おつかれ勇者とつるぎの魔女   作:調味のみりん

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春待つ冬のある日

 

 

 

 嵐の夜はひどく心細かった。

 

 外ではこの世のものとは思えない唸り声が響き、頼りない壁からは冷気が侵食するように入り出す。

 目を閉じて耳を塞ぎ、毛布の中で小さくなって時が過ぎるのを待つ。

 

 湿った空気。

 べたつく肌。

 

 壁が揺れる。

 窓が軋む。かんぬきが異音を響かせる。

 どれほど嫌でも、恐ろしくとも、もう人に出来ることはなく。

 ただただ頭に被った毛布を強く握り直す。

 

 引き伸ばされたように感じる嵐のなか。

 時間はゆっくりゆっくり過ぎて。

 

 

 

 そして嵐のあとには──

 

 

 ◆

 

 

 

 飛龍艇は巨大な龍の腹に居住区の建物をくっつけた形の乗り物である。

 

 龍は無尽蔵のスタミナで休みなく数日間の航行をし、遂には大陸の間を渡り切る。

 大陸間を渡る鳥たちを連れて、龍は飛ぶ。

 

 北方の大陸から、ルーク達のいた中央大陸へ。

 

 ◆

 

 

 

「足元、お気をつけ下さい……って、あの戦いをした方々に言うことではないですね。お疲れ様です。到着です」

 

 居住区から伸びたタラップを蒼燕から乗っていた職員が誘導をする。しかし、声をかけたのが勇者だと気がつくと彼は苦笑した。

 

「僕も不注意で転びますから。ありがとうございます」

 

「いえいえ。では、またのご利用をお待ちしております。勇士さまたちに旅の神のご加護がありますように」

 

 頭を下げる職員に見送られながらルークたちはタラップから降りて、中央大陸の土を踏み締めた。すとん、と草の柔らかな感触。鼻を通る風は、うまく形容できないがどこか懐かしい。草木の色も北方に比べて鮮やかなように感じた。

 

 そして何より──

 

「ここが中央……暖かいな」

 

 快晴の昼前の日差しを受けて、ぐっと伸びをするのは銀の麗人。初めて別の大陸に来た彼女は、ちら、ちらと周囲を伺っていた。

 

 そうなのだ。

 共に旅をしていたカランコエとは違い、アスナヴァとシュンカは初めての中央大陸であったのだ。

 

 周囲は木々に囲まれていて、龍が降り立った場所は広場のような木が生えていない空間だ。元々ある木がない場所を近くの村人が整備しているのである。

 そんな自然と人の手が組み合わさって整然とした景色を生み出す光景を前に、アスナヴァはルークに顔を向けた。

 

「君の故郷まで、ひと月ほどか。楽しみだな」

 

 彼女が軽く笑う。

 はい、とルークは答えて装備を軽く直した。

 気温のせいか、普段より柔らかい雰囲気だった。

 

「きっと良いところだろう」

 

 アスナヴァは言う。

 彼女は鉄面皮やら硬いやらと揶揄されるほど自他に厳しい印象を持つ、表情のあまり変わらない人だったはずだが、どうやらそれは彼女の一面であったらしい。ルークはそんなことを考えながらかぶりを振って答えた。

 

「観光名所になるような所はありませんよ。あくまで食料や農業の国ですから」

 

「ああ。聞き及んでいる。だが、私にとっては、大切な人が産まれ育った場所というだけで良いところというだけの話だ」

 

 故郷の大陸の光を受けるアスナヴァは、彼女の銀の色と相まって、いつもと髪色が違っているように思えた。きらきらと銀髪が光を拡散する鉱石のように輝く。こういう細かな違いで、大陸を渡ったのだと改めて感じる。アスナヴァは光の中で、ルークに微笑みかけていた。

 

「アスナヴァさん、また僕の反応を楽しんでますよね。照れませんよ」

 

「そうか、君もずいぶん経験豊富になってしまったな。あの頃が懐かしい」

 

 半目で勇者が言うと、彼女はすん、と表情を元に戻し残念そうな顔をする。油断も隙もあったものじゃないとルークは口元を締めた。

 

『け、けいけん、ええっ! ……あっ、な、なんでも御座いません……』

 

 アスナヴァの演技がかった冗談に茶髪の偉丈夫はやれやれといった態度だったがそうではないのが一人。背後でコートを着たカランコエのフードからちいさな飛龍は思わずといった調子で飛び出してきた。

 

『そんな目で見ないで下さい……あぁっ、なにも、なにも聞いておりませんから!』

 

 飛龍は霞色の身体に所々羽毛に覆われた身体を目一杯に広げ、パタパタと周囲を慌てるように飛び回っていた。自身が思いがけず大きな声を出してしまった事に驚き、飛び出したことに驚き、空を飛べることと話を盗み聞きしていた事がバレた事に思い至ったのとで彼女はアワアワと飛び続ける。

 

 その様子にカランコエが目を細めて、ぴょんと空中でシュンカの尻尾を掴むとそのまま頭の上に放り投げた。

 きゅ、と短い悲鳴のような声がしてちいさな飛龍は魔女の頭の上で脱力した。「おちついたかしら」とカランコエが尋ねて、飛龍は『はぃぃ』と答える。

 

 初めから最後まで二人のやりとりを見ていたルークは、あんまりな落ち着かせ方に、今度きちんと話そうと誓った。主に人を含めた生き物の取り扱いについて。

 

「それにしても」

 

 ずいぶんと気持ちよさそうに飛んでいた。飛龍艇の中では流石に目立つことも出すことも出来ず窮屈な思いをしていたのだろう。慌てていながらもどこか楽しげに、しかしルーク達の周囲を決して離れ過ぎないように飛んでいた彼女の姿を思い返し、勇者は満足げだ。

 

 

 ルークの故郷、ソラナム王国まではここから約一月の旅路となる。

 

 到着する頃には春の初めになっているだろう。

 久々の里帰りに勇者はふっ、と息を吸って最後に残った道のりに気合を入れた。

 

 

『何だか、すこし暑いですね。厚着をし過ぎたのかもしれません。……あ』

 

 カランコエの頭の上で寛ぎ出したシュンカが気の抜けた声で言って、自分の身体を思い出しピンと張った尻尾で口許を隠した。

 その人と変わらない仕草が何だか妙に愛くるしくて勇者はぷっ、と吹き出した。

 

 

 ◆

 

 

 ソラナム王国までの道はそれなりに街道が整備されていて、途中途中に村が存在している。

 主に利用するのは遠出をする冒険者や行商人。巡礼の人々であるが、ルーク達は身軽な一行であるため、いくつかの村をスキップしてずんずんと進んでいた。だが、どうしても水と食料を必要とする人間である以上、休憩のタイミングはやってくる。

 

 飛龍艇を降りてから五日目。

 ルーク達が食料や水の補給の為、立ち寄ったのはちいさな村だった。

 

「はいよ、保存肉が一週間分。あとは調味料と油かい?」

 

「ありがとうございます。あ、油は調理の燃料用でお願いします」

 

 わかったよ、と村の精肉屋の女性が笑った。中年ほどの歳の彼女は旅人の対応に手慣れているのか、カウンターの下で作業をしながらテキパキと注文を取っている。と思うと奥に何かを呼びかけ、十歳くらいの男の子が油紙に麻紐で固定された拳二つ分くらいの塊を持ってきた。

 

 生肉屋の女性は包装された塊を受け取ると、そのままルークに手渡してきた。

 

「あい、燃料の油だ。ヨーシャ牛のやつね。毎度。……旅の神の加護を祈るよ」

 

 ルークは受け取った干し肉を仕舞うのに手が塞がっていたため、代わりにアスナヴァが受け取る。

 彼女は肉屋の女性に礼を言ったあと、カウンターの後ろをひょっこり覗き込んで男の子にも礼をした。

 

「──っ!?」

 

 哀れ。

 北方大陸産まれのアスナヴァとばっちり目が合った少年は顔を真っ赤にして言葉にならない言葉を吐きながら店の奥に引っ込んでいってしまう。

 ルークは苦笑しながら、肉屋の女性の顔色を見て首を傾げた。

 

「……? あれ? あの、どうかされましたか」

 

「え?」

 

 声をかけられた女性はポカンとして聞き返す。唐突な問いだったから。ルークは荷物を詰め直し終わった背嚢を背負いながら言葉を続けた。

 

「いえ、ただ何となく。貴女の顔に影が差していたものですから」

 

 女性は何か言おうとして即座に口を開いたが、止めて呆れたように笑った。

 

「はぁ、アタシは隠し事出来ないのかい。それか、アンタが鋭いのか……。いや、ね。二日後にこの村で年に一度のお祭りがあるんだけども……それで、あー、その、外の人になんて説明したらいいか」

 

「──そこから先はワシが説明しよう!」

 

 言葉を選ぶように女性が空中に視線を彷徨わせていると、腰の曲がった白髪の老人が体躯に見合わぬ大きな声をルークの隣から上げた。

 

「村長、畑の見回りはいいのかい!」

 

「ま、まぁ。倅に……な。それより! 旅人が何やらこの村の事情に疑問がおありの様子。どれ、この老ぼれが説明してしんぜよう」

 

 どうも、とルークは生返事をする。

 会話の最中にこの老人が近づいている事には気がついていたが、特に殺気も何も無かったので気にしないでいたのだ。

 だが、想像よりも濃い人が来たな、と勇者は思った。

 

「して、旅の御仁よ。二日後にこの村でお祭りがあることは知っているかね」

 

「あー、いま聞きましたけど。えっと、確か毎年この時期でしたよね」

 

 顎に手を当ててルークは視線を上に向け記憶を探る。思い当たるものは一つあった。確か、村ごとに差異はあれど、おおかた同じ、この地方ではそれなりにメジャーな祭りであった筈だ。

 

 ルークは出身が近いためピンときたが、カランコエとアスナヴァ、それとシュンカは疑問符を頭の上に浮かべている。

 村長の老人はそんな様子を察して、頷き、指を一本立てて説明を始めた。

 

「うむ。この村には昼から夜、明け方にかけて行われるたいへん重要な祭りがあるのだ」

 

 そうですか、とアスナヴァが頷く。

 カランコエは無表情のまま、どこを見てるのかぼんやりした紅い目を漂わせている。村長は続ける。

 

「その祭りの中で、儀式があっての。参加する踊り子の少女がひとり、山で怪我をしてしまって。命に別状は無かったのだが、踊れなくなってしもうた」

 

 演武をする男の方は足りておるのだが、と老人は眉間に皺を寄せて深刻そうな顔をする。想定外にも役者のように上手い語りにカランコエも興味を惹かれだして視線を老人に向けた。シュンカは翼をぱたぱたとしている。

 

「こんなちいさな村だ。条件に当て嵌まる代役など見つからず……途方に暮れていた、というワケだの。このままでは祭りが不完全なまま行われてしまう……! ああ、困った! 条件は、未婚の乙女なんだが、あぁ、どこかにおらんか、未婚の! 乙女は!」

 

 そういうことか、もルークは苦笑いをする。

 老人は両手を広げ、悲劇を演じるように天を仰ぎ、固まった。肉屋の女性は額に手を当ててため息をついている。いつもの事のようだ。

 

 すこしの間沈黙があたりを支配して、まず最初にアスナヴァ一歩下がった。

 

「私はもう、乙女なんて年ではないからな」

 

 そんなこと無いだろう、とルークは口を開きかけたが、持ち前の勇者の勘ですぐに踏みとどまる。そしてアスナヴァの顔をチラリと見た。はたして彼女は想像通り、隠してはいるが楽しそうな顔つきをしていた。

 

『あ、えっと、その』

 

 シュンカも同じく引く。

 パタパタと翼を動かしてカランコエの頭から飛び立ち、一歩下がったアスナヴァの頭へ。着地と同時に麗人はほんの一瞬だけ蕩けたように表情を崩し、次の瞬間には元の顔に戻っていた。

 

 カランコエが半目になって、シュンカに視線を向ける。彼女は身体をアスナヴァの頭の上で縮こまらせて申し訳なさそうに口を開いた。

 

『私はもう、人ですらありませんし……』

 

 魔女は龍に裏切られたのだ。愕然と目を開いた魔女は、最後の希望、隣に立っていたルークに視線を向けると、彼は“まぁ、僕は違うよね”という顔で一歩下がった。

 

 ぽかん、とカランコエはちいさな口を開く。魔女はとうとう取り残された。

 

 冬の終わりに吹く、暖かな風がカランコエの白い髪の毛を遊ばせる。どこへ行くのか、風はひゅるりらと消えていった。

 

「……わたしは……魔女だもの」

 

 カランコエがほんの小声で呟き、一歩下がろうとする。するとルーク達は『そう言うなら、少なくとも僕たちは乙女じゃないよ』と言って二歩下がる。は、と魔女の方からちいさな吐息ともつかない声が漏れた。

 

「なんと……協力してくれるのか、ちいさな旅の人よ」

 

 残されたカランコエを見て、老人が目元を拭う仕草で感動を表現する。

 魔女は否定のために咄嗟に口を開きかけたが、(彼女にとって)恐ろしいことに、カランコエは否定する条件を何一つ持ち合わせていなかったのである。

 

 無言のまま固まるカランコエ。

 

「すこしの間だけでいい。謝礼は相応に。だから、祭りの踊りを一緒に踊ってくれまいか?」

 

 人助けだと思って。村長はダメ押しをする。

 ついに逃げられないと悟ったカランコエは、観念して死んだ目でこくりと頷いた。

 村長はありがとう、といい笑顔で言い放つ。

 

 こうして、祭りの助っ人に決まったのは、まさかの魔女、カランコエその人であった。

 

 

 ◆

 

 

「すみません、アスナヴァさん。巻き込んでしまって」

 

 旅人が宿泊する二階建ての村の宿屋、その一階の酒場でルークは昼食を待つ間、目を伏せて言った。

 対面に座っている麗人は、無表情を貫いたまま手で制して、彼の顔を上げさせる。

 昼にはすこし遅い時間で、周りに他の客の姿は無かった。

 

「いいさ。急ぐ旅でもない。帰郷のためなのだから。──むしろ君は少し生き急ぎすぎだから積極的にやるといい」 

 

「……ありがとうございます。参加するのはカランコエなんですけど」

 

 そうだな、と言ってアスナヴァは木の杯に口をつける。中身は常温のワインだった。

 噂の少女は今この場にはいない。村長との一件のあと、そのまま午前中は村の少女達と踊りの練習をしていたのだ。

 

「あ、丁度みたいです」

 

 店内を見渡していたルークが何かに気がついたように店の入り口に目を向ける。すると、ちいさな少女と横を飛ぶ龍が酒場に入って来るところだった。

 

 店の看板娘のいらっしゃいの声を背景に、彼女は迷いなくルークの机まで来ると、空いていた椅子に腰掛けて、目を閉じた。

 勇者が飲み物を彼女の前に注ぎながら“どうだったかい?”と聞けば魔女は“ぼちぼちよ”と答える。

 はいどうぞ、とルークが水の入ったコップを差し出し、カランコエは受け取って二口三口ちびちびと飲んで机に置いた。

 

「それで? あなたは?」

 

「うん? あらかた仕入れ終わったよ」

 

 ルークは腰についた袋や背嚢をポンと叩く。

 中からは金属の擦れ合う音や、紐の端が見え隠れしていた。旅で使う道具の一式だった。

 そして彼が“仕入れ”るのはもう一つ。

 

「帝国……あ、こっちのアダマンスヌス帝国が最近ちょっときな臭いとか、獣族の里で代替りが起きそうだとか。あとは宗教国家のレギリオで異端審問官と司教が消えたとかなんとか」

 

 道具の補給、整備に加えて久々に戻ってきた大陸の情報収集。特に各地を転々とする旅をする者や、外部からの流入者と対峙する可能性のある者にとって、“新鮮な”情報は何より大事で、入手しなければならないものだった。

 

「そう」

 

 カランコエが呟く。

 

「なかなか、めちゃめちゃね」

 

 そうだね、とルークは笑った。

 

 

 ◆

 

 運ばれてきた昼食は牛乳を使ったスープにパンがついたオーソドックスなものだ。ルークには食べ慣れたものでもアスナヴァ達にはどうだろうかと横目で見ていると、水晶の瞳と目が合う。

 

「どうした? 食べないのか?」

 

 どうやら彼女はルークの食べ方を観察しようとしていたらしい。ルークは“いえ”と言ってパンをちぎり、スープにつけて口に運んだ。まろやかな乳と野菜の甘みが溶け合った良い料理だ。

 

 パンを飲み込むと同時にアスナヴァも手をつけ始める。

 多少味付けは北方と変わっているが。彼女ならば大丈夫だろう。ルークはそう結論づけて、もう一人の少女に目を向けた。

 

『とっても美味しゅうございます』

 

 シュンカは勇者の懸念などどこ吹く風という様子で、最初から見知らぬ料理に目を輝かせてパクパクと食べていた。どうやら食事面での心配は無さそうだ、とルークが肩の力を抜くと、横でカランコエがシュンカのパンを小分けにして食べやすいようにしてあげていることに気がついた。

 

 

 そう、シュンカの面倒を見ていたのだ。

 あっ、と時がついた時には遅し。ルークは思わず漏れた声に口を押さえたが、三つの視線が突然声を上げたルークに集中した。

 

「なにかしら」

 

 紅い瞳がルークを射抜く。

 突然声を上げたことに関して、何か言い訳を考えたが、勇者はどうにもこの魔女にまっすぐ見つめられると隠し事ができず、結局白状した。

 

「カランコエが、シュンカちゃんが食べやすいようにやってたからさ」

 

「それで?」

 

「え、ええっと、びっくりしまして」

 

「で?」

 

「声を上げてしまいました……」

 

 ルークは両手を膝の上に置きながら思った。

 

(なんでこんな浮気を追求される人みたいになってるんだ!?)

 

 だが勇者にできることはもうない。

 ちいさな魔女からの沙汰を待つように目を閉じていると、ふむ、と声が聞こえた。アスナヴァだ。

 彼女はルークとカランコエのやり取りに我関せずを貫くように食事を続けており、スープを飲んでからぽつりと呟いた。

 

「真似だろう」

 

 え? とルークが顔を上げる。アスナヴァはちらりと勇者の顔を見て、カランコエを見て、パンを切り分けた。

 

「だから、君がカランコエにやっていたことを、カランコエもやっているんだ」

 

「…………あー」

 

 確かに、ルークは思えばカランコエと食事の際に、何かと世話を焼いていた。それを見て、彼女が振る舞い方を学んでいたとしたら? 

 

「そっか……」

 

 噛み締めるようにルークは口の中で言葉を転がす。

 なんだかそれは、とても良いことのように思えた。

 魔王戦からずっと冷たかった指先に血が通い出す感覚。ルークは無意識に手を握ったり開いたりしていた。

 

 どこか浮世離れしていて、この世のものではなかったカランコエ。

 世界を憎み、禁忌を踏み躙っても叛逆の旗を翻した魔女という存在。

 

 そんな彼女が誰かの世話を焼くと言う、ひどく生活的なことを学び実践していた。

 

「そうかぁ……」

 

 いまだ鼻の奥には血生臭い匂いが残っている。

 手には肉のつながりを乱暴に切り離していく感触が残っている。

 仲間が散っていく時の喉から搾り出される悲鳴を覚えている。

 カランコエが憤怒の表情で魔王を睨んでいたことも思い出せる。

 

 そんな彼女が、不審な行動をしたこちらを睨みながら木のスプーンを手に持っていた。

 ただの昼ごはんという日常の中にあった。

 

「よかった……」

 

 ああ、うまく言葉にはできないけど。

 ルークは不意に訪れた感覚を堪えるために、咄嗟に奥歯を噛んだ。

 

 彼女はそこにいる。目の前に座る、カランコエとしている。

 蒼燕で、今にも壊れそうな彼女を腕に抱いた時感じたものと今を比べて、勇者はしばらく顔を上げることが出来なかった。

 

「そのかおをやめなさい」

 

「……厳しいね」

 

 尤も、契約者の彼女には全てわかっていたようだが。

 じっとりとした少女の視線を受けて、勇者は湿った目元を軽く拭った。

 

『い、異人さま!? どうされましたか!』

 

 ぴぃ、とシュンカが慌てたように鳴く。

 ルークは照れたように笑って、なんでもないと誤魔化した。

 

 

 

 なんてことはない、それゆえに貴重な一幕。

 春を待つ、冬のある日の昼のことだった。

 

 

 

 ちなみにカランコエの運動神経はかなり悪く、ダンスの出来栄えも相応なのだが、ルークがそのことを知るのは数時間後のことだった。

 

 練習を手伝った村の女の子曰く──『陸に打ち上げられてのたうつ魚』とのこと。

 

 カランコエはしきりに『さかなではなく、まじょよ』と訂正していたが誰も本気にしていなかった。

 

 

 そんな、とある日のお話。

 

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