「道、そっちで合ってんすかね」
「大きな声出すな……もうすぐそこだぞ」
「くそ……寒ぃな」
アスナヴァの号令の元で魔王討伐という目標のためのチームが、聖都の誰も気にかけないような地下室で結成された翌日。
ウカマスティの構成員たちがまず行ったのは、聖堂での情報収集だった。そのために、大勢を投入するわけにもいかない。なので、三人が選ばれた。
一人目は一番若く、読み書き計算ができるクスリフト。二人目は豊富な経験と鍵開けの技能を持つニュッケル。そして最後は手先の器用さと唯一冒険者として活動した事があったウルヴであった。
魔王討伐において、最もネックであり、今回の魔王においてはさらに別の意味を持つ情報。その収集。問題なのは──どうやって聖堂内部に侵入するかである。
「うへ、あんなとこにも見回りあるぜ」
「え! どこすか、どこすか」
「スクリフト、静かに。……忍び込むのは、なかなか難しいだろうな」
魔王を倒すには、まずは魔王の正体を確定させなければならない。当たり前の話だ。
聖堂のどこにいるのか。誰が魔王なのか。出来るならば、能力は何なのか。これらを集めるのに街の情報屋だけでは不十分。
どうしても、本丸の聖堂にて収集しなければならなかった。
「魔王が何の禁忌を犯してるのか、とかも知れたら楽なんでしたっけ?」
一番若く、調子のよいスクリフトが尋ねる。
それにニュッケルは渋い顔をしてスクリフトの背中を軽く叩いた。
「バカ、そんなコトまでしなくていいってあの勇者の旦那が言ってただろ」
「禁忌を犯すなんて、俄には信じ難い話だ」
元冒険者のウルヴが静かに呟く。
情報、それも魔王というかなりヤバいものを収集するという最初の任務。
彼らが選んだ手段は──
「でも、ま。正面から行きゃいいっすよね」
正面突破だった。
◆
朝の聖堂では、門番が裏口であくびを噛み殺している。
視界の先は朝靄で白く、蒸気の中に街が包まれているようだった。
「ふぁ……む……」
もう、かれこれずっと立ちっぱなしだ。夜勤からの連続で、あと鐘が二つ鳴ったら交代になる。彼は“帰ったら家の暖かい毛布にくるまって寝るのだ”、と思いながら立っていた。隣に立っている同僚も少し疲れた様子だ。
「よぉ、お疲れさん」
少し首を動かす為に地面に視線をやっていると、気安い感じで声がかけられる。
視線を上げるとそこには三人の男が、すこし汚れた身なりに麻の袋を担いで裏口を通ろうとしている所だった。この場所は時々、中で仕事をするものの往来がある。
「おお、お疲れ」
返事をすると彼らは慣れた様子でそのまま入ろうとする。おおかた、聖堂の修繕とか、庭の手入れのために雇われた日雇いの作業員だろう。別に通してやってもいいのだが、一応点検というものがある。門番の男は彼らの進路に立ち塞がるようにして前に立ち、ん、と右手を出した。
「あ?」
「いや、あ? じゃなくて、木札出してくれよ。作業に入るなら仲介所から渡されてる筈だろ?」
「え?」
「何だ、何かおかしなこと言ったか?」
「あ、あぁ。そうだったな、悪い」
先頭の男は視線をあちこちに動かし、腰を弄る。一番若い男だった。だが、動作の全てが忙しなく、細かい。門番の男は目を細めた。息が細く長くなる。
「いや、ちょ、ちょっと待ってくれ。あるはずなんだ、木札だろ? ああ、あるよ、あれ、どこやったかな……」
門番の男は、こりゃ残業になるかもな、と嫌々覚悟を決めだした。
こういうタイプは何かを隠しているからだ。大抵、そうなのだ。
本当に木札を無くしたのならば、しまっておいた箇所に無いと知ってから焦り出す。だが目の前の男は
「早く出せって。……まさか知らないのか?」
「知ってる、知ってるさ! だからちょっと……」
相手は三人。こちらは二人。どうするか、と門番は考える。聖堂にはそれなりに盗みやものを壊す被害が出る場所だ。
生活に困窮した者が、聖堂の中に入りさえすれば金に変えられる凄いものがあるに違いないと考えて侵入することがあるのだ。
あとは、滅多にないが敵対組織──この場合は女神教そのものに対する敵対──が変装をして内部侵入、そして破壊行為を目論む場合も。
「どうした。出せばいいんだ。もしかして本当は──」
彼は門番に支給された槍の持ち手を握る力を強める。
相手は相変わらず焦っている。これは、もう、かなり──
「はいよ」
と、そこまで考えたところで、落ち着いた声と腕が門番の男の眼前に伸びてきた。後ろから別の男が木の板を差し出していたのだ。落ち着いた男である。木札はきっちり三枚分。
「悪かったな、俺が持ってたのを忘れたんだ。こいつおっちょこちょいでな」
「あ、ああ! そうだ! オレ、そそっかしくてさ!」
木札を渡した男は低い声で頷く。門番は手渡された木札をまじまじと眺め、確認をした。
刻まれている印、数。大きさ。どれも正規のものと相違なかった。
「……そうか。いいぞ、通って」
三人の前から門番はスッとどくと、裏門を肩でかるく示した。聖堂の正面口にある立派な門とは違い、鉄のアーチが申し訳程度についた、馬車一台も通れない狭い門だ。
「悪いな、門番さん。手間取らせて」
「す、すまねぇ」
「いいさ、作業にはまだ早いと思うが、見たところ担いでんのは道具だろ? 先に準備とは大変だね」
「お互い様さ」
なんてすこし話をして三人組は通っていく。
門番はその背中を見送りながら、また少しだけ残った仕事に戻ろうとして──
「いや、ちょっと待て」
くるりと振り返って三人組の背中に声をかけた。
大袈裟なほど跳ねる肩。
「──何だい?」
三人の中の、木札を出してきた一番落ち着きのある男が首だけ振り返って尋ねる。あとの二人は固まって前を見ていた。
門番の男は頬を掻きながら、“いや、大したことじゃないんだが”と前置きをした。
「アンタら、どこの仕事なんだ?」
こう尋ねると、少し顔がこわばっていた三人組の一人はあからさまに緊張を解いて、笑った。
「奥にある中庭の道具小屋だよ」
ああ、と門番の男は返す。
その内容は事前に報告を受けていたものの一つだ。不自然なところは無い。彼らに対する認識を、その他のカテゴリーに入れるのは早かった。
「頑張れよ」
「おう、どうもな」
門番の男はそう言って正面を向いた。
仕事をしたからか、胸の辺りに疲れが来た気がする。あともう少しで交代だ。あくびを一つしながら、同僚を横目で伺うと、同じくらいの眠そうに立っていた。
あともう少しだ。
そうしたら、家に帰って、隠してあったワインをひとくち飲んだら毛布にくるまろう。
朝の時間は過ぎていった。
◆
「あっ、ぶねぇぇえ……!!」
門をやり過ごし、早足に彼らが向かったのは聖堂の裏口を抜けた建物の間。
「慌てすぎだ。想定外なんて想定してただろう」
「ウルヴさんは肝が座りすぎなんすよ!」
「でも、ま。事前にアスナヴァの姐さんが言ってた内容覚えておいて正解だった」
三人の男たちは顔を突き合わせて、お互いの顔色を確認していた。特に歳若く、経験の浅いスクリフトなんかは冬だというのにかいた冷や汗を浮かべている。
もしあそこで門番に止められていたら、それだけで計画が破綻するとまではいかないが、確実に面倒にはなっただろう。
「あ、あと木札も、よく持ってましたね!」
三人のいる両脇は建物に囲まれていて薄暗い。人も大人が両手を伸ばせないくらいの隙間だ。だからこそ、人に見つかる心配は少なかった。スクリフトは、落ち着き払った態度のウルヴに感心したような目を向ける。
しかし彼は変わらない表情でのっそりと答えた。
「いや、さっき
これには、スクリフトが、は? とほうけた顔をする。
彼はこういう仕事をする事が少なく、一番実践経験がなかった。対して、鍵開けが得意な中年のニュッケルと、元冒険者のウルヴは慣れた様子だ。ウルヴは目を見開くニュッケルに当たり前のことを言うみたいに確認した。
「いや、だからニュッケルがお前に指示を出してただろう? “時間を稼げ”と」
「いや、確かに! 後ろにいるニュッケルさんにハンドサインでそのまま、って言われましたけど、アレそういうことですか!?」
スクリフトははぁー、と頭を押さえる。
彼は頭の悪い奴では無い。だけど、まだ経験は浅い。だから一応確認しようとして皺の刻まれた顔でニュッケルが尋ねた。
「……取ってくるものは覚えてるよな?」
「作業員名簿っすよー」
スクリフトは笑って言った。まさか忘れたんすか、とすぐ後に付け加えて、ウルヴに軽く殴られるのは割愛。
三人はウカマスティの中でも特に相性がよく、仕事以外でもニュッケルとウルヴはよく、二十そこらのスクリフトを気にかけていた。
◆
三人は建物の間から足を進める。頬を撫でる風が冷たかった。裏口のすぐそばにある庭には、三十歩ほど歩く位置に見上げるほどの聖堂が建っている。聖堂はいくつかの尖塔や建物がくっついた形をしており、そこらの城とも見劣りしないほどだ。
ウカマスティにて発足した対策チームは、魔王の能力を特定するために、被害状況を特定することを第一歩とした。特に被害の出ている正確な人数や規模が分かれば、魔王の能力の強大さを測る指針になる。また、名簿に載っている名前を順に見ていけば、被害を受けた人の属性や背景から能力の制限も分かるかもしれない。
だが、名簿は名簿。管理はある程度なされている。つまり、三人が探している作業員名簿を探すには、どこかから建物に入らなければならないのだ。
「うぅ、マジ寒い……はやく入りましょうよ」
「中に入って聖職者と鉢合わせたらどうするんだ」
壁は石を積んで造られたもので、何ヶ所かアーチ状の入り口が見えた。聖堂の裏側に更に回るように歩けば中庭がある。あまり人が立ち入らない侘しい場所だ。ニュッケルが時折壁に耳を当てながら歩いた。向こう側に人が居ないか確かめているのだ。
「第一、お前はな、スクリフト。向こうみずが過ぎる。いいか、対処可能でない事態は往々にして起こるのだから──」
「“準備を欠かすな、ナイフ一本、オイルの一滴”でしょ!? 聞き飽きましたよー、ウルヴさんのソ・レ!」
「だからその態度が──」
「なぁ、こっちは音聞いてんだよ。静かにしてくれないかなぁ!?」
三人は慎重に、しかし不審にならない程度の速度で壁に沿って中庭に進む。ニュッケルだけは壁に耳を当てながら。
しばらく聖堂の外側を歩くと、三人は木造の道具小屋を見つけた。門番に言った作業の集合場所だ。だが、小屋を一瞥すると入る事はなく、すぐに視線を元に戻す。
「そういえば、あの勇者はどうなった?」
慎重に耳をそばだてるニュッケルをよそに、二人して怒られたウルヴとスクリフトは少し肩を落としながら、先ほどよりもだいぶ落とした声でこそこそとしていた。
「どうなんだ、スクリフト。お前がすこし対応したと聞いてるぞ」
彼は“ああ”と顎に手を当てて思い出すように視線を上に向ける。
「椅子に縛り付けられてますよー」
「……椅子に?」
「なんでも、他の人が動いてるのに待機はいても立ってもいられないみたいで」
今回の魔王討伐において、勇者の役目は最後の大詰めであった。
魔王の能力が、簡単に言えば“忘れさせる”力ならば、勇者は限界まで魔王の情報に触れない方がいい。
討伐の算段が整って、初めてパッと情報を見て、すぐさま魔王を仕留めるのだ。
「なかなか難儀な勇者サマだな。任せるところは任せればいいのに」
「そういうもんすかねー。オレは人が掃除してたらなんかソワソワしますよ」
「同じものかよ」
二人が会話をしながら歩く横で、相変わらずニュッケルは壁に耳を当てながら歩き続ける。
取り立てて力が強かったり、足が速いわけではないニュッケルだが、音の微細を聞き分ける力においては、まるでひとつの特殊技能のように優れていた。彼は隣の部屋で落ちたコインの枚数を正確にカウントする事が出来る。
「小屋から四十歩離れましたよ、ニュッケルさん」
「ああ」
ニュッケルは足を止める。
そして目を閉じて集中をさらに深くした。
名簿があるとしたら、この近辺だろう。彼らは事前にウカマスティの地下室で計画を立ててきていた。通常の聖職者の名簿とは違って、日雇いの作業員名簿は現場を指揮する者が使用しやすいように近くに置かれている場合が殆どだ。つまりは、あの小屋の近くにある可能性が高い。
「あそこだ」
やがてニュッケルが壁から耳を離し言う。
その一言でスクリフトとウルヴは会話をピタリとやめて、ニュッケルの指差す方を確認した。
「鍵が掛かってない扉だ」
「あれか。食料とか運び入れる入り口の一つ、みたいだな」
「そうなんすか?」
思わずウルヴは言葉を飲み込んで、横で脳天気な表情をする若い奴に自然を向けた。
「……お前、地図見てきたか?」
「はい!」
結局三人はするりと食料搬入口から聖堂の中に入ることに成功した。中は石でできていて、人の気配はない。石のせいなのか、外に吹く風からは隔絶されたというのにひやりとした空気が廊下を満たしていた。天井はそこそこで、二.五メートルほど。
三人が入ったところは廊下の真ん中あたりで、左右に通路が伸びていた。両側に部屋が何個も続いている。どれもすこし年季の入った木製の扉が閉まっていて、中を伺うことは出来ない。
「どこの部屋だ?」
ウルヴが自身の思考を整理するように口に出す。ニュッケルは苦い顔をした。こんな部屋が分かりづらく、どこに何があるのかから探さなければならないとはわかっていたが、足音が遠くで聞こえたからだ。
その事実をすばやく二人に知らせると、事はどの部屋を探すべきかと言うことになる。時間は限られている。
「三人で手分けするか?」
ニュッケルが言う。
ウルヴが少し伸びた顎髭を撫でながら渋い顔をする。
「危険だ。なぜこの人数で入ったと」
「分かってる。口に出してみただけだ。みなまで言うな。俺はスクリフト小僧じゃない」
「ひどい」
仲間であり、頼れる叔父みたいな存在の二人にひどい扱いをされ、スクリフトはわっと泣く真似をする。
すると、そんな彼の前に何かがふわりと現れた。
それは、半透明だった。
「──っ」
現れた半透明のものは、地面から三十センチほど浮き、人の形をしている。
ニュッケルとウルヴは廊下の反対側を見ていて、気がついていない。
「な」
それは少女だった。少女がふわふわと地面から浮きながら、両眉を下げている。彼女は水色の髪を一部編み込んで、左眼に黒い眼帯をしていた。服は質が良く、まるで良いところのお嬢様のようだった。
「なんだ──」
お前、と言いかけた所で少女は首を横に振った。そして先ほど入ってきた食料運搬口を指し示す。
一体何をと口にする前に、瞬きの間に彼女は消えていた。スクリフトは目を擦った。
「おい、行くぞスクリフト」
「えっ、あ、うっす」
どうやらウルヴとニュッケルは調べる部屋を決めたようだった。背後にかかる声にスクリフトは向かって行く前に、最後にもう一度通路を振り返った。廊下の先は青白い光が伸びているだけで何もない。
「見間違いか?」
そうして部屋の探索は始まった。
かれこれ場所を変え、ようやく三部屋目でそれらしき、革の装丁に綴じられた紙の束が置かれた机を見つけたのだった。
「あれか?」
「見てみよう」
その部屋は3歩大股で歩けば壁につきそうな狭い造りの一室で、両側に本棚と真ん中には腰の高さくらいの机が置かれていた。本は机の上にある。
正面にある窓には曇った硝子が嵌っていた。
こういうのの担当は、ようやくスクリフトだ。彼は本を手に取ってパラパラとめくりだす。紙が指に引っかかる。装丁がズレる。きちんと製本したものではなくて、紙の束を纏めるタイプのものだ。中にはクセのある字が書き連ねられていて、右側に数字と左側に名前のようなものが続いてた。
「なんだ、虫か?」
ウルヴの声でスクリフトが一瞬顔を上げる。窓を軽くはたくような音がしたからだ。
ニュッケルとウルヴは部屋の入り口近くで警戒をしている。だから窓に一番近いのはスクリフトだった。
「あー、バッタっすかね。放っておきましょ」
「……何?」
曇ったガラスのせいでよく見えないが、ただの虫だ。
スクリフトはすぐに視線を本に戻す。右の項目と左の項目を参照してこれが名簿だと言うところまで分かった。あとは書いてある時間や日付、そして給料であろう数字を基本的な、日雇い仕事の報酬と頭の中で比較していく。
平均的な聖都の月給、日給、日付、管理者の名前。
参照して、計算して。やがて辿り着いた。
「これっす! この名簿で多分間違いな──」
そう言ってスクリフトが喜色満面で振り返った時。
ぐ、というこもった音と共に、ウルヴが崩れ落ちていた。
どちゃ、っと。木箱で運んでいる、果物を地面に落とした時みたいな。そんな風に、装備と赤色を一緒にして。
「は?」
鉄臭い匂いがする。鼻がひん曲がりそうな臭気。
地面に赤黒く、反射する池が急速にウルヴの身体から広がっていった。何が起きた。“何が”起きた?
スクリフトの頭は動きを停止しかけていた。
「なんだよおー、なんだよ、 なんだ よ」
扉はいつのまにか、開いていた。
閉めたはずなのに。声がする。
「誰だ、 おまえたち、 誰なんだよ ねぇ」
扉の向こうから、声がする。
知らない声が。背中を掻きむしりたくなるような、不快な声が。なんだか、頭に響くのだ。内側から殴りつけられているような、嫌な声だ。
「おい、ぼさっとすんな! スクリフト、行く──」
「人のことを こそこそ 嗅ぎ回るのは マナー違反 でしょー」
そこで、ばたん、と大きな音が聞こえて、スクリフトが視線を下にさげると、ドアの方に、ニュッケルの下半身が引き摺り込まれている所だった。ドアの向こうは、闇。何も見えない。おかしい。本当なら、廊下の味気ない聖堂の壁が広がっているはずなのに。
ニュッケルはうつ伏せで、膝から下あたりを闇に溶け込ませ、まるで崖から落ちまいとする人みたいに、地面の足に爪を突き立てている。
「ていこう むだ だって」
「あ、が、がぁぁあ!!」
絶叫。
ばきばきばき、と生木がへし折れる音と共に、地面に這うような形のニュッケルの体がビクンビクンと跳ねた。恐ろしかった。
頬には、誰のか分からない生暖かい液体が伝っていた。
「お、が、……す、スクリ……ひっ、引っ張れ、おれを、ひっぱ──」
異常なくらい真っ赤になった顔でニュッケルが手を伸ばす。熟れた果実みたいに。爪が剥がれてぬるぬるとした手を、スクリフトの方に。非日常の光景が目の前に広がる。
視覚と聴覚と、嗅覚に訴えかける非日常。
「う」
そうしてスクリフトは。
「すく……リ、フト……おれを……」
「ぁ、あ、……」
兄弟のように、叔父さんのように感じていた人を。
「うわぁぁぁっ!?」
逃げた。
走った。走って逃げた。
どうしてこうなったのかは分からない。
窓を破って出たのかも知れない。それとも闇を突っ切って出たのかも知れない。
気がつけば、スクリフトは外を走っていた。
「はあっ、はあっ」
息も絶え絶えになって、ようやくスクリフトは足を止めた。
外は薄暗く、曇りだ。喉の奥が張り付くように痛い。スクリフトは何度も咳き込んで、地面にポタポタと液体を垂らした。
「嘘だ」
あんなの、嘘だ。
ふらふらと脚は動く。時間の感覚が曖昧になる。やがて、スクリフトは肩を揺らされる感覚でハッとした。
気がつけば、オレンジ色の光がある地下室に戻って来ていた。スクリフトの前には何人もの仲間が、険しい表情でスクリフトを見ている。肩を掴んでゆすったのはそのうちの一人だった。
「おいっ、スクリフト! どうしたんだよ! 何があった、何が!」
その取り囲む何人かの中に。
茶髪の青年を見つけた。見慣れない顔。ウカマスティではない人間。それを見た瞬間、何かが、スクリフトの血管を辿って、脳の奥まで上がってくる感覚がした。
「“アンタ”の所為だッ! アンタが焚き付けたからっ!」
反射的にスクリフトは彼の胸ぐらをむしり取るように掴み、顔に吠えるように叫んだ。
喉の奥が痛かった。
「死んだっ、死んだんだ! どう殺されたのかも、っ、相手が“誰”なのかもっ、分からなかった!」
こんな事になるなんて。
知らなかった。危険はあまりないと言ってたじゃないか。
おかしいだろ。おかしいだろう。
「無駄だ、無駄死にだ!!」
青年は目を見開くだけで、言い返してこない。
周囲の人間が、勇者につかみかかるスクリフトを羽交締めで止めようとする。スクリフトは引き剥がされる直前、涙を流しながら、青年に向かって喉の奥から血を吐くような絶叫をあげた。
「アンタのせいだっ! アンタが殺した!! こんな無謀な事なら、最初から言ってくれれば良かったッ!!」
そこからのスクリフトの記憶はない。
激しい熱のような、激昂するような感情の波に目の前が歪み、意識は途絶えた。
◆
「うぅん だれだ だれなんだ?」
その人物は、聖堂の一室で身体をグネグネと歪めながら呟いた。
目の前には、破れたページの破片。何者かが持ち去った名簿。
「いるよねぇ 誰か 勇者? いや 違うか。わかんないなぁ」
関節を無視した動きの存在は、部屋をぐるりと見る。窃盗が入ったならば、まだ話は分かる。聖堂は時々狙われるからだ。だが。
「ここにある、金属製の燭台が のこってる」
つつ、と手を沿わせるのは、銀に輝く蝋燭置き。
使用こそあまりされないが、確実に目につく箇所にある。それに見向きもしないで机の上の名簿だけを取っていくか?
「これは なにか
そうだ。
窓の外にバッタがついた。
ばちん、と音がする。まだ一匹二匹程度。だけど、来ている。
その者は、ペロリと舌舐めずりをして、うんと頷いた。
「だれかが 追って きてるね」
たった一つの証拠だが。
勘が言っていた。生物的な、狙われているという視線を感じる。
ならば。
「そっちが、こっちを追ってるなら」
「こっちも。そっちを追ってやる」
◆
『今回の魔王は、“情報に作用する”』
『よって、この部屋で見聞きした情報の一切を外部に漏らす事を禁じさせてもらう。これは魔王討伐戦に必要でもあるからに加えて、君たちの、ここにいない仲間を守る為でもある。理解をしてくれ』
『現在分かっている情報を共有していこう』
『その一、魔王は、おそらく関わった人間の、魔王に関する情報の重要度を著しく低下させる。つまり魔王がどんな容姿であるとか、どんな攻撃を使ってくるだとかの情報は、記憶した瞬間に魔王によって“どうでもいいもの”として認識させられる。結果として何も覚えていられなくなる』
『だが、ひとつだけ例外がある。情報や数字だけは変わらないのだ。紙に書いた内容自体を見れば、それがひどくどうでもいいものに思えるようになってしまうが、内容自体は変わらない。つまり記録自体は取ることが出来る』
『そのニ、魔王はおそらく聖堂にいる』
『君たちの役目は、忘れる前に制度と工夫で魔王の正体を暴き、そこの勇者を送り込む道を切り開くことだ』
『いいか、ニュッケル、ウルヴ、スクリフト』
『はい、なーんも、問題ナシっすよ!』
◆
「……という訳で、今は眠ってます。かなり動転してたみたいで」
ウカマスティの建物。
アスナヴァの資料がある部屋で、彼女は書類を新たな拠点にする地下へ運び込むときにその報告を聞いた。
「そうか……生死は不明、か」
「はい」
情報をもたらした男は頷く。
アスナヴァは眉間に皺を寄せて、己の不手際を自分の心の中で百回は罵倒した。
そして、今後の対応を考えている時、ふと引っかかるものがあり、動きを止める。
「……いや、待て」
「はい?」
「スクリフトは、まだ覚えているのか? 襲って来た
「? はい、まだ」
「そう、か」
銀の麗人は顎に細い指を置いた。
糸が。糸が、垂れているような気がした。