10年前。
ウルペスの生まれ故郷、アルデーンス領は畑と田舎の家ばかりある田舎の土地だった。
農村がいくつか集まったような、長閑なアダマンヌス帝国の外れである。主要産業は畑のジャガイモと豆。土地は広いが土ばかりの場所だった。
時期は初夏。段々と暑さが目立ってくるころ、森の入り口にて。
『がっ、おい! クソやろう!』
『あぁ!? 聞こえねぇなぁ! キチンと喋れるようになってから来いや!』
過去の遺跡だという大人くらいの高さの柱が何本か立っている広場は、村の外れにあって子供たちの遊び場だった。
普段は危険もない場所で、四人の子供が、喧嘩をしていた。
『出来損ないのクセに、おい! っぐ!?』
『汚ねぇ口を閉じろやボケ』
乱闘ではない。正確には3対1で殴り合っている。
粗末な木の棒や木剣を持っているのがヤンチャな村の子供たちで、一人の無手の方がその三人を圧倒していた。丁度、三人の子供のうち一人が無手の男児を髪色を理由に馬鹿にして、次の瞬間腹に拳をめり込ませていた。
『ぉ、……げぇぇっ』
横隔膜を強打された子供は、木剣を取り落としその場にえずきだす。
パンチをしたのはまだ5歳の時のウルペスだった。
『くそ……』
『シッポ巻いて、帰んな。オレに勝てるかよ』
『い、“いらない子”のくせに!』
『もっぺん言ってみろやァ!』
がぁ、と少年のウルペスはいきり立ち走り出す。子供たちの方は慌てて腹や腕を押さえて逃げていった。
彼はそんな逃げる子供たちを追撃しようとして、やめた。
ウルペスは妾の子供だった。
それを知ったのは3歳の時。物心ついた時からずっと疲れた顔をしていた母親から聞かされていた。お前は、正しい子供じゃないんだよ、と。
だからか、いつの頃からか、彼が勝手に行動しても誰も咎めず、使用人も父も母も、放任していた。ケンカも、勝手に家を出ることも。どんな泥だらけの格好で帰ってきても父親は表情を変えず、『湯浴みをしろ』と言うだけだった。
『くそ、くそ、くそくそくそッ!』
少年のウルペスは荒れに荒れていた。
証拠に貴族の子供と平民の子供が喧嘩など、通常はあり得ない。貴族と関わると何をされるか分からないから平民が嫌がるからだ。
だが、彼は許されていた。怪我をして帰ってきても、何も言われず。何かしなくても何も言われない。いても居なくてもいい存在。そう、屋敷全体でウルペスに告げていた。
『くそ、……くそが!』
だからなのか、その鬱憤を晴らすように、ウルペスはよく喧嘩をしていた。
今回のきっかけも些細なことだ。屋敷を出て、人気のない村はずれの広場で剣の練習をしているウルペスと、そこを遊び場所にしている子供たちと場所が被って、言い合いになる。言い合いはだんだんエスカレートしていって、手が出た。
でも、いつだって理由なんてどうでも良かった。
『ちくしょうが』
ただ、殴れれば。暴れられれば。
行き場のない感情をどうにかすることが出来れば。
ふぅ、ふぅと肩で荒い息をする。
夕方に近い空気はまだ熱を持っていて、身体に汗と泥が滲んでいた。
『あ、ウル、みーつけた。……まぁたケンカしたんだぁ』
いけないんだー、と楽しげな声が広場に響いた。
聞き覚えのある声に、ウルペスが眉を顰めてそちらを見ると、スカートを履いた少女が柱の影からひょいとやってきているところだった。
『アンタかよ……』
『あんたって、ねぇ。ダメだよウル。ちゃんとお姉ちゃんって呼んで』
柱の影から出てきたのは、長めの髪を垂らして、一部を編み込んだ少女。目元は垂れていたが、少し薄いイチジクのような瞳はぱっちりとウルペスを捉えていた。
彼女の赤茶色の髪色はウルペスと同じだ。だが少し違う。それもそのはずで、彼女はキチンとしたアルデーンス家の子供である、ウィオラ・アルデーンスだったのだから。
『カンケーねぇだろ、アンタにゃ』
ウルペスはケンカが始まると同時にほっぽり投げていた木剣を拾い、肩にかつぐ。
そして吐き捨てるようにそっぽを向いて、“姉”を無視するように剣を振り始めた。一回二回。形を意識するように。実戦を意識するように。
少年のウルペスにあっさりと無視をされた少女は一瞬ぽかんとした顔をした後、すぐにぷるぷると震え始めた。
『かっちーん。もう、怒りました。関係なくないです。なぜなら、私はお姉ちゃんですから!』
赤茶色の少女はずんずんと少年に近づいていく。
歩き方も貴族らしい習ったものではなく、はしたないと言われるような大股で。ウルペスは自分の上に影が差したのを見て、面倒くさそうな顔を作って後ろを見た。
『あンだよ』
『ウル、前言ってたよね。勝った方が強くて、言うこと聞くんだっけ?』
そこには逆光で西陽を受ける姉の、にんまりと笑った顔。
『そうだよ。オレはアンタみたいなのがいる甘ったれた世界じゃなくて……』
もっとアウトローな世界に居るんだよ、という言葉は声にならなかった。
『ほっ!』
代わりに、ぐるりと視界が回ったから。
おかしくなる重力に、背中で感じる衝撃。
『ぐぇっ!?』
いつのまにかウルペスは地面に仰向けで倒れて、空を見ていた。ウィオラに転がされたのだ。
少女はウルペスの腰に手を当てて、脚を払うように横に蹴り上げていた。それだけで簡単に少年を転がしてみせた。
いくらウルペスが同世代に比べて身体能力が高く、喧嘩に強いといっても12歳のウィオラには体格で負ける。当然の結果といえば当然であった。
『いっ、てぇ……』
夕焼けの混じり始めた青色に、ウィオラの勝ち誇った顔が入ってきて、ウルペスは思い切り顔を顰めた。ウィオラはそんな弟の様子を楽しそうに見て、左手をすっと差し出して言った。
『はい、ウル。手ぇつないで帰ろ』
『だれが……手なんか……』
当然、ウルペスは拒否をする。
誰が姉と手を繋いでなんか帰るものか。
ウルペスは当時、自分のことを既に立派な一人の人間であると考えていた。そんな人間が姉と手を繋いで帰る? 冗談じゃない。
そんな気持ちを込めて立ちあがろうとしたウルペス。
だが、陰になっているウィオラから間の抜けたような、揶揄うような声がして動きを止めた。
『あれれ? 負けた方は、言うことを……なんだったかなぁー』
ウルペスは立ちあがろうとした半端な姿勢で固まる。
ウィオラは右上を見て、わざとらしそうに“わたしの記憶違いかなぁー”なんて言って手を差し出していた。
逡巡。
なんとか言い訳や回り道をウルペスは必死に考えて、黙って。
『…………チッ』
結局は姉に折れて右手を差し出した。
いつも彼女は手を繋ぐ時、ウルペスの右手を取るのだ。ウルペスが木剣を握る時はこちらで握るから。
ウィオラは嬉しそうな顔をした。
そうして、畑の真ん中にある砂利道を二人で並んで歩いた。
地面に伸びる、高さの違う影がくっきりと目に焼き付いている。時々、1日の仕事終わりの農民たちが声をかけてきた。その度にウィオラは笑顔で手を振って答えていた。
そうやって道を二人で歩く。
『さっきのケンカとかさ』
前を見ながらウィオラは言った。
話題を切り出すような、何気ない話し方だった。
右手から伝わる柔らかい感触が記憶に残っていた。
『ダメだよ、ウル。堪えなくちゃ』
『……向こうが先にケンカふっかけて来たんだよ』
お説教か、とウルペスは耳と心を締めようとする。
お説教は嫌いだ。いつも“お前が間違い”で“こちらが正しい”と意見を押し付けられているような気になるから。こっちの言い分なんか聞いてくれやしないのだ。
だからつっけんどんにウルペスが押し黙ると、手を繋いだウィオラはくすくすと笑った。
『嫌なことを言われて、カッとなってるようじゃいつまでも子供』
空はすっかり茜色になって、昼間の暑さが和らいできている。
道端に見える緑は夏に向けて青々と茂り、時々バッタが道を横切っていった。
『あなたは外に飛び出していけるんだから。キチンと成長をして大人にならないとね』
夕焼けの光を受けて、隣を歩くウィオラ。
気づかれないように隣を見ると、その横顔は普段よりなんだか大人びて見えて、ウルペスはすこしだけむかついた。だから口の中で言葉を込めるように言ってやった。
『おとな大人って言うけどよ』
チラリとウィオラがウルペスを見る気配がした。
ウルペスは気にしないフリをする。
『アンタも子供だろ』
少しの間沈黙があって、遠くで子供を呼ぶ母親の声。
空を見ると鳥が巣に帰るために列をなして飛んでいる。風がすこしぬるかった。
『ふふふ、お姉ちゃんは、大人が何か知ってますから。……あ! そんなひどい顔で見る!? そんな、呆れたような、信じてないような! ひどい! ウルちゃんったらひどい!』
ウィオラのリアクションはいつも大げさだった。大袈裟なくらい表情を変えて、動いて、最後にちらりとウルペスを見ているのだ。
ウィオラはショックを受けた舞台女優のように身体を震わせる。その度に繋いでいた手が揺れて、体重のまだ軽かったウルペスは身体が持っていかれそうになった。
『おとなはね、
彼女のリアクションがおさまったころ。
いつもの会話のトーンで彼女は言った。ウルペスは歩幅が自分のものであることにふと気がつく。姉の方が足も体も長くて大きいのに、ウルペスの幅で並んで歩いたのだ。
きっと、もう少しすれば、丘の上にある屋敷が見えてくるはずだ。ウルペスの嫌いな屋敷が。
貴族とは名ばかりで、都会の貴族にコンプレックスを持つやつらの屋敷が。
『どう行動するか、どう喋るか、どう考えるか──そして、どうやって生きるかは自分で選ぶの。大人になるなら、誰にも譲っちゃダメなんだから』
弟に言い聞かせるウィオラの言葉は、自身にも言い聞かせているようだった。彼女は貴族令嬢として完璧だ。マナーも社交も、勉学も。完璧にお淑やかな仮面を被ることができて、両親は満足していた。
きっといい相手が、アルデーンス家にとって利益になるいい相手が見つかるだろう、捕まえられるだろうと笑っていた。
『じぶんの人生は、自分のものだってキチンと責任をもてる人がおとな。そうやって責任をもてるから、自分で選べる』
だが、ウルペスは姉の本当の姿を知っていた。彼女のもともとは、さっき見せたような、貴族令嬢らしからぬお転婆なものだ。お茶会より生き物を捕まえるのが好きだし、本も流行りの恋愛ものより冒険譚が好きだった。図鑑を見ては屋敷の外にいた鳥を捕まえようとして走り出すような子だった。
『ウルはまだまだ感情に振り回されてるだけだねー』
ぶん、と腕が上に振られる。
ウルペスは引っ張られるようにたたらを踏んで、姉を睨んだ。彼女はくすくすと笑っていた。
『いつか、それこそウルが制服を着れるくらいになったらさ』
歩く。
決して力は強くはないけれど、振り解けない右手を感じながら歩く。
ウィオラは空を見上げて言った。
『ウルのお話きかせてね。冒険のお話し』
ウルペスは家督を継がないだろう。
妾の子供だから。アルデーンス家はウィオラの婿が継ぐか、もうすぐ出来るというウルペスの弟が継ぐ。
『かえろ かえろ お家が ドアをあけて まっている』
流れるような声で、子供の歌を歌ウィオラ。
そんなウルペスの子供時代の思い出。
そして、もう会えることない姉との思い出でもあった。
『あ! そうだ!』
少し進んだ所で、ウィオラが何か思い出したように止まった。
彼女の行動はいつも唐突だ。だからウルペスも慣れたもので、何が起こるのかと黙って彼女の動きを見ていた。
ウィオラは右手に持っていたバケットを漁ると、中から二つの果物を取り出してみせた。丸々としたアプリコットとスグリだ。
『はい!』
彼女はウルペスの手を離して、道の端に寄ると両手に一つずつ持って、見せた。これは何か、とウルペスが姉の表情を見ると、彼女はイタズラをするように笑った。
『ほら、夜ご飯の前だけどオヤツ! 料理長さんにこっそり貰ったんだー』
どっちがいい? ウル、と。
ウィオラは尋ねる。
ウルペスは立ち止まって、姉の顔から両手に視線を戻した。丸く綺麗な形の果物たち。どちらも美味しく、瑞々しいのだろう。
そして、きっと、彼女はウルペスが選ばなかった方を食べるのだろう。
『どっちにするの? ウル』
『…………』
ウルペスは数秒間、黙りこくって果物を見つめる。
頭の中では色々な考えが巡っていたが、不思議と思い出せない。記憶の中はいつも姉の声がした。
そうして考えていたからか、待ちくたびれたのか上からくすくすと笑い声が聞こえてきた。ウルペスが顔を上げると、姉はなんだかとてもおかしそうに眉を下げて笑っていた。
『なあに、ふふ。ウル、悩んでるの?』
そんなんじゃない。
そんなんじゃなかったはずだ。
だけど、記憶の中のウィオラは困ったような、それでも嬉しそうな表情をして。
『あなたがどちらを選んだとしても、お姉ちゃんがウルのこと嫌いになる訳ないじゃない』
おかしそうに。
ちいさな弟の悩みが、大切なものが、そこにあるように。
『選んで、ウル。どっちを選んでも私はあなたの──』
夕焼け。
鳥の声。
帰り道。
懐かしい姉の声。
それらが一気に記憶にやって来て。
『──あなたの、お姉ちゃんなんだから』
ウルペスは目を開けた。
◆
「覚悟を決めた。──姉さんを、斃そう」
外では轟音が響いていた。現在は魔王戦の最中。ウルペスたちがいる場所は、魔女カランコエが作った大剣の柵とレルの魔術で隠蔽を施した簡易的な安全地帯であった。
『ほら、ほらほらほらぁ! 近づけますかぁ!?』
『う、ぉらぁぉッ!』
魔王が銃撃をして、勇者が抵抗している。ウルペスの言葉を聞いたレルが驚いたように目をまんまるにした。
「えっ、だ、だって、あの魔王ってウルペスの……」
「姉さんは死んだ。生き返るなんて、摂理を捻じ曲げた行いだ」
レルの言葉を遮るように。最後まで言わせなかった。生徒会長のセヴェリンやウルペスと同じクラスのマリティーは聞き耳を立てているのか、少しキャロルに対処する動きが遅かった。
「死者は、眠らせねぇと」
誰かが言わなければならない。
死んだものは、死んだのだ。
誰かが冷たい事実を口にしなければならないのなら。
呼吸が浅くなる。
鼻の奥が痛い。でも、堪えろ、とウルペスは自分に言い聞かせて口を開いた。
「過去の
言い切った。
言い切ったとき。
なにか、決定的な何か道を決めたような感覚があった。後戻りは出来ない、喚いてもどうにもならない道に入った気がした。
「ウルペス!」
外では銃撃が続いている。
レルが悲痛な顔で叫んだ。魔術の杖が揺れて、彼女は慌てて術を維持させた。
「オレだってッ」
ダメだ、堪えろ。
まだ、ダメだ。ウルペスは歯を食いしばる。喉の下が細かく痙攣して、胃の奥が熱かった。
「オレだって、希望に縋りてぇよ……何かの手違いで、また会えたんじゃねぇかと思いてぇ」
爆発音。マリティーが悲鳴をあげて、地面が揺れた。
勇者は戦っているが状況は悪い。枷があるから。ウルペスの姉という枷が。だけど、それは違うのだ。
彼女はもう、死んでいるのだ。
「姉さんは、死んだ。命は元には戻らない」
魔王の嘲笑が響き渡る。
アハハはハ! と勇者を穴だらけにしながら笑い続ける。
「悲しくても、嫌でも、甘えたくても、もう道は決めた」
あの、夕焼け空が瞼の裏に一瞬広がって。
「姉さんを、また眠らせてやらねぇと」
可哀想だろ、とウルペスは振り切るように目を見開いた。
そこにはもう、先ほどまでの弱気も、子供のような甘えもない。
あるのは、決意の輝きだけだった。
【存在の期待値が一定数を超過しました】
【Anker追加。対象→ウルペス・アルデーンス】
カチ、と何か音がして。
ウルペスは上を見た。ねじくれた枝が伸びている、紫色の空。
『──きぼうはあると、あなたは信じる?』
そこから誰かの声が
ウルペスは驚き息を呑んだ。汗が吹き出てくる。
「アンタは……?」
震える声で尋ねると、先ほどよりも近い距離で答えは返ってきた。
ウルペスのすぐそばで。
『どんな暗闇にも、道はあると、しんじられる?』
どんな暗闇にも、だと?
ウルペスは唸った。外では爆音が響いている。姉の声で狂ったような嘲笑が聞こえてくる。こんな暗闇の最中に道はあるか、だと?
そんなもの──
「
もう貰えるものは貰っていた。
いま自分が歩いている道は、きっと過去のどこかと続いている。
だから選ぶ。進むべき方向を。自分が信じる選択肢を。
「姉さんをもう一度眠らせる。それがきっと正しくて、いちばん良い選択肢だ」
辱められた尊厳を。
弄られた姉を。誰一人殺させない状態で、もう一度お別れを言う。
苦しくても、嫌でも、それがウルペスの決めたことだった。
『──そっかぁ』
声がくすりと笑った気がした。
『わたしは、あなたを押し上げるもの、ウルペス・アルデーンス』
此処は魔王の領域。
別の次元の物語が降ろされている特異点。
だからこそ、“それ”は偶然その場に居合わせた。
大きな明かりに惹かれる動物のように。
ウルペスのもとへ、偶然と必然が重なって。
声は言った。ウルペスへ。
魔王に挑む無謀で愚かな男へ。
『だったのなら。──いちどだけ、ちからをかしてあげる
ファヴニールを倒したあの、英雄のように!』
こうして。
勇者と魔王の戦いは、佳境を迎えつつあった。
「カランコエッ! 回復抑えて、剣!」
『あはぁ、前に進むのをそんなに急いだら、死んじゃいますよ?』
「ぬ、あぁぁぁッ!」
結末は、たったひとりが、思い描いていたとおりに。
──の、しあわせな結末のために。
「アハはハハ!」