うえにぽっかり穴があいて、糸が上から下へと垂れている。
差し込んだ光を反射して、絹のような手触りであろう表面を、濡れたように光らせて。
それは解決の、文字通り糸口だった。
糸が上から下へと……
糸が……。
はて。
これは一体なんだ? と、彼は首を捻った。
◆
「はっ、はっ、はっ……!
聖都の一角で、勇者と爆印が戦いを繰り広げていたころ。
夜の聖堂には、荒い息遣いが、まるで痩せこけた野犬が追い立てられているように響いていた。
今年15になる見習い神官のイワン・バシコフは冬だというのに、汗をダラダラと流しながら両手をめちゃくちゃに振り、走っていた。
「うっ、……ゔ……!」
パチパチ、と手を打ち鳴らすような音は、長旅ですり減ったパッテンと革靴が奏でている。額に髪を張り付かせ、目に入った汗に何度も慌てて瞬きをしながら薄い金髪の青年は走っていた。
「は、……ぅ、……ふっ……!」
聖堂に声が響く。
聖堂は、デア・ルクス・レギリオを代表する霊山の途中に作られていて、市街地を見下ろすような形で斜面にくっついたように建っている。ここに入るには山を少しばかり登らなければならないから、街で何か石鹸みたいな日用品を買うにも一苦労だが、広さは何百人も寝泊まりできるような大規模で威容もかなりある。
聖堂で一番広い場所である身廊は、古代カールバルト様式とサザン地方の彫刻が混ざり合い、見事な調和を果たし、見る者の目を奪った。
その空間は、初めて入ったイワンから言葉をも奪ったものだ。
窓ガラスがある廊下を、イワンは見習いの証である少し裾の短い法衣を振りながら走っている。顔は、真っ青だった。
「何だあれ、なんだあれ、なんだっ、アレっ……!?」
壁に等間隔に設置されたトーチホルダーにある松明が、オレンジの光を周囲数十センチだけ伸ばして、影に誰かが潜んでいるように揺れる。あとは窓から入ってくる真っ青な月明かりだけだ。周囲に人影はない。高い天井に足音が反響していた。イワンは一人だ。
走る。あと曲がり角を二つほど左に折れて、見えてくる自身のこぢんまりとした部屋を目指して。安全地帯だと信じている場所を目指して。
「早く、はやくはやくはやくっ! アイツが、来る……っ!!」
◆
ことの発端は、その日の午後から始まった。
お昼をだいぶ過ぎた時間。イワンは各地を巡りながら修行をする数年の遍歴を終えて、茜色になり始めた空を見ながら久々に聖都に帰ってくるところだった。
女神教では、若い見習い神官がこうして各地に旅立つことは推奨されていることの一つだった。──特に、小さな頃から修行をしているような者は、聖堂の中しか知らないということになりやすく、それ故に教会からの支援なしで、その身一つで旅立つのだ。遍歴の最中は見識を広めるための勉学や、軽い伝道であったりも行う。もちろん、世界には魔物が溢れているし、闇には何が潜んでいるか分からない。魔王なんて厄ネタもあるが、これは出会うのが稀だし、対処するのが聖騎士や英雄といった雲の上の人たちなので考えるだけ無駄。
とにかく遍歴には、毎年帰ってこない者もいるくらい過酷なものである。だからこそ、帰ってきた者は見習い扱いを抜け、大人たちからは一人前として扱われるし、修行中の年下の子達からは尊敬の眼差しで見られる。
イワンも何度も危ないところを超えて、戻ってきた。獣人族のいる森に迷い込んだり、騙されて他の大陸に行く船に詰められたり。
「やっとだ……!!」
背中に食い込む荷物は痛い。だけど、もう聖都は目の前。雪のちらつく中だったが、懐かしい故郷は眩しく、旅の疲れも一気に吹き飛んだ。
早く早く、と小走りで市街地を抜け、あまりよろしくはないと分かっていても、水浴びを後回しにして聖堂に足を踏み入れた。久しぶりに会う同期や、お世話になった先生に戻ってきたと伝えたかったのだ。自分が旅でどんなことを得て、何を知ったのか。いかに未熟だったのか。
「先生、先生! ……あれ?」
だが、聖堂の様子はいつもと違っていた。
『いたか?』『いや、こっちはダメだ、上流側には居ない筈だッ!』
あちこちで武装した見慣れない人が走っている。聖堂にいる聖職者たちも、上から下へと蜂の巣を突いたような騒ぎだ。旅から帰ってきたばかりのイワンは何が起きたのか、なんで分からなかった。
しばらくそうして、困惑しつつ中庭を抜け、庭園の手入れ道具がある小屋を抜けて、見習いの居住スペースまで辿り着いた。その時、見知った顔がいたのでイワンは慌てて引き留めた。
「ルカ……ルカ! なぁ、おい。みんなこんなに慌てて、いったい何が起きたんだ!?」
「あぁ? そんなの決まって……って、イワン!? お前、帰ってきたのか!!」
幼年の時、同部屋だったやんちゃ坊主のルカはイワンの肩を掴み乱暴に親愛を示してみせた。イワンは喉まで次の疑問が出そうになってきたが、じんわりと伝わる体温に言葉が留まってしまう。
数秒間のかるいハグのあと、ルカはバッと手を離しきらきらと輝く目でイワンを見つめ、捲し立てるように言った。
「おい、いつ帰ってきたんだよ! 旅はどうだった? お人よしで鈍いお前は騙されないか心配だったんだよ!」
「それは、えぇと、ボクそんな風に思われてたわけ? ……まぁ、最初の街で……って、そうじゃないよ! いったいどうしてみんなこんな大騒ぎをしているんだ?」
イワンが首を捻りながら、ルカの勢いに押されないように声を大きくして聞くと、短く髪を刈っているルカは『こいつ、なに言ってんだ?』というような顔で、聖職者の規定に触れない程度の罵倒を飛ばそうとしたらしいが、イワンが先ほど帰ってきた事を思い出したらしい。視線をちょっと上の方にやって、唇を舐め、思考を整理するように、『いいか?』と告げた。
「殺されたんだよ。枢機卿が!」
「えぇっ!?」
枢機卿は次の教皇を決める役目を担う。
イワンたち見習いの、上の上の上にいる司教よりも、上の立場だ。とうぜん、軽々しく話せる立場の人ではないし、イワンも見習いに任命された時、遠目に見ただけでも冷や汗を流してしまうようなひとたちだ。
それが、殺された。
「えっと……誰が」
イワンが戸惑ったように疑問を口にすると、ルカは息を潜めたように、周囲をキョロキョロと伺い、イワンの耳元に口を寄せて、あたりを気にするようにそっと告げた。
「
勇者が。
イワンは同じ言葉を繰り返す。ルカは真剣な顔で『おう』と頷いた。
「いったい、どうやって? そんな大事件、なんで防げなかったんだい?」
ポカンとした顔のまま、イワンは思った事を口にした。枢機卿が聖職者以外の前に現れる機会はそうそう多くはない。なのに、他国の勇者が接触して、殺したとなると気になるのは動機や、その方法だった。特に動機は、このあと捜索に駆り出されるであろうイワン達にも重要だ。つまり、相手がどんな手札を持っているのか分かるのだから。
仮に、その指名手配勇者が目があっただけで相手を殺す能力を持っていたとしたら、だいぶ腰をかがめて地面を見つめながら探さなくちゃならない。
「どうやってって……ほら、あれだよ。……えっと」
「しっかりしてよ、ルカ。だいじなことだろ?」
「分かってるって! いま思い出してるんだから……あー、えっ、と」
すんなり返ってくると思っていた答えは、意外なことにルカの口からすぐに語られる事はなかった。イワンは自分より少し背の低いルカの両肩を掴んで軽く揺する。
「んー、いや、ちょっと思い出せねぇな。ま、いいだろ、そんなこと。それより久々に帰ってきたんだ! なんか食いたいもんでもあるだろ! 保存食ばっかの旅じゃ、健康そこねちまう!」
「ルカ!? 何言ってるの? 大事なことでしょ? 事件がおきた場所は? 時間は!? どうやって枢機卿は殺されちゃったの!?」
スタスタと居住スペースに行こうとするルカを、イワンは悲鳴のような声をあげて引き留めた。しかし彼はなんでイワンがそんなに
「だから、しらねぇって! なんでそんなこと気にするんだよ! そんなに知りたきゃ、誰か別の助祭でも捕まえて聞いてみりゃいいだろ!」
ふん! と肩を怒らせながらルカは歩いて行ってしまう。
石造の建物の前で、一人残されたイワンは肩を落とす。なぜ、あんな事を言うのだろう。訳がわからなかった。しばらく見習い棟の入り口を見て、ルカが戻ってくる事を期待していたが、あるのは鳥の鳴き声だけ。
仕方なくイワンは、旅から帰ってきた格好のまま庭園を抜けて、聖職者しか使わない回廊の方へと足を進めた。
◆
「あのっ、すみません!」
「はい?」
道ゆく助祭を見つけたのは運が良かった。だって、イワンが探し始めて五分とかからず見つかったのだから。イワンは相手の顔を見る。目が少し細く、背が高い黒髪の男だった。見ない顔だが、聖堂じゃよくある。イワンは恭しく頭を下げて、男に尋ねるのだった。
「その、枢機卿がお亡くなりになられたと聞いたのですが……」
「ああ、エドウィン枢機卿の話だね」
男は手に持った巻物の束を抱え直しながら答えてくれた。
エドウィン枢機卿。たしかイワンが遍歴にでる少し前に聖堂に来た枢機卿だ。顔はちらりと見たくらい。だけど、中背くらいの優しそうな白髪の人だったと覚えている。
「……驚きました。どうやって」
「どうやって? そりゃ、……うーん、なんだったかな」
イワンの質問に男は考え込む。
見習いの質問にわざわざ足を止めて答えてくれるあたり、優しい人なのだろう。
「ちょっと覚えてないかな。なんでそんなこと気にするの?」
「え? そりゃ、大事な事ですから……」
ふぅん、と助祭の男は言う。イワンはなんだか心臓が速くなる気がした。ばくばくと、嫌な感じだ。その後もルカと同じように、詳しく状況を知ろうと質問を重ねたが、帰ってくる答えは同じだった。
「おや? イワンか?」
何度も助祭に質問を重ねていたイワンの横から声がかかる。彼は聞き慣れた、落ち着きのある声に振り返り、パッと顔を明るくした。
「ティベリオ司祭!」
額や頬に深い皺のある初老の、白髪混じりのブラウンの髪。理知的な光を宿した瞳に司祭を表す法衣を着た人物。ちいさな頃からイワンの世話をしてくれた人物に、イワンは笑顔で飛び上がる。
「おお、よく戻ってきた。大変だっただろう」
「はい、……はい! いや、でも、こっちももっと大変な事になってるじゃないですか!」
イワンは褒められて、頬を一瞬緩ませたがすぐに真剣な表情に戻り、司祭に疑問をぶつける。
「どうして、……何が起きたんですか?」
司祭はゆっくり、いつものように鷹揚に頷き、ふむ、と鼻を鳴らした。
「いや、
また、同じ様な答え。
イワンがまじまじと司祭の顔を見るが、いつもと同じだ。イワンが旅立ってから少し皺が増えたように思えたが、いつもの深遠な顔つきは変わらなかった。
おかしい。イワンは徐々に確信が輪郭をもつ事を感じていた。おかしい。
おかしいと思えるのが、自分だけな事に。
「秘密書架の鍵を貸してください。ちょっと調べたいんです」
だから決意した。
自ら、一歩深淵に入ってみようと。秘密書架は司祭以上が管理する、特別な書物や、表に出ると問題がある名簿、悪用されると厄介な事になる聖職者の詳しい来歴などの記録が収められている、聖堂の奥まった場所にある書架だ。
イワンの目の前にいるティベリオ司祭も、書架の一部の鍵の管理を任せられている人だった。特にティベリオ司祭は名簿を担当している。そこには当然──すべては載っていないだろうが──枢機卿のものもあるはずだ。だから頼んだのだが。
「秘密書架の鍵? うーん、ん、どこにやったか」
「そんな!? 書架の、鍵ですよ!」
司祭は怪訝な顔で、忘れ物を思い出せない様に表情を歪ませて顎に手をやった。
「ティベリオ司祭!」
「そう、捲し立てられても」
覚えてないんだよ、よく。
司祭がそう言った時、イワンは声なき悲鳴をあげた。
異常だ。
イワンはその後のことをよく覚えていない。司祭や、待っていてくれた助祭におざなりにお礼を言って、走った。
回廊を抜け、慌ただしく動く人たちを避け、聖堂の端の方へ。
そこは井戸がある、あまり日当たりの良くない場所で、見習いがよく洗濯なんかをする場所だった。ちょっと離れた場所にはあんまり人の立ち入らない倉庫がある。そこにイワンは走って、あたりに人がいない事を確かめると、膝から崩れるように井戸のある中庭につながる階段に腰を下ろした。
なんだ。
何が起こっている。
なんで、みんな、覚えていないんだ?
頭はぐるぐると回る。お尻に伝わるひんやりとした感覚が現実だと思い出させてくる。
「なんだって言うんだ……」
イワンは途方に暮れて、空を仰いだ。
低い場所にある中庭からは、聖堂の中心の方にある建物の窓が見えた。大きめの窓で、たまにお偉いさんが歩いている。だけど人差し指の半分くらいにしか見えないし、向こうもこちらを気にしない。イワンはとびきり視力がいいので、休憩時間にときどき、こうして建物の廊下を眺めることがあった。
聖堂の三階あたりにある窓では、何人もが早足で通り過ぎている。やはり、枢機卿殺しは起きているらしい。
そう考えて、ぼんやり、あたまを一旦休める様に眺めていると。
奥から、一人の老人が歩いていることに気がついた。
なんとなく、なんとなくだ。イワンはその人を見ていると、とある瞬間に、一気に血の気が引くのを感じた。
あの、歩いているのは。
豪奢な服を着て、歩いているのは。
エドウィン枢機卿だ。
「はっ、はっ、は……」
ばくばく、と耳元で心臓が鳴る。
なんで、歩いている? なんだ。平気な顔して動いている?
訳がわからず、慌てて立ちあがろうとして──
「────」
目が、合った。
そうと認識した瞬間、イワンは弾かれた様に走り出す。身体は冷や汗でぐっしょり濡れていた。外はいつの間にか陽が沈みかけていて、藍色に染まり始めている。
「やばい、やばいやばいっ……!」
だけど、全身をぞわりと覆ったあの感覚。
あれは、ヤバい。遍歴の途中でも、命の危険を感じる事は何度もあった。
でも、これはもっと上だ。なにか、這い回る人より大きなナメクジが、イワンだけが正しく認識できて、その、認識できてしまうことが相手に伝わってしまった時の様な。そんなヤバさが身体中を駆け巡ったのだ。
「やばいやばいやばいっ……!!」
外はもう、夜になる。
イワンは自分の部屋めがけて、必死に、反射的に、駆け出したのだった。
◆
バタン、と勢いよくドアを閉じる。
瞬間、シン、と空気が隔離された様な感覚が部屋の静寂としてやってきた。
自分の部屋になんとか辿り着き、木製の軋むドアを体を使って、塞ぐ様に閉めたイワンは口から心臓が飛び出るほど速い鼓動をしていた。
「はあっ……はあっ……はあ……」
ぽたぽたと汗が垂れる。
久々に帰ってきた部屋は少々埃っぽいが、変わっていない。左手には簡素なベッド、右手には書き物机。二歩歩いたら石の壁にぶつかる様な狭い部屋だ。
数秒か、数十秒か。
固まった様にイワンは扉を塞ぐ様な姿勢のままでいたが、周囲に気配はない。なんどもなんども瞬きを繰り返し、深く息を吸い、吐く。
そしてがしゃんと背中に背負っていた荷物を床に下ろすと、慣れた手つきで背嚢に吊るしてあるオイル式のランプを手に取った。
「ま、まずは整理をしないとっ……」
カン、と手首ほどの大きさのあるランプを机に置き、魔術で火をつける。すぐに暗かった部屋はオレンジの光で照らされた。イワンは服を着替える事もせずに椅子に座ると、机の引き出しから古ぼけた紙を取り出し、同じ様に取り出した安物のインク壺とペンを使って、文字を書き出した。
“エドウィン枢機卿、死因不明”
“見習いも、助祭も、司祭も、誰も知らない。不自然にボヤけている。おかしい”
ガリガリガリと。殴り書きのため、お世辞にも文字は綺麗とは言えなかったが、イワンは真剣だった。頭の中を先程の出来事が巡る。
“司祭は書架の鍵を忘れている”
“みんな、大事な事をなぜか認識していない。出来ていない?”
何度か手を止めながら。ぽた、と紙に垂れた黒いシミを見て、イワンは自分の手がガタガタと震えている事に気がついた。
走るのをやめてからだいぶ経つのに、心臓はまだ少し速い。現実感が薄れていく。まるで、敵地にのこのこやってきた冒険者みたいな心境だ。
“全部の中心にあったエドウィン枢機卿は”
ガリ、とペンを動かす。
ランプがぼぼぼ、と燃えて、どれだけ時間が経ったのか分からず、それでもイワンは手を動かした。
“エドウィン枢機卿は………………いきている?”
ぼん、とランプの火がかるく爆発するように大きくなった。集中していたイワンは肩を揺らし、椅子をガタガタと揺らしながら転びそうになった。
「……なんだ」
ランプは既に元に戻り、炎を中に踊らせている。
心臓に手を当てると、心配になるくらい早くなった鼓動が伝わってきた。我ながら驚きすぎだ。そうやってイワンが苦笑いをしかけた時。
コンコンコン、とノックの音が響いた。
「……ッ!!!」
イワンは咄嗟にランプを消し、口に手を当てる。
すべての息を殺して、椅子の上で石になった様に身を隠した。
コンコンコン。
返事はしない。
ルカだったら、イワン! ともっと乱暴に叩くはずだ。ティベリオ司祭ならば、どうかしたのかい? イワン、と優しい声で呼んでくれる。
コンコンコン。
ノックは一定間隔で続く。
イワンは扉から目を離せない。死んでしまいそうなくらい、全身が縮み上がって、勝手に震えてくる。
コンコンコン。
誰もいない。
誰もいないんだ、この部屋には。イワンは必死に、目を限界まで見開いたまま祈る。
誰も、誰も居ない!
コンコンコン。
コンコンコン。
コンコンコン……ガチャ
その時は、唐突にやってきた。
一番聞きたくなかった音と共に、ハリを失った老人の手が伸びてくる。
入ってくる。
豪奢な、遠目でしか見たことのない法衣を着た、エドウィン枢機卿が。
「はっ、はっ、はっ……!!」
イワンは呼吸が浅くなった。
ぬっと入ってきたエドウィン枢機卿は、膨れ上がった法衣のせいか、部屋の半分を埋める様に思える。
枢機卿は一度扉を振り返り、しっかりと手で閉めた事を確認したあと、イワンの方へと向き直った。
「やあ」
声は、なんだかあっさりと紡がれた。
エドウィン枢機卿は、イワンの部屋の窓から入る青白い光を受けて、笑った。作り物じみた笑みだった。
「なんだか色々起きてるみたいだけど、この部屋に来たのは一つだけ聞きたいことがあって、なんだよ」
見た目は初老のくせに、話し方は若々しい。イワンは気づかないうちに机にお尻を乗り上げる様に、扉からなるべく遠ざかろうと必死に身を捩っていた。だけど、石でできたこの部屋に逃げ場はない。
「なんで私を見るなり、逃げ出したのか、とかね」
ニコ、と。
法衣を着た老人は笑っている。答えを待っている様に。発狂しそうな恐怖と、眩暈がしそうな状況の中、イワンは遍歴の旅で培った勇気を必死にかき集めて、震える笛のような声で喉を鳴らした。
「だ…………あな……たは、……ころされたっ……て」
我ながら情けない声だとイワンは思う。
枢機卿は先ほどから表情が一切変わっていない。つまり、ずっと
「ああ」
と枢機卿は頷く。
「それがわからなくて、逃げちゃったんだ」
イワンは頷くことすら出来ない。
だが、枢機卿にとっては別にどうでもいいようで、イワンを無視する様に、部屋にある唯一の窓に顔を向けた。格子の嵌った、ボケた質の良くない硝子の向こうには、この部屋でのことなんか知らない顔した月が澄ました顔で浮かんでいた。
「死んだ、死んでない、ね。まぁ、うん。そうだろうね。だって、私は魔王だから」
はっ? とイワンの口から思わず声が漏れた。
だけど枢機卿──魔王は気にした様子もなく続ける。
「私はね、世界をより良い世の中にしたいんだ。晴れた休日の昼前に、散歩に出掛けて、道端に花が咲いていたら最高だろう? 私にとってはそれが人の生首ってだけで」
「大虐殺を……引き起こす気か……!」
絞り出すように。
涙目になりながら、しかし相手を必死に睨んでイワンは言った。魔王は意表をつかれたようにきょとんと目を丸くした。
「ぎゃくさつ? っ、ぷ、ふはははは!」
耳障りな、ずちゃずちゃという音の混じった笑い声が部屋に響く。収まりきらない声はイワンの脳を揺らして、吐いてしまった。
「そんな事したら、討伐されてしまうじゃない!」
ニッ、と魔王は白い歯を見せる。
そして両手を広げて、まるで太陽の光を浴びるように、うっとりとした表情で部屋の天井に何か見えてるみたいにはぁ、と声を漏らした。
「私はただ、美味しいご飯が食べたいだけなんだよ。休日の、散歩に食べる様な、ご飯」
イワンはもう、相手がだんだんぼやけて見えていた。
魔王は誰が聞いていようがお構いなしに、自分勝手な演説を気持ちよさそうに披露している。イワンはまた吐いた。
「ふつうの人でもいいんだけど、魔力やその他諸々がある英雄の方が脳ミソが“飛ぶ”、ほどおいしい。でもそいつらはたいてい強くて、簡単には倒せない」
うっとり。
魔王は笑っている。口の端から透明な涎が垂れ始めている。
「そんなジレンマに悩んでいた時に、見つけたんだ。はぐれものの、勇者。しかも、なんか、変なものまで付いてる!」
目からなみだがとまらない。
イワンはひっしにぬぐったが、なみだのいろはあかかった。
「世界にバレない程度に、暗躍して、フィラリオンとかに目をつけられない程度に、つまみ食いをするんだよ。大丈夫、バレやしないさ。その過程で何百人死のうが、世界の趨勢に関わらなければフィラリオンは
きもちがわるい。
ぐるぐるまわる。
イワンはまた、胃液しかない胃の内容物を吐き出した。
「君たちの大好きな聖女さまも、いまごろ山の隠れた祈りの泉で血を吐いてる頃だろうよ。あぁ、勘違いしないで! 僕じゃないよ」
なにも、なにを。
「仕方ないよ、だってこの国に“絶対討伐種”だっけ? そのうちの一体が向かってるんだから」
なにをいってるのか、わかる。
わからない。わかったそばから、わからないになる。
はなからどろりとちがながれた。イワンはそででぬぐうこともしなかった。
「バッタだよ、バッタ。何百、何十万のバッタ。翅の王。蝗害。世界各地に隠れていた群体が一気に! 聖都を目指して!」
ぼた、ぼた。
なにかがこぼれる。
なにかが、
なにが?
「いくら聖女さまでも、目は二つしかないからね。うん、きっと、とぉーっても苦しいだろうけど、視るしかないもんね。まぁ。仕方ないよ。あっ、君たちにはまだ情報が降りてきてないんだっけ? ま、いいよね。知ったところでって話だし」
「とにもかくにも、私が勇者を食べたら、きっともっと強くなる! そうしたら、多少味は薄いけど、他の国に行ってたくさんの人を、これまたバレない程度に啜るんだ! 身体中を。心臓、腎臓、肺、腸、気管まで」
「あぁ、楽しみだ、楽しみ!」
「おっと。なぜ、私がこんなにぺらぺらと話すか分かるかい?」
「だって、君はこの部屋を出るとき、覚えていられないからだよ」
「うん、もう十分私を知ったね。私と接触時間も、君なら十分だ。効き過ぎちゃったかな? 仕方ないか、直接だし、君は子供だし」
「なにか覚えてる?」
「わかんない」
「うんうん、仕方がないよ。だって、
「昨日の朝食は? 1週間前のガールフレンドが履いていた靴の色は? 私の指にはまっている指輪は何個だった?」
「わかんない」
「さぁ、私の名前は?」
「わかんない」
「君は何をしていた?」
「わかんない」
まるで寝ぼけたような、目をしっかり開いているのに、同じ答えをする少年を見て、魔王は満足そうに笑う。
「机の上の、それは?」
「わかんないんだ」
「処分しなさい、整理整頓は大事だよ」
「はい」
こうして、少年は、つくえのうえの紙クズをくしゃくしゃにして丸めた。魔王はニッコリ笑って、部屋をでていった。
「……あれ? なにしてた、っけ」
あとにはなにも、のこらない。
よるはまた、ふけていった。