその日の日暮れ。
いつの間にか少女はいなくなっていた。少年が疲れた足取りで街に帰ると、見慣れた顔がきょろきょろと辺りを見回していた。彼はびっくりして素っ頓狂な声を出す。
「──とうさん!?」
思わず走り出し、抱きつく。
久々の父親はがっしりとしていて、旅の匂いがして、暖かかった。
「きょうさ、あの、さ!」
話したいことが次から次へとやってくる。口が足りない。もどかしい。父親は笑って、大きな手で乱暴に少年の頭を撫でた。
「家に帰ろう。今日は馳走だ」
やったあ! と叫んで横に並ぶ。家に帰る道だ。
そのとき、街の門の所に彼女が見えた。
外と中の境界のような場所に立って、一人で少年を見ている。
なんだかそれがすごく彼にとっては気恥ずかしくなって、父親と離れた。つれないような、冷静な態度に見えるよう歩いた。
「どうした?」
「べつに」
父親は不思議そうにする。
少年がもう一度門のところを見ると、もうそこには誰も居なかった。
少年は、いつでもこの日のことを思い出す。
彼女の顔を。表情を。口許はすこし笑っていて、でも、それ以上に消えてしまいそうなほどに曖昧な空気を纏っていて。
彼女の隣には、誰も居なかったな、と。
少年はいつでもこの日のことを思い出す。
そして、声を掛ければよかったな、と思うのだ。
よければ、ウチに寄ってくか? なんて。
今となっては泡沫の夢である。
◆
夕暮れ時。
街の門で、少年を見送ったあと、カランコエは黙って街ゆく人を見ていた。
誰も彼もが目的を持って歩いている。いっぱいになった買い物籠を持って家に急ぐ母親。酒場に繰り出す二人組。肩車をされてはしゃぐ子供。
カランコエはふと、世界を滅ぼしてしまうことを考えた。
でも、幸せそうな人の顔がよぎる。妬ましい? ねたましい。
羨ましい? そうだ。羨ましい。すこしだけ。
だけど、どうだろう。
ぜんぶをいっぺんに壊すには、時間がかかるかもしれない。
叩いて、伸ばして、鍛えて。
一振りの剣にするには。
そこで、彼女の上に影がさした。
「こんなとこに居たの?」
声はちょっと呆れたような色を含んでいて、彼女の身長よりずいぶん高いところから降ってくる。
「もう暗くなるし、帰るよカランコエ」
夕陽の色に照らされた、淡い麦の色。
この国の、ずいぶん目立たない勇者。彼は道を歩き出して、後ろから少女が付いてこない事に気がつくと脚を止めて振り返る。
「行くよー、ほら」
早く、と彼は急かす。
魔女は一歩、踏み出した。すると、膜を潜ったように街の喧騒があたりを包んだ。
「夜なに食べたい?」
勇者は街の景色に馴染みながら、歩いていた。髪の色も、身長も、この国ではありきたりなものだ。そのぶん、隣を歩くカランコエはさぞ異質に映るだろう。異物のようだろう。草原の中で、揺れない一輪の花は。
「聞いてる? カランコエ。無視しないでよ……」
カランコエはさっきまでの思考を打ち消した。
いまはひとまず、夜ご飯のことを聞かれたのだから、夜ご飯のことを考えなければならないから。
「なに食べる? アスナヴァさんが、今日は外で食べようって言ってたから、通りのお店行く?」
「なんでも、いいわ。べつに」
そう言って、彼女はそっと、なんとなく、本当になんとなく、隣を歩く勇者の手を取った。
彼女自身も気の迷いだと思う。おかしくなっていたと。だけど、何も言わなければそのまま歩こうかとも思った。
「えっ、えっ!!」
だが、当の勇者は驚いたように繋がれた手を見て、慌て、そして嬉しそうに何度も何度も見てくるので、彼女は舌打ちをしながら手を離した。
「あっ、ゴメン、ゴメンカランコエ! ちょ、ちょっと待って、もう一回! もう一回!」
だからモテないんだよ、と魔女は後ろから追いかけてくる勇者に青筋を立てながら、ずんずんと日暮れの街を進む。
藍色に染まりゆく街で、くすくすと、誰かが笑っていた。
何もない一日の終わりに、死者の魂を送る神が、屋根の上で、笑っていた。