判然とせず、模糊として。
彼女は漂っていた。
あたりは暗く、澱んでいて混沌としている。
ありったけの具材を、見境なく、相手を想わずにぶち込んだシチューのような様相だ。つまりは最悪に近い。
『あれ? なんでまだ勇者が見つからないんだ?』
意識の狭間を。起きてるのか起きてないのか。外の音がぼんやりと聞こえるところで、彼女はいた。
ぐつぐつ煮えたぎる場所に。
『細切れになった? いや、いやいや。生きてるよね、早く捕まえよう。そして、早く食べよう』
ぼんやりと。
ばらばらになる思考を眺めながら。
消化されていく感覚に、何も抵抗できないまま。
『食べよう……うん、うん! あぁ、楽しみだ。愉しみ! 勇者、ひひ、きっと脳もうんまいんだろナァー!』
魔王の中で。
徐々に消えていきながら。
待っていた。
──だ、ん な
◆
ぱちりと目を覚ました時に、埃っぽい匂いがまず鼻をついた。
ギシ、と軋む音。木のベッド。
見えるのは、覚えのない木の天井。少し黒ずんでいる。腰から上にはざらついたけばけばの毛布が掛かっていて、くしゃくしゃのシーツが体の下にあった。身体が重たい。上半身を起こすのに意志を要する。寝起きだからか。
ルークのいるベッドの右側には、白い髪を投げ出して、魔女が体を丸める様に眠っていた。勇者が上体を起こした時に毛布をそっとどかすと、お腹の上ではシュンカがくうくうと寝息を立てている。
だから暑かったのか。ルークはなんとも言えない顔をした。
息を吸う。
思考がクリアになっていく。
今の場所は────聖都の地下道から繋がる地下室。
そうだ。あの臭くて狭くて、じめじめした寒い地下水路を抜けた先にある地下室だ。目を凝らせば、部屋の壁に水路につながる通路が見える。確認をしていく。状況を。
そうだ。今の状況は────寝落ちするまで魔王の情報を叩き込んでいた。
くうくうと寝息を立てているシュンカをルークはそっと撫でた。ずいぶん彼女も頑張ってルークを見つけて、説明までやってくれたものだ。この小さな身体に秘められたエネルギーには、いつも驚かされる。そして彼女の聡明さにも。
体の状態は────異常なし。喉が渇いてうまく唾を飲み込めないくらい。顔を洗いたい。ルークの使える身体強化以外の魔術は水で、こう言う時には便利なのだ。あとで使って顔を流そう。
今の目標は────どうにか魔王に接近し、倒すこと。その方法をこの孤立無援の聖都で見つけ出すこと。
いまの状態で助けは────ない。
「よし」
ルークは小さく口に出した。
確認終わり。
まずはお腹の上のシュンカを両手でそっと抱き上げる。ずしりと少し重たい感覚。鱗のつるつるした下に体温を感じる。撫でる。鱗をこしょこしょと。羽毛が揺れた。寝息は続いている。だけど、なんとなく。ルークは勘でぼそりと呟いた。
「寝たフリは、悪い子だよシュンカちゃん」
『あっ、……あ!』
ルークの言葉に、ぴく、と尻尾が反応した。そんなつもりはなかったのか、自分が反応してしまったことに慌てて、彼女はヘンな声を漏らしてひと通り、慌て翼を動かすのだった。
埃が舞って、ルークはくしゃみをした。
◆
現在ルーク達がいるのは、八人は入れるだろう地下室。そこを贅沢にも三人で使いながら、ベッドから立ち上がった。
シュンカはとっくに目覚めていて、部屋にある机でなにやら作業の準備をしていた。ルークはベッドの向かい側に設置されている棚まで歩いていって、ゆっくりと開ける。立て付けの悪い棚が音を立てた。
棚の中には水差し。どうやら定期的に交換しているようで、腐った臭いはしない。シュンカに先ほど聞いた限りでも、飲めるものらしい。陶器のつるつるした持ち手を掴んで一気に傾けた。
ぬるめの水が喉を伝いながら、ごくごくと、思っていたより渇いていたらしい身体は飲み込む。活力がだんだんと戻ってくる。
「ぷはっ……」
水を飲みきった頃には、もう重たさはなかった。生き返ったようだ。
ルークはまじまじと陶器の水差しを見つめて、振り返り、背後のガラクタに紛れた机で符を作っているシュンカに尋ねた。
「これ、交換してるって言ってたけど、アスナヴァさんが?」
『あっ、いえ……』
机の上で、口に筆を咥えて器用に文字を書いていた龍は動きを止めて、首を振った。
どうやらアスナヴァは別のところにいるらしい。早く会いたいなぁ、と思いながらルークは子龍の話に耳を傾ける。
『もともとこの地下室はある組織のもつ部屋の一つでございまして』
そこに居候させていただいてる形なのです、と彼女は言った。ちょうどその時、地下室の右奥にある階段から叩くような音。
発生源は階段の上部に設置されてる落とし戸で、いくつかコンコンと叩く音がしたかと思えば、開く音がする。
「……あ? なんだ増えてやがる」
階段を下ってきたのは、一人の黒に近い灰色の髪を持った青年。見覚えはない。彼は痩せていて、手足が長かった。年齢は、ルークより四つか三つほど下。彼は脱力した動作で階段を下ると、鋭く、胡乱な目をルークに向けた。どうやら向こうもこちらの事を知らないらしい。ルークは相手の出方を伺った。
「おい、トカゲ、こいつか? 言ってたのは」
彼はルークに目を合わせたまま、階段の最後の一段で止まり、ざらざらした声を出す。シュンカは丁寧にお辞儀をして、はい、と返事をした。
「そぉかよ。はン、言っとくが、どこで何をしてたのか俺の知った事じゃねぇからな。ただ──」
彼が放つぴりぴりとした感覚。
警戒心の強さは野生動物を思わせた。
迂闊には動けないな、と勇者は動きを意識的に抑制する。面識のない者の前では、たとえベルトを直す動作一つでも敵対に取られかねない。だから、ゆっくり、何もせず。
「おい、いいか」
青年は凄むように、くしゃくしゃの髪の隙間から髪より濃い色の瞳でルークを睨みつけた。海の底で絡まった海藻みたいな視線だった。海藻なんて、ルークは図鑑くらいでしか見たことはないが。
「“ウカマスティ”に迷惑掛けるってんなら、覚悟しろよ。ここが最下層なんだ。もう、これ以上落ちられるところなんざ他にねぇからな」
彼はそう言って、階段を下り切り、地下室に入ってくる。
地下室の真ん中、ルーク達と二メートルくらいの位置までゆっくり、慣れた足取りで進み、動きを止める。
何気ない動作に見えるが、服の下に何か──おそらくは暗器の類──を仕込んでいるのが分かった。ヨレヨレになるまで使い古された
「名前は」
「ルークだよ。君は?」
「ヴァル」
「ヴァル、ね。ありがとう、助けてくれたみたいで」
ルークが丁寧に礼を言って笑顔を作る。頭を下げたり、握手を求めたりはしない。
ヴァルは舌打ちをした。
「別に、助けてねぇ。ここは脛に傷があるやつや社会に弾き出されたやつが勝手に流れつく場所だからな。勝手に来て、勝手に消えろ」
そういうことらしい。
ヴァルはじろじろとルークを見る。先ほど彼が言っていた“ウカマスティ”とは組織の名前だろうか。どの都市にも、どんな煌びやかな場所にもある、影の部分。あまり関わった事はないが。
身分の定かではないものたちの集まる場所、あるいは共同体だ。
「……コイツがホントに頼りになンのかぁ? どっからどう見てもナヨナヨしい貴族の優男じゃねえかよ、トカゲ」
『見ようによっては確かにそうかもしれません。ええ。ですが、ルークさまは頼りになります。絶対に』
シュンカとヴァルは何やら話をしている。内容が分からないのでルークが片眉を上げると、シュンカが気がついたように翼をぱっと広げた。その表情にはどこか申し訳なさもあった。
『すみませんルークさま。えっと、……取引、というか、約束をいたしまして』
ヴァルは何も言わない。長い腕を組んで、黙っている。シュンカが続けた。
『この広めで比較的安全性の高い部屋を使わせてもらう代わりに、彼らの問題解決を手伝う、というものです』
「問題って……」
「人が居なくなってんだよ。聖堂の方に手伝いに行ってる奴らがな」
重ねるようにヴァルが言う。どの言葉の端々にも不機嫌さが滲み出る人物だった。聖堂には、確か聖職者以外にも馬の世話や建物の専門的な補修のために働いている人がいる。その事を指しているのだろう。彼らの組織に属する人も、どうやら失踪をしているらしい。
シュンカも頷いて、ルークは事の次第が徐々に見えてきたことを感じ取った。
「行方不明を見つけるために、追加で戦力になる奴が居るって聞いたんだが……」
なるほど。ルークは頷いた。
全ての出来事が、見えない何かに収束していっている。
聖堂での行方不明。そして、シュンカ達の調査。ルークの逃走。
すべてが、水面に広がる波紋のように、一点を中心に発生している。
「まぁ、いい。とにかく、起きたら行くぞ」
ヴァルが不躾に言う。行く、とはこの地下室の上にだろう。既にルークは起きている。なのにヴァルの言葉が引っかかって、彼の視線の先を辿ってみれば、ベッドの上で丸くなっている魔女がいた。
「そこのガキ、具合悪いってんなら、薬湯ぶち込む。言え」
あぁ……、とルークはベッドまで歩いて、魔女をそっと担ぐのだった。
契約から伝わってくるカランコエの状態に異常はない。この子も、めんどくさいから寝てるだけだ。シュンカとカランコエは良いところも悪いところも時たま似ている。ヴァルの不審げな視線を向けられながら、ルークは苦笑を彼に向け、階段を登っていった。
◆
階段の先、落とし戸を登り切ると、別の建物の中だった。薄明かりの石壁が見える。
ひゅう、と冷たい風が吹き込み、髪を揺らした。ルークが出たのは、長椅子がいくつも並ぶ、人気のない場所だった。
天井からはいくつも枯れかけた蔦が垂れ下がっていて、長らく人の手が入っていない事を窺わせる。
「もう使われてねぇ教会だよ」
続けて出てきたヴァルが言う。彼は落とし戸を閉め、上に砂を軽くふりかけて立ち上がる。流れるような動きで教会の入り口側、朝の光が指す方に顎でしゃくり付いてくるよう促した。
「付いてこい」
ルークはヴァルの背中を追いかけ始めた。教会の床はボロボロで、木が腐っている。時折穴が空いてさえいた。一歩踏みしめるたびにじゃりじゃりとした音が靴裏を伝わる。
勇者はカランコエを脇に抱えたまま教会の外に出る。
外、と言うよりも中庭に近い場所だ。入り口だと思っていたのはどうやら本当は裏口側だったようだ。教会の裏手には十メートルくらいの小さな庭園があり、両側に挟み込むように通路がある。ルーク達は真ん中を歩いていく。生垣があったであろう場所は荒れ放題で、枯れていた。
外に出で、空に飛び上がったシュンカがうーんと気持ちよさそうな声を漏らした。空は少し曇りがちで、清涼な冷たい風が鼻を撫でていく。
「キョロキョロすんなよ」
ヴァルが言い、向かい側にある建物に向かって歩いていく。二階建ての、石でできた古めかしい建物だった。
さく、さく、と落ち葉を踏みしめながら歩く。
中庭を通る時に、視線を感じた。さりげなく視線を向けると、あまり綺麗とは言えない服を纏った五から七歳くらいの子供達がこっそり様子を伺っていた。ただ、栄養失調という訳でもなく、足腰はしっかりしているように見えた。
「キョロキョロすんなって」
「あ、うん」
歩く。冬の朝を。
ピンとどこもかしこも張り詰めたようで、色がすこしモノクロになっている。
「何処に向かってるのって、聞いても?」
ルークがなんの気なしに言えば、ヴァルは不機嫌を隠しもしない様子で肩を怒らせ、振り返らずに舌打ち混じりに口を開いた。
「…………顔見せだよ。うちのオババにな」
オババとは、ヴァル達のいる組織の長老的な存在だろうか。
ふぅんと言いながらルークはそれ以上口を開くこともなく、真っ直ぐヴァルについて行った。
◆
辿り着いた建物の入り口の両脇には二人の人物が立っていて、ルークは二重の視線を感じた。だが先頭にいるヴァルが軽く手を挙げると、視線はそっちに集まっていった。
「よぉ、ヴァル。この前のツケ返せよ」
「あとでな。今は別の用事だ」
右側にいる体格の良い、コートで身を包んだ人物が低い声で笑う。横幅が広く、まるで壁だ。僅かに覗く首筋は太く、強靭な筋肉を中に隠している。
「はぁ? 次遅れたら腹からメシが食えるようにしてやる」
男の脅しのような発言に、ケッ、とヴァルが吐き捨てるように言いながらノブに手を掛けると、今度は左側に立っていた人物が薄黒の青年を覗き込むように体を動かした。
「ヴァル? アタシの鉤縄どこやった」
ローブで全身を隠しているため分からなかったがどうやら女性のようだ。重心が分からない。さっきの動きも蛇みたいに体が柔らかい。ルークはこの人、強いなぁと思いながら後ろで待機をしていた。
二人はどうやら門番のようだ。
「知らねぇよ! お前ェの汚ねぇもの置き部屋に頭でも突っ込んで探せ!」
薄黒の青年は苛立ちのままに叫び、ドアを開け放つ。ドアはよくよく見れば木彫りの飾りがついた上質な扉だ。中は薄暗く、外での明るさに慣れた瞳では見通せない。カーテンを閉め切っているようだ。
「行くぞ、余計なコトはすんな」
ヴァルは中に勝手知ったるように入っていく。ルークはすこし中を観察したが、どうらや外からはあまり情報が得られないと分かると足を一歩踏み出した。
二人の横を通る時に、ジロジロとした視線を感じる。ルークより目線が上にある男は口元を吊り上げ笑っている。かなりの上背だ。
「わお、お兄さん、すっごく強いねぇ」
横からした声に顔だけ無表情に振り向けば、ローブの女性がルークの全身を観察して感嘆の声を上げていた。あと少し反応が遅れていれば、二の腕を取られていただろう。
「……どうも」
「うん、バイバーイ」
軽い調子で手を振られ、ルークはなんだか妙な緊張感と同時に毒気を抜かれるような感覚を味わいながら中に入った。
バタン、と扉が閉まる。
目が薄闇に慣れていく。その瞬間、勇者は反応しないことに必死だった。なぜながら、中にすごい魔力の持ち主がいるのだから。
魔力は普通、空気みたいに辺りを漂っている。無色透明で、ただの空気みたいに振る舞う。だけど、一度体内に取り込んで、取り込んだ人が自由に使える状態になった魔力は違う。“染まる”のだ。
別の人の魔力に包まれると、たちまち魔力に敏感な人は呼吸が苦しくなる。それは空気が薄くなった、や水の中に入ったなどと形容される現象である。
大抵は魔術師の周囲にぼんやりと漏れ出ていたり、いわくつきの剣が持ち手のあたりに魔力を漂わせていたりといった塩梅なのだが。
「……これは」
だが、この建物の中に限っては。
全ての空気が、魔力が、ただ一人のものに塗り替えられていた。
「奥だ。失礼なことはすんなよ」
ヴァルが指で指し示す。建物の内装は、瀟洒な貴族の屋敷のようで、ソファーなどの調度品は豪華で品の良い物が置かれていた。2階に繋がるゆるくカーブした階段がある。
魔力の持ち主は、一階の奥にいる。ひときわぼんやりとした灯りのあるオーク材の深く濃い色合いの木目の扉が見えた。
ルークはヴァルの指示通り、扉に向かって足を動かす。
シュンカはルークの後ろだ。
一歩歩くたびに、香木のような香りが強くなる。
それまで傍で抱えていたカランコエも流石に目を覚ましていたようで、しゃらんと外からは見えないサイズの剣になった。
ヴァルの反応はどうかと見ると、彼は目を大きく見開いていたが特に襲いかかってくる様子はない。ルークが彼に目を合わせると、口だけを動かして『行け』と言った。
扉を開けるのはルークのようだ。
ドアに辿り着く。喉が鳴る。
慎重に、しかしキチンと手の骨を使ってノックをすれば、いいよ、としわがれた声が返ってきた。
ルークがドアを開けると、中はやはり暗く、執務室のような見た目をしていた。中央にあるデスクに、一人の背筋が伸びた老女が座っている。
「よく来たね、坊」
彼女だ。この、魔力の持ち主は。
ルークの本能と頭脳は冷や汗を流しながら理解。きっと、もの凄く優秀な魔術師だ。しかも、年月を重ねた。
上質な服をきっちり着こなし、彼女は気品ある笑顔の中に野蛮さを滲ませながら、笑った。
「話は聞いてるよ。なんでも、追われる勇者らしいじゃないか」
彼女は手元のシガーカッターでばちん、と葉巻の先端を切り落とし、指で火を灯す。魔術だ。滑らかで、ロスが一切ない。
老女は葉巻をぽっぽっとふかし、口から煙がこぼれる。煙の色は薄く紫がかっていて、そこからも魔力を感じた。もう、わけがわからなくなりそうだった。
「アタシはゲンマ。このウカマスティを仕切ってるしがない女さ」
部屋の扉は閉まっている。ルークの横ではシュンカが身を固くして、ゲンマの目を見ていた。グレーの髪を綺麗に整えた老婦人は、同じく色の薄い目でルークを捉えている。
「何やら困ってるって?」
彼女の声は静かで、空気を揺らす。
ルークの肺腑が引き攣る感覚を伝えてくる。なんだか、“濃い”のだ。彼女の声は、無視ができない響きを持っている。こういった響きを持っていたのは、ルークの知る限りタポールや、ギャレヲンといった、いわゆるヤバめの人が多かった。
扉のところにはヴァルが何も言わずに、ドアマンのように佇んでいる。ジジジ、と葉巻が燃える音がした。
「はい、えっと、聖堂にいると思われる魔王を、討伐するのに、聖堂への侵入ルートが必要で……」
口を開いてから、ああ、説明が足りなかったな、とか。魔王が居るという前提を話さなければ、とかルークは思ったが、ゲンマはただ目を細める。肉食獣のような、鋭く相手を突き刺す色を伴いながら。
「人手も、いるんじゃないのかい。魔王の情報を集めるのに」
「そう、なんですが、今追っている魔王は知れば知るほど──」
「
まるで、薔薇のような、というのがゲンマを表すのに相応しい言葉だ。打ち捨てられた豪奢な館の、奥まった温室に伸び放題の中で他の植物たちを圧倒して咲く、棘だらけの薔薇。
毒々しい美しさを持った薔薇は、全て分かった上でのように悠然としている。
ルークはその様子に気を取られていたが、彼女の発言を振り返ってハッとして、改めて老女を見た。
「協力、してくださるんですか……?」
あまりに言われたことが想定外でルークはポカンとして聞き返してしまった。くふ、とゲンマが笑う。魔力が漏れ出ているのか、部屋の中は独特の重たさを持っていて、どうにも呼吸がしづらい。
「名前は」
ゲンマが葉巻でルークを指差す。
そういえば、勇者と自分から名乗ったっけと思った。
「……ルークです」
彼女はそうかい、と言って興味なさそうに手元の紙をめくる。
紙が擦れ合う音。カランコエがルークの腰でゲンマを虎視眈々と見ている。魔力に一番敏感なのは彼女だ。伝わる感情から察するに、彼女がいま思っているのは“きもちわるい”。魔力にあてられて、酔っている。
「使う武器は」
「……主には剣を。他になんでも使うことは出来ます」
「作れんだろう、剣なら」
「は、なぜ……」
なぜそんなことを聞く?
「出身は」
「ソラナム王国です」
ゲンマの問答はまるで予め答えを知っているかのような、というよりはルークの答えに頓着していないような印象を受ける。テンポがやけに速いのだ。決まりきった質問をしているように。
「魔王を討伐したことは」
「あり、ます」
「蠍は?」
「え?」
「いいから答えな。あるのかい、ないのかい。どっちだい」
「あっ、あります」
一拍、質問が止まる。
ゲンマが葉巻を深くふかしていたからだ。
部屋の中が霧の日みたいに包まれた。シュンカがけほ、と咳を一つして、ゲンマが指をパチンと鳴らした。それだけで煙はたちまちシュルシュルとゲンマの机の一箇所に集まり、ガラス玉のようになった。
「なら、──バカでかい街を討伐したことは?」
「────っ」
その質問には、すぐに答えることが出来ない。
勇者の目は微かに、ほんの僅かに動揺を表に出してしまって揺れる。
だって、あまりにも具体的すぎたから。赤茶色の砂漠での出来事は、本当に知っている人が少ない物なのだから。なにせ、八百年も前のことだから。
「答えな。街を、それもバカみたいに大きな街を倒したことは? ──あぁ、別にアタシは直接見たワケじゃないからね。詳細を聞かれても困るよ。で、どうなんだい? 坊」
部屋の空気が重くなる。質量が増している。
この部屋の主は、ゲンマただ一人。ルークはただ、答えるしかない。
とんでもない所に連れてこられたものだ。
「──……。……あり、ます」
混乱とまとまらない思考の最中、追い詰めるように続けたゲンマの声にルークは押されて答えた。これが、この人の貫禄や技術なのだろう。抗うことは、後になって出来たんじゃないかと思う程度だ。実際にあの目と、突き刺すような発音で急かされたらきっと誰でも答えてしまう。そんな迫力を持っているのだ。
「そうかい」
ゲンマの声は落ち着いていて大きな反応はない。
ただ、何か形を確かめるようにゆっくりもう一度、そうかい、とだけ言って、葉巻を置いた。
静寂が流れる。
誰もが口を閉ざしている。ゲンマは薄い目で天井をたっぷり十秒は見つめ、ルークに向き直った。
「
「暑かっ、たですね……」
彼女の口から紡がれた都市の名前。
殆どの人は知らない名前だ。だけどルーク達は知っている。あの、砂漠の都市を。砂の地面を。赤茶色の大地に逞しく生きる、布をたくさん巻いた人たちの姿を鮮明に思い出すことができる。香辛料の香りに混じった汗の匂いも、くだらない事で悩んでた人も、笑ってた人の顔も。
その遠く離れた場所の名前を、ここで彼女が口にするのはなんだか強烈な違和感と、なんとも言えない感情を引き起こす。
何か言おうとして言い出せず、もごもごと歯にものが挟まったように微妙な顔をするルークを見て、ゲンマはくふふ、と笑ってネタバラシをすることにしたようだ。
「アタシは15代目だ。だけどな、初代はな、両足のねぇ耳長族だよ」
耳長族。耳の長い種族を指した総称。森人とも呼ぶ。
「わかるな? 坊。小麦とおんなじ色をした勇者」
たぶん、殆どの情報は普通に聞いただけでは意味のないものだろう。なんの繋がりもないものだろう。実際に、背後のヴァルからは困惑した気配が伝わってきた。だけど、ルーク達にとっては十分な情報だった。
「あぁ……」
八百年前、ルークにとってはつい最近。
最終決戦で、共に戦った仲間の1人。両脚を喪いながらも、魔王の術式を乱してみせた、あの弓の冴え渡りは脳裏に響いていた。
「ここは、この組織は……」
口を開くルークの手は、徐々に震えを伴っていった。ゲンマは悪戯が成功したような意地の悪い表情を浮かべ、くふふ、くふふ、と何度もこぼす。
「ここは、脛に傷があるやつや社会に弾き出されたやつの為の場所さ。表に出せない、しかし人がいる以上必要な仕事をする。あとは親のいねー、普通なら保護されるのにされなかった孤児。そういったヤローどもの受け皿。まあ、孤児に関してはもうだいぶ教会の方に引き継いできたが」
組織を滔々と語るゲンマの底は全く見えない。見た目はただの老女なのに、気を逸らしたら頭から喰われそうな雰囲気を持ち、灰色の薔薇のような雰囲気も持ち合わせている。
ルークは唇を噛んだ。彼女のことを全面的に信頼して良いのかも不確かである。相手は老獪で、知識と経験の両輪がある組織の長だ。油断すれば痛い目に遭わされるかも知れない。
だが、彼女の口から語られる事だけは──
「それだけの組織さ。そして、──なにより。未来でもどうせ魔王と戦ってる戦友の手助けをちょこっとする為に作られた。そんな、寄せ集めの、歴史あるガラクタ連合だよ」
もう、ルークはポカンとするしかない。
シュンカは知っていたようで、ちょっと申し訳なさそうにしていた。ゲンマがそれまで放っていた威圧を消し去る。
「だから、坊の目的のためにウチが協力してやろうじゃないか。戦力を提供してやろうじゃないか。幸い、お互いの利害も一致しているみたいだしね。なんて、偶然だい」
老女は指で書類を弾いて、紙は空中で一回転して背後の本棚に収まる。そうやって次々と机の上のペンやインク壺、乾かすための余分な紙たち道具が片付いていき、最後は綺麗になった鼈甲みたいな色の机を示してみせた。
「ようこそ、勇者の坊や。
そうか。──そうか。
なにも一人で、やるわけじゃないのだ。
「魔王ばっかで、飽きもしないねぇ」
ゲンマが呆れたように言う。
ルークは何かを言いかけて、言葉にならずに何度も開けたり閉じたりを繰り返した。腰のカランコエがそっと、撫でるように小さく震えた。
何かの為と助けた訳じゃなかったが。
だからこそ、かつて一緒に戦った仲間がひょっこり挨拶に来てくれたみたいで、ルークはなによりそれが、震えるほど嬉しかった。
あの多くを守りきれなかった戦いに意味はあったのかと考えなかったと言えば嘘になる。
だけど、ミルシットの街があった場所から遠く離れた場所で、時代で。
こんな事が起きるとは。
「また、誰かのために、走ってるんだろう?」
「またって……初対面では?」
「話に聞いてるのさ、いっとう輝くバカの話を」
ルークは笑っちゃいたくなるほどおかしかった。
だって、ルークの手なんか借りなくても、彼らは力強く彼らの物語を紡いでいたのだから。
こっちが何かしなくちゃ駄目だなんて、傲慢な思い上がりだったのだ。
彼らは、彼らだけの力で生きて、勝手に世界をほんの少しだけ動かして、誰に許可されることもなく、きっと笑って表舞台から去っていった。
ルークの知らないお話を作りながら、去っていった。
「やめちゃいたくなるような状況で、誰よりも前で、誰よりも挫けず、怯まず、恐れず。立ち上がり続ける人類の旗。そして、命知らずのクレイジーブレイバー」
そうか。
あの、勇敢な阿呆どもは懸命に生きて、なんの因果か、もう名残すらないと思っていた現代にまで続いているものがあった。
いま、ルークの目の前で不敵に笑っているゲンマがその証拠であるのだろう。
「おや、ヘンな顔をして。どんな気持ちだい、そりゃ」
「──やられたよ、って降参の気持ちです」
きっといまのルークの顔は相当おかしなものになっているだろう。
それを見て大笑いしているであろう弓使いの顔が思い浮かんだ。
一人はダメだよと叱った彼女の顔が思い浮かんだ。潰走した戦いの後の暗がりの作戦会議で、口角泡を飛ばしながら避難民のルートを考えていた彼らの顔が思い浮かんだ。
「さぁ、客人とはいえ、協力関係だ。しゃきしゃき働いてもらおうか」
何も、ルークがウカマスティの初代と知り合いだからといって全て組織を動かせる権限をポンと渡される訳ではない。
だが、相手がある程度こちらの実力を信じて、話を聞いてくれる立場に最初から収まれたというのはこの上なく大きい事なのだ。
今から追う、魔王を探るための基盤があると言う事なのだから。
「なんだかメチャクチャやってくれそうな魔王には、目にもの見せてやろうってのが、ウチのルールだね。異論は?」
「もちろん、──ありませんよ」
こうして物語は予想外の方向に跳ねて、転がって。結果的に勇者ルークは協力者を得るという結果になった。
追手に追われて、逃げて、逃げて、瀕死で水路流されて。
それでどうしてか聖都の地下に潜る、日の目を見ない組織の助力を得るという、思わず聞き返してしまうような経緯で。
かつての仲間の、ちょこっとした手助けで。
事態は巡る。
ちいさく、静かに。誰も思ってもみない方向へ。
目指すは聖都に潜む、知ることすら危険な魔王。
その、討伐である。