「いらっしゃい」
ルーカスの部屋に忍び込もうとしたレルを迎えたのは、薄い茶髪の青年ではなかった。
見慣れない、浮世離れした雰囲気を持つ少女。
「ねこちゃん」
少女はかがみ込んで、手を伸ばす。
呆気に取られていたレルは咄嗟に動く事が出来ず、彼女の手に捕まってしまった。まるで幽霊に化かされているような現実感の薄れだった。
「まぁ、おもたい」
彼女は真っ白で漂白されたような髪を持ち、血のようにドロリと紅い瞳を持った少女だった。ふわ、と抱き上げられたレルの眼前に髪の毛が広がる。景色から彩度が消えていくようにすら感じた。そのくらい、色がない髪をしていた。銀髪とか薄い茶髪とかではなく、色がないのだ。
「にぁん……」
「ふかふかね、あなた」
思わず声が漏れたレルの首筋に、すぅ、と少女の鼻があたった。
ほのかに甘い香りがして、不覚にも情報処理のために固まってしまったレルは、いとも簡単に部屋の中に連れ込まれてしまうのだった。
(待って、え?)
レルが気がついた頃には、背後で扉が閉まる。
蝶番の軋む音がして、世界は部屋と隔絶された。
レルは謎の少女に抱えられて移動する。
ここは紛れもなくルーカスの部屋だ。間取りは玄関扉を開けた所に短い通路とリビングルームのような少し広い空間がある、一般的な寮の部屋。
リビングルームの左右に扉が付いていて、それぞれのベッドルームとなっている。
(お、お、男の子のへや、はじめて入ったんですけどォ……!?)
レルは何の変哲もない、自身の部屋と同じ作りのリビングルームを目まぐるしく見つめていた。
だが、一般的な学生の部屋と比べて違和感があった。
一目見ただけでは分かりづらいようなもの。
(あれは……)
レルが見たのは、リビングルームの真ん中にある四角いテーブルの上だ。
蝋で仕上げられた机の上には書きかけの書類やら、何かに使う道具なのか、先の平たい鋸のようなものが散らばっていた。他にも糸、針、汚れた布が無造作に置いてある。
だけど、部屋にはそれ以外は何もない。人の気配がすごく少ない殺風景な部屋だったのだ。
(それに、薄暗い……)
いま使っていないからか部屋の照明は落とされ、外から差し込む月の光だけが頼りだった。
改めて部屋を見渡す。本も、コップなどの雑貨も、鞄も。観葉植物のひとつもない。まだ学院に来たばかりだからといって、この有り様はどこかおかしかった。
にゃぁんとレルが鳴く。
「ねぇ、どこからきたの」
レルを捕獲した謎の少女がそっと顔を寄せて尋ねてきた。
てっきりリビングルームで解放されると思っていたのだが、彼女は移動を続け、扉の前にやってきた。向こう側はベッドルームであり、プライベートルームだ。
まさか、ここに連れ込もうというのか。
と、考えてレルは今の自分が猫の姿をしている事に気がついた。
確かに、人間ならいざ知らず、猫を部屋に連れ込むのは何らおかしくはない。
レルの思考の通りに少女は何の躊躇いもなく、慣れた手つきで右のベッドルームの扉を開けた。ガチャ、と音がする。
レルは現在、腹のあたりを少女の前で抱えられて、足をぶらんぶらんさせながらなされるがままの状態だった。
(っていうか、この子、誰? ルーカスは1人で部屋使ってるって聞いたんだけど、……えぇ!)
動けないから思考を働かせることしかできず、遅れてやってきた驚愕にレルが尻尾をパタパタさせた。少女はくすぐったそうに鼻をならす。ベッドルームの入り口を潜ると、暖かな照明が目に入った。
レルは抱えられたまま顔を上げる。部屋の様子と同時に、抱えている少女の横顔が見えた。
「なぁに?」
長いまつ毛に縁取られた瞳からは感情を読み取れない。三つ編みになった髪が中にあって、揺れていた。
(ルーカスの使ってない方の部屋で、この子は寝てる……? 確かにルーカスは皇子の秘密の護衛って言ってたし……いや、待って)
てっきり連れ込まれたのは、彼女のベッドルームなのかと思ったが、おかしい。
スタディデスクに備え付けの椅子には、大きな男物のブレザーが掛かっている。明らかに少女の身体には大きすぎる上着。
(こここ、これって、ルーカスのじゃない!? 見覚えあるんだけど!?)
いや、待てよ、とレルは思考にストップをかける。
あのブレザーは、この少女が持ってきたものかも知れない。ルーカスの私物を勝手に持ってくるようなイタズラな子なのかも知れない。だとしたら、まだ、この部屋は彼女のプライベートルームである可能性が高くなる。
そこまで考えた時に、レルの鼻が、ひとつの匂いを捉える。あの旧実験棟で、隠れている時に嗅いだ、覚えのある香り。──すなわち、ルーカスに抱えられていた時に匂ったあの、薄い土のような、太陽に干した布のようなかおり。
「んにゃあ!」
これは、ルーカスの部屋じゃない!? と、レルは高速回転する頭脳で弾き出した。彼女は今取れる唯一の行動である猫の鳴き声で、離して欲しいと懇願する。ついでに手足もバタバタ。
「あばれない、だーめ」
だが悲しいかな。
魔術で変身している都合上、力は野生の猫ほどは出せず、白髪の少女にキュッと強めに抱きしめられてそれで終わりだ。レルの抵抗は終わった。
ペタペタと白髪の少女は部屋の中を裸足で歩き、ベッドに腰掛ける。ギシと木の音がして、シーツが皺になった。ベッドからはベランダに続く窓が見えて、カーテンは閉まっているが窓自体は空いているのか、ゆらゆらと薄緑色の布が揺れていた。つめたい夜風がときどき入ってくる。
「シュンカー」
少女が部屋をキョロキョロと見渡し、何かの名前を呼んだ。すると窓のカーテンをひらりと揺らして何かが飛んできた。
(なになに何? あたし、一体どうなるの!)
レルの混乱をよそに、少女は飛んできたものに腕を出す。飛来した“それ”は器用に少女の肩に止まり、翼を広げていた。
鳥のような何かは、意外にも澄んだ声で問いかけた。
『どうしましたか、ランちゃん』
ランちゃん? この少女の名前か? と考えたところで腹に感じる動き。ぐぇ、と思いながらレルの体は少女の肩の高さまで掲げられていた。
にゃんと反射的に声が出る。
「つかまえたわ」
飛んできた“何か”は二秒ほど黙ったあと、困ったように頭部を傾げて反響するような音がした。
『……なるほど』
(喋った──!)
レルは驚愕する。
人以外で、人語を解するものなど、非常に珍しく、危険な存在だ。魔物ならそれだけで危険度に+がつく要素なのだ。それがいま、目の前にいる。バクバクとレルの心臓は脈打ち始めた。
『猫、で御座いますねぇ……捕まえた、とは?』
「部屋の前にいたから」
『返して来ませんか? ね? ね?』
目の前でホバリングしたのは、不思議な色合いの飛竜だった。
朝方、雲がかすかな赤紫色に照らされた時のような体色をしていて、尻尾の先や翼の根元には羽毛のような毛が生えている。女の子のような声で、飛竜は喋っていた。
「こっちきて」
『はい、どうしました?』
それが。
人の天敵になり得る飛竜の幼体が、人語を解するどころか流暢に使いこなしているではないか。
レルはすとんとシーツの上に降り立つ。少女の腕の拘束が緩んだのだ。冷たい布の感触が伝わってきた。ここはヤバい。逃げなくては。
白髪の少女はレルの様子をちらりと見てから、飛竜となにかこしょこしょと話をしていた。
──いや、絶対にこの場から一度逃げる。
ひとつ決意をして、にゃあ、とレルは鳴いた。
まるで本物の猫のように。自由で気ままな、猫のように。
『まぁ、可愛らしいですね!』
飛竜がぴぴぴ、と鳴いた。
よし、とレルは内心拳を握りしめる。完全に猫だと思われている。
続いてレルは、前脚で顔をこしこしとして、毛繕いの真似をした。
レルの頭の中にあったのは、一刻も早く退散しなければという思いだけ。その為にはまず、目の前の少女から逃れなくてはならない。
だから、猫のフリをして一瞬の隙をつく。
窓が開いている。少女が気を逸らした瞬間に窓から抜け出せば、ミッションコンプリートになるだろう。
あ、と飛竜が何かを思い出したように体を起こして、何処かに飛んで行った。出来ればどこに行ったのか知りたいが、今のレルは猫だ。おかしな挙動は慎まなければならない。だからグッと堪えて、記憶の中、観察した猫の挙動をトレースしていく。
空中の何もないところを目で追い、ついでに無意味に手も動かしてみる。体をグッと伸ばして尻を突き上げてみる。
「ファーオ……」
からのあくび。
恥も外聞も捨てて、大口を開けて目一杯。
どうだ、と薄目を開けて少女を見れば、彼女は口許を抑えて目を細く、肩を振るわせていた。
「ふふ、おかしい」
笑っている。
くすくすと、少女が笑っている。レルはガッツポーズをしたい気分だった。よし、いいぞ。このまま猫を装って隙を窺って脱走してやるのだ。
レルがお尻をつけて座り、後ろ足で顎を掻いてみせると、少女がずい、と近づいてきた。まだ口元が笑っている。そんなにおかしいか。彼女は笑ったままの表情で、身繕いをするレルの頭に顔を近づけると、囁いた。
「──
「──ッ!?」
レルの判断は迅速だった。
一瞬で、魔術の解除を試みる。
一刻も早く人間に戻り、逃走しなければ。あらゆる可能性を無視して、脱出しなければ!
だが──
「できないわね」
「! ……!?」
猫の状態から戻れない。
解除呪文も、解除コードも魔術で打ち込んでいるはずなのに、猫の視点の低さから景色が変わらない。何もない所に手を伸ばしているような虚無感。
背骨を直接雪に浸されたようなゾッとする感覚。
狂乱するような心持ちでレルは自身の体に目を走らせた。
「
ひとつ、声がして。
カタカタと震えるレルが錆びつくようなぎこちない動作で少女の方を改めて見ると、金の文字が刻まれた手のひらほどの短剣をひらひらと振っていた。
(あれは、あたしの魔術!)
訳がわからない。道理に反している。
だが、直感で理解できた。レルの優秀な演算を持つ頭脳だからこそ、理解出来てしまった。
この、異常な状況を。
「うふふ」
少女は短剣を細い指で握っている。
あれはレルの魔術の解除の部分。どうやったのかは知らないが、魔力ごと変形されて手に取られたのだ。
レルの変身魔術は鍵と鍵穴のようなものだ。もし猫に変身するならば、猫という鍵穴を作って発動して、解除には特定の魔術キーを差し込み発動している式を終了させるプロセスが必要となる。
その、解除のプロセスに使う鍵を短剣にされて、取られた。
(取られた……、取られた!)
そんな無法が罷り通っていいのか。相手の魔術を認識して変質させるなど。レルは混乱する頭で、不思議な怒りにも似た感情が湧き出ているのに気がついた。理不尽だ。デタラメだ。レルの魔術体系も珍しいものではあるが、一体何をどうしたら、この少女みたいに狂った所業が出来るのか。
ピク、とレルが脚に力を込めた。
その瞬間、少女の瞳の圧力が増す。ベッドルームは窓以外出入り口は塞がれていて、どうしようもない現実感がレルの前に立ち塞がっていた。
「ねえ、うごいちゃ、だめよ。なにをしにきたの?」
動けない。
レルは動かなかった。
別段、レルは実力のない魔術師ではなかった。
寧ろ優秀、天才の部類だ。だけど相手が悪かった。
「こたえて、なにしにきたのかしら?」
相手は
つるぎの魔女は、魂を鍛造した無法の存在なのだ。
魂とは──普通では触れない、触れる事が出来ない生命の根源。ありとあらゆる情報が刻み込まれている認識すら不可能な領域。生きとし生けるものがどんな最期を迎えようと犯されることのない最終尊厳。
それを叩いて、変形させて、鍛えてしまったのだ。
だからこその禁忌判定。だからこその魔女。
カランコエの前では生半可な偽装は意味をなさない。魂を見るから。
「ねぇ、ひとにもどりたい? どうなの? こたえて、がんばれば喋れるでしょう?」
レルの後ろ足に、いつのまにか剣がくくりつけられていた。
刃引きされた50センチほどの直剣は透明に近く、グリップの部分がまるで足枷のように体に嵌っていた。重さで身動きができな「どこみてるの?」
水面に響くような声がして、グイと頭を正面に向けさせられた。
顎がカチカチと鳴っている。寒くないのに、震えが止められなかった。
「もどりたい? ねこのままはイヤ?」
目の前の少女は、出会った時となんら変わらない口調で問いかける。逆に恐ろしかった。彼女は“これ”を平常としてやっているのだ。この、脅しを。
──レルはカランコエを知らない。だからこそ一つ思い違いをしていた。
カランコエからしてみれば相手は姿形がどうであれ、魂が変わらなければ存在自体は変わらないと考えていた。見た目が違おうと、魂はレルのままだから、猫だろうと人の姿をしていようと同じだ、と。
彼女は相手が不定形の肉塊のような存在になっても魂を見るだろうし、逆にどんなに見目麗しい相手でも魂が空っぽなら相手にしない。そういう存在だ。
彼女の前では猫も、人も、同じ命を持っている点では変わりないのだ。
「う、にゃ……にゃぁ」
そして、レルはそのことを知らないし、知るよしもない。
涙目になってガクガク震える猫。
「じゃあ、みゃあって鳴きましょう。さん、はい」
「み、みゃあ」
「よろしい。じゃあ、はい。伏せ」
さっとレルはシーツの上に伏せる。
体の感覚はどうにも曖昧で、ふわふわしていて、自分がどんな動きをしているのかすら定かではなかった。
「いい子」
カランコエは両手の人差し指をレルに伸ばし、指先で猫の口の端を持ち上げ、牙が見えるようにした。細い指が動く。それでナイフのような犬歯が顕になって、唾液でぬらぬらと濡れていた。暖色の部屋の照明を反射して、くっきり浮かび上がっている。
少女はまたうっとりと妖艶に笑って、レルの耳元に顔を近づけると、一言。
「あなた
全ての音が消えた。
カランコエは顔を離し、レルを見つめる。この学院に潜んでいた、一体の魔王と思しき灰色の猫を。
しん、と部屋が言葉を失っていた。
机に置かれたランプだけがオレンジの光を投射して家具を染め上げている。カーテンがばさはざと揺れる音だけがしている。
空に浮かぶ月にいるように、静寂と緊張が夜の涼やかな空気に浸されていた。
にゃあんと猫が鳴いた。夢の中で聴くようなボヤけた響きにエコーがかかって、漣のように反響していく。寄せては引く音の波。やがて猫の喉から発せられた一種の振動は、呪文になった。
「あ、あたしは魔王じゃ……ない」
魔術が発動して、猫の口からレルの言葉が出てくる。
猫の声帯で人の言葉を発するように、補助的な機構を喉に組み込む魔術だった。
「じゃあ、なに」
紅い瞳が問いかける。
灰色の猫は逡巡するように下に視線を落として、尻尾を垂れ下げながら呟くように言った。
「あたしは──
懺悔をする信徒のように、もはや隠し立ては出来ないと彼女はポツポツと語り出した。
「ホムンクルスの、
自身の正体を。来歴を。
「
自身の目的を。
「あ、あたしは、使い捨ての即席生命体、あと10日以内に魔王か勇者を殺さないと、廃棄処分なの。次がくるの」
彼女は頭を下げる。
「だから、ごめんなさい」
深く、深く。シーツにつくほどに。
「ほんとうに、ほんとうに、ごめんなさい」
震える声で、正体がバレた猫は告解のように頭を伏せた。
あぁ。猫は鳴く。
練り上げる魔力を感じながら、脳裏に浮かぶ記憶を。
(あのお昼ご飯は、ほんとうに、たのしかった)
それを、自らの手で砕く。
猫の目に涙が溜まって、ぽろぽろと落ちた。
「いまからあたしは、罪を犯します」
これから始めるのは、ノンストップの勇者か魔王の討伐。
どちらの正体もまだ掴めていない現状で、レルに出来ることなど限られていた。
ぶわ、と魔力が高まる。
室内に風が巻き起こる。
バサバサと怒鳴るようなカーテンの音を聞きながら、カランコエはふと思った。
──来週の予定に、自分の死が入っているのは、どんな気分だろうか、と。
カチ、と術式が完成する。
レルの涙が吹き飛んで、唯一身体に刻まれていることで使用できる覚えていた攻撃魔術が狭い部屋にやってきた。
「──吹き飛べっ、“
次の瞬間。
せまい、部屋の中に、圧倒的な暴風が駆け抜け、弾け飛んだ。
【魔王討伐のタイムリミット】
▶︎ 【今年の秋の終わりまでに!】
レル残り時間、234時間56分21……20秒
数多ある出来事の中で、人生におけるものなど、すこしも思い通りになんか、ならない。
計画は破綻して、予定は崩れて、未来は消えかかる。
「──ちょ、ちょ、ちょっ!」
がしゃん、と部屋に何か転がり込んでくる。
みっともなく慌てていて、髪の毛が乱れた青年だ。
「待て待て待て!」
彼は発動寸前の魔術の前に躊躇いもなく飛び込んできて、迷いのない瞳でレルの姿を捉えた。
世界は理不尽で、どうしようもなく思い通りにいかない。
──だからこそ、世界には地味で目立たず、どこにでも居そうな彼らがいるのだ。
「その、話。ちょっと待った!」
小さなものまで捨てきれない、どうしようもない
この学院には、魔女カランコエが魅入った、小麦と同じ色の勇者がいるのだ。
「大事な話なら、僕にも聞かせてくれよ?」
爆発する風に吹き飛ばされながら。
ルークは身近なカランコエを背中に隠した。
勇者の青春よ、どこへゆく。
トラブルしかない潜入捜査に。
魔女がくすくす、笑っていた。
また、勇者ルークの、行き当たりばったり、ぶっつけ本番やりなおし無しの、そんな冒険が始まったのだ。