おつかれ勇者とつるぎの魔女   作:調味のみりん

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35話 花朵凜然綻放

 

 

 怒気がこんなにも身を焦がすなら。

 怒りは一体何のために人に備わった? 

 

 カランコエはうちから湧き上がる、訳もわからない熱の奔流のまま、歯を食いしばった。

 

「怪我人をこっちに送れ!」

 

「いてぇ、くそ……いてぇよ」

 

 天を我が物顔で占領する魔王。

 その腹にあるぎょろぎょろとした目玉を睨みつける。

 

 あたりに散らばった鎧の破片は禁軍兵士が倒れた証だった。

 たくさん、数を数えるのも億劫になるほど転がっている。

 

 助けようとした人も、手を伸ばした先から死んでいく。シューシューと煙をあげる黒い触手の化け物の死骸の横で魔女は両手で顔を覆った。

 

「わたしは……」

 

 踏み躙られた命。

 それがおもちゃのようにあしらわれた姉たちの命と重なる。あの日の思い出と二重になって、焼き払われていく。

 外に出ることなく終わった、やさしいひとたち。

 

 砕けた命。

 顧みられない尊厳。

 

『G──、──』

 

 魔王が上空から重低音で鳴く。

 周囲の家々がびりびりと震える。

 

 目の前にあった紫を基調とした剣も震えた。

 ああ、さっきまで。さっきまでこのひとは生きていたのに。

 

「わたしが、たんぞうした」

 

 信じられるものか。

 

「ころしてやる」

 

 すべて。

 魔王も何もかも。悲劇を生み出す全てを。

 少女の白髪がふわりと浮かび上がって、周囲の瓦礫が振動した。彼女の赤い目がぼんやりと光を灯して、開かれた。

 

「カランコエ……!」

 

 ルークは先程の戦闘で失った片目と、右足を引き摺りながら魔女の元に辿り着く。

 

 

「だめだ、()()は超えちゃいけない」

 

 そう言って勇者は力の入らない両手で魔女を抱き寄せた。小柄な少女の体がすっぽりと勇者の両腕の中に収まる。

 ルークを見上げる彼女の双眸に揺らぎが広がった。

 

 右に、左に。揺れる視線。それがルークの血や擦り傷、埃だらけの顔を写している。まるで、迷子の子供じゃないか、と勇者は思った。

 

「いいえ、ゆるさない……すべて、すべて……」

 

 少女の身体に、まるで剣が壊れるように、ぴしりと罅が入った。

 それは陶器の体を分割するように。全身に何本もの亀裂が走り、間から赤黒い光が漏れていた。

 

「……恨んでいい」

 

 ルークは魔力を纏わせた手刀で首筋を叩き、意識を切断させた。

 かくんと力をなくして倒れ込む少女。ふわりと彼女の香りがして、次の瞬間には彼女の姿は光の粒子になって、あたりに広がった。

 

 その蛍火のような光の粒たちは導かれるように、ルークの手の甲にある契約の紋章に吸い込まれていった。それと同時にルークの欠損していた脚と目が回帰する。

 

 契約に意識を向けると、カランコエの意思は感じ取れなかった。眠りについている。そんな無意識の状況でもルークの怪我を修復してくれたのだ。

 

「ありがとう、カランコエ」

 

 負荷をかけすぎた。

 彼女は戦闘中、なんどもなんどもルークの削れる身体を鍛造し直し、そして手数が足りないと苦肉の策で周囲に転がる味方の亡骸をも鍛造して剣にしたのだ。

 

 それがどれだけ、この優しい魔女の精神に負担だったか。

 戦う道を自ら選んだルークと違い、彼女はただ着いてきてくれているのだ。

 

 勇者は失った体力を少しでも回復させるためにその場に膝を突き、意識して呼吸を繰り返した。体内の古い空気を外に排出し、新鮮な物を取り込んで魔力を練る。身体中、末端に至るまで疲れが詰まっていた。

 

 すぅ、ふぅ、と繰り返す。

 体内の循環を意識する。彼の師匠に教わったように、何度も、愚直に。

 

 

 すると空が騒がしくなって、見上げると空の割れ目が生まれ、そこから大岩が生まれ出ているところだった。

 

「なっ……!」

 

 岩は空気と擦れて赤く染まり、地面を目指してまっすぐに落ちてくる。

 街一つは軽く消し飛ばそうな大きさ。

 

「また、かよ!」

 

 あらゆる直感が告げている。

 あれは“破滅”だ、と。全細胞が迫り来るどうしようもない自然災害のような光景を目に警鐘を鳴らし続けていた。

 

「おい、あれ!」

 

 だが少し離れた場所にいた兵士が声を上げる。

 ルークが目を凝らすと魔王の背中から紫色に軌跡を残して電撃が大岩めがけて突っ込んでいる場面だった。

 光はまるで勢いをつけるかのように大きく弧を描いて走り、そしてとうとう岩に激突する。

 

 耳をつんざくような轟音と振動。そして空に何度も閃く閃光。光は岩の内部から外に亀裂を押し広げて、ついには大岩はバラバラに砕け散った。

 

 

 

 空から落ちてくる、無数の岩の欠片と、雷の残滓。

 

「蒼燕の勇者が……」

 

 やったのだ。

 あの人外災害を一人で止めた。その身を引き換えに。

 

 ルークは握りしめていた予備の短剣を掴む力を緩め、息を吐いた。

 作戦は、限りなく失敗だ。

 

 

 次の一手を打たなければ──

 

 

 

『いひっ、いひひにひ! “存在迎合”』

 

 

 

 そんな時、空から降ってきた、年若い喉の笑い声。

 耳障りな高音が響き渡ったと思った次の瞬間。

 

 

『G────!!』

 

 

 魔王の赤暗かった体色が全て脱色したように白黒になり、苦しげに蠢き、腹部にあった全ての目が閉じた。

 静寂。

 

 一瞬の静寂があたりを支配して、時が止まったようにすら感じられた。

 だが、それも一瞬。

 

 

 

『GYAH! GYAH!! GYAHAHAHA!!』

 

 

 

 魔王の腹についた目が、一斉にぐるんと見開かれた。

 魔王の規格外に巨大な全身は水面に浮いた油のように極彩色に変化していた。

 

 

『──さぁ! もう、抵抗もいいんじゃない? 諦めて、武器を捨てて楽になりなよ!』

 

 空から聞こえる声。

 楽しげで、軽い調子で、だからこそこの戦場には不似合いだった。

 

「ッ、総員、けいかぁぁぁぃッッ!!」

 

 禁軍の一つの部隊の隊長が声を張り上げた。

 緊張と、焦燥と、焦りが滲む声を、必死に。

 

 なぜなら。

 

 

『きゃははは! もう、無駄だってのに何で苦しむ方に行くかなぁ、分からないの? じゃ、ぜんぶかき混ぜてあげるねー』

 

 なぜなら。

 こんなにも血と鉄と、命のやり取りが入り混じる戦場で、楽しく軽い調子を作ることが出来るという事は。戦場はそいつにとって楽しく、命を弄ぶ存在であることを意味していたから。

 

 多くの禁軍兵士ががしゃがしゃと武装を構え、集まり、周囲を極限まで警戒した。

 どこから敵が来ても対応できる隙のない構えだ。

 

『最後の大盤振る舞いだ! たぁーんと、死に晒せよ』

 

 

 地響き、というより空間が揺れて。

 兵士があたりをキョロキョロと見回して確認する。何も起きていない。

 拍子抜けした気持ちで一人の男が空を見上げ、固まった。

 

「お、おい」

 

 声につられた一人、もう一人と空を見る。

 空を見た全ての兵士の顔は驚愕に見開かれ、全身をかたかたと揺らしていた。

 頬を伝う冷や汗が止まらない。

 

 

「ありゃ、何だ……何だよ……!」

 

 

 そこにあったのは、黒い天蓋。

 細かな点が一つ一つ動き、暴れる天井。

 

「悪魔だ……」

 

「ありゃ、()()()悪魔の群れだ」

 

「嘘だろ、なぁ」

 

 誰かが呟いた。

 誰かが答えた。

 天を埋め尽くす、悪魔と、おそらくはバケモノの群れ。

 

 見れば魔王の肉体は当初より縮んでいた。それだけ、肉体を供物に捧げたのだ。だが地上にいた兵士や勇者はそのことを知らない。彼らが受け取った現実は、蒼燕の勇者が敗れ、目を剥くほどのバケモノが空から落ちてくるという事実だけ。

 

 

 総数、目算で大凡10,000体はくだらない。

 悪魔と化け物の混合した雨が降ってきた。

 

 

「あ、ぁぁあ…… ごぷ」

 

 どちゃ、と一体悪魔が降ってきた。一人の兵士を下敷きにした。

 筋骨隆々な悪魔は、そのまま人の何倍もある背丈によるリーチで慌てて槍を構えた近くの兵士を串刺しにした。

 

「退けぇぇぇッ!」

 

 勇者ルークが叫び、まだ疲労の回復しきらない体で飛び、予備の短剣で切りつけた。一刀の加護が発動し、短剣は白い斬撃を打ち出しながら砕けて消えていった。最初に攻撃を受けた兵士は既に事切れていた。

 

「退避しろっ!」

 

 退け、とは言ったが。

 勇者は考える。

 

 周囲から悲鳴が上がる。

 見れば既に悪魔の多くが着地して、あたりを蹂躙し始めていた。

 

 ──こんな状況で、どこに逃げ場があるというのだ。

 

 ルークは懐に装備をしていた別の剣を持ち替え、近くに来た鳥頭の悪魔を切り裂く。

 

 今いる所は広場のような場所で、中央がひらけていた。その広場に続く奥の道から兵士が一人走ってくる。そして勇者ルークを見つけると、必死な様子で手を伸ばした。

 

「た、たすっ」

 

 言葉は最後まで続かない。

 真横にあった建物ごと、体の殆どが大口の悪魔がひと呑みにしてしまったから。

 

 ばぁん、と音がしてルークの目の前に誰かの体の一部が転がってきた。

 

 あちこちで悲鳴が、肉が削れる音が。

 ルークは駆け出した。いつの間にか手にはいつもの白い直剣が出現していて、それを無我夢中で振るった。

 

「だれか、誰かぁ!!」

 

 年若い声の兵士が恐慌して叫ぶ。誰かが応える前に声は消えた。

 また、ひとり斃れた。

 

 まるで、悪夢。

 こんなちゃぶ台をひっくり返すような、出鱈目が罷り通っていいのか。

 ()()を対処しなければならないのか。

 

 

 

「あ、あぁぁぁぁぁ……!」

 

 

 兵士の一人が鉤爪を持った悪魔に両肩を掴まれ、空に攫われていく。

 浮かんだ体はどんどんと高度を増して、ぱっと肩に食い込んだ爪が離された。

 

 

 自由落下をしていく兵士は奇怪な、笛がなるような声を漏らしてクルクルと回転しながら重力に惹かれて落下していった。

 

 

「くそ、くそォ!! あ」

 

 別の兵士は半透明のガスに触れられて、鎧を着たまま、中身だけを破壊された兵士がいた。綺麗な状態の禁軍鎧に赤くて黒い、固形の混じった液体がかかる。

 

 

 中空には骨と腐肉で構成された蛇が飛び回り、口から物を溶かす息を撒き散らし、体の骨に兵士を引っ掛けて意地の悪い装飾にしている。

 

 地面がガバリと開き、中に不揃いの臼歯がぞろぞろと生え揃った落とし穴になる。足を取られた兵士がそのまま脚を取られた。ぎざぎざの断面から苦悶に喘ぐ声がする。

 

 剣を振った兵士は、腰ほどの背丈の子供のような悪魔に何十とたかられて、二、三体を切り伏せたところで剣を取られてしまう。あとは地面に組み伏せられて、嬲られた。

 

 

「勇者どの! もう、これは!!」

 

 

 悪魔を倒し続けていたルークに近くから声が掛かる。見れば、いつか練兵場にいた兵士の一人だった。彼は顔面蒼白で結界の方を指差した。

 

 竜辰大路に展開されている、殆どの民を保護している薄桃色の結界。

 守り抜くべき最後の希望。

 

 それが、もはや結界の輪郭が見えないほど悪魔にたかられていた。

 

 

「まずい、まずいまずいまずいっ!!」

 

 ルークは叫ぶ。

 

 あれでは結界が破壊される。

 そうしたらどうなる? 

 

「全員、悪魔に喰われるっ!!」

 

 無辜の民が。

 大人が。子供が。男が、女が。分け隔てなく、悪魔の牙に肉を引き裂かれ、この狂宴の食材に成り果てる。

 

「着いて来れる人だけ、ついて来い!」

 

 ルークは結界の方に走り出した。

 途中なんども悪魔が立ち塞がり妨害を受けたが切り捨てる。白い剣はカランコエの意識がないにも関わらず自己修復を繰り返してくれていた。

 

「どけ、どけぇ! それ(結界)に触れるなァ!」

 

 悪魔の海を切り捨てていく。

 絶え間なく伸びてくる爪や牙、魔術に被弾しながらも悪魔を一体でも多く屠っていく。結界から引き剥がしていく。

 

「あぁ!」

 

 肩が持っていかれる。剣を持ち変える。

 切る。悪魔が千切れる。だが、足りない。

 

 数が多すぎる。

 何千体と結界に取りつく悪魔に一人で対処できる数にも限りがある。

 

「おおおおッ!」

 

 

 ルークは地獄の中で叫び、剣を振るい続けていた。

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「これは……」

 

 結界の内部にいたイェン・シュンカは、空から地獄の釜が開いたような、悪魔が雪崩れ込んでくるのを見ていた。

 結界の中から外は硝子越しのように見ることができて、薄桃色に染まった外は地獄の様相を呈している。

 

「そこの子! 下がれ! 結界の境目に近づくな!」

 

 結界内部に避難したひとびとは空間が拡張された内部の中央に固まり、露店の天幕などを流用して簡易拠点を築いていた。さながら野戦病院のような形だ。

 

 そんな後ろからかかる静止の声を無視しシュンカは結界の境界付近で外を見た。

 

 大勢の悪魔がこの結界を壊そうとたかりだす。

 

 逃げ惑う兵士が空を飛ぶ。自力ではなく、悪魔に掴まれて。

 

 結界に辿り着いた一つの小隊が、結界を背に陣形を組んだ。奮戦の構えだ。だが、2体、3体と悪魔を切り倒した所で大量の牙をぞろり生やした犬のような悪魔に囲まれる。

 一匹一匹は小粒な悪魔の数一人一人と削られ、最後の一人が結界の壁に手をついた。

 べちゃ、と音がして彼の下半身から下がちぎれて、結界に血の手形が下へと流れるように付いた。

 

「やめ、……やめて」

 

 シュンカは結界に残った血の手形に手を合わせて声を震わせた。

 心臓がバクバクと跳ねる。身体の末端から熱が消えて、立っている事が難しかった。

 

 外で人が跳ねる。

 人のパーツがバラバラになって飛ぶ。

 

 結界を守ろうと兵士たちは決して中には入らず、外で蹂躙をされ続けている。いや、そもそも恐慌状態に陥った彼らに冷静な思考は出来ていないのかもしれない。

 

『が、ぅ、ぁぇ』

 

 両腕を失った兵士が芋虫のように結界の境目でもがいていた。

 その目からは正気の光は消えて、ただ地面の土を写している。

 

「ぅ……もう、やめて……」

 

 気がつけばシュンカはボロボロと涙をこぼし、負け戦の雰囲気に、あとの残りの時間を悪魔に咀嚼され続ける確信に、喚き散らしたかった。

 

 巻き戻れ、巻き戻れ。

 もう、ダメだ。次があるから分からないが、もうこんな現実見たくは無かった。

 背後の避難した人々は肩を寄せ合って啜り泣いている。もう、おしまいだと確信し切って最後のわずかな時間を噛み締めている。いつ、この終わりを確信した集団が弾けるか分からなかった。だが、それも時間の問題だ。

 

『立て直せぇ! 剣でも槍でも掴んでこっちに集まれ!』

 

 豪奢な飾りをした兵士が叫ぶ。指揮官級の禁軍兵士だ。

 彼は身長の倍近くある槍を振り回し悪魔を退け続け、彼の元に何人もの血を流した兵士が集まり、空白地帯が生まれる。

 

『このまま、押し返すッ!』

 

 指揮官が叫んだ。

 応! と兵士が呼応した。

 

 

 

 

 ──だが最悪は、連鎖する。

 

 空がごうん、と重低音を響かせたと同時に、結界の向こうの色彩が鮮やかになった。目に眩しいほど、不自然なほどに色が強まる。まるで極光に照らされた大地のように。

 

『なっにが……が、は! あ、っ』

 

 兵士たちは周囲を見渡し、次の瞬間、急激に喉を抑えて苦しみ始めた。

 空から降る光が明らかに眩しくなり、地肌が晒されている所は急速に赤くなり焼けだしている。

 

「うそ」

 

 シュンカの呆然とした呟きが無味乾燥ぎみに流される。

 

 結界の外では多くの兵士が首元を掻きむしって苦しそうに目を見開いた。その様子は尋常ではなく、目が眼窩からこぼれ落ちそうなほど大きく、何かを見つめるように見開かれている。

 

 シュンカは眼に意識を集中させて、彼女の凄まじく視力の良い龍の眼で見ると、苦しむ彼らの舌の先が泡立っていた。

 違う。あれは、()()している。

 

 

 ──これは、イェン・シュンカが知り得ない事だったが、魔王が、空の向こうの()()を繋げたのだ。ダメ押しの、ダメ押し。

 

 結界の外の空気が無くなり、真空に近づいていた。

 結界の外の大気は空の向こう──宇宙になりつつある。

 

「おい、君! ここは危険だ! 外は()()()()()。いずれ結界も破られる!」

 

 後ろから若い男が小さな娘を抱いたまま叫んだ。

 腕の中にいる少女はぼんやりと悲痛な顔をする両親を見上げている。

 

「もう、この国はおしまいだ」

 

 シュンカはその言葉に反論ができなかった。

 どうしようもない、おわり。

 悪魔の群れだけでも何度死んでもお釣りが来るのに、さらに外ではおそらく空気が死んでいる。重ね重ねの絶望。

 

「い、……」

 

 いいえ、とは言えなかった。その事が自分自身を何より打ちのめした。こんな否定の言葉一つすらもう、吐けない。

 もうシュンカは足元が覚束なくて膝から力が抜けて、座り込んだ。目の前には空に地に、悪魔が跋扈し人が喰われる悪趣味なショーが続いている。

 

 もう、希望もなにもない。

 ぽろぽろと、意思とは関係なく視界がぼやけていった。

 無力、無意味、無常。この眼に今映る細い手は何もできやしない。

 悲鳴が響く。耳の奥に、心の奥に。

 

「…………もう」

 

 やめにしよう。

 目を閉じたい。耳を塞ぎたい。何もかも感じたくない。

 シュンカはもう心が折れてしまった。

 

 

 

 

 

「まだおわってないよ」

 

 

 

 

 その声は、避難した人々の中で幼く響いた。

 

「……え?」

 

「まだ、たたかってるひと、いるよ」

 

 声の主は、四歳から六歳くらいの擦り傷を負った男の子。

 彼は幼さ特有の、まだ自我が完全に確立されきっていない望洋とした目つきで、結界の外をみていた。

 幼い彼の手には、翠の石が握られている。

 

 

「坊主、何言ってんだ、そりゃ、そうかもしれねぇが……」

 

 シュンカに結界から離れろと声をかけた男性が困った様子で頭を掻く。この、幼い、まだ状況が理解し切れていない子供に、これから来る終わりをなんと説明しようか、という調子で。

 

 

「まだ、戦っている……」

 

 シュンカは呆然とその言葉を口の中で繰り返す。

 飴を舐めるように、転がすように。

 

 

 そしてその時。

 彼女は偶然、悪魔の肉の中から飛び出して戦う一人を見た。

 青や赤や、様々な体液に塗れて白い剣が鈍く光る。

 

 目立たない茶髪に、優しげな目元。

 それら全てを歪ませて、白い剣を振るい続ける一人の青年を。

 

 その姿は一瞬ですぐに悪魔の姿に隠れて消えてしまったが。

 

 

「──いじん、さま……」

 

 異国の彼が。

 まだ()()()()()()出会って間もないこの国のためにまだ生きて戦っている。

 

 

「──……まだ、終わりではありません」

 

 今度の言葉は、なんの抵抗もなく喉から出てくれた。

 

 

「……まだ。まだ、終わりではありません!」

 

 シュンカは立って、声を上げた。

 情けなかった。こんなにも簡単に諦めてしまった自分が。

 嫌だった。でもそれ以上に、今こうして蹲っている方が悔しかったのだ。

 

「まだ、戦っているひとがいるのに、まだ! 命を削ってここを守ってくれているひとがいるのに。だから、まだ、終わりではありません!」

 

 少女は声を上げた。

 誰に聞かせるでもなく、自分の腹の中から込み上げてきた熱のまま。

 後ろに控えていた民衆の視線が霞色の少女に集中した。

 

「諦めては、ダメです。自棄になっては私たちの戦いを放棄したことになってしまいます」

 

 シュンカは息を吐くように、言葉を繋ぎ続けた。

 

 彼が戦っている。

 息が満足に出来なくても、肌を灼かれても。

 抗い続けているひとがいる。

 

 優しくて、気遣いがさりげなくて、強くて、それで、まっすぐイェン・シュンカを見てくれた、あのひとが。

 

 なんの躊躇いもなく、私を助けると言ってくれたひとが戦っている! 

 

「虐げられるだけでは悔しいでしょう。腹が立ちましょう。だから、顔を上げて、私を見なさい」

 

 諦めの空気が腐った空気を充満させていた空間に、涙の混じった清涼な風が吹く。まだ幼い少女が、目隠しの下からも分かるほどぼろぼろと涙をこぼしながらも立ち上がり、民衆を見つめ返した。

 

 

「まだ、出来ることは御座います」

 

 

 彼女は確信を持ったような声で言った。

 そして藍色の目隠し布をばさりと取り去る。

 

 下に隠されていた黄金の、龍の瞳をみた誰かがうめくような声を上げた。

 なぜならそれは、この国の尊き一族の証だったから。

 

 

 龍の瞳を持った少女は静かに、響く声で告げた。

 

「私は、蒼燕帝国第七公主イェン・シュンカ。私がここに居ます」

 

 

 この戦いを。

 何度も繰り返した、誓いを。

 

 

 

「──諦めて、なるものですか」

 

 

 

 

 

 

 

 

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