てんにまします、われらが龍よ
どうか、われらと、われらのせんぞのたましいを
きよらかな国に、おまねきください
てんにまします──
◆
燃える都を背景に、目の奥に感じる痛みに目を閉じる。
すると、懐かしい匂いに変わった。春の香り。
また、開始地点の春の異界に戻って来る。
「──じゃあ、3から4週間くらいしてから出発すれば、余裕を持って頂上に辿り着けるかな」
イェン・シュンカはまた、同じ言葉を聞いた。
3回目の、全く同じ言葉を。
「は、は……」
少し前まで、たくさんの人の悲鳴と、火に焼かれるくぐもった声を聞きすぎて、おかしくなっていた耳が正常に戻り、全身に鉛を詰め込まれたかのようだった体の感覚が正常に戻る。
だが、早鐘を打つ心臓だけは正常に戻らなかった。
「いや、お前さんら、今すぐ出んと、辿り着けんぞ」
また、同じ台詞。
おなじイントネーション。
同じ展開。
あの、二巡目の日々は消えたのだ。手探りでも頑張っていた日々は今ここに無になったのだ。一度目にルークが殺されて、その首を抱えて来た道を戻るのは辛かった。いやだった。それでも立ち直って、なんとか頑張ろうとしていたのに、また元に戻った。
「ふりだしにもどる」
シュンカはだれにも聞こえない声量で呟いた。
なんだかとっても、おかしかった。イェン・シュンカはたった今、またふりだしにもどってしまったのだ。
小さなころに一人で遊んでいた双六で、進んでいたコマが最初に戻るマスを踏んじゃったように。かるく、あたりまえみたいに。
「シュンカちゃん?」
変わったシュンカの雰囲気に、勇者が気がつき気遣わしげに声をかけた。これもまた、聞いた事があった。
「……いぇ」
絶望とは。
「なんでも、ございませんよ」
絶望とは、交通事故のようにガシャンと一度に衝撃が来るのではなく。
「また、もう一度、おねがいいたしますね」
絶望とは。
深い海の底を、ひたすら静かに歩き続けなければならないことに気がついてしまった時のことを言う。
シュンカは初めてその言葉の意味を理解した。
「どうかしたのか」
「アスナヴァさん。いや、なんか彼女、顔色が……」
絶望はつめたい。
静かでつめたく、重たい質量をもつものだと、少女は知った。
「……具合が悪いように見受けられる。少し座ろうか」
「はい、そうしましょう。シュンカちゃん?」
まだ、鼻腔の奥に、髪の焼けた異様な匂いが残ってる。
だけども目の前には、平然な世界が広がっている。
「シュンカちゃん、ほんとうに顔色が悪いんだ。座ろう? 一回、休んだ方がいい」
目の前と身体が感じていたあの地獄とのギャップで眩暈がした。
「さ、ほら。ここ、はい。うん、お茶の残りもあるから」
勇士さま。異人さま。
わたしは、あなたの頸が千切れている時を知っています。
あなたの頭と胴体が、どんなふうに分たれて、死後数十日たった頭は唇からひび割れていくことを知っています。
「シュンカ、眩暈はどうだ。吐き気や腹痛は」
アスナヴァさま。
佳人さま。わたしはあなたの最期をしっています。
どんなふうに食べられて、肺と胸骨が一緒に貫かれたときに出す声を知っています。勇士さまを置いて逃げることを選んでくださった時の表情を知っています。
そうしてシュンカは、はっ、は、っ……浅い呼吸をくりかえし。
胸の奥から湧き上がる熱い衝動のまま。
「う……ぉぉぇ」
盛大に、嘔吐した。
「シュンカちゃん!」
びちゃびちゃと胃の内容物が綺麗な床を汚していく。シュンカの体温を持った液体がこぼれていく。
喉の奥をすべる胃の中身の感触がした。
鼻が塞がって苦しい。涙は目から強制的に出て来た。吐くとこうなる。
飛び出して行こうとした勇者をアスナヴァがさっと止めて、前に出た。
「触るな、吐瀉物の処理は私がやる。シュンカ、落ち着け、ゆっくりと呼吸をするんだ」
銀の麗人は簡易的な浄化の魔術をかけながら吐瀉物を処理していく。それと同時にシュンカの口をぐい、と広げ中を確認した。
「……けほ」
苦しい。痛い。嫌だ。
そんな感情が渦巻いて吐き戻した筈なのに。
「くふ」
それでも、少女は薄く笑みを口に浮かべた。
誰かが、自分の体を操っているような。
自分にあった心を、胸の箱からとりだして、どこか別のところに置く感覚。
「申し訳、ございません。少し前に食べた物が口に合わなかったようで」
麗人が訝しげに見ている。
白い髪の少女が、そわそわとシュンカの方を見ている。
勇者がシュンカを見ている。
でも、もう。
全てが遠くて、すべてがガラス一枚隔てた先の世界のようで。嬉しいも、悲しいも、面白いも、つらいも、なにもかも、伝わってこなかった。
自動で動く身体は黙々と、汚れた服の一番上の羽織を脱いで、動ける状態にしていく。
「待て、すぐに立ち上がっては……」
「いいのです。寧ろ楽になりましたから」
また、やろう。変わらないのだ。この繰り返しは。
何度失敗したところで。元に戻るだけなのだ。
「行きましょう? 異人さまがた。当初の目的通り」
この繰り返しにシュンカの意思は介在せず、ただ前に進ませることしか出来ない。
やるしか、ないのだ。
なら、やらないと。
ふしぎともう、涙は出なかった。
目の前で動いているひとたちが、旅芸人の舞台で見た、同じ動きを繰り返す絡繰人形にしか見えなかった。
「大丈夫、なのかい? シュンカちゃん」
はい。
だいじょうぶです。異人さま
今のシュンカを動かしているのは、か細い希望。全てをひっくり返せるかも知れない、ワイルドカード。
「龍のもとに、まいりましょう」
願いを叶えるという、龍の試練。龍は試練の克服を尊ぶ。初代皇帝は龍の試練を突破し、国を興すという願いを叶えた。元々のシュンカたちの目的は、その龍に接触して祝福を第一公主に授けてもらい、政争を終わらすというものだった。
だから、龍に会い、願いを叶えてもらおう。
そんな、子供のおとぎ話のような一発逆転を狙うのだ。
いま考えられる望みは、ただ、それだけだった。
きっと、辿り着けば。
試練を乗り越えられる。この、強い人たちなら。
きっと、試練を乗り越えて、願いを叶えられる。
そうしたら、願うのだ。
どうか、どうか、あの魔王を殺してください、と。
すべて、うまくいく。
きっと。きっと。
◆
そこからの道行は、最初と繰り返しと変わらず、順調なものだった。
「右で御座います」
「Ho fu fu!?」
一寸先見えないような霧に包まれる平野。
そこで襲ってくる、肉食の角を持った羊をシュンカは符を使って足止めをした。
「──ふっ」
原理は単純。
相手が近づいてくると分かっているなら、そこに予め行動阻害の符を地面に埋めておけばいい。体の筋肉に作用する電撃を発生させる符で動きの止まった羊を勇者は上段から首を落とした。
ばつん、と音がして羊の首が落ちる。
ルークは仕留めたことを確認するとシュンカに向き直った。霧で辺りは暗い。まだ昼過ぎだと言うのに。そして肌寒かった。
「凄いね、シュンカちゃん。こんなに戦えるとは」
「いえ……知っているだけで御座います」
「それでも、本番に臆せず立ち向かえるのは凄いことなんだよ」
そうで御座いますか、とシュンカは微笑んだ。
いったい、誰が笑っているのだろう。
(──ああ、
考える頭とは別に、身体は動き続けていた。
まだ、先は遠い。
◆
シュンカはぼんやりと、目の前で切り分けられる肉を見る。火を使う関係上、外で調理が行われる。夕食の支度は、霧を通して見える朧げな夕陽の中で、見た事がある光景だった。
「さ、塩を取ってくれ……」
「こちらで御座いますね」
「……ありがとう」
シュンカは勇者ルークの荷物の中から手のひらより小さな瓶を取り出し、アスナヴァに手渡す。前にも同じことを求められて、荷物に塩があることを知っていた。アスナヴァは手渡された塩をしばらく見つめ、肉にふりかけ始めた。
ああ、なんと慣れた景色だろうか。
空も、雲の形もきっと変わらない。
薪に火がつく。
ぼうっと熱が周囲に広がった。目の辺りがちくちくする。
シュンカは踊るように揺れる火を目隠し布に反射させながら膝を抱えた。
先ほど勇者に呼ばれて、天幕の設営を手伝った時も、手慣れていると驚かれたものだ。あれも、これも、あなたがたが教えてくれたのですよ。
そうは言わなかった。
今回大事なのは龍まで行くこと。
(ああ、でも──)
あの村に気がつけば、また勇者たちは調査に向かってしまうかもしれない。あの、悪魔が召喚されていた村に。
大きく迂回しなくては。そう、進言しなければ。
そのためにはシュンカのこれまでの繰り返しを一から説明して、信じてもらって、進言を受け入れてもらう土台を作らなくては。
パチパチと火が枯れ木を割りながら爆ぜる。
火の粉が飛ぶ。辺りはもう、暗くなり始めていた。
(でも……すこし、──めんどうだ)
あたまがぼうっとする。
回転が鈍い。三巡目が始まってからずっとそうだ。
重石を引くように、ひたすらに頭が重たかった。思考が発展しなかった。
だからシュンカは、ただ自分の膝と膝の間に顔を埋めた。
その日の流星群は見なかった。
見たくはなかった。
龍への道が開くまで。
残り 75日の筈だった。
◆
そこからのことは、よく思い出せない。
思い出そうとすると、曖昧でぼんやりしていて、時系列がバラバラだった。
すぐに頭に浮かぶのは、地面の模様。攻略した霊廟の床の材質。隅に生えていた苔。そんな、なんの意味もないものだった。
あの河も
蒼燕帝国の都を出て。
海底幽野を抜けて。
古代の霊廟を越えて。
そしてその先にある地下堂に、飛燕山脈頂上につながる道があるという。
一行は何十日もかけてようやく、その地下堂にやって来ていた。
道のりはそれなりに順調で、何なら龍への道が開くまで大幅に余裕があったので地下堂に早々に辿り着き、その日まで周囲の調査をしていたほどだ。
「いよいよだね」
「そうね」
装備を整えたルークがゴクリと唾を飲み込みながら言えば、隣に居たカランコエが欠伸をしながら興味なさげに呟く。すぐに剣に変わるカランコエは軽い防寒だが、ルーク達はコートや外套を着込み、山頂の寒さにも耐えられる格好をしていた。
白い髪の彼女は勇者の装備をつけた分厚い革の手袋越しに彼の手を取ると、しゃらんという音と共に白い一本の剣となった。
シュンカは前を見る。
暗い地下堂の奥には、石でできた門があった。
部屋の中央に位置する門は縦が大人一人と子供一人を合わせたくらいの高さで、幅は大人二人が両手を広げたくらいだ。
材質はボロボロの石で、くすんだ薄赤をしている。
だが、なにより異質なのが──
「ここが、飛燕山脈の、頂上」
地下にある筈の門の向こう側が、紺色の広がる、白い雪景色の高台だったこと。
まるで窓の外のように、まったく別の光景が張り付いている。
「行こう」
先陣を切るのは勇者ルーク。
彼が爪先から門をくぐり、向こう側に出る。少しの間きょろきょろとあたりを見渡し、手招きをした。ひとまずは安全ということらしい。
シュンカもその手に誘われ門を潜る。
少し薄紙を破るような抵抗があった後、気が付けば標高5,762メートルの山頂に出ていた。気温は優に-20℃を下回るくらいだ。
「風が強いな。気を付けろ」
びゅおうと吹き抜ける冷たい風に、フード付きの服の裾がバタバタと揺れる。姿勢を少し崩したシュンカの背中をアスナヴァが支えた。地面を覆う白い雪がぎゅ、ぎゅ、と鳴いた。
吐いた息はあまり白くならず空を見上げると、深い藍色をしていた。
まるで、夜のような、だが違う。深い海の底が天に広がるような光景だ。
太陽の光が眩しい。
全ての色が深く、鮮烈で、眼下には雲の海が広がっている。
「凄まじいな」
アスナヴァは鼻の頭を赤くしながらつぶやいた。
あたりに生き物の気配はなく、あるのは物質だけ。だからこの山頂はひどく“静か”だった。
「どうだ、“入り口”はあったか」
「見当たりません。すこし、歩きましょうか」
周囲を警戒し終わったルークが雪を踏みしめながら戻ってきた。
この道を教えてくれた何でも屋によると、龍への道は、天気と、昼間の星々の形と、お前らの目に見えない何かが噛み合って、龍に続く道が正午の1時間だけ飛燕山脈の頂上に開くらしい。
見た目は行けば分かると言っていた。なんでも、空気が石鹸の螺鈿色に輝いている、と。それを息を止めて潜れば、目の前に龍がいると。
シュンカは防寒具の詰まるような首周りを動かしながら、眩しい太陽光に眼を細めながらあたりを見渡した。山のとんがった槍、白い雪。斜面から覗く灰色の岩肌。
「…………あ」
そんな色の中にひとつ。少し先の丘のようになっている一番上に、虹色のような鮮烈な輝きを見つけたのだった。
◆
雪を踏み締める。
どこまでも沈みそうになる足を必死に動かす。
「はっ、……ふ」
息が上がる。
空気が薄い。アスナヴァやルークの魔術である程度緩和されてはいるが、高高度というのは生き物の住むところではないのだと実感した。
少しの頭痛もある。
だが、おかげで。
「つい、た……」
螺鈿の輝きがある、丘の上にたどり着いたのだった。
シュンカの目の前、地面から50センチほどのところに石鹸水の表面のように虹色が揺れている。空間に張った石鹸水のようなそれは規則性のあるパターンをガラスの破片のように、民家の扉ほどの大きさで輝いていた。
「これが……龍への道……」
シュンカはそうこぼした。
キラキラと輝く入り口は、どれだけの間開いているのか分からない。だが、何でも屋の口ぶりからずっと開いているものでも無いのだろう。時間は有限だった。
「行きましょう、異人さまがた」
シュンカがそう言って踏み出そうとすると、ルークは困った顔で頬をかいた。
「……? どう、されたのですか? もしや何かご準備が」
珍しく足を踏みとどまらせた勇者に、シュンカは眉を下げて尋ねる。
ルークは何かを気にする、というより言葉を探すように片手を頭に当てた。
「えっ、と。シュンカちゃん。決して疑うわけじゃ無いんだけど」
びゅおう、と風が吹く。
雪が舞い上がって、強烈な太陽光に照られされて輝く。
勇者は申し訳なさそうに、身長の低い少女に目を合わせて言った。
「
は、と。
何を言っているのか分からなかった。
「ほらっ、ここ。ここでございます!」
シュンカは嫌な予感に、心臓をバクバクとさせながら螺鈿の輝きを指差した。ルークは隣にいたアスナヴァに視線を送ると、彼女も静かに首を横に張った。嫌な予感が大きくなる。
そして、ルークはシュンカに対して、決定的な言葉を告げた。
「
その、入り口は。
すとん、と、力が抜けるような感覚だった。
◆
結果は、龍への入り口はシュンカしか見えない、通れない、というものだった。
シュンカがルークの手を引いて、螺鈿の光に当てても彼は何も感じず、何も変化が起きなかった。逆にシュンカが手を伸ばせば、螺鈿の輝きに触れた場所から先はどこかへ消えた。また腕を引けば腕は元に戻っている。
「本当に、行くのかい?」
「はい」
ルークは心配を顔に滲ませて、装備を点検するシュンカの手伝いをしていた。
結論としては、シュンカが行くしかない。この道の先に。
あの老婆の言っていたことが思い出された。だから、この旅にイェン・シュンカを同行させたのだ。
アスナヴァがシュンカの体を確かめるように、ぱんぱんと触っていく。全ての装備があるのか確認しているのだ。それが終わると彼女はひとつ頷き、一歩離れた。
相変わらず顔色の悪いシュンカは装備が整ったのを確認してもらい終えると両の脚で螺鈿の入り口の前に立った。
どれほど想定外が起きようと、行かなければならない。
最後の望みは、この、全てをひっくり返し得る龍の願いを叶える力なのだから。
さぁ、行くぞ。
雪を踏み締めて、歩き出そうとした時、しゃらんと音が鳴った。
「まって」
発生源を見ると、カランコエが剣の状態を解除して雪の上に降り立っているところだった。白い髪がふわりと揺れる。こんな低温のところにはおかしなほど防寒をしていない状態の彼女はどこか現実離れしているように見えた。
「……さむい」
くしゅん、と白い少女がくしゃみをして両手で体を縮こませるように抱えた。
「どうした、カランコエ。そんな格好で出てきては凍えてしまう」
アスナヴァが慌てて一番上の外套を脱ぎ、カランコエに被せようとする。少女はその申し出を、手を突き出して首を振ることで断った。
「ちょっとだけだから」
シュンカが事態を飲み込めず、困惑していると、カランコエはシュンカに向き直った。背後の深い海底のような碧色の空と対照的な、紅い瞳が鮮烈に映った。
「あなた、くらいかおね」
そしてカランコエはおもむろに自身の髪の毛を数束掴むと、ぷっ、とちぎってしまった。白い、さらさらとした髪が風に揺れる。
彼女はそれを持ってひとこと。
「鍛造」
光が収まった時、カランコエの手にあったのは、白く少しだけの装飾がある短剣だった。無骨で、飾り気は最小限な、カランコエのような剣。
「はい、えっと」
彼女はそれを突き出し、ぽかんとしていたシュンカに握らせて、鈴のなるような声で唱えた。
「──
少女の口から紡がれたのは、ルーク達にとっての異国の言葉。
シュンカにとっては聞いたことのある祈りの文句だった。旅立つ友の安寧を願う、祈りのことば。
「ずいぶんと、お古い言葉をご存知なのですね……」
短剣を受け取ったシュンカが驚きながら言えば、常に無表情だったカランコエは、珍しく口許を緩めて、穏やかな顔をした。
「うん、おしえてくれた。わたしの姉さんが」
白髪の少女はまたくしゃみをひとつして、寒そうにして、すぐに剣に戻ってしまった。
シュンカがルークを見ると、彼は目尻を下げて『持っていってあげて』と頷いた。
シュンカは剣を腰に付けた。
そして一つ息をすると、止めて、螺鈿の輝きを一息に潜ったのだった。
◆
《Hi、イェン・シュンカ》
声が聞こえた。
一瞬、眠りに落ちたように意識が途絶えて、シュンカは閉じていた眼をゆっくりと開けた。
《ようこそ、コントロールゾーンへ。私は世界同時処理端末型コンソール──Dragonです》
あたり一面は卵の殻のように真っ白で、距離感が掴めなかった。どこまでも広い空間ということだけは反響する音で分かった。
「あなたは……」
声の方向を頼りに、首を回すと、そこには一体の置物があった。
子供の背丈ほどの大きさの、灰色に塗装された木彫りの置物。蒼燕のお土産物の、龍を模した木彫りの像だった。それが、何重にも反響する声で喋っていた。
《貴女のorder……願いは何ですか》
龍と名乗る存在はシュンカに尋ねた。
どこまでも平坦な声で、シュンカが想像していた龍とは全く違っていた。話では天を埋め尽くす巨体に、どんな刀剣よりも鋭い鱗、そして天の色をした体表を持つ大いなる存在と伝えられていたのに、いま目の前にあるのはただの喋る土産物だ。
「ねがい……」
《Yes》
そこまでいって、シュンカはまわりがそんなに寒くないことに気がついた。暑くもなく、寒くもなく。距離感を無くす透明で真っ白な空間。
木彫りの土産物を見て、シュンカは願いを思い出した。口の中がカラカラする。息が上がり出す。
これが、ずっと縋っていた希望だったから。
「ま、魔王を。あの、エイの魔王を倒してくださいっ」
《Yes、order、受諾しました。試練を開始しします》
龍がそう言って、世界にブゥンと重低音の駆動音が走った。
するといつの間にかシュンカの前方、四メートルほどの位置に、火鼠が一匹存在していた。だが様子は通常のものではなく、輪郭が揺れて、半透明な、ノイズが走っている。
「k kkkk」
火鼠はシュンカを認識した瞬間、口を開けて、迫ってきた。
「あ、あっ!」
咄嗟のことだったが、事前に整えておいた装備のおかげで符術を発動する事が出来た。薄緑の紙が宙を舞って、小さな風の刃を作り出した。
威力としてはそこそこだが、火鼠一匹を仕留めるには十分過ぎた。
「k!」
そんな断末魔を残し、ネズミは弾けた。
《データ量 1》
龍とは違う、頭に直接響く声。
「あのっ……これ、あとどれくらいやれば」
はぁはぁと息を荒げながらシュンカは問うた。
こちらがどんなに驚いても、必死でも、龍の声は平坦で感情を感じさせなかった。
試練は、どのようなものか。
情報が必要だった。
《情報をお望みですか? 現在の貴女が持っているデータ量で開示可能な情報をorderしますか?》
「……はい、お願いします」
《私は世界同時処理端末型コンソール。Dragonです》
白い空間に、声が響く。
男とも女とも分からない、透明で何もない声が。
シュンカは汗をかいていた。いやな感じだ。
《私は世界の67%の処理を実行しています。しかしながら、世界はデータが増え続け、リソースにも限りがあります》
龍が言葉を重ねるたびに、体がじとじとする。
嫌な感じが増えていく。
《そこで、私の行う処理をここに来られた方に、代行して行なっていただいているのです。それが“試練”です》
この空間は湿度も適切で、まったく不快な要素はないのに。
シュンカは今すぐここから立ち去りたかった。色のない空間に、一つだけ存在しているシュンカという色が、どうしようもなく汚れた異物に思えた。
《私は、対象者が処理を代行してくれたことにより浮いたリソースを、対象者の願いを叶えるために使用する事が出来ます》
そして、龍は言った。
《貴女の願いである、『狂気の魔王』破壊。これにはあと、残りデータ量は17,658,874.が必要です》
《以上となります。試練を続けますか?》
「は、はは」
気の遠くなるような、龍の示した数字。
その平坦な声には同情も憐憫もない。ただの情報だった。
「そう、ですか……」
シュンカは項垂れた。
体を支えていた最後の力が抜けて、地面にへたり込んだ。
やっと登ったと思っていた坂が、頂上に辿り着いた途端、断崖絶壁を示されたような感覚。
「そう……」
四方を壁に囲まれた感覚。
もう、頭の奥がおかしくなってしまいそうだった。
《試練を、続けますか?》
「ッ──!! なんで、なんで、なんで!」
同じ口調で繰り返させる龍の声に、シュンカは爆発した。
喉を張り上げて、手を振り回し、叫んだ。
「なんで、わたしに、こんな重荷を背負わせるのですか! なんでわたしを、こんなに苦しめるのですか! なぜ、なぜ!」
なぜ、こんな目に遭わなきゃいけない。
なんで、大切だと思ったひとが死ぬのを見なくちゃいけない。
なぜ、かっこいいなと思えた人の生首を運ばなきゃいけない。
なぜ、仲良くなれた積み重ねの時間をなんどもなんども消去されなきゃいけない。
なぜ、なぜ。
「ぅ、ぁぁあっ!」
あいさつの声が、おおきくなかったから?
食後の祈りを、とばしたことがあったから?
ほかの姉上さまみたいに、あいそよくできなかったから?
なぜ、わたしがこんな──
《貴女の状況についての情報を望みますか?》
龍は言った。
数秒間シュンカは項垂れて、こくんとひとつ頷いた。
《処理してください。貴女の強さに合わせた試練です》
また鼠が出てくる。
シュンカは慣性で動く置物のように、ゆっくりと符術を放って、ネズミを屠った。
また、頭の中に“データ量”を獲得したと声が響いた。
《データ量を確認。消費して情報を開示します》
シュンカは動かない。
耳を塞いでも、声は通り抜けて親切にも少女の脳内に直接語りかけた。
《貴女の体験している巻戻りは、三五六二年前に取り交わされた、蒼燕帝国初代皇帝の願いによるものです》
龍は言う。
情報を開示していく。
この、巻戻りの真実を。
蒼燕帝国のもっとも深く、暗い真実を。
《願いの内容は──蒼燕帝国の恒久な存続》
蒼燕帝国は数千年続く帝国だ。
なんども危機が襲ったが、その度に英雄が出てきて退けてきた。
そう、教わっていた。国の輝かしい歴史として。
教師のキンキン声が思い出される。あの日々は、もう遠い。
《故に、彼の血縁の者に龍の因子を紛れ込ませ、もし蒼燕帝国が甚大な被害を受ける際には、最も龍の因子が濃い対象を起点に“巻き戻し”を実行するようになりました》
シュンカはいま自分がどうなっているのか分からなかった。
地面があやふやだった。視界が曲がる。体が震える。呼吸が浅くなる。
《この措置は、過去4回行われています》
《今回の対象は、あなたです。イェン・シュンカ》
「……あの魔王を弱体化させるには?」
腹の底に残った最後の何かを使って問いかける。
《程度によりますが、凡そ1,277,968必要です》
望みのない、声だけが返ってきた。
「う、うぅぅー……」
シュンカは歯の奥から声をあげて、両手で頭を掴んだ。
くしゃ、と自身の髪が乱れて、ちぎれて、少女は頭を抱える。
「もう、もういやだぁ……」
真っ白な空間で、たったひとり。
龍の置物の前で、イェン・シュンカは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら泣きじゃくった。
《現状の否定を望みますか?》
《提案。このDragon lawには最終措置が用意されています》
《自殺は、Dragon lawの発動要件を満たしません》
聞こえてきたのは、悪魔の囁き。
目の前に、全てを終わらせて楽になる手段が垂らされたのだ。
シュンカはぐずぐずになった顔を持ち上げて、鼻を啜った。
体温はすっと引いていった。思考は介在せず、自動の動きのように、震える手で、奥の方に仕舞い込んでいた白い短剣を取り出した。綺麗なすこしだけ飾りのあるカランコエがくれた短剣を。彼女はそれを両手で持った。
突き刺すのとは反対側。刃が自分に向くように。
「……」
手が震える。
白い刃が震える。普段、こっちを向いた刃を見たことがなかったから、不思議な光景だ。現実感がない。目の前がのっぺりしている。
ほんとうに、おわるの?
いま、おわれるの?
それは疑問ではなく、突然に目の前に現れた自分の終わりに戸惑ってのことだった。
あの、宮で過ごした最低の日々で、自分が死んでこの生活が終わらないかな、なんて妄想は何度もしたことがあった。
ぐうぜん、あの植木鉢が頭に落ちて。
ぐうぜん、暴走した竜車に巻き込まれて。
そんな、もしも、が今目の前にある。
両手に伝わる短剣の、冷たい持ち手の温度感を伝えながら、そのもしも、は具体的な形を伴って顕現していた。
きっと、上手くいくだろうな、と思った。
現実感のなさがヘンに思わせているだけで、この剣を、私の血で真っ赤に染めてしまえば、きっと終われる。予習をしたことがないから、分からないけど。
やってしまえ。
楽に、なってしまえ。
もうなにもかんがえなくていい。
ただ、つきさせば。
それで、すべて眠るように終わる。
あとは、自分の意思で。
この両手を神に祈るみたいに、突き上げて、自分の喉を突き刺せばいい。
それで、おわる。
『──うまれてきてくれて、ありがとう』
ふと、思い出したのは母親のこと。
シュンカのせいで気が狂ってしまう前の、優しかったときの、頭を撫でてもらいながらいってもらったことば。
「……い……」
震える声で。
「いやだぁ……」
シュンカは地面に頭をつけて、泣いた。
なんどもなんども。もう、訳がわからなかった。
「ともだちが、くれたものを、こんなふうには……つかいたく……ないぃ」
初めての友達がくれた、贈り物。
きっと彼女と過ごした時間は、自分の一方的なものだろうけど。あの日の夜。平野の天幕の中でした会話を覚えている。
──あなたが、悩むってことは、それだけ真剣にむき合ってること、……ね
──それだけ大切に考えてるってことだわ
友達に、なりたいと思ったのだ。
カランコエは、自分に弱さを吐露してくれて、シュンカの迷いを肯定してくれた。それで、いいのだ、と。
そんな素敵な子と、もっとお喋りがしたかった。
一緒に寝台を並べて、お話をしながら夜更かしをしてみたかった。
食べた事ないご飯を、感想を言い合いながら食べてみたかった。
もっと触れ合いたかった。
そんな子がくれたモノを、こんなふうには使いたくなかった。
「あ、ぁぁぅぅ……」
だれか、だれか。
シュンカはか細い声で慟哭する。
どうしたら、わたしはいいのか。
どうしたら、どうしたら。
《外の世界で蒼燕帝国の被害を確認。特殊措置Dragon law 発動します》
また、目の奥がズキズキと痛んで。
《現在のイェン・シュンカの情報をスキャン。精査……Dragon law開始地点の変更を提案……受諾》
その痛みすら、あたまをぐしゃぐしゃにする要素でしかなくて。
《では、さようなら》
イェン・シュンカは、こうして再び、世界に引き戻されていった。
次に眼を開くと、そこは昼で、建物と建物で、馬車が一台通れるかどうかの袋小路に、大柄な布を頭に巻いた男の姿があった。壁際に詰められているのは自分で、男に手を掴まれていた。
「おい、出せ! お前が盗んだんだろ!? ほらっ、手に持った果物、離せ!」
シュンカはぼんやりとその姿を見る。
もう、体に力は残っていなかった。殴られようがどうされようが、どうでも良かった。
男が拳を振り上げる。
シュンカの顔に影がかかる。
「……っは?」
だが、拳は。上にあげたまま、誰かの手によって固定される事となった。ちょうど男の後ろから腕を伸ばし、誰かが手首を掴み固定している。
「こんにちは、表の店の店主さまですか?」
「ああ? なんだテメェ──」
男は怒りにさっと顔を赤くするが、掴まれている腕が微動だにしないとこに気がつくと、汗を流し始めた。シュンカは聞き馴染みのある声に、ぴく、と反応を示した。
「取り敢えず、これで、手打ちに。ね?」
青年は決して力を込めず、男の手をパッと離す。その隙に彼が男の手に握らせたのは、数枚の硬貨。
男は──たしか店主の男は、青年を見て、手元の金を見て、暫く逡巡したのちに荒い舌打ちを一つして去っていった。
解放されたシュンカは、男が去っていった方を暫く見ていたが、おもむろに助けてくれた人たちのほうに目を向ける。
ああ──
これは、わたしが異人さまたちと出会った場面だ。
まだ、お互いの名前の知らない時だ。
そんな時まで巻き戻ってきたんだ、と。
「えっと、大丈夫? ケガとか、してない?」
青年は見ず知らずのはずのシュンカに、目線を合わせ心配そうにする。
この時の彼はまだ何も知らない。
イェン・シュンカという存在を知らないのだ。
だから言うべきは、自己紹介で、簡潔な現状の説明で。
こんにちは。はじめまして。
わたしの名前はイェン・シュンカです。
龍の眼を持った、第七公主です。
龍の眼というのは政争の種になる厄介モノです。
そこでお願いがあるのですが、よろしいですか、と。
そう、言うはずなのに。
シュンカは、自分を見る、優しい顔をした青年を目を見て、震える指で彼の裾を摘んで、言った。
「──たす、けて」
ただひとこと。
現状の説明もない。理由も述べない。
相手からしたら、意味不明の状況。
だけど、シュンカが口にした、初めての言葉だった。
少女の手が震える。歯がガチガチ鳴る。そして、シュンカの手が、がしりと握り返された。
ごつごつとして、暖かい手がシュンカの小さな手をすっぽりと覆った。
「分かった。任せて」
少女の手を握り返した勇者──ルークは、そう、力強く約束をした。少女の目から涙が溢れる。うっ、うっ、と何度も嗚咽をこぼす。
──まかせて。
その言葉が決して嘘ではないことを、イェン・シュンカは十分過ぎるほどに、知っていた。
古今東西。
勇者を動かすことばはただ一つ。
少女は初めて、勇者に助けを求め、手を伸ばした。
そんな手を、勇者が振り払う筈がないのだ。
こうして運命は捻れ、長い長い繰り返しの旅を経て。
蒼燕帝国の、誰にも顧みられない路地裏で。
「──大丈夫」
捻れて歪んだ運命は、たったこれだけの、勇者と少女の出会いに収束した。大地を揺るがす波濤もない。天をつんざく稲光もない。
あるのは、麦色をした勇者と、泣いていた少女だけ。
それで、十分だった。
勇者が進み、目指す未来は一つだけだから。
賞賛も、名声も、いらない。
欲しいのはただ一つ。
「僕は、あなたを助けよう」
みんなが笑って終わる、大団円を。
【目的確定】
▶︎少女を助ける。