人生には季節がある。
そして今は冬なのだろう。
フローラーリアはインクの染みた羽ペンを置き、重たくなった肩を動かした。まもなく十四の年が終わろうとしている。春が来ればフローラーリアは十五歳を迎えて、結婚を視野に含めた人生のステージも乗りこなさなければならない。
窓の外は冬だった。
「おぉ……さむ」
ぶるりと震えてショールを首元を覆うようにかけ直す。
彼女に与えられた自室には硝子が使われた窓があった。ソラナム城の庭を一望出来る位置にあり、窓の外には裸になった枝が寒々しく腕を伸ばしているのが見える。フローラーリアはその枝を何度となく見てしまう。生きているのか、枯れてしまったのか、確認するために。
「治水工事の視察、冒険者との談判、魔物対応の要請……」
現在の問題や課題を、思考の整理のために読み上げていく。
一人の部屋には声がよく響いた。
「社交界のお誘い、大臣参加の会議に……」
そして、目下最大級の問題。帝国の件があった。
彼の国からの使者は既に何度となく訪れ、対応するたびに自身の手持ちの札の少なさを嘆くばかりだ。国王も最近はなんとかしようと策を打っているが、手元の一を五に誤魔化すのは出来ても、百にするのは不可能なように手詰まり感は否めない。
現在の帝国からの要求は軽く、達成できそうに見えるが、ここまま承諾し続ければいずれ国の重要な所すら削り取られるのは目に見えていた。
「……この国は、守ってみせる」
力が。力が足りなかった。
帝国の要求にも正当性はあり、だからこそ手段が無いことが響く。この国を愛しているのに、真綿で絞められる首を解けない。
「……いや、まずは目の前、じゃ」
いま、彼女の手元にある書類はどれも王の決裁を必要としない程度のものであるが、それでも重要なことには変わらない。聡明さを広く認められているフローラーリアは既に執務の一部を割り当てられていた。練習を兼ねてだ。無論、国が動くものは王が決めているが。
体を蝕むような冷気に身を縮こませながらペンを取る。青い髪がさらりと机に落ちて、じゃまだからと耳にかけた。そういえばこの髪色を褒めてくれた人も居たな、と書類の思考とは別に思う。あれはそう。秋の麦のように、穏やかな髪をしたひと。
「…………」
ペンを走らせる。
思考を消すように、カリカリと。インクを付けて、資料を参照して、計算を確認して。
思考を打ち消す。
どれほどそうしていたか。
ふわりと暖かな湯気と共に茶葉の香りが漂ってきた。
「姫様、あまり根を詰められすぎてはなりませんよ」
スッと差し出されたのは琥珀色をした紅茶。フローラーリアの好きなものだった。少し渋みがあって、深い味がする。顔を上げると、皺のある老メイドが微笑んでいた。
「マーガレットか」
フローラーリアは礼を言って、はしたないと分かっていても、見る者はいないだろう、と思い、ぐい、と紅茶をあおった。
隣の老メイドが困ったように眉を竦めるのは見て見ぬ振りをした。老メイドのマーガレットは、フローラーリアがきちんとした場では完璧な礼儀作法をできると知っているからかあまり小言は言わない。それはそれとして、あんまりそういう庶民が酒場でやるような仕草はして欲しくないのだとは言われるが。
最近は城を抜け出すことも少なく、寂しくはないかとマーガレットはよく心配をしてくれていた。今だってそう。眉が下がって、心配そうにフローラーリアを見つめていた。
「妾はそこまでお転婆じゃない」
不服そうな声で彼女が答えると、マーガレットが目をぱちくりさせた。フローラーリアは半目で老メイドを見ている。考えを悟られたことに気がついたマーガレットは小さく息を吐いた。
「それを判断するのは姫様以外の人間ですよ」
と言ってふふふ、と笑う。
フローラーリアは苦い顔で机に突っ伏した。
穏やかな時間が流れる。
フローラーリアがもう一度紅茶に口をつければ、追加が注がれて、マーガレットは『では、失礼しますね』と言って部屋を出ていった。後に残されたフローラーリアはまた、窓の外を見た。
冬だ。
雪が降り積もるように、何か責任ややるべき事が積み重なっていく。
寒さに凍えそうになる。いつもだったら、こんな時、愚痴を言ったり、何か話を聞いてくれる人が居たのだが、ここにはもう、居ない。
彼の事をこの国が裏切ったから。
「ルーク……」
勇者ルーク。
茶髪の、素朴な青年。
フローラーリアより少し年上の、穏やかな青年。
彼は昔から傷だらけになって、この国の敵と槍の穂先で戦ってきた。本当は怖いのに、戦うのも嫌いなはずなのに。民の期待を勇者という殻に入れて背負って、進む。そんな勇者だった。
いつだって、どんな気分が沈んだ時でも、彼の髪と目を見れば、実りの秋を思い出せたのに。
「何をしておるのか……」
答えるものはいない。
窓の外では午前の雪がちらついていた。
最初に彼女がルークと出会った時は、彼女が六歳でルークが十歳の時の話だ。
勇者として女神に選ばれた彼が城に挨拶にやってきた時のこと。
◆
勇者が来るぞ。
ある日、父である国王にそう告げられた。
突然のことだった。この国に、新たな勇者が現れたのだ。
その日の夜は興奮して眠れなかった。絵本や物語で見たような勇者。英雄。光り輝くつるぎを持って、巨大な魔物を倒し、どんな困難にも諦めず、傷つく人を救う。
完全無比、非の打ちどころない完璧な人間の体現。
幼きフローラーリア姫にとって勇者とはそんな憧れの存在で、白馬の王子様のようものだった。
出会ったら、なんて声をかけてくれるんだろう。
姫、と呼ばれるのかもしれない。絵本のように、魔王を倒し最後には姫と結婚をするのかも知れない。どんなハンサムで、精悍で、強い人なのか。
フローラーリアは考えるたびに、枕をぽすぽすと叩いては声を押し殺した。楽しみだ。明日がいちばん、楽しみだ、と。
だから翌日、城にやってきた痩せっぽちの淀んだ目をした少年を見て、彼女はひどく衝撃を受けた。
『ぼ……わたしのなまえ、は、ルーク、です。ひめさまの剣となり、国難を、うちはらいます』
『あなたが? わらわの?』
『はい』
正直に言ってしまえばショックだった。
昨日の夜、ベッドでしていた全ての想像は打ち砕かれ、やって来たのは幾つもの刃物をぶら下げるための手作り革ベルトを付けた、陰気な少年だったから。背も高くはなく、筋肉もなく、痩せて、暗い目をしていた。勇者だと聞かされなければ関わることのないタイプの人間だった。いや、勇者と聞かされていても信じることが出来ない。
『ゆうしゃ……?』
『はい』
この子が? この、見窄らしく、むしろ守られる側の子が? そんな疑問を込めての言葉だったが、少年は首を傾げて頷くのみだ。
思わずフローラーリアは護衛の制止も聞かず、彼の手を取って握り、確かめた。
『えっ、と。よごれます……ひめさま』
『よい、きにしない』
ひどく狼狽したような少年の手は冷たく、骨ばって硬く、がさがさとしていた。爪は割れてささくれ立っている。自身の丸々として滑らかな手とは比べようもなかった。とくべつな力など、何も感じなかった。
話によると、彼の家族は彼以外殺され、その際に勇者として覚醒したのだという。ほんの二週間の前の話だ。
『あの……』
『しゃべるでない』
フローラーリアは、怯えたようにこちらを見る彼の目を見て、がさがさで骨ばった手を握って、身の丈に似合わぬ剣吊りを確認して、最後に少年を見た。彼はひたすらに困惑して、何が何だか分からない様子だった。少し年上のはずだが、自分より小さく見えた。だから、フローラーリアは決めた。
彼は妾が守ろう、と。
勇者は国のもの。
基本的に国から命令を下され、無辜の民に奉仕する女神の僕。
彼が今後、このソラナムを襲う困難を打ち払うという大きな役割を背負わせられるのは明らかだったから、だから、せめて。自身の手の届く範囲を伸ばし、この痩せた少年を守ろう、と。
だって、彼が勇者で、魔物を倒す姿など想像もできなかったから。
そんなフローラーリアの予想は裏切られる。
勇者ルークの活躍によって。
◆
最初に聞こえたのは剣を持って、騎士と共に小鬼を討伐したという報告。
しばらくして聞こえてきたのは、人身売買をする組織に参入して、首魁をひっ捕えたというニュース。
王国の外れの村に現れた突然変異の粘魔を屠っただの、邪教徒の使った汚れた合成魔物を斬りとばしただの。
讃え、聞こえてくるのは勇者の活躍。素晴らしさ。
彼はいつも一番前で、一番危険な場所に飛び込み成果を上げていた。
『流石は勇者だ』『頼もしい』『ぜひ、もっと活躍を』
『活躍を』『これ以上の、少ない犠牲を』『民を守ってくれ』
『勇者』『勇者』『頼むぞ、勇者』
あちこちから彼の評判が聞こえてくる。
フローラーリアは自身が見た少年と世間に流れる噂のギャップに困惑しながら、あっという間に時は流れ、彼は更にメキメキと実力を伸ばし、身長が伸びて、少年は青年になった。
かけられる期待は大きくなり、彼は応えるように多くの魔物を屠り、犯罪者組織を突き止め、他国に出現した魔王の余波と戦った。
最初は懐疑的だった貴族や民衆も、いつの間にか彼のことを勇者さま、勇者さまと讃えるようになった。同時に期待ももっと重くなる。
いつしか、彼の評判の中に、彼の不甲斐なさを責めるものが混じってきていた。
『なぜ、もっとうまくやれない』『他国の勇者は地を駆け空を飛ぶのに』『ソラナムの勇者は切れ味が良いだけだ』『武器を使い捨てにすることでしか出来ない』『妻が死んだ』『息子が食われた』『恋人が攫われた』『家族が死んだ』『勇者』『勇者』『勇者!』
勇者は戦い続けた。
責める言葉も、褒められる言葉も全部糧にして。
前に進み続けた。
フローラーリアは何度も勇者の事が気になり、尋ねたが、いつも平気だと言って曖昧に笑うばかりだ。その顔は、いつも新しい傷が付いていたのに。
そんな日々を続けていた、とある日。
フローラーリアが城の廊下を歩いていると、一部がひしゃげた装備をつけたルークとばったり出会した。遠征から戻ってきたようで、顔には疲労の色が見られた。騎士の何人かを連れての任務のはずだった。
『アーチ村の狼討伐から帰ったか、勇者』
『はい、姫さま。報告に来たのですが、……えっと、見苦しい格好で申し訳ありません』
『よい』
彼女が声をかけると、いつものように勇者は恐縮の姿勢を取る。
出会った時は同じくらいだった身長も、気がつけば、見上げねばならないほどになっていた。澱んでいた目は強い光を宿し、ガリガリだった身体もしなやかな筋肉に覆われている。顔つきは浮浪児のようなものから精悍な好青年になり、どこに出しても恥ずかしくない格好をしていた。
あの日の少年は、立派に勇者になっていた。
西陽が廊下を照らす。
秋は過ぎて、間も無く冬の足音がする時期だった。
『疲れておるか?』
『え? いえ』
ふと口をついたのは、そんな言葉だった。
勇者は困惑していた。フローラーリアは凛とした声で続ける。
『取り繕うでない。妾はおぬしの勇者になりたてで挨拶に来た時を覚えておる。で、どうなのじゃ』
更に追求をすると、勇者は困ったように笑った。
フローラーリアはここで何の反応も返さず、表情を変えずに、ただルークを見つめた。
勇者の身体はよく見れば胸から腰にかけて袈裟のように包帯が巻かれていて、赤色が滲んでいた。ボロボロだ。
いくら勇者とて噛みつかれれば怪我をするし、肉が削げれば回復しない。腕は折れたら戦闘続行はできないし、回復魔術でも後遺症が残る可能性もある。
いつもと違うフローラーリアの様子を感じ取ったのか、勇者の笑みが消えて、だんだんと困惑を帯びてきた。上がっていた口角は下がり、細められた目は開かれ、夕陽の中で照らされるフローラーリアを訳のわからないものを見るように見つめていた。
『申せ』
もう一度繰り返す。
フローラーリアが真っ直ぐに勇者の鳶色の瞳を見つめると、彼は視線を彷徨わせ、戸惑うように口を開いたり閉じたりした。
決して急かさず、ただジッとフローラーリアは待つ。すると、勇者はぽつりぽつりと言葉を口にし始めた。
『私は……、その、今回の村で七人、手が届きませんでした』
彼の喋る様子は、フローラーリアに対して喋っているというよりは独り言の体裁に近い。整えられていない言葉はそのまま、勇者の思考を表しているように混乱していた。
『狼は群れを作っていて、魔狼になっており、村を飲み込もうとしている最中で。私が先行して群れの長を仕留めようとしたんですが、すんでの所で横にいる狼に気が付かず……』
見開かれた勇者の目。
先ほどまで浮かべていた微笑はもはや完全に消えて、無表情の顔がそこにはあった。
両手はだらんと下げられて、生き物の歯形の痕が見える。西陽は眩しいくらいに廊下を照らして、ここだけが別の世界に切り取られたような、相手の言葉がよく聞こえる空間を作っていた。
勇者は震える手をぎゅっと握る。みしりと骨が軋む音がした。
『剣を、
勇者は言葉を切り、何かを言おうとして、口を震わせ、何も言葉にならず、口を閉ざした。固く、何も通さぬように。やがてぽろぽろと目からは涙がこぼれ出した。
いままで堪えていたものが堰を切って溢れ出したようだった。
『なっ』
フローラーリアは声を漏らす。と、同時に理解した。なぜ、彼がこんなになっているのかを。
『悲鳴が聞こえているうちは、まだ生きていると思って……森の奥に、進んだんですが、もう、何も聞こえなくて』
この勇者は普通では堪えきれぬほどのものを自分のうちに溜め込み、それを決して見せまいてしていたのだ。
今、限界を迎えたのではない。ずっと限界を超えていた。
だから、ほんの些細なきっかけで溢れた。勇者の抱えていたものを理解したフローラーリアは胸が締め付けられるほど痛かった。
『無理をし過ぎじゃ! 少し休め!』
『いえ、いえ。駄目なんです。僕はまだ、止まれない。止まっちゃいけない。とまりたく、ないんです』
いつの間にか彼の一人称も私から僕へと変わっていたが、気づいていないようだ。勇者は傷だらけの右手で自身の顔面を鷲掴み、ぎりぎりと締め出した。指と指の間から見える鳶色の瞳が、誰かを憎むように鋭く、痛いほどに尖っていた。
『頑張ってと、いわれました。よろしくたのむ、と。俺にゃ鍬を振るうことしか出来んから、勇者さま、おねがいします、と』
もう見ていられない。
フローラーリアは一歩勇者に近づくと、一回り背の高い青年をぐいと抱き寄せた。低い彼の体温が伝わる。さっきまで暖炉や絨毯のある部屋にいたフローラーリアはきっと暖かいだろう。ぬくぬくと暖かな環境にいた小娘の身体はきっと暖かいだろう。心の中で謝罪を繰り返す心持ちで、熱を分け与えるようにぎゅっと、勇者を抱きしめた。
まるで溺れるひとを助けるようだった。
『やめて、ください、姫さま。お召し物が、汚れます。それに、僕は、たくさん、たくさん頼まれたんです。子供を守ってくれ、この子の未来を良いものにしてくれ。触らせてもらいました。抱っこさせてもらいました』
溢れに溢れ切った思いは勇者の口から止まることはない。
フローラーリアの肩越しに勇者の独白は続いていた。もう止まってくれ、と願ったが彼の口は止まらない。せめてもの抵抗とばかりにフローラーリアの両の手から逃れようと勇者はもがくが、ひどく弱々しかった。彼が守るべき人間を力任せに振り解くことなどできやしないのだ。
あぁ、誰だ、誰が彼をこんなにした。
もともと傷だらけだったのに。なのに、勇者という重荷を無遠慮に背負わせて、もっと傷だらけにしてしまった。やさしいひとに、誰かを傷つける役を任せてしまった。なんて残酷なことだ。そして、彼はその全てをしっかり受け止めてしまうひとだった。
『多くを守れませんでした。たくさんのひとを取りこぼしました。ごめんなさい、フローラーリア姫、申し訳ありません……あなたの民を守れなかった……望まれたことを、やり遂げられない。僕は、せおったものに、みあわない』
最後の言葉を聞いて、フローラーリアはカッと熱くなった顔のまま身体を少し離し、勇者の両頬を手で挟み目を合わせ叫んだ。
『愚か者! お主は神か神話の英雄にでもなったつもりか!』
姫の喝破に流石の勇者も目を白黒させる。
彼は赤くなった、隈のある目で蒼い髪のフローラーリアを視界に入れていた。
『まいにち、一番遅くまで残って剣を振っているのは誰ぞ、魔獣災害の時、最後まで瓦礫の中を生存者を探して這いずり回っていたのは誰ぞ!』
話は聞いている。悪評もあるが、ほんの少しだ。ルークにはそれを上回る献身が評価される話が立ち込めていた。それは、紛れもない事実だ。
誰よりも前に立ち。
誰よりも敵を切る。言葉を濁さずに言えば、敵を殺す。そんなルークだ。
『お主は、お主は……っ!』
ルークは目を見開いたまま固まっている。驚いたままでいる。
痛いだろうに。苦しいだろうに。
手が届かないことは歯痒いだろうに。周囲の人間から“なぜもっと早く来てくれなかった”と責められても、“なぜ助けてくれなかった”と詰られても、彼は何も言い返さない。
誰よりも悔しかったのは、勇者としての責務を全う出来てないと感じる彼自身だからこそ。
だからこそ、フローラーリアは言ってやらなければならない。
出来ないことに囚われるだけで、助けたものに目を向けない彼に。
『ルークじゃ! 勇者のルークじゃ!』
世界の中で、自分が敵に回ったなら。
ただでさえ辛いのに、誰も味方ではないじゃないか。
『お主が否定するでない! 勇者という役割を背負って、よくやっておる! なのに、それをお主がいちばんに否定するでない!』
気がつけば。
『お主に重荷を背負わせておるのはこの国じゃ! 妾たちじゃ! それを……それを……っ』
気がつけば。
いつの間にかフローラーリアも同じように涙を流していた。
おいおいと泣きながら、驚いたような顔をする勇者の頬を何度もぺちぺちと叩いていた。
『顔をあげよ! お主がこの国の勇者として辛いならば、妾の勇者じゃ! 妾だけを助けておれば、役割は全うしておる! どうじゃ、勇者!』
全てを一息に言い切って、フローラーリアは肩で息をしながら勇者を見つめた。いや、最早睨みつけていたと言っていい。廊下の窓から差す真っ赤な夕焼けが2人の影を濃く、くっきりと映し出していた。
『……ありがとう、ございます』
先に沈黙を破ったのは、勇者だった。
彼は落とすように言って、立ち上がると、フローラーリアを同じく立たせる。そして彼女の膝をぽんぽんと叩くと、改めて向き直った。
もう、彼の顔には最初会った時のような陰りは少し無くなり、まだまだ完全でないにしろ、前向きになっていた。全快はしなくてもきっと彼は進めるのだろう。フローラーリアには分かってしまった。
『情けないところを、みせてしまいました』
そんな心配をよそに涙の跡を隠し、照れたように笑うルーク。
真正面から弱った彼の、立ち上がり始めた姿を浴びせられたフローラーリア。この時、彼女は目の前の強く、見知った顔の青年に、“あ、敵わないな”と直感した。
最初の出会いは幻想とはかけ離れた少年だった。だがそれにより、ルークはなんだかんだ言って、フローラーリアの少し年上のお兄さんくらいのポジションに収まっていたのだ。
ちょっと情けないけど、優しいお兄さん。
そんな彼が傷つきながら、前に進もうともがいて、それでも足りなくて、不甲斐なさに泣いてしまう弱さを見せている。弱さを見せた彼が、自分の言葉で立ち上がって、涙の名残を持ったまま、微笑みかけてくれる。自分だけが知っている、ルークの一面。
『あ……ぅ』
『……? どうされましたか、姫さま』
『なっ、なんでもない! 何でもないのじゃ!』
フローラーリアは真っ赤になる自分の頬を感じながら、目の前で跪く勇者が『あなたの国の勇者でよかった』と優しい声で言うのを聞きながら、遠い目をして、なんとか“うむ”と返したのだった。
まだ幼き日の、フローラーリアの夕陽に染まる思い出である。
◆
「はぁ……」
再び1人になった自室で、フローラーリアは頬杖をつきながら肩を落とす。窓の外は少し日が傾いて、午後に差し掛かろうとしていた。季節は相変わらずの冬で、秋の色はどこにもない。
この国は勇者ルークを裏切った。腐敗した一部の大臣たちが仕組んで、彼を使い捨ての兵器にしようとしたのだ。
もう、腐敗した大臣たちは一掃したとはいえ、なんという裏切りか。
あんな忠誠を捧げていてくれた者に対する仕打ちか。
フローラーリアは当時、悔しい思いでいっぱいになりながら、国から去っていく勇者を見送った。だがむしろ、良かったのかもしれないとどこかで思った。
これでルークはこの国に縛られることなく、重荷に潰されることなく、歩んでいける。草木が種をつけて、風に乗ってどこか遠くで芽吹くように。彼もまた、こんな狭い鉢から抜け出して、のびのびと羽ばたいてほしかった。
だから、これでよかったのだ。
自分に言い聞かせて、仕事に取り組み、社交界や他国の貴族の対応もこなし、日々を過ごしていた。他の貴族や有力者に言い寄られるたびに、笑顔で交わしていた。
そんな中届いたひとつの知らせ。秘匿性の高い、高価な速達便で届いた手紙。
『勇者ルーク、大迷宮都市ヴァンデにて行方不明。迷宮にて魔王の災害に巻き込まれた可能性高』
文章を読んだ時。
フローラーリアは頭が真っ白になった。
ようやく自由に、苦しんだ分幸せを掴んで欲しいと願った勇者は。
彼女の手の届かないところで消えてしまった。
◆
「また魔物被害、か」
彼女は呟く。
近ごろ、近隣の魔物が増えてきていた。
対応にあたる騎士団も練度は十分だが、無理をさせすぎて疲弊している。このまま更に出動をさせてしまったらどれほどの死者が出るかわからない。死者が出たらそれだけ戦力は低下する。戦力が低下したら次の魔物への対応は更に難しくなるだろう。
「ふっ」
騎士を数としか捉えていない考え方に自嘲するような笑みをこぼす。
なんて残酷な思考だ。でも、仕方ないじゃないかと頭の中で言い訳をして、フローラーリアは立ち上がった。
「視察に行かねば」
◆
ソラナム王国の城壁に近い地点には下水の要所が通る箇所がある。だが、そこは数日前に岩石系の魔物により一部が破壊されてしまっていた。
フローラーリアの本日の公務の一つは、その破壊された下水設備を修復する工事の視察であった。護衛の騎士を引き連れて工事現場に向かい、現場から一歩離れた場所に立つ。
現場では作業をしていた工員たちが彼女に気がつくと、笑顔で湧き立って手を振ってきた。フローラーリアもまた応じる。
「皆、姫様がきてくださって意気軒昂です」
「精が出るの」
責任者の男から工事の進捗状況を聞きながら、工事の様子を眺めていく。その間も観察は欠かさない。工事の環境は適正か、工員たちの顔色はどうか。作業は期限内に終わるか、物資は十分か。あらゆる情報を、会話を続けながら取得して書類の情報と擦り合わせていく。
最後に工員たちに激励の言葉を述べて、問題点があれば検討。それが視察の目的だ。
「ですから、まぁ。ここまで酷いと一週間はここらの下水は使えんでしょうな。補填として一部を移動させて──」
ふわりと風が吹く。
壊れた城壁の向こう側はしばらく平原が続いて、森になる。最近は魔物の数も種類も多い。壁の向こうには依然、脅威が待ち受けていた。
フローラーリアは説明を聞きながら、一瞬ちらりと城壁の外を見た。
あそこで何人の兵が無念を遂げただろうか。
魔物は増える。年単位で見ればムラのある出現の波ではあるが、ここ最近は異常だ。魔王の影響だろうか。まさかとは思うが、魔物を統べる魔王が近くに出たのではないかとも憂慮する。しかし、小国であるソラナムに最新の機密情報が入ることはない。これでも諜報を動かして色々とやってみてはいるのだが、まるで霞を掴むように手応えはなかった。フローラーリアは力のなさに歯噛みする。
「姫様、間も無く時間です」
彼女の思考を縫うように、護衛の騎士がそっと耳打ちをした。
頷き、改めて現場を見回すと、誰も彼もが生き生きとした顔をして仕事をしている。
フローラーリアと目が合えば、ニカッと笑って力こぶを見せつけては同僚に怒られていて楽しげだ。
「うむ」
こういう光景を、見続けられるように。
視察の終わりを監督の男に伝え、踵を返そうとした瞬間。
けたたましい鐘の音が空気を叩いた。
「──魔物だッ!」
城壁の上で若い兵士が叫ぶ。
鐘を鳴らしたのも彼だ。護衛の騎士たちはすぐさまフローラーリアを守る体形に移行し撤退の準備をした。
「小鬼と森狼が群れを組んでいる! 距離が……おい、マズいぞ!」
魔物が城壁の外に観測されることはそれなりにある。
フローラーリアが視察で外と近い地点にいる時に発生したのは不運としか言いようがないが、魔物は数キロは離れている森から来る。十分に退避の時間はあるはずだった。
「小鬼の中に突然変異の
イレギュラーさえ、なければ。
「陣形変更ッ! 壁より前に出よ! 姫にはジャンが付け!」
数十メートル先の空間が陽炎のように歪んで、シャボン玉が割れるように中から二十匹ほどの小鬼と十五匹の森狼が現れた。もはや目と鼻の先だ。普段であれば不測の事態でも対処してくれる城壁は、現在壊れて外と中とを繋げている。魔物の生臭い空気があたりに広がって、叫び声が聞こえた。
『Gagaga!』
小鬼たちだ。
突然のことに対応できない人間たちを嘲笑うように乱杭歯を開いて閉じて、手に持った錆だらけの剣を振り回した。突っ込んでくる。
「おい、まずいんじゃねぇか! なんでこんな近くに!!」
工事の作業員たちは突如として放り込まれた鉄火場に血の気を失った顔で呆然とした。フローラーリアは金髪の護衛騎士に手を取られ、“行きましょう”と言われた。掴まれた手首が冷たく、苦しかった。
「前へ!
騎士たちが叫ぶ。ガチャガチャと剣を構えながら城壁の外に進出していく。
最近の魔物の異常発生。
帝国近郊を中心に、被害は徐々に、だが確かに増えている。なにより奇怪だったのは、本来いるはずのない強力な魔物すら出現し始めたこと。
「逃げろ、にげろ! 道具はおいてけ! 早く!」
ベテランの工員が叫ぶ。
作業員たちはショックから立ち直れておらず、動きは鈍い。
「総員、構えーッ!」
あと数十秒で魔物は城壁の中に侵入する。
一番最初の狼が地面を蹴り血走った目で迫ってきていた。
フローラーリアは手を引かれる。
体が城壁と反対側を向く。
「火球が来るぞッ、盾ェ!」
運が悪かったのは、小鬼の中にマジックキャスターが混じっていたこと。姿隠しを使えるほどの老獪な個体であったこと。城壁が壊れていたこと。そして──フローラーリアが視察のために近くに来ていたこと。
「お逃げください! 早く!」
ジャンが言う。
騎士たちは既に狼の牙と爪を盾で防ぎ、キャリギャリと縦の上を鉤爪が滑る音がした。一匹一匹では優っていても、数の差が大きい。犠牲は免れない。
「間隙をせよ! 盾から身体を出すな、持っていかれる!」
このままいけば、騎士たちは時間を稼ぐだけ稼ぎ、食い散らかされる。
応援が来ればこの程度の魔物対処できるが、その間に近くにいた工事現場の作業員程度はただの餌となってしまう。
もう、最初から手遅れだったのだ。
ぐい、と手を引かれる。身体は勝手に走り出す。
「まっ──」
待ってくれ。
彼らを置いていかないでくれ。
そう、言いかけてフローラーリアは唇を思い切り噛んだ。この場で最も生き残らなければならないのは自分だ。自分の時間稼ぎのために、他の命がすり潰されることを許容しなければならない。
「絶対に、通すな!」
騎士の声が聞こえる。
嫌だ。最期に聞く声が、今だなんて。嫌だ。
フローラーリアは意味が無いと分かっていても手を伸ばし──
『──“対”軍勢用道開装具 「“
ドス、ドスドスという重たい音を響かせて。
形大きさが多様な紫の剣が飛んできて、小鬼や狼を地面と縫い止めた。
「はっ?」
騎士たちが呆然とした声を上げる。
剣により縫い止められた魔物は、溢れる生命力でまだもがこうとする。だが、小鬼や狼たちは次の瞬間、剣が弾け飛んで斃された。
それはまるで、刃物の性能を限界まで高める勇者の加護のようで──
「アスナヴァさん!」
ピンと通る声が戦場に響いた。
フローラーリアは目を見開く。聞き覚えのある、懐かしい声だったから。
「──ああ」
硬い女性の声が、応えて、最後まで防護魔術を張って生き延びていた小鬼のマジックキャスターの背後に人影が出現していた。小鬼の魔術師は目の前で繰り広げられた剣の雨に気を取られ、背後に潜んでいた脅威に気が付かなかったのだ。
影が細い鋒を引き絞る。
弓を放つように、込められた力は一気に解き放たれ。
「
トァンと金属の撓む不思議な音ともにマジックキャスターは頭部に大穴を開けて横倒れになった。
もう、動くものはいない。魔物は全滅した。
流れるような討伐は成ったのだ。
「……うそじゃ」
瞬く間に脅威が去った平原を見る。風は冬の寒さを忘れたように穏やかに吹き、フローラーリアの青い髪を靡かせた。
ひらりと薄い茶髪が見える。
城壁の向こうからやってきたのは、1人の青年。
護衛の騎士たちも彼が誰だか知っていて、驚いたようにしていた。
「ずいぶんと、お待たせしました」
懐かしい、声だ。
優しげな、少し垂れた目元。長く、クセのない茶髪。この国の宝である麦のように、目立つことなく、だがしっかりと根を張る植物のように。
何度も夢に見た顔つきをした彼は、軽鎧をかしゃかしゃと鳴らしながら走って、フローラーリアに近づくと笑った。
「うそ、じゃ……」
「嘘じゃ、ありませんよ。言ったじゃないですか。私は──」
フローラーリアは思わず目が眩む。
視界がぼやけて、走り寄ってきた彼の顔が苦笑いに変わる。なんだか悔しくて、精一杯の虚勢を張って表情を取り繕ろおうとしたが、鼻の奥はツンとした。
風が薫る。
土の匂いがする。
豊かな実りの、作物を照らすような太陽が輝いた。
「──私は、どれほど時間が掛かるかは分かりませんが、必ず戻ってきます、と。この王国の剣に相応しくなった私で。ふたたび、貴女の元へ。ね?」
そう言って、勇者ルークは少し腰を屈めてフローラーリアと目線を合わせた。
「あぁ、泣かないで下さい、姫さま。……こういう所は、昔から変わりませんね」
「うる、さい! 泣き虫だったのはお主のほうじゃ!」
顔に熱が昇っていく。
声が震えて、口がうまく動かない。もどかしさに眉を顰めながら、フローラーリアは目の前の優男を思いっきり睨みつけた。
だが彼は困ったように笑うばかりだ。
そして流麗な動作で片膝をつくと、フローラーリアの手を取る。
鳶色の瞳と視線がぶつかり、心臓がカッと熱くなった。
「そうでしたね。──では、改めて」
心地よい声。
見慣れた笑い方。
真剣で穏やかで、強い鳶色の瞳はまた、彼女の前に現れてくれた。
「勇者ルーク、帰還致しました。──貴女の元へ」
「っ……!」
フローラーリアはとうとう堪え切れず、両の瞳から大粒の涙を溢し、勇者の腰にしがみつくように抱き留め、嗚咽をこぼした。
「よく、よく戻った……! おかぇりぃ……!」
涙でぐずぐずの顔を彼のにおいがする装備に埋めて、口から出てくる涙声。
ぽんぽんと頭に感じる勇者の大きな手を感じながら、フローラーリアは声を上げて泣き続けた。
冬の季節は吹き飛ばされ。
暖かな秋がまた、巡ってくる。
ソラナムの勇者、ここに帰還せり。