「うっ……く」
ダイアー学院の空き教室にて。
真っ赤な夕日が閉めきられたカーテンの隙間から鮮烈な色を侵入させて床や壁を染め上げていた。
古びた建物の、誰も使わない部屋は床の木が痛んでいて、ささくれも目立つ。
その中に一人の人影が椅子を使って脱力したように座り込んでいた。
「は、……ふ……ぅ」
呼吸は荒く、顔色は悪い。
彼女は
「ぐぅぅ……ゔぅぅっ……!」
柔らかな唇の端から見える
「いや、……だ」
彼女の今の状態は空腹。
飢餓状態に等しいものであった。ダイアー学院の制服を着て、教室に居る存在がなぜ、学院の中でこんな栄養失調に陥ってるのか。川に囲まれた地域で脱水症状を引き起こしているような不自然さがあった。
彼女は必死に震える手で机に置いたパンを手に取った。それを千切り、口の中に運ぶ。痙攣する口で何とか飲み込むが、すぐに口元を抑えた。
「うッ……おぇぇえ!」
びしゃびしゃと近くの床にえずき、吐き出す。
まだ形の残ったパンが床の胃液に浮かんでいた。それを見ている彼女の紅い瞳には嘔吐のせいで涙が出てきている。
彼女は通常の食物では栄養を摂取できない。なぜなら人ではないから。
彼女は血を啜る事でしか生きながらえることは出来ない。なぜなら吸血鬼だから。
「……ふっ、ふぅぅ……」
荒げられた息を治めながら彼女は机の上に置かれたもう一つのものを見た。
それは頸を折られた、茶色の羽を持つ鳥。
暗い瞳で死体を見つめ、体は悪寒を感じていた。パンではこの身体は賄えない。故にいまの彼女にはタンパク質が不足していた。エネルギーが不足していた。糖分が不足してケトアドーシスのような状態になり、意識は朦朧としている。
「ごめん、なさい」
ふらつく頭を揺らしながらガッと机の鳥を掴みあげる。ぬばたまのように黒く、くりくりとした瞳と目があって、動きを一瞬躊躇った。
「……っ」
だが、それも一瞬。彼女はすぐさま迷いを振り切るように羽がついたままの首筋に顔を埋めた。そして牙を突き立て、ぶつりと皮膚を貫くわずかな抵抗の後、ぢゅぅぅ、と教室に異様な音が響いた。
「ぅ、ぅ……ぅ」
彼女はだんだんと回復してきた意識と、身体の感覚の中で涙をポロポロと流していく。
口元から流れ込んでくる血の味。筋肉の筋張った感覚。
鼻をつく鉄臭いかおり。元人間であった感覚をまだ忘れきれない彼女はどうにも、自身の食事が苦手だった。
「おっ……ぶ……ん」
吐き気がする。
でも飲み込む。
食事を止めることは出来ない。なぜなら、自尽は禁じられているから。
食事をしない事も出来ない。なぜなら、彼女は造られた存在だから。だから、作り手の意図に反することは出来ないよう弄られている。
「わたし、は……」
彼女は傷跡の残る首筋を撫でた。
背中にも大きな傷跡が残っている。
「わたしは……!」
彼女の名前はウィオラ・アルデーンス。
五年前に死んだ時の、15歳の姿のまま。
彼女よりも上位の存在によって、紅瞼の魔王として、生まれ変わらせられた。
そう、彼女こそが。
今回の勇者の、
「ぅ」
とある異常な存在に墓を暴かれ、禁忌を踏み躙られ、近くにいた狼と混ぜられ体液を総入換された結果、赤茶色の三角耳を頭頂部に持ち、尻尾を生やしている獣人のような見た目となって。
「ぅ、ぅゔぅ……!」
ばくん、と心臓が脈打つ。
そして、全てをめちゃくちゃにしろと命令が頭に響く。いや、響くどころではない。思考を塗りつぶしていく。
彼女の影から赤黒い血が湧き立ち、無人の教室は血の香りでいっぱいになった。
彼女は吸血鬼。
元、貴族令嬢の吸血鬼。この学院で生徒を殺し、半端な食人鬼を作り出し、混乱を撒き散らす。そのために作られた時限爆弾だ。
だが。
「わたしは……あの子の姉っ、なん、ですから……!」
彼女は涙を飲み込み、立ち上がる。
何の因果か、放り込まれた学院には居た。記憶よりも背の高くなった弟。
ウルペスが。
全ては、あの弟のため。
彼女は抗う。計画は、すでに出来てきた。
このままではいずれ理性は呑まれ、暴れ回る怪物になるだろう。学院から逃げることは出来ない。そう、命令されているから。
誰かを殺す前に自分で自分を殺そうとしても、出来ない。これも命令だ。なら?
だから、情報を流した。
この魔王と成り下がった身を滅ぼしてくれる誰かのために。
「ら、lalala ……」
彼女は歌う。
覚えている歌を。誰に届く事もないと知っていても、別の世界がある事を
「ら、ら、ら……」
「へぇぇぇ、面白いこときいちゃった」
その瞬間、空気がねばついた。
夕日が時間を止めたように固まって、おかしくなった。
教室の、黒板の前に現れたのは青と黄色の虹彩を持った、それ以外がモノクロの相手。
「キミ、弟がいるんだ?」
ウィオラは急速に喉が渇いていくのを感じた。
先ほどまでの覚悟や決意がものすごい勢いで削がれていく感覚。手足がびりびりと痺れて現実感を喪失していく。
「あぁ、そんな顔しないで。面白いこと、思いついたんだから。勝手に勇者か何かに討伐されようとしていた? させないよ、そんなつまらない事。誰かが死ななきゃ、フィナーレは飾れないでしょ?」
滔々と、白黒の人物は語る。
この場にいるのに、異様に薄い存在感。それこそが目の前の相手が本体ではなく分体であることを示していた。
そして、目の前の白黒こそがウィオラの死体を暴き、弄んだ張本人。この世界に圧倒的に敵対する、滅亡の種。
世界に五体いる、大氾濫を巻き起こし全てを滅亡させる可能性の魔王。
絶対討伐種──『
数多の英雄を屠り、数えきれない屍山血河を建築してきた化け物。
「ボクにも友人が居るんだけどね? その子がよく“理不尽”って口にしてるんだよ。面白いよね。なら、ボクは“最悪”って口癖にしようかな。我こそ魔物を統べるもの。最悪を愛し、凶悪を齎し、害悪そのもの也」
うひゃひゃ、と魔王は笑う。
ウィオラを命令で縛った上位存在はおかしそうに目の端を拭い、指差した。
「だから、キミを勇者のところにすぐ送り込もう。冬に爆発するように仕込んでいたけど、予定は変更だ。急な変更だけど、今伝えたからいいよね?」
ウィオラはかたかたと震える事しかできない。
反論しようにも、身体がその機能を許してくれない。この体はかつていた貴族令嬢ウィオラのものではなく、目の前の魔王によって作られた操り人形なのだから。
「いやぁ、あの頭狂いの組織がホムンクルスを送り込んでるなんてね。人形は人形らしく感情消しとけばいいのに、半端に残したりするから」
くるくると魔王は笑い、カーテンを引いたり元に戻したりする。
ウィオラは立ち尽くす。
「レルって言うんだよ。勇者か魔王を倒さなきゃ、
そこで魔王は『あ』と声を上げて、ウィオラの真っ赤に変化した瞳を覗き込んだ。深海がこちらを見ているような不安感を覚える気色の悪い瞳が彼女を捉える。
「人形って点では、おんなじか。仲良くしたら? させないけど!」
そう言って魔王は二歩離れ、両手を広げた。
まるでタチの悪い舞台役者のように。
「キミの弟はキミを見たらどんな反応をするかな! 生き返って、半端に獣と混ざって、魂が穢された君のことを!」
やめてくれ。
ウィオラは心の中で叫んだ。だが、それが言葉になることはない。
目の前にいる魔王が望んでいないから。
「キミが死ななければ、ホムンクルスは死ぬだろう。だからそれを嫌った勇者が死ぬかな? それともキミが死ぬ?」
最悪は楽しそうに喋る。
魔王が生き残ればホムンクルスは生き残れない。
魔王とホムンクルスを生かすには勇者は死ななければならない。
勇者とホムンクルスが生き残るには魔王は死ななければならない。
そんな、クソッタレな条件を。
だが──
やりようはある。
そうすれば、この状況は打開できる。
この魔王は長い時間帝国に居られない。感づいたフィラリオンが滅ぼしに来るから。だから毎回影響を及ぼさない短時間しか現れないのだ。
故にウィオラは歯を食いしばる真似をした。なるべく悔しく見えるように。どうにも出来ないと歯噛みしているように見えるように。
この秘密の計画を成功させるために。
「あ、そうそう、忘れてた」
ザ・ワーストが帰る素振りをして、くるりと後ろを振り返った時にピタと止まった。
そして改めてウィオラの方を向くと、両手の親指と人差し指を合わせて窓のようなものを作り、ウィオラをその範囲内に入れた。
「存在変革。お前の声帯はお前の意思で動く事を禁じる」
「存在変革。お前は今後、あらゆるジェスチャーでお前の意思を伝える事を禁じる」
「存在変革。お前はこの後、学院の生徒を強襲し、殺さなければならなくする」
「────」
「──ッ!!?」
瞬間、ぶわりと吹き出す滝汗。
身体がカチカチと置き換わっていく怖気を催す感覚。
叫ぼうとするが、先ほどとは違いそもそも動かない。それを見て魔王はニンマリと口角を釣り上げた。
「アハハハッ! 動かないし、喋れないよ! 物理的に君の喉が作り変わったんだから! でもでもー、安心して? ボクの操り人形くらいは出来るよ」
ヴォンと異音がして、風を感じた。
首を微かに動かして見てみると、後ろに広がるのは、夕方の緑の森。
教室を分断するように門が開いている。きっとこの向こうに学院の生徒がいるのだろう。ウィオラが殺しにいく生徒が。
「ぷっ、くく! もっとお膳立てされてくると思った? 自分の人生の一大局面はドラマティックに、ここぞ! という雰囲気で来ると思った?」
魔王は腹を抱えている。
森の方から吹き込んでくる風が白黒の髪をばさばさと揺らしていた。
ぎ、ぎ、ぎとウィオラの身体は森の方へと引き寄せられていく。
「ぜーんぜん違うよ。いきなりだ。いきなり、目の前に現れるものこそ、本物だ」
彼女の意思は関係なく操られている。
あと数メートルで門を潜ってしまう。
「人生は、ナンセンスだ。クライマックスへようこそ。お前の人生の、クライマックスに、だけどね」
こうして彼女は森に放たれた。
生徒を殺すために。
彼女のフィナーレは他人の手によって強制的に始められ、ここに幕が開いたのだ。
「さぁ、行ってらっしゃい! 最悪へ!」
【手掛かり】
▶︎1.聞き覚えのある子守唄
2.漏れてるウワサ話
3.血のない死骸
……………………
…………
……
ぐにゃぐにゃとねじ曲がる視界の中。
転移の最中。
全てが終わってしまった揺蕩いの中。
【手掛かり】
▶︎1.聞き覚えのある子守唄
2.漏れてるウワサ話
3.血のない死骸
これまで蒔いてきた数々に取り消し線を入れていく。
必死で張ってきた伏線を一つづつ消していく。
なぜなら、失敗したから。
【手掛かり】
1.聞き覚えのある子守唄
▶︎2.漏れてるウワサ話
3.血のない死骸
計画は全て散り散りになったから。
必死にばら撒いてきた手掛かりも、仕込みも全て無駄になった。
意味なんてなかった。無駄に終わった。
だから、これは負け戦なのだ。
【手掛かり】
1.聞き覚えのある子守唄
2.漏れてるウワサ話
▶︎3.血のない死骸
だが。
素直に終われるものか。
「────! ────ッッ!!」
なんの間違いか、蘇ってこの世に再び現れて。
弟やその周りの世界に傷を残すなんて、酷い話だ。
愛は負けない──なんて世迷言かも知れないけど。
こんな言葉、圧倒的な現実の前ではただの夢でしか無くなってしまうけれど。
でも、貫き通すのだ。信じるのだ。
愛は必ず勝つと。
──届かせる。
ぜ っ た い に
まだ、終わらない。
終われない。愛しい家族を守るために。愛しい家族が、自分の死後に正しい道を歩めるように。
人類が抱く、不変の原理。
だって。
なぜなら。
家族ってものだろう。
もう死んでしまった姉から、泣き虫の弟に送れる最後の気持ちだから。
だから、届け
どこかへ。
あらゆる言語で、叫ぶ
とどけ。
この声帯は震わせられないけれど、別の世界をのぞいて知ったあらゆる言葉で、心の中で叫ぶ。
届け。
誰かへ。
この目が観測してきたあらゆる可能性と世界線にいる、誰か一人でも。
この願いを。
どうか、どうか。
だれか、だれか!
「あれ? お姉さん何処のクラスの人ですか? こんな森に居るなんてな……」
「怪我してますか? 大丈夫かな……。いま行きますから、そこで待っていて下さいね!」
だから、こうして。
「え? ちょ、なにを……!?」
「やめて、やめて!!」
こうして、戦いの幕は上がったのだ。