濡れた身体を引きずって、地下水道のアリの巣じみた複雑な道を辿り、たどり着いた扉。
その先に広がる木造の地下室にシュンカがパタパタと先んじて入っていった。
地下水路に直接つながる地下室。
なるほど。これなら見つかる可能性も低いだろうな、とルークは感心した。
『どうぞ、濡れたままでも大丈夫でございますから』
と子龍は言い、ルークはじゅぶじゅぶと音を立てるブーツのまま扉を潜った。扉の先は通路が一メートルほど続き、部屋に出る。中は木造で、天井からはオレンジ色の光を放つランプが吊るされていた。中は暖色に照らされていて、端のほうは影がこびりついたように暗い。
『お履き物はそちらで。ここはひとまず安全です』
ぴ、とシュンカが指し示す先には、古い木の書き物机と、すこし離れた位置に背もたれの一部が折れているスピンドルチェア。
部屋の広さはそこそこあって、五メートル四方ほど。十分に歩き回れるくらいの広さがあった。八人くらいが入れば窮屈だが、ルークとカランコエ、シュンカだけならば広い。
埃っぽい、と彼女が言っていた部屋とはここか、とルークは鼻を鳴らしながら思った。
『この机にしまってあったものが、先ほど申し上げました魔王に関する走り書きなのですが』
シュンカは机に止まり、器用に引き出しを開き中から少し汚れた紙を取り出した。ルークは部屋の中へ癖のように目を走らせる。
『お座りになられないのですか? ルークさま』
「ん? あ、あぁ」
左手側に棚やベッドが並び、床には壊れた木箱や割れた瓶など雑多なものが転がっている。右側には書き物机が壁に向かって設置され、右奥には上に続く階段。踏み板は人の往来が多かったのか、かなり痛んで真ん中にかけて歪んでいる。だが耐久性はありそうだ。階段の終わりには落とし戸があり、上の様子は分からない。
すぽん。
ブーツを椅子に座り脱ぐ。
外気に晒された足が疲労をじっくり伝えてきた。すぐに履き直せるように紐を軽く緩めたままルークはブーツを揃えて置いた。
シュンカは取り出した紙を机に置き、いちど確認するように目を通すと椅子に座るルークに目を合わせた。勇者が頷くと彼女は喉を鳴らした。
『ええ、魔王ですが、簡単に言ってしまいますと魔王について知れば知るほど、その事象をうまく認識出来なくなる、と言うことです』
ふぅん、と声がした。カランコエが空いている椅子にいつのまにか座面に両足を揃えて座っていたのだ。彼女の白い髪は、天井のランプに照らされて薄いオレンジ色に染まっていた。
『どうやってそれを調べたのか? という疑問をお持ちになるかも知れませんが』
こういう時、シュンカは迷わない。
人に説明するのが得意な子なのだ。
『わたしたち──アスナヴァさまとわたしがペアで調査をしている段階で、協力者の方が突然魔王についての記憶を喪失……うーん、何がおかしいのか、何について調査をしていたのかを忘れてしまうという事態が起きたのです』
シュンカの話はこうだった。
実はルーク達は二週間ほど前に聖都に辿り着いていたというのだ。これは彼女の見た走り書きが日記形式のようであり、日付が記されていたことから分かったらしい。
『いくつかの箇所は塗りつぶされているのですが……』
かしゃん、と音がした。椅子に膝を抱えて座っていたカランコエが足を伸ばして、天井から垂れ下がっている鳴子のようなものに当たった音らしい。部屋の空気はぬるく、湿気はあまりなかった。
『どうやら、ルークさまとランちゃん、わたしとアスナヴァさまに分かれて魔王の調査を行っていたらしいのです』
らしい、というのは彼女の記憶もルークたち同様、突然切れてまた目が覚めたように繋がったからだ。
続けてシュンカは魔王は何処にいるのか分からず、行方不明者を中心に痕跡を追っていた事を説明した。
何かいうたびに尻尾がゆらゆらと揺れている。梵天のような羽毛のある尻尾。蒼燕帝国の夜明けに似た彼女の色。
『調査の方法は、情報屋などを用いて聞き込みを中心に行っていたようです。……なんだか自分に身に覚えのない自分の行動を説明するのはすこしヘンな感じがいたします』
と言ってシュンカはうーんと唸った。
ルークは首を伸ばすように傾ける。骨からぱきぱきと音がした。
『具体的には、街の一部地域に行方不明や不可解な出来事が集中していれば、そこを中心に調べれば何か手がかりが得られるだろう、との考えで』
そして、シュンカたちは街の情報屋を何人も使い、調査をした。人とのコミュニケーションや交渉ごとに慣れているアスナヴァが居たならば容易い事であったのだろう。もちろん、シュンカも口で相手を説得するのは得意な部類だ。
こうして調査をすると奇妙な痕跡が見つかる。
『聖都の、比較的に貧困な地域では数もそこそこだったのですが、それよりも多い場所が一つだけあったのです』
行方不明や事件の数が。
貧困地域はその性質上、事件の数が多くなる。もちろん記録されている限りでは。だけど、それを上回る場所があったというのならば。
「それは?」
それは、間違いなく“異常”だ。
ルークが聞けば、シュンカはゆっくり金の瞳を瞬かせた。
ルークはそれだけで彼女の答えが分かった。
「聖堂、か」
『はい』
調査の結果、聖都の聖堂を中心とした地域で、不可解な事件や行方不明の数が増えていた。それも、目に見えて分かるほどに。
聖堂自体は、市街地から離れた場所にある。
デア・ルクス・レギリオを代表する霊山の途中に作られていて、市街地を見下ろすような形で斜面にくっついたような形だ。聖都を代表する建築物の一つである。
『ええ。ですから、中を調べようと言うことになりまして。わたしたちは外部のものですから、侵入はできません』
聖堂では基本的に、一般開放されている場所以外は聖職者とその身辺を世話する者しか入ることは出来ない。信徒や観光に来た者たちは荘厳で威容溢れる場所しか見られないのだ。聖職者は裏側にある、質素で地味な場所で日々の生活をしている。
『なので聖堂内部に協力者を得ました。わたしの“眼”の力を使った交渉の結果だったようです。そしてその方に調査をお願いしていたのです』
聖堂の中ではおおよそ二百五十人ほどが生活をしている。
聖職者と見習いは百五十人前後。そのほかは身の回りの世話や警備、外部から招かれている学者や特別な保全作業をする技術者などだ。馬の世話をする馬丁もいる。これはソラナム王国を発つ前にフローラーリア姫に教えてもらった情報だ。
内部の人員構成をここまで大っぴらにすることは通常考えられない事だが、聖堂はあくまで祈りの場であり、武力とは関わらない、という理念のもと公開されているらしい。
わざわざ姫が資料を取り寄せてルークに教えてくれた。あの蒼い髪と、屈託のない笑顔で。
ルークが聖都に行くと言えば難しい顔をしていた。どれも覚えている。帰らなければならない。ルークの集中はより一層、シュンカの話に沈んだいった。
『調査は定期的に情報を共有するという形で行われました。協力者の方と場所を事前に決めて、そこで合流して話し合うんです。初めは特に報告もおかしな点はなく、だからこそ協力してくれている彼も億劫そうでございました』
ふぁ、とあくびの声。
カランコエは眠たげな目を、いつもよりさらに眠たげにして話を聞いていた。最後に休んだのはいつだったか。天井に吊るされているランプの光がすこし揺れた。
瞬きをする。
視界が暗くなる数秒で、くらりと闇に引き込まれそうになる。太腿に力を入れる。世界が少し鮮明に戻った。
『すこし、休まれますか?』
「いや、いいよ。続けて」
『ですが……』
「大丈夫、気絶する前に詰め込んでおきたいから」
『流石に気絶する前にベッドに運びます……。では。その彼ですが、ある時、聖堂内で特定の物事を覚えていない人たちがいる、と報告をしてくださって』
シュンカの説明は澱まない。
彼女の中で情報は整理され、噛み砕かれ、昇華している。
ランプが揺れる。炎を使っているのか、魔術なのか。あとで武器に使えるかもしれないから確かめなければな、とルークは思う。
聖堂で、何かを覚えていない人たちが出た。何か?
「特定のことって?」
ルークは意識して息を多く吸い、脳にまで酸素が運ばれるようにした。瞬きを大きく繰り返す。シュンカの利発だけど柔らかな声は、他に音のない地下室に染み渡るようだった。彼女の声は、彼女の香りと同じで静かで深く、落ち着いているのだ。
『たとえば、書架の鍵のありかであったり、組織図の構成、予定されていた祈りの時間を忘れる、管理していた祭具の数が合わないので管理簿を見ても伝える時には忘れている、などです』
「それは……」
間違いなくおかしい。
聖堂にいる人たちは基本的に勤勉で真面目で、清貧なのだ。
それが、単なるミスで片付けられないようなことを起こすなんて。聖堂内で混乱は起きなかったのか、とルークは思った。
『彼は、これらは個々の事象ではなく一つのものを中心として発生しているのではないか、と疑っておられました。そのころ、彼が情報を共有する時間に遅れることもあったのです』
遅れる、とはその彼が、シュンカとアスナヴァが指定した場所に時間通りに来なかったということ。
ルークならばまず裏切りか、情報が流れているとか、誰かに尾行されている可能性を考える。
当然、シュンカやアスナヴァも考えたのだろう。だが事実は違った。シュンカが口を開く。
『彼は不思議に思っておりませんでしたが、どうもわたしたちと合流する場所への道順をうまく思い出せず、迷っていたというのです』
また、同じような言葉が出てきた。
忘れる、思い出せない、そういった類の言葉。
カリ、と書き物机にとまっているシュンカの爪が、天板の木材を引っ掻いた。彼女は『あっ』と声を上げて少し跳ねたが、もともと机はそれなりに傷がついていたので、目立つことはなかった。
こほんと咳払いをして、彼女が話を続ける。
『初めは、お察しの通り協力者の彼とわたしたちはギブアンドテイクの関係だったのですが、調べるうちに彼が自発的に動いてくださるようになって』
彼の立場になって考えてみれば、外部の見ず知らずの人間から自分の所属している組織の変なところを調べろと言われたのではモチベーションも何もなかったのだろう。
特に、何も変じゃないと思っていれば。
『ですが、続けるうちにもともと予定していた範囲を超えてまで調査に協力してくださるようになって。彼はもう少し奥に行く、と報告の際に言っておられました』
そう。彼は動いた。
何かを感じ取って。彼は動いたのだ。そして──
『すべての中心にある“なにか”を探りに行くと』
人の話を聞くと、人物像を頭の中に描こうとする。そうすれば、相手の思考の癖がだんだん読めてくるからだ。ルークは調査に協力していた“彼”を思い浮かべた。
複数の顔と性格の候補が生まれて、ぼやけていった。
『止めました。時期尚早だと。情報が出揃っていない中で進むのは危険だと。ですが、彼は別の人物の連絡先をわたしたちに紙で渡して、口では引き時を見極めると言っておられながら……出来る限りを尽くされてしまったのです』
ルークには彼の思いが分からない。
彼の思考や、どんな気持ちで“そう”したのかが分からない。
だけど、事実だけがある。彼がこうして独断専行にも思える行動したことの是非は分からない。
だけど、そのお陰でルーク達はいま情報を得られている。それだけが事実だった。
『渡された連絡先は、彼の親しい人で、もし彼に何かあっても調査が継続できるようにと。そういうものでした』
木の擦れる音がして。
カランコエが座る椅子が軋んだ。
『そして次の情報共有の日』
声が反響する。
喉を動かして、腹に力を込める。
へばりつくような微睡は、少しだけ引いてまた強くなった。
『彼は来ませんでした。連絡が無くなりました』
まさか、とルークは言った。
自分の発言が遠くに聞こえた。
『いえ、生きてはおられたのです』
椅子の背もたれが身体に感じられる。
頭が重力に負けそうだ。だけど情報は入ってくる。
『ですが、わたしたちとの約束を忘れておられました。より正確に表現をするならば、記憶の片隅にはあるのですが、なぜそんな事をするのか分からないと言った様子で』
……
『何度も説明を致しました。聖堂で行方不明が何人も出ていること。魔王がいるかも知れないこと、そして、探って欲しいということ』
……
『彼は、何を言っても上の空で頷くばかりで』
データ自体は残る。
たとえその事象について、魔王の影響を受けたせいで何も思わなくなったとしても。存在自体は無くならないのだ。認識がうまくできなくなるというだけで。
だから、まだ魔王の被害を受けていない人間が見れば、“おかしい”と認識できる。
シュンカが言っているのはそういう事だ。
忘れるのか、認識できなくなるのか。
なんだかよく分からない。
そうだ。この
重くなる頭でルークは繰り返した。
魔王の輪郭を曖昧にして、どこを切り取って認識していいのかが分からない。
混沌としている。まるで光が呑まれる闇の穴のように。魔王に関する情報は歪曲し、変形し、正しいものが見えてこない。
これが今回の魔王なのだ。
情報をまとめる。
魔王の情報を。曖昧で、大きな輪郭をなぞることしか出来ていないような情報を。
魔王は、いる。
おそらく。
そして、その魔王は、魔王に近づく情報に影響を与える。
知らずその情報を受け取ってしまった人は、その情報を忘却に近い状態にされてしまう。そして、その異常に気が付けなくなる。
恐ろしい。
人の根幹は、信念。
信念のもとは、記憶。
大事なものを失って、進めるのか。
道標をなくして、どこにゆけばいいのかわからなくなって、魔王すら曖昧になって。
なんて、恐ろしいことなんだろう。
そこでふと、ルークはこれまでの話を総括していて、浮かんできた疑問を口にした。
「あれ……そういえば、その“彼”の名前は?」
眠りに落ちる直前で、思い出したように。きっと口調はいつもより緩やかだったけど聞き取れたはずだ。
シュンカは不思議そうに首を傾げた。
『それは、重要ですか?』