ソラナム王国の外れ、城壁の外。丘の上。
午前に降った雨はずいぶん気まぐれで、すこしだけ辺りを濡らして帰っていってしまった。今はもう、迷子になった雲が散り散りに空を漂っているだけだ。
「ふん、ふん……おや?」
花の入った桶を手に持ったルークは、城壁の外の道を歩いていて、足を止めた。あたりに人気はない。カランコエは腰で眠っているのか反応が鈍い。午前中は城で兵士と訓練をして、汗を流して身だしなみを整えた後だ。
彼は目の前に広がる丘を登る前に、遠くから丘の上に先客がいることに気がついたのだ。丘の上にあるのは墓地だけだ。この道もそれだけにしか使われない。
誰だろうか、と目を凝らしてみると、先客は銀灰の髪に、少しだけ淡い青色が混じった色合いをした少女だった。
「あれは……」
見覚えがある。記憶の中にあるような特徴的な色合い。出会うのは、三度目だった気がする。古い楽器が鳴るような、懐かしい不思議な声をしていたことを覚えている。
以前は確か、蒼燕帝国からソラナム王国に帰る途中の村で会っていた。ほんの少しだけだが。
もう少しで墓地に着く。ルークは墓地に向かう足をいま一度止めて考えた。
あの子はカランコエと踊っていた。
それに、ルークはソラナム王国の危機を教えてくれたことを、いまでもありがたいと思っている。
そんな彼女が、一人で墓前に立っているのだ。
「…………」
気づかれないよう、勇者は丘の影にそっと隠れた。墓地までの道はなだらかな登りになっていて、道を登り切るとそれぞれの墓が数百メートルにわたって広がる草地だ。盗賊が盗むようなものもない、何もない場所。
ルークはどこに身を隠せば上から見えないかを熟知していた。
コト、と花の入った桶が揺れる。色とりどりのアイリスが午後の日差しに艶めいて、気ままに咲いていた。
「王国出身の仲間がいたのかな」
ちょっとしゃがみ込みながら青年は呟く。不思議な雰囲気の彼女だが、ソラナム王国に縁があったとは知らなかった。が、そういうこともあるかもしれない。世界にはルークの知らない事が沢山あるのだ。知ってることの方が少ない。腰のカランコエが寝言を言っている。ルークはそっと鞘の上から撫でると、パチンと電撃のような衝撃が走って抗議を受けた。勇者は苦笑いして手を引っ込めた。
「ふぅ」
身じろぎ。体勢を整える。両足の間に桶を置いて、空を見上げた。しばらく待つつもりだ。彼女が去るまで。土の下に眠る、きっと大事な人との貴重な時間を邪魔したくは無かった。
秋の初めの風が、鼻先を撫でていく。草と土の匂いが運ばれてくる。ルークは目を閉じた。曲がりなりにも勇者なので、戦闘技能はそれなりにある。だから、気配を消すことだってある程度は出来る。下手にバレることはない。
目を閉じた瞼の裏で、雨上がりの雲間から差している日差しが揺れていた。
草の揺れる音。足元に感じる、雨露のついた植物の冷たさ。
「……っ……」
そこに混じって、嗚咽混じりの噛み殺したような声。
発生源は一つしかないだろう。
勇者は、ふー、と息を吐いて目を開けた。
もし、ルークの予想が間違っていて。余計なおせっかいで、早とちりで。声をかけない方が良いのかもしれない。自己満足かもしれない。彼女は誰にも見られたくないかもしれない。だとしても、最悪、恨まれたり、恥をかくのは自分だけだ。悪いことを予想して、躊躇って行動を起こさず、見過ごすよりかは何倍もいい。そう言い聞かせて、頭の中で高速で、誰に弁明するのかも分からない文章が組み立てられていく。
だって、墓地で、一人で声を殺して泣いているなんて。それが辛くないはずがないのだ。隣で慰めてくれた人が今や土の下……なんて、ありきたりで酷すぎる話なのだから。
「よいせっ、と」
勘違いだったら、とっとと退散しよう。
最後までつらつらと言い訳のような言葉ばかり浮かびながら、勇者は隠れていた場所から身を翻し、桶を揺らしながら丘の上に歩いて行った。
◆
草が揺れている。
革のブーツの先端が目に入っている。旅の途中でちょっと擦り切れて、傷がついたブーツだ。羽織っている冬には早いコートは、雨上がりで少し暑くても脱ぐ気にはならなかった。自分のために、自分の快適さのために何かする事がひどく億劫だった。
だから、ただ、しゃがんで。自分の身に起きたことが頭に巡っていた。
追憶。それはすこし前の目的地である北方大陸の奥深く。
運命の神に導かれ、大陸を渡った。
どこまでも続く吹雪と寒冷に支配された平原と、そこに生きる遊牧民たちの土地を見た。
目的は、密かに執り行われようとしていた魔神復活の儀式を阻止すること。
初めての雪と氷の土地は大変で、儀式の阻止どころではなかった。はじめは何度も道に迷ったり、霜焼けになったり、寒さに震えたり。挫けそうになった。自分はあまり表情に出ないタチだと思うが、それでも大変だった。
儀式を突き止めてからも、また、大変だった。
出会いがあった。悲しい別れがあった。勇気があった。
紆余曲折のすえ、遊牧民と協力して敵対組織による魔神復活の儀式は無事に未完をもって終了した。
みんなに感謝された。
ありがとうと言われた。流石は救世主たる調律者だと称賛された。
だけど、助けられなかった命もあった。
「オユンおばあちゃん」
ぽつりとこぼせば、言葉は耳に入って、また記憶を揺らした。
つらいとき、誰にもいえないとき。だまって話を聞いてくれて、笑ってくれたおばあちゃん。やさしかった遊牧民のひと。
賢い、長生きをしたひと。魔術が使えない身だけど、暖かくて、おいしいスープを魔法みたいに作れる不思議なひと。
さいごには、つめたい雪の下にいたひと。
「おばあちゃん……」
喉の奥から込み上げてくる声は噛み殺す。
冒険が終わった直後は、相当ひどい顔をしていたのか、仲間には『すこし休もう。疲れたんだ、君は』『頑張りすぎるのも良くない、いまは休め』と言われてしまった。あまり顔には出ないはずなのに。
休め、と言われてやることも思いつくこともない。
ふらふらと、中央大陸に戻ってからは曖昧な記憶と眠気に支配されたような頭で動いていたと思う。
いくら囃し立てられた所で、中身はただの人なのだ。まだ17歳の小娘なのだ、と言いたくても、期待や縋り付く人の顔を見ると自然に口は閉じられた。
『あなたが救いに思えてる調律者は、怒りもするし、小さな事でクヨクヨもするし、誘惑に耐えきれずに新作スイーツに吸い寄せられたりするんですよ。別に普通なんですよ』と言ってしまいたくなった。でも、『調律者さま』と言われ祈られると、そんな聖人君子じゃないのに、騙しているようで申し訳なくなった。
だから中央大陸に戻ってきて、しばらくの自由行動が言い渡されると逃げるように、比較的近いソラナム王国にやって来た。この国を選んだ理由はない。ただ近いし、小さな国なので知り合いもいないだろうと思ったからだ。
「…………」
仲間は別の所で買い出しをしているのだろう。言葉に甘えて、自分一人は人気のない場所を探して、ついには他国の、知らない人たちの墓地に辿り着いてしまった。
墓地は定期的に手入れがされているのか、荒れてはいない。
ただ、それほど立派でもなく、簡素な木の柵があたりにあるだけで、静かだった。だから心の中で謝りながらも勝手に入ってしまった。
追憶おわり。
膝に顔を埋めたまま、風が撫でていく。記憶だけが輝いている。あんまり明るくない気持ちが思考を埋めていく。表情には出ずらいが、キチンと感じるのだ。人並みに、痛みは。あんまり顔に出ないせいで、分かられたことも少ないが。
ただ、今はそんな主張をする気にもなれなかった。ただ、一人になりたかった。
いつまでこうしていられるかな。誰も来ないといいな。
そう、思っていた。
「やあ、お嬢さん」
だから、横合いから、声を掛けられた時はびっくりして、ぴくん、と身体を反応させてしまった。勝手に侵入した事に対して、咎められるのではないか、と顔を上げると、頬を通った風が冷たかった。
「邪魔しちゃったかな?」
そこに立っていたのは、小麦みたいな茶髪に温和な顔つきの青年。どこにでも居そうな雰囲気の人だったが、あっ、と声を出しかけた。だって、見覚えがあったから。
彼は、勇者だ。勇者は女神に与えられる称号で、調律者が人類の主力ならば、彼らは出自や性別、年齢は関係なく、人類の先鋒だ。戦う戦士たちだ。だけど、だからこそ、勇者の称号を持ち続けて居ながら、彼ほど長閑な雰囲気を持っている人は珍しかった。本当に普通なのだ。近所のたまに遊んでくれる優しいお兄さんみたいな雰囲気しかないのだから。
だから覚えている。こんな所で会うとは。
そんな勇者がなんでここに居るの? という所まで考えて、あぁ、そういえば。この国は彼の国だったか、と思い至った。だったら、当然だ。むしろ自分こそが部外者だな、と。彼の疑問に対してフルフルと首を横に振りながら思った。
「静かなところを探して来ただけだから」
べつに貴方が邪魔とかじゃ、と、言いかけて、ここが墓地であると思い出した。
静かな場所を探していたから?
そんな気持ちで故人の眠る墓地に来るなど怒られて当然なくらい無礼な理由なのではないか? と。
だから、次に返ってくる言葉は怒鳴り声とか、滔々と正論で詰められる声を予想した。しかし予想に反して青年は気にした様子はなく、ゆっくり目を細めて頷くだけだった。
彼はこちらかは視線を外すと、目の前の墓標の前にしゃがみ込み、慣れた手つきで桶から花を一輪取り出し、前に供えた。桶の中からぽちゃん、と跳ねる音がした。
「……久しぶり、元気だったか」
小声で、口の中で収めるように。彼は呟く。
だけど耳がいいせいで内容まで聞こえてしまう。ごめん、と思いながら聞こえていないフリをした。
花の香りがする。
うすくて、甘い。
彼は無言で目を閉じて、左手を何かつまむような形にして額に当てている。王国式の祈りだろうか。まじまじと見ていると、教会に飾られている絵画のような厳かさはなくとも、真摯な、生活に根付いた祈りが感じられた。
かなり遅いのだが、ここで彼が墓参りに来たのだと改めて気がついた。別に侵入者を咎めるためにわざわざきている訳ではないのだ。墓地に来ているのだから、お墓参りに来ていたのだ。当然の話だ。むしろ人気がないからと言って勝手に入って、故人の事など知らず、休んでいた自分の方がおかしいのだ。
祈りが終わったのか彼は顔を上げる。あんまり見つめていたものだから、当然の帰結として目が合ってしまう。夕焼けのようなグラテーションの瞳がこちらを向いた。目の色はあんなだったっけ。疑問に思いながらも、ぺこ、と頭を下げた。言っておかなくてはならないことを思い出した。
「ありがとう」
「あれ、何かしたっけ、僕」
彼は眉を下げながら困惑したように笑う。
あれは、確か村での出来事。世界を救わなくちゃいけないと息巻いて、北方から来たと言う彼に情報をねだった時のことだった。
「あなたの……」
「うん?」
「あなたの、言った通りだった。北方のひとたちは勇敢な人たちだった。北の風の如く吹き荒れる力と、暖炉のような暖かさを持っていた」
思い返すのは、北の大地で逞しく生きるひとたち。
共に戦ったなかまたち。
当然、楽しかったこと、怖かったこと、やりきったことに付随して、どうしようもない気持ちも思い出される。
「だから……だから……」
ぽろぽろと、涙が溢れる。
おかしい。あたまが混乱する。いままでこんなことはなかったのに。何かがおかしい。いまのじぶんはちょっと、おかしい。
「……っ、ごめん……なんでも、ない、から……」
たぶん、側からみたら滑稽だろうな、と思いながら袖で目元を拭う。すると、“あぁ、ダメダメ”とちょっと焦ったような声が横から聞こえて来た。
「ほらっ、擦らない、擦らない。カランコエもそうだけど、すぐ乱暴にやるんだから、赤くなっちゃうって、ほらー」
気がつくと、目の前に小さな布が差し出されていて。端は緑の糸で飾られていて、肌触りが良さそうだ。
突然のことで固まってしまい、反応を返せずにいると、彼は焦り出した。
「えっ、変なこと言ってないよね、あっ、これちゃんと洗ってるから! そりゃ、ポケットには入れてたけど、いや、なんでもない……」
「……そこは、気にして、ないって……」
言いながら、引っ込めかけられたハンカチを手に取ると、布の冷たさが伝わって来た。
目元を押さえる。彼は微笑みながら聞いて来た。
「どんな人だったの? 教えて欲しいなぁ、僕にも」
まるで、旧友に会った時のような。久しぶりに会う人の近況を聞くような感じで。気負った様子もなく、気遣いらしい様子もなく、本当にただ、世間話のように同じ目線で、しゃがみこんで、空を見ながら。
頭はすこし躊躇っていたが、口は勝手に、行き場を得た水のように話はじめた。
◆
どれくらい話していただろうか。
いつの間にか、喉はカラカラだった。
北の大地で経験した面白いことを話した。興味深い、生のまま魚を凍らせてシャーベットのように食べるご飯の話をした。氷に負けない、勇敢な戦士の話をした。そして、最後にはおばあちゃんの話をした。
「いい人だったのに。死んでいい人じゃなかった」
長い語りの最後は、助けられなかった、という呟きで閉じられる。
横で何も言わずに話を聞いていた青年をちらりと横目で見る。
「やるせないねぇ」
彼は、慰めるでもなく、励ますでもなく。
疲れたように、へにゃりと笑って、ただ同意してみせた。
沈黙。雲の流れが早くて、墓地は日陰になったり、日が差したりを繰り返している。
「このお墓は……」
空白を埋めるわけではないが、ふと気になって声に出してみた。墓地は端まで百メートル近くあって、墓石も石だったり、木の棒だったりさまざまだった。ある程度手入れはされているのか、下草は一定の長さで風にそよいでいる。
「仲間だよ。あそこから、あっちまで。みーんな」
指を伸ばしながら、右から左へ。
ずーっと彼は示してみせた。たぶん、彼の言う“仲間”が生きていたら、『おう』だとか『よぉ』みたいに返事が返ってきたんだと思う。だけど、いまは鳥のなく声が響くくらいに長閑で、彼の声しかなくて、それが当たり前みたいに振る舞う様子にちょっと胸が痛くなった。彼は生き残ったのだ。
「で、あそこは僕の家族がいる。骨の一部しか無いんだけどね」
すこし前にある石を指差しながら。
傷ついていて、すこし小さくて、見窄らしいとも思える墓だった。
「あなたの家族」
「うん、父さんと母さんと、お姉ちゃん」
小さな墓だ。ただの石とも言える。
だけど、それを見つめる彼の横顔は眩しいものを見るように目が細められていて、口許は横にきゅっと閉じられていた。
これ以上邪魔をしてはいけない。
そう、思った。
だからゆっくりと立ち上がると、彼がこちらを見た。髪の毛の一部が三つ編みになって揺れている。
「あれ、どうしたの?」
「帰る」
パンパンと服の裾についた露を払えば、もう歩き出す準備は出来ていた。しかし、急に彼は焦り始める。
言葉を探すような、相手を伺うような。
「あ、っと、その……もし、君が、全部を助けられなかったとしても、だよ」
さっきまでの滑らかな口調は無く、途切れ途切れで。指をあっちに振ったりこっちに振ったり、忙しなく彼は言う。出来る限り言葉を詰め込むように。
「全部取りこぼしなく出来なかったとしても、その、助けられたものはあるんだから……だから、胸を張らないと、ね。あ、いや、急には難しいか、落ち込んでたんだもんね。だから、ええと……」
あんまりに必死になって言葉を探しているものだから、胸の奥でくすくすと震えてしまった。それが伝わったのか、彼は眉を下げてしゅんとしてしまう。ごめん、と思いながら「無理に励まさなくても、大丈夫」と言った。
だって。
「あなたが隣にいてくれただけで、話を聞いてくれただけで」
それだけで。
十分だ。隣に同じ景色を見ている人が居た。
誰もいない場所で、花を供え続ける人が居た。
それが、どんなに身体に力を与えてくれたか。きっと、与えた側は無自覚なのだろう。なんてことない、何もしてないとすら思ってるのかもしれない。
「ありがとう、優しい勇者」
だから、それが嬉しい。
誰かにとって気にすべきでないような事に傷ついて、誰かの何気ない言葉と態度で力を貰える。
きっと、この人はそう言う勇者なのだろうと思って、すごいなと笑った。
「さよなら」
さよなら。またいつか。運命が交錯するならば、会えるかもしれない。だから、それまでた。あなたの旅に、美しい音色が響いていることを。
そう願って、歩き出した。空はすっかり明るくなっていた。
◆
ちりん、と鈴を鳴らすと目の前の景色が波紋のように揺らぐ。その中を潜ると一気に景色は変わって、中央大陸内の別の場所に飛ぶ。
そこは世界の色が白と黒になったような土地で、ソラナム王国までは、普通に移動したら数ヶ月はかかるような場所だ。ひゅるりと寒い風が身体を撫でる。
「おっ、なんか元気になった?」
“門”を潜った先では、両手一杯にパンの入った袋を抱えた、キャスケット帽を被った少年いて、顔を見るなり聞いてきた。彼はこの旅の仲間の一人で、情報収集や細かな事に頼りになる頼もしい一人だ。目的地近くに先に入り、現地を見てくれていた。ソラナム王国に残っている仲間たちも、順次やってくるだろう。
「まぁ、そうかも」
「ふぅん。あ、パン食べる? って、もう取ってるし」
「美味しい、これ、表通りのパン屋のでしょ」
「すぐ食べ始めるのにはもう突っ込まないけど、なんで食べてすぐ分かるの??」
もむもむ、と小麦の香りとバターの甘さが絶妙に混ざり合ったパンを咀嚼する。
今いる場所は一番近い街の門から数百メートル離れた場所で、周囲に人は居なかった。
口の中の幸せを感じつつ、遠くに広がる、霊験あらたかな霊峰を見る。彼の国の象徴。不滅の大山脈。どのような運命を辿ろうとも、あの山脈だけは“存在し続ける”。
「あそこが……」
と、言いかけた瞬間、キィィーンと高い音が脳内に響く。
運命の神からの啓示だ。時に言葉で、時に意思で、進むべき道を示してくる。頭を抑えると、仲間は少し距離を取った。無防備になる状態だから警戒をしてくれているのだ。
運命の神が目指す先は魔神討伐、ただそれのみ。
そして、運命の手先としてこの世の歪みを調律し、正常に戻す。それが調律者に与えられた役割なのだ。
──ゆけ
非言語的なノイズを伴って、意味が言葉を超えて浸透してくる。
圧倒的なスケールで、思念という情報が降ってくる。
キィィンと音が響く。きっとこれは、何か金属が鳴っているのではなく、処理しきれない情報が音として認識されているに過ぎないのだろう。
──ゆけ、聖都へ
何度目かの神託。
だからこの国を目指した。なぜなら、聖都と呼んで、指す国はひとつしかないから。
北にある聖なる都『宗教国家 デア・ルクス・レギリオ』
北とは言ったが、中央大陸内にある。この国は蒼燕帝国やカフチェク共和国がある北方大陸とはかなり離れていて、中央から見ると北方大陸は北東に大きく傾いた位置にあるのだが、デア・ルクス・レギリオは最北西にある。
寒冷な土地に相応しい、白を基調とした見た目を晒す緻密な国。
世界で最も信仰されている女神の息吹が行き届く宗教国家だ。
──ゆけ。そして──聖女と共に、裏切り者を殺した上で、備えるのだ
「裏切り者……?」
思わず呟く。
それは今までになかった情報だ。
今回の神託は聖都に行く理由、そして今回の目的を教えてくれている。運命の神は人間より遥か高みの視座から物事の行末を見通しているので、ときどき意思を汲み取りかねる時がある。更に運命の神は、神々の中でも同じ言葉が通じないほどの最上位。女神よりも、遥かに。それはもはや世界に広がる現象や法則に近い存在だ。誰も逆らえない。知覚すら難しい。運命の神が発する言葉は言葉であって言葉ではない。意思ではない。そうなる事なのだ。
だって、植木鉢を手のひら一個分動かせ、という神託で、街の殺人事件を防ぎ、それが魔王討伐に繋がった事さえあるような神なのだ。揺れる木の葉の真意を測ることなど無理なように、運命の神の真意を測る事など困難を極める。
だから最初の時点でなんて神の思惑を理解するのは無理。もしかしたら伝えてくれているのかも知れないが、人の限界として知覚できない。
──戦いに備えよ
「裏切り者……」
何に対する裏切り者か。人類か。もう神託は別の話題に移っている。裏切り者の排除自体はそれほど重要ではないのかも知れない。運命の神が辿ろうとしている“魔神”のいない運命のために。
情報の洪水で思考がままならないなか、必死に水面に顔を出すように問いかける。裏切りとは、なんですか。裏切り者とは、だれですか。軽く流された情報だが、なんだか妙に気になって尋ねてしまった。
──大きな戦いが起きる、聖女と共に備えよ
だが、神の重点はそこではなかった。
戦いに備えよ、とだけ繰り返す。神にとって裏切り者の討伐は今回の冒険のほんの一瞬、ちいさな要素でしかないようだ。
だけど妙に気になって何度も尋ねる。
──戦いは厳しいぞ、仲間を集め聖女を味方につけ、備えよ
誰ですか。
裏切り者は、誰ですか。
するとちいさく、“なぜそんな小さな事を気にするのか”というニュアンスと共に情報が降ってくる。
──裏切り者。魔と手を組みしもの。
えっ、と声が出てしまった。
キャスケット帽の少年が訝しげにこちらに視線を一瞬やってくる。
──備えよ、備えよ
脳裏に浮かぶ、青年。
お人よしで、すこし不器用で、お墓に行くだけなのに身だしなみをきっちり整えるような、寂しさを背負ったひと。
──備えよ、戦いに備えよ
体温が引いていく。
さっきまで身体の中に残っていた熱が嘘のように反転して凍りついていく。確証はない。神はもう戦いのことしか口にしていない。裏切り者の討伐は神にとって前座にすら満たないようなものらしい。つまり、これはそれほど難しいことでもないらしい。まるで、一応やっといて、くらいのもの。それにまだ、“裏切り者”が誰か明示された訳ではない。だけど。だけど──
思い浮かんだのは、彼のこと。
彼は女神に選ばれし勇者であり、ソラナム王国というちいさな国の勇者であり──
そして──魔女と契約した勇者だ。
調律者なら、分かる。隠していても、聞こえる。でも黙っていた。
「おい、どうした、顔が真っ青だぞ、何を“受け取った”?」
仲間の少年が心配そうに覗き込んでくる。
たぶん、神託を知ったほかのひとも裏切り者にそれほどウェイトが割かれていないと知ると、あまり気にしないのだろう。
でも、できない。
自分には出来ない。なぜって、お話をしたから。
偶然でも、お話をしたから。
手足がカタカタと震えた。
まだ確定していない。だれも、“調律者”が思い浮かべている人物を知る術はない。考えすぎなのだ。こんなピンポイントで彼などと。
──備えよ、戦いに、備えよ
「殺せって……え?」
茫然自失と呟かれた言葉は、北の風に攫われて消えていった。
世界が動き出す。
どうか、違いますように。
こんな、舞台装置のように、一瞬世界の舞台に立って、あっさり退場して誰からもすぐ忘れられていくような役をする人が。
彼なはずがない。
どうか違いますように。
動揺した頭ではそう、祈ることしか出来なかった。
間章▶︎ ▶︎ ▶︎終
→ 第七章 『それじゃあ、また』