吐き気と、寒気。
喉の奥から、いますぐ全てをぶちまけたい気持ちになった。
「ごっ……ふ、……ぅ……ッ……」
じゃばじゃば、と水の中を暴れ回る。どっちが上かなんて分かるわけが無いけど、偶然暴れた方は水面だったみたいで、息ができた。ルークは深く、咳き込みながら必死に酸素を貪る。
「ぅ……!!
喘ぐように呼吸をしたあと、飛び込んできた臭気に鼻がひん曲がったのかと思った。腐敗したものと、人には言えないもののにおい。
「はっ、……はっ……!」
ルークは汚水に流される身体を、暴れるうちに手に触れた鉄格子を掴むことで一気に引き上げた。服が身体に張り付くように重たかった。下に追いやってくる。だけど、一気に、冷たい湿った石の上に身体を投げ出す。そして、いちど思いっきり、胃の中のものをすべてすぐ横を流れる下水にぶちまけた。
「ぉ、ぇぇ……」
びちゃびちゃと音がする。
食道を通って、喉の奥までせり上がってくる。
しばらくそうしていたように思う。
ふと気がつくと、背中をさする小さな手があった。
涙目になりながらルークが癖のように、第一に周囲を見渡すと、トンネルのような地下水道にまで流されてきたようだった。壁の一部の石が蓄光しているように、ぼんやりと光っている。魔物よけ石だ。地下道は大抵、魔物の侵入経路になるから設置している都市がある。
それでも、地下水道は決して綺麗に手入れされている、という訳ではなく、ルークの掴んだ鉄格子は錆だらけで軋んでいた。
「はあっ……はぁっ……」
左右は暗く、闇がポッカリと口を開けている。
下水はルークより三十センチくらい下を流れていて、ルークの今いる場所は点検用の通路のようだ。鉄格子は右側を塞ぐように設置されている。
「ふっー、ふー……お、ぇぇ」
そこまで分析して、再度襲ってきた吐き気にルークはまた嘔吐する。背中を丸めながら、横隔膜が痙攣するように。
魔女はずっと背中をさすってくれていた。妙に慣れた手つきで、彼女は何も言わず。
普段なら暑いのも疲れるのも嫌だから剣になってルークに運ばれるのに、こんな暗くて臭くて、汚い場所で、膝をついてルークの背中に触れている。
「あり……がとう、もう、大丈夫」
「そんなわけないでしょ」
口の端を拭いつつ、ルークが言えば棘のある声で返事がある。
ぴしゃりと言い放った彼女の顔は、周囲が薄暗くてよく見えなかった。
記憶が途切れて、いきなり聖都にやってきた時。裁判所から逃げ出す時に、ルークは背中から貫かれるという不覚を取った。当初考えていた逃走ルートの目測と異なり、水路に墜落してしまったところまでは覚えている。そして、宿屋で目覚めるまでの間にカランコエがルークの身に起きた事を伝えてくれていた。
段々と暗さに慣れていく目を感じながら、ルークは流れる下水から距離をゆっくりとる。そして壁にもたれかかると、大きく息を吐いた。
「たましいが掴まれるのはどんなきぶん?」
皮肉げに彼女は言う。彼女はルークの前にいて、両膝に手をついて覗き込むように勇者を見ていた。真っ赤な瞳が薄闇に浮かぶように見えている。
いつのまにか、カランコエは
「きいてるの? それとも、耳がなおらないの?」
「聞こえてるよ、うん」
だから、まぁ。つまり。有り体に言えば、彼女は怒っていた。もちろん、怒られるのはルークだ。
ぼんやりとした酷い地下道でもカランコエの花みたいな微かな香りはふわりと香る。
「きぶんは?」
「……だいじょうぶ」
ルークは自身の手のひらをぐっぱ、と確認した。指先に痺れはない。身体はひどく疲れてはいたが問題なく動いた。だけど、体の中がおかしい。決して手の届かないところが寒かった。実際に冷えている訳ではないが、なにか大事なものが、ごっそり欠けていたように。その感覚を表現するなら寒い、となる。
「カランコエは大丈夫?」
「あなたがそれをきくの?」
呆れ顔で魔女は言った。
彼女は宿屋で、ルークの目が覚めたあとに“あなたの魂を、ほとんど掌握した”と言っていた。してしまった、というのが正しいのか。
伝えられたとき、ルークはあまりピンと来なかったが、彼女に言わせればそれはとても酷い状況なのだという。他者に、人の根幹である魂を握られ、掴まれてしまっているということは。
こういう話をされるたび、ルークはいつも彼女が禁忌である魂の変形が出来る存在なのだと思い出す。ルークでは思いつきもしない箇所を弄れる存在なのだと。
「ねぇ、きちんと目はみえてる? これなんぼん?」
「可愛らしい指が三本。大丈夫、きちんと身体はあるよ」
カランコエがルークの魂のほとんどを掌握したからと言って何が出来たかといえば、ルークの魂の分割が出来るようになった。ルークの存在を規定するものを、分割できるようになったのだ。なってしまったのだ。
だから、あの戦闘では、九割の魂をカランコエが掴んだ状態で、逃げるためにマグノリアの前には一割だけ差し出した。
爆破されたのはルークの一部だ。あとは、無数に鍛造された剣に混じって水路に流れて、カランコエが再び勇者を鍛造すればいい。事前にカランコエがルークの魂を掴んでおけば、設定しておいた剣を起点に鍛造できる。これがルークが立てた作戦で、マグノリアから実際に逃げ延びた理由でもある。
「…………」
青年はちょっと項垂れて、流れる下水に目を向けた。じゃぱ、じゃぱと時折音がする。
今のルークの魂は九割の状態だ。エネルギーがあれば、魂の欠損部分は復元する。通常ではあり得ないことだ。だが、通常では無い事にルークの魂は何度も鍛造されていた。世界の禁忌を犯した魔女と契約を結んでいた。
そして、魔女は戦闘のたびになんども勇者を鍛造していた。それが、まるで鉄を叩いて、何度も何度も鍛え上げるような効果を発揮したのだ。
ルークの魂はいちどに大部分を失いさえしなければ再生可能となっている。ちょうど、ナイフで切った人差し指が時間を置いても指紋を再生するように。鋳型はカランコエが持っているから。
だから、ルークを殺したくば、カランコエも同時に消し飛ばさないといけない、ということになっている。咄嗟に魔女が魂を切り離せば、どんな後遺症が出るにせよ、勇者は勇者なのだから。ルークは復活がしやすくなった。一度に大部分を失ったあとに、再生して元に完璧に戻らなかったとしても、何が欠けてしまったの分からないのは本人だけなのだから。
“1割なら、なんとか”
とはカランコエが示した基準であった。
ルークが問題なく元に戻れる基準。魂の安全ライン、なんて言うと変かもしれないが。とにかく彼女はそう囁いた。そして勇者は実行した。
こうして青年は、化け物にまた一歩、自分で歩み寄ってしまったのだった。
「どのくらいで回復する?」
壁にもたれたまま勇者は自分の靴を億劫そうに脱いで、中の水を出す。声はどこか気楽な調子に聞こえさえした。
「さぁ。みっか、とか」
そっか、と言いながらまたブーツを履き直す。
ぐしゅ、というくぐもった音と、不快な濡れた感触がしたが勇者は眉一つ動かさなかった。
じゃば、じゃぱ。
水の音がする。そこに混じって、天井──つまりは地上の方からカツンと音がした。
音に反応してバッとルークが顔を上げる。よくよく見れば、ルークと少し離れた場所には天井に、上に伸びるように縦に人一人分くらいの穴が空いていて、そこから聞こえた音らしい。しばらく警戒したあと、何もないと分かると勇者は握っていた短剣をゆっくり下ろし、またずるずると背中を壁につけながら座り込んだ。
「気のせいだね、大丈夫だよ、カランコエ」
「そう……」
静寂があたりに満ちている。周囲に人の気配はないし、一息つけたように思えるが、未だ彼は追われる身で、いつ追手が来るかわからないのだ。状況は改善していない。
「いつまでもここじゃいられない。たぶんそのうち見つかる。だから、少し休んだら動こっか。魔王の情報も集めないと……」
どこがいいだろうか、酒場とかかな、それとも街の情報屋にあたってみる? なんて呟きながらルークは地下道から脱出するルートを探して目を動かし始める。
「むちゃね。あなた、死ににいきたいの?」
「いや? でも行かなきゃ」
「どうして?」
「魔王が居るから」
勇者の目は忙しなく動く。魔女は彼の斜め前で繰り返すように問いかけた。
「たしかなの? それは本当に。ぜったいに? わからないわ、そんなの。なのに、また、ふつうの人たちに追われて、身体を斬られて、爆発させられにいくようなマネをするの?」
ルークの目は脱出口を検討し始める。
天井にある縦の通路はどうだろう。
ジャンプすれば届くかもしれないし、点検用の孔なら梯子のような手すりもあるかもしれない。だが、落ちたら下水だ。さらに出た先は街中かもしれない。兵士に見つかったら一大事だ。
「あなたは不死身じゃないの。いい? わからないならもういっかい言ってあげる。しなないわけじゃ、ないの」
鉄格子の向こうはどうだろう。
この格子はきっと、街の外から来る外敵から街中に続く下水を守るものだ。だからこの向こう側はより辺鄙な場所という事になる。うん、それがいいかもしれない。そっちなら、上手くいきそうだ。まずは脆い部分を切断して……。
「ねえ、こんかいばかりはむちゃ。ダメよ」
「いや、でも……」
格子の向こう側を、首を動かして確認しながらルークは言った。もう少しで奥の様子が分かりそうなのだ。目を凝らせ。よく見ろ。予測できない危険はないか。道の先はどうだ。出られる広さはあるか。
「だめ。しんじゃう」
「いや、だって、まだ、
大丈夫でしょ?
その言葉は口から出る事はなかった。
ばしん、と。勇者の頬を、魔女が思い切りぶったのだから。
「っ!? カランコエ、何す──」
さっきまで、どのルートで脱出しようか観察していたルークは、突然の出来事に目を白黒させて、じんじんと痛む頬を押さえる。カランコエに
振り返る。何をするんだ、急に。痛いじゃないか、なんていう批判の気持ちを思わず込めて。
「あ」
そして、自分が一体
「ばかじゃ、ないの……?」
ルークの目の前の魔女は、両手をきゅっと自身の服の裾を掴んで震えていた。声は、がたがたになって、いまにも溢れてしまいそうだ。ルークは自身が致命的なまでに救いようのない事を言ったのだと、遅まきながらに理解した。
「ばかじゃないの?!」
キィンと、魔女の声が下水道に響く。今まで聞いたことのないような、カランコエの大声だった。普段感情を見せない彼女の、特大の感情だった。
「ねぇ、どうしてそんなに、そんな風なの?」
ルークは何も言えない。何か言わなくちゃいけない事はわかる。目の前で泣かせてしまった子に対して、弁明なり、何なりしなきゃいけないと。
でも、全身の血が凍りついたように、口は動かなかった。呼吸が浅くなる。現実感が一気に襲ってくる。いまルークの前に居るのは、ただ傷を治してくれる便利な存在ではなく。戦闘を補助してくれるような助かる存在でもない。
真っ赤な瞳をさらに赤くして、真正面からルークを見ている女の子だった。
「どうして、じぶんの幸せもねがえないくせに、じぶんなんてどうでもいいクセに、ひとのしあわせはねがえるの!? “誰か”のためにじぶんのものをらんぼうにあつかうの……!?」
怒っている。彼女は怒っている。
白い髪を振り乱し、ぽろぽろと雫をこぼしながら。口元を歪めながら。
ルークの胸が、ほんとうに張り裂けそうなほど痛かった。後悔の痛みだった。無遠慮と無配慮と。自身の未熟さと、短慮さで、いつも気遣ってくれている子を傷つけた事に対する、取り返しのつかない己の愚行に対する痛みだった。
それがこんなにも、胸を突き刺す痛みだとは、知らなかった。
彼女は続ける。地の底から響くような声で。心の奥から痺れるような声で。
「じぶんがきらいなんでしょ、ゆるせないんでしょ」
そうなんでしょ、と。
詰め寄るように。なじるように。
「なのに、どうして、そんなになってまで、うごくの?」
彼女は小さな指をびしりと勇者に突きつける。
なんどもなんども、声帯を揺らしている。
「あなたは、ずっと助けてきたのに」
カランコエは言う。
そう、彼女は見てきたのだ、と。
しぶしぶ着いていく事になった、勇者との冒険の旅で。
「苦しくても、かなしくても、さみしそうにわらって、それですませてたのに」
彼女は見てきたのだ。
勇者は、こんな軽薄そうに声を掛けてきたクセして、最強でも万全でもなんでもなく。自分の至らなさに歯噛みして、人に頼られて自信満々なフリをして。悩んで。一人で泣いて。
「ようずみになったら、つごうが悪くなったら捨てられているのよ。ねぇ、あなた、いま捨てられてるの。いのちなのに、いきてるのに」
カランコエは見てきていた。
本当は剣を振るのも嫌で嫌で。ときどき夢見が悪くて、真っ青な顔に汗だくで飛び起きて。誰にも話せない悲しみを抱えて、また悲しみのある争いの場に出ていくのを。
「そんなせかいおかしいわ」
カランコエは見てきた。
すぐそばで。そして、おんなじだと思った。
彼女の大好きだった姉たちと。誰かの幸せを願って、報われるべきなのに。優しくされるべきなのに。それなのに、都合よく搾取される命を。それは、勇者ルークとよく似ていた。
「いみもなくころされた人がいる。たくさん血を流して、だれかのために生きてきたのに、うらぎられた人がいる。がんばって生きたのに、あとから全部知ってるみたいな顔で否定されたひとがいる。そんなの、おかしい」
ついには魔女は、ぐしゃぐしゃの顔のまま、壁にもたれかかっている勇者に掴み掛かった。だけと、それは喧嘩のようなものではなく相手の胸に顔を埋めて、すすり泣くものに似ていた。
「わたしは、──せかいが救われるべきだとは、おもわない。わたしは、すべての今を、否定する」
世界は優しくしてくれない。
世界は救ってくれない。
地面におちてる命は、虫ケラは、知らん顔。
彼女はぽつぽつと、雨が降るように、ひとことひとこと言葉を紡ぐ。
「あなたは世界に、人々に尽くすけれど。
──世界は、ひとびとは、あなたに尽くさない」
こつん、と。
彼女は勇者の両足の間に身体を滑り込ませ、呆然としている青年の額に、自分の額をくっつけた。しっとりと、ひんやりが混ざった感触。
彼女は囁くように、答えを求めるみたいに。
囁く声で言った。
「せかいなんて、救うかちはあるの? ねぇ、あなたは、なにがしたいの?」
何がしたいのか。
ルークのあたまの中はぐちゃぐちゃだった。
自分の言葉で大事な子を傷つけた後悔。自分への怒り、不甲斐なさ。そして、現状の分析。
全部がまざりあって、まとまらなくて。でも、不思議と静かだった。何がしたいのか、なんて。今まで聞かれた事があるようで、なかった。
何がしたいのか。
息が詰まる。答えは、喉の奥から勝手に出てきていた。
「生きてたいよ……」
そう、言った言葉ははじめて自分の本当の言葉のように思えた。みっともなくて、いままで人に隠していた気持ちを、露わにするのは怖くて、嫌で、でもどこか吹っ切れたような爽快さもあって。失望されると思って、見せたくなかった汚い部分。
「ぼく、は……いきてたい」
ルークは言った。
あの、茸の魔王が出て、死んでこいと暗に言われた時も。
迷宮で、絶対に勝てない奴相手に、後輩を逃すために立ち塞がった時も。
「い、ぅ、……ぅぅ……」
涙は、勝手に目の奥から溢れていた。口からはみっともない声が漏れていた。無意識のうちに両手で抱きしめていたカランコエは、そっと頷いてただ話を聞いてくれていた。
「ぼくは、ぼくは……だれにだって、しんでほしく、ないんだ……」
絶望の孤島で、魔王の毒にやられて、みんなが倒れた時も。
何千年も歴史がある帝国で、仲良くなれそうな勇者が一条の雷になって空高く飛び上がるのを見たときも。
「だれだって、いきてて、ほしい……! みんな、みんなが……」
魔術の学校で、友達の姉に剣を向けていたときも。
砂漠の真ん中で、みんなの想いを背負って剣を振り下ろす時も。
「ぼくは! ……しに、たくない……いきてたい」
ルークは泣いた。情けなく、自分より一回りも小さな子に縋り付くように。魔女も黙って同じように雫を垂らしながら、勇者の長い髪を撫でていた。
「しなせたく、ない。生きててほしい! いきてて、ほしいよ! だれにだって!」
手を伸ばした先で死んでしまった人がいた。
戦場からかえって、耐えきれずにみずから向こうにいってしまったひとをみた。あの時、自分はなんて言った? ルークは自問自答する。何百回、何千回と繰り返した自問自答を。
もっと上手くやれたら、あの人は死なずに済んだかな、と泣きながら聞いてきた兵士に、ルークは何と言った? “そうかもね”と。何も考えずに言ったのだ。
「あ、あぁ……」
孫が帰ってこなくて、縋り付いてきた老人がいた。
一人残された希望なんです。お願いします、お願いします、勇者さま。孫は、忘れ形見は、助かりますよね、と聞かれた時、ルークは何と言った?
“きっと助かりますよ”、と言ったのだ。
「だれも、助けられなかった! だれも、いきてかえすことはできなかった! ぼくは、僕は、っ……!」
そうだ。ただ、話したかったのだ。もういちど、はなしたかった。
ルークは涙と鼻水の混じった不明瞭な言葉で繰り返した。
みんなと笑って、ご飯を食べたかった。麦のパンと、すこし薄いシチューを、じゃがいもが入った、ありきたりなやつだけど。
それを、たべたかった。みんなと。ずっと、なんの変哲もないものを。
「だからっ……! アスナヴァさんがいて、……シュンカちゃんがいて、カランコエが真面目な顔で魚の骨を取ってるのをみたときに、……」
震える声。
溺れるものが藁を掴むように、白い髪をきゅっと抱きしめる。情けない顔で彼は言った。
「なんかさ、泣きそうになっちゃって」
聞く人は、世界を憎んだ魔女だけだ。ルークのそばにいた魔女だけだった。おかしいよね、と勇者は言いながら続けた。誰にも言わなかった独白を。
「おもっちゃったんだよ……」
その時にさ、と。
──ずっと、この景色を見てたいなって。
裏切られても、世界に救う価値はあるか? と魔女は言った。
大それた夢じゃなくて、ただ優しくて、穏やかな食卓を囲みたいだけだ、と勇者は答えた。
「いきてて、ほしい……でも、うらぎられたのは……追われるのは、かなしいよ」
正確には、裏切られてなんかいない。ルークもそれはよく分かっている。魔王の脅威はすさまじいのだ。大勢を守るために、少ない部分を犠牲にするやり方は褒められたものじゃないけど、それで助かった歴史があって、今がある。だから、疑わしきを切り捨てる。人類という種を守るために、余計なことは考えず、即座に防疫をする。すこしでも躊躇えば、酷い事になりかねないのだから。預言者がダース単位でいた国が、中に入り込んだ一体の魔王に気がつかず滅んだこともあったのだから。
だけど、勇者は泣いた。
分かっちゃいる。分かっちゃいるけど、覚悟していたよりもずっと、苦しかった。
「なら、どうしたい? せかいなんて、つくりなおすべきだと、わたしは思う」
「そこに、カランコエはいるの? アスナヴァさんや、シュンカちゃんは、いるの?」
「…………」
「焼きたての美味しいパン屋は? ミルクが自慢の農場は? シチューに使う、野菜を売ってくれるひとたちは?」
「…………」
魔女は答えなかった。
それが、答えだった。
「僕が、僕たちが、こんなに悩みながら、わからなくなりながら、身体を引きずって生きているなら」
勇者は言った。
さっきよりも、幾分か落ち着いた声で。
「きっと、ほかの人も“そう”なんだ。同じなんだよ。僕たちの苦悩がみんなに見えなくて、理解されづらいならきっと」
なおさら。
「他の人も“そう”なんだ」
苦しんで、生きているひとがいる。
人混みに紛れて、歩いている人がいる。
朝日が嫌な日があっても、誰かに挨拶をしている。
やめたい、挫けたい。苦悩は理解されづらい。
自分も誰かの苦悩を、見過ごしてきてしまったかもと、後悔もする。
それでも、生きている。
「そうだと、ぼくは思う……」
途切れ途切れになりながら。ゆっくりと自分の中から言葉を取り出すように、勇者は言った。
「だから、そう考えちゃうから、僕はせかいを憎めない。決定的に、恨んでやる事ができないんだよ、カランコエ」
魔女は勇者から少し離れて、お互いに向き合って座っている。
カランコエ、僕はね、と青年は不服そうな顔をする魔女の髪をとかしながら、今度は穏やかに言った。
「怒ったあと、いっつも惨めな気分になるんだ。あぁ、怒んなきゃよかったなって」
それは事実の告白のような。悔やむような響きを伴っていた。
ルークは眉を下げて、困ったような表情になった。
「怒ることが、得意じゃ、ないんだ。だから、だからね」
だからこそ。
「君の怒りは愛おしいよ、カランコエ。何かに怒れる、カランコエのその気持ちは、暖かいものだから」
魔女はキョトンとして、口元を微かにあげた。
真面目な顔して、勇者がおかしなことを言っていると思ったから。
「なんなの? くどいてる?」
くすぐったそうに、すこし腫れた目元で彼女は笑う。
それに勇者は答えず、茶化しもせず。真剣な顔で彼女の手を取り、目を見つめた。
「本心だよ」
これに今度は魔女が驚いたように目を白黒させて、勇者を見上げる。
えっ、と。
彼女がさらに疑問を口にする前に、勇者は微笑んで、だけど決意を秘めて、魔女の手に口付けをした。
「……僕はやるよ。生きてるひとを。平和を、ぼくができるやり方で、まもるから」
ね、と言って。
たぶん、彼はこう言っているのだろう。
“だから、助けて欲しい”と。カランコエはもう、なんとなく分かってしまった。
反論は出来た。お前は何も分かってない。問題は解決してないし、世界はおかしいままだ。
「カランコエ」
だけど、こうやって真剣な顔に、困った表情を少し付け加えられてしまうと、もう。
「…………はぁ」
なんだか納得できないまま。魔女はまた、丸め込まれているなと思いながら。それでも、頭の中に反論は残しつつ。
「……こんかいだけよ」
と、言って勇者の頬をかるく平手打ちするのだった。