「が、ふ……」
知らない老人の腹に、ルークの持った剣がずぶずぶと入っている。
ぶちぶちと、いきものの筋を断絶させていく手応えがある。
大勢の人間の叫び声が聞こえてきた。ルークには何が何だか分からない。
刺されている人物であろう、枢機卿の名前を呼ぶ声がする。ルークにはその名前に聞き覚えがない。
悲鳴。身なりのいいご婦人が、顔を真っ青にしながら、白い上品な手袋のついた手を顔のすぐ横まで持ち上げて叫んでいた。まるで生き血を啜る魔物に出会した町民のように。見ているのは、ルークの方だった。
「ごほ、ふ、ふ……」
「あっ、あなたは……? 僕は、何故……なにをっ」
捕えろ、だとか、勇者が乱心した、だとか。うるさい。建物の中は一気にパニック状態だ。気の強そうな、貴族のような格好をした男性が、貴様は気が狂った、魔に堕ちたかだとか叫んでいる。僕が? そうだ。あの人はルークを見ている。
武装した兵士がルークに向かって剣を抜きながら切り掛かって来ている。
「捕えよ、逃がすなッ!」
一番高いところで、豪華な衣装を身につけた人物がルークを指差しながら叫んだ。裁判長だろうか。なぜ、
「ですが、勇者です!」
裁判長らしき男性の近くにいた、軽く武装をした男が狼狽えながら言った。
「いいのですか! 勇者ですよ!」
「いいや違う! 奴は勇者でもなんでもない! 枢機卿をっ、魔王に対抗する光を、むざむざ奪った裏切り者だ!」
分からぬか! と怒鳴る。
捕えろ、と大きな号令が再びかかった。
裁判長の目は、よく知っていた。あれは、憎しみの目だ。人類の敵に向ける目だ。ルークの刺した人物は、知り合いだったのかもしれない。分からない。
「あ、あぁ……」
身体中の血が冷たくなったような錯覚で、ルークは一歩後ずさる。それで、剣から手を離したので枢機卿は支えを失って崩れ落ちた。べちゃ、と白い法衣を赤く染める。地面に落ちていた血溜まりから飛んだ血飛沫がルークの頬に飛んだ。ぬるりと、生ぬるい。
「おわり……だな、ゆうしゃ……ぐふ……」
自身の血の海に沈みながら、枢機卿は笑った。
どこからどう見ても、ただの人間だった。
ルークのいる場所は、三段構造になっている円形劇場のような場所の二段目で、すぐ後ろには磨き抜かれた木の手すりがある。一階は被告が上るような台が設置されていて、いまは無人だ。
「おぉ、ぉ!! 覚悟ォ!」
一番はやく到達した兵士が、洗練された身のこなしで剣を上段から振り下ろしている。
ルークは今の状況がなにがなんだかわからない。ソラナム王国を出て、初日の夜に野営をしていたと思ったら、瞬きの間にいきなり場面が
「せぁあッ!」
だから半身になってかわす反応が遅れた。右肩が直剣の先端で切り裂かれる。骨に届かないくらいまでの深さに相手の剣が埋まる。
「──っぐ!?」
灼熱の痛みが、ブツブツと自身の肉と筋繊維が切れる音と共に脳髄に届けられる。歯がガチンと思わず噛み合わされる。
「勇者殿、御免!」
ひゅっと追撃。
横薙ぎに一閃。
ルークは勇者であり、戦闘を生業とする者であり、相手は人外が多い。人の枠に外れた技を使ってくるものや、初見殺しに思える術もある。だから状況把握は人よりも何倍も優れているはずだった。
『なにがっ』
腰のカランコエが震える。この状況はあまりに唐突すぎた。
ルークは枢機卿と呼ばれる人物に刺さったまま剣を見た。剣が地面につっかえ棒のようになって、枢機卿は両膝をついた不恰好な姿勢のまま止まっている。枢機卿を刺したのはカランコエが変身した剣じゃないらしい。何故。違う。考えるな。今は重要じゃない。では。何が重要か。相手が切り掛かって来ていることだ。見ろ、あと一秒もない。見ろ。王国の近衛兵の剣術に近い剣筋だ。まっすぐで搦手はないが、とにかく速い、鋭い。厄介だぞ。
ルークは、しゃらんと手元に現れた白い、控えめな装飾のついた剣を手に取る。剣の腹でぎゃり、と相手の二撃目を滑らせる。
生存本能の境目で、ギリギリまで加熱された思考は鼻から血が出てくるほど回っていた。目の前では下からの掬い上げが来ている。
「分からないっ! だけどっ!」
ルークは先ほど、兵士に右肩を切り裂かれた拍子に、再び手のひらに刻まれた、不思議な色の文字が目に入っていた。それを思い出す。今の意味不明な状況の手がかりは、これだけだ。
“最優先⇨逃げろ! 今は、とにかく離脱しろ! ──魔王を倒すために”
痛む。手のひらの下。手首から肘にかけては、また別の文字。兵士の追撃は上体を背中側に折り曲げるようなスウェーで回避。
右腕の肘にかけては殴り書きのような激しい筆跡で書かれている。
『逃げろ! 捕まるな! 人類のために、人のために!』
悩むのは、あとだ。
ルークは手のひらに意識をやった。『ええ』とそれだけで契約を通じて繋がっている魔女はルークの意思を汲み、刃渡15センチほどの短剣を生成する。相手は連続で、お手本のような軌道で切り掛かってきている。かろうじて避けているが、あと数秒でルークの限界だ。こんな重要そうな場所の警備を任せられているのだから、相当な実力者らしい。だから、勇者はヒョイと、先ほどの攻防の最中に砕けたタイルを鍛造して、短剣を、相手に渡すように投げた。
「な、え?」
戦闘の最中に、剣を投げつけられたのなら対処ができただろう。だが、あまりに自然な動作で渡された剣に。想定外の一手に、思わず兵士が一瞬ぽかんとしてしまう。声からして、装備の下は女性のようだった。たった一秒の隙。だけど、勇者にとっては十分すぎる時間だった。ルークは内心謝りながら、隙ができた兵士の前で片足を沈め、身体全てをバネにして横蹴りを放った。
「ぐ、っふ!」
体全てに伝わる衝撃。夢じゃない。兵士は両足を浮かせて後ろに姿勢を崩す。切りつけはしない。
加護の力で想定より威力が出てしまうから。鎧を纏った兵士は手すりに腰を打ち付け、勢いのまま一階へ落ちていった。
「出るぞっ! どこに何がある!」
『まど、上に』
ルークは襲い掛かる兵士たちを見て、カランコエが逃げ道を探っていた。ちらりと視線を上にやると、確かに天井近くに窓がある。格子が嵌っていて、硝子を壊すだけでは通れそうにないが、迷いはない。ルークは手すりを助走に使い、跳んだ。
「おい、勇者が逃げるぞっ!」
「どこへ行く気だ──なっ!?」
人外の力の跳躍。時間経過と共に膂力を増す北の英雄の異能が少し発動し始めていたのか、飛距離は五メートルを超える。驚きの声が、戦いとは無縁の格好をした人たちから漏れた。
だが、十メートルほどにある窓には届かない。兵士は既に二十人ほど集まっていて、一階で剣を抜いて構えていた。飛距離が足りず、落ちてきた勇者を捕えるために。
「カランコエっ、お願い!」
『たんぞう』
迷いな、ない。勇者は踏み締めた。
いつものように、
「は──バケモンか!?」
そのままルークは拳を振りかぶり、窓を破砕した。耳をつんざくようなガラスの割れる音と、飛び散る破片。冷たい外気が一気に叩きつけて来て、ルークの顔面を叩いた。
「逃げるぞっ、追え!」
窓枠に足をかける。外は軽く雪が降っていて、冬の真っ最中だった。季節が飛んでいる? ルークは疑問に思う。
建物は山の中腹にあるような所で、麓には市街地が広がっていた。白い雪の、白い街だ。ルークはそのまま、じゃり、とガラスの破片を踏みながら、躊躇いもなく飛んだ。何十メートルも下の街へ。びゅおぉ、と風を切る音がする。指が急速に悴んで、痛い。装備の隙間から急速に風が侵入してくる。外気温はきっとマイナスだろう。
空中で後ろを振り返ると、沢山の兵士たちが飛び降りられずに、一階の窓や、ルークが気が付かなかったバルコニーからこちらを見ていた。
気分はまるで逃亡者だ。いや、正しく逃亡者なのだろう。
なぜ、何故こんなことに。
そう思っていた時、空中で姿勢を変えようと力を入れて、がくん、と体勢が崩れた。
「あ?」
びゅう、と吹き付ける雪の空で。
青年は自分の腹から真っ赤にぬめる切先が生えているのを見た。
「がっ……!」
誰かが投げた剣が背中から右脇腹にかけて貫通していたのだ。あの中に、空中に逃げられては追えないと判断をして、剣を投擲して来たかなりの手だれがいる。素晴らしい判断だ。自分が追われる立場でなければ。異物感に口から呻き声が漏れた。
『しっかりっ』
意識が急速に落ちていく。まずい。やけに消耗している体が神経反射で落ちる。普段の戦闘ならばこんなことは早々に起きない。起きないように準備をしている。だからたとえ失血性のショックでも耐えられる。
でも、突然の戦闘だった。身体はついて来ていない。
『しっかり!』
鈴のなるような魔女の声を聞きながら、意識を暗くしながら、ルークは街中に着地をする狙いが大きく逸れて、下の増水して、濁る水堀に落ちていく。
「からん……コエ……」
どぼん、とくぐもった音を聞いて。
凍りつくような水の中へ。市街地につながる暗渠に、勇者の身体は浮き沈みをしながら流れていった。
◆
上も下も分からない。
濁流だ。それも、息が詰まるくらい冷たい氷水。
「うっ、ご……ぶ」
なんどもなんども水を飲みながら、カランコエは何とかしばらくした地点で勇者の身体を止めることに成功した。今は幅三メートルくらいの水路だ。彼女の力では水に抗えないので、
「う、ぅ、おもた……いっ」
石畳の地面は雪で濡れていて、冷たい。
結局カランコエは水路の濁流を下から鍛造していって、勇者を押し上げ、水路から脱させることに成功した。
「はあっ……はあっ……」
髪が濡れている。手足の感覚はない。服も何も全てぐっしょり濡れて、重たい。身体はくたくたに疲れていた。
「こんなの、ばっかりっ……」
座り込みたい気持ちを押し殺し、少女は周囲を見回す。どうやら生活排水が通る場所のようで、すこしボロっちい家が背中を向けて水路の両端に立っていた。あまり裕福ではない地域のようだ。
「……」
視線を戻す。勇者の顔色は白く、生気がない。
仰向けで、服には濡れて広がった血の跡がある。
ぐしゃ、と濡れたシャツが体に張り付いていた。
「……もぅ」
カランコエはずりずりと、でこぼこの石畳を這い、勇者の身体にのしかかる様に胸に耳を当てた。心臓の音は──聞こえなかった。
雪が降る。空は暗い。
昼前なのか、違うのか。人気は無く、じゃばしゃばと溢れる水路の音だけが響いている。
「ねぇ、ねえってば」
魔女は勇者の口元に手を持っていく。ぶるぶると冷たさで震えていたが、勇者の呼気は、感じられなかった。
「ねぇ」
魔女も、人の形になれば体の状態に引っ張られる。冷たい水の中にいた頭は割れる様に痛く、思考は眠たかった。だけど、勇者が息をしていないことだけは確かだった。
「たんぞう」
心臓を鍛造しなおす。勇者は動かない。
「たんぞう」
冷たくなった体温を、元に戻す。勇者は動かない。
「たんぞう……」
何度も何度も、場所を変え、範囲を変え、勇者を鍛造し直しても目を覚まさなかった。
「たんぞう、鍛造っ、たんぞうっ……」
ごほっ、と咳をする。
ガタガタと震えは全身に及んでいた。
アスナヴァはどこだ。シュンカはどこだ。分からなかった。
ぐずぐずしていれば追手がくる。すばらしき人類の希望たち。守護者たちが、ルークを追って。
なんでこの勇者はこうも報われないのだろう。なんで、こんなに試練ばかりなのだろう。
カランコエは重たくなる頭で、濡れて垂れた白い髪を視界に入れながらなんどもなんども魔法を行使し続けた。
魔王に対抗する戦力。それが敵に回ってるなんて。こんなに簡単に。あっさりと。
「たんぞう、ねぇ、鍛造、ねえってば……」
答える声はない。
いつもの、仕方なさそうに、呆れ混じりに『カランコエ』と呼ぶ声はない。ちょっと遠慮混じりに、頭を撫でようとしてくる大きな骨ばった手は動かない。
「ねぇ、鍛造、……」
どれだけ修羅場をぐぐり抜けても。力を手にしても。一手間違えればあっさりと死んでしまうのに。なんで、厄介なことにこの勇者は自分の身を顧みない。小さな命、後悔は大事にするくせに、なんで自分を守らない。
「……たん、ぞう、たんぞう……っ」
魔王を倒すんじゃないのか。取りこぼされた人も救うんじゃないのか。訳もわからない状況に投げ込まれて、味方に殺されて、満足か。
勇者ともてはやされて、それで、こんなあっさり、呆気なく終わって、いいのか。帰りを待つ人がいるのに。ギルドのあの受付も、お姫様も、共に戦った救護団や兵士もいるのに。
「血液を、たんぞう、す……」
血を作り直しても起きない。
麦みたいな茶髪は、泥で汚れた石畳にべしゃりと広がっている。
「ねえっ」
青白く、冷たい肌に触れて。まだ生きてはいると魂を感じて、でも弱っていて。このままいけばダメになってしまうと直感して。
──いまこそ、勇者を殺して、自由になれるのでは?
誰かが囁いた。
カランコエは禁忌の代償としてルークとの行動を強制されているのだ。久しく思い出した。
──勇者がしねば、お前は自由になれる。世界を壊すのも、鍛造するのも、思いのままだ。にくいんだろう、世界が。壊したいんだろう。なにもかも。
理不尽で、不条理で。不平等な世界を。
囁きかけてくる。魔女は、虚空を睨んだ。弱る心には、窮地には、魔物が囁きかけてくる。
──ころそう。勇者を。契約を打ち切り、見殺しにしろ。何もしなくていい。ただ、見ていれば、お前は自由だ。
カランコエは世界を壊したい。
世界を憎んでいる。姉たちを、だいじなひとたちを、無為に、意味を持たせず、殺した世界をぶち壊したいと願っている。
──そうだ! 殺せ! お前は魔女だ! 人類の敵だ! 何を躊躇うことがある、殺せ!
だけど、だけど。
「うるっ、さいぃ……!」
同時に、彼女はこの青年に生きてほしいとも思ってしまった。
──それは、辻褄が合わないのでは? 矛盾しているでは?
そうだ。世界を壊したい。みんなだいきらい。勇者には生きてほしい。べつにきらいじゃない。全部を憎むと言ったのに、矛盾だ。エラーだ。カランコエはなぜだか、姉たちを思い出していた。思い出して、ワッと泣き出したくなっていた。
頭が割れる様にいたい。体温が下がり過ぎて、身体の機能が低下している。
──殺せ! 殺せ! せかいを、つくりなおせ!
それは、敵でもなんでも無く。魔女の本能が囁く声だった。
だから、白髪の少女は、途切れ始めた意識のまま、勇者の顔を掴んで。
結局、やってはいけないことだと分かっていて。
「しらない、わ……ほんとうに」
勇者の唇に、キスをした。それと同時に魔力を送り込む。古来より口付けは魔術的な、魔法的な意味を付与されて来た行為だ。だからなのか、カランコエの、より根源的な何かは勇者の中に吹き込まれ、少しずつ形を変えていった。
「……っ」
しかたない。カランコエは出会ってしまったのだから。ばかみたいな奴に。しかたがない。カランコエは手を取って、魅入ってしまったのだから。この、どこにでもいそうな青年に。
「ん……ふ……」
何秒間かの逢瀬のあと。
魔女はくらりと意識がブレ始めて、──あぁ、前もこんなことがあった、なんて思いながら、勇者の胸の上に重なる様に倒れた。
初めての味は、ひどく冷たくて何が何だか分からなかった。
何かをひどく憎んでいて、嫌だと思っているのに。
この人には生きてほしいと思ってしまった。世界全てを壊すのに。世界の中に大事なものをみつけてしまった。
そんな矛盾だらけで、理にかなってない思考。
それは、
当たり前に抱く矛盾だとは、カランコエには分からなかった。
力を使い果たした意識は深く、沈んでいった。