なつかしい夕暮れ。
嗅いだことのあるにおい。
隣を歩く、姉の横顔。
ウルペスが好きだった景色たち。
もう見ることのない景色たち。
会えることのない、思い出が脳裏に瞬いていた。
『ぅ、ぁぁ……』
この惨状を端的に説明するならば。
上半身だけになって、追い詰められた魔王は、自身の魔力を大いに消費しながら切り札である衛星軌道から指向性プラズマ砲を勇者めがけて放った。
勇者も勇者で魔王の不死性を“鍛造”し、倒そうと画策。
結果、プラズマ砲により溶けた大地に残ったのは、魔力が殆ど残っていない満身創痍の魔王と死にかけの勇者に存在が希薄になりかけている魔女となった。
じゅう、と周囲の大地が熱により硝子に変質して大気が歪んでいる。
そんな戦場に三者三様に力を使い果たし、決着の行方が見えなくなった頃。上半身だけで逃げようとする魔王に対し、引き止める勇者に魔王が最後に残った力で小型のピストルを作り出し、眉間を撃ち抜く寸前。
「アンタにゃ誰も殺させねぇよ。姉さん」
乱入してきたのは、赤茶色の、ただの青年だった。
ただの、どこにでもいるような貴族の子息だった。
「眠れ! もう起きないように!」
ピストルを弾いたウルペスの剣が、返す刀で鈍く蒼い光を纏って魔王の首に迫る。
彼はまるで透明なヴェールを脱ぐように唐突に現れた。
『な、に』
ウィオラは驚愕する。赤茶色の青年が、至近距離に接近するまで探知すらできなかったから。魔王すら欺く隠蔽魔術だ。
使えたのは、レルであった。だが彼女の姿はここにはない。ウルペスだけが、新たな力を経て参戦してきたのだ。
『“Tarnkappe”──これを着ているあなたは、誰からも見えず、力は増える。貸してあげる、ふふ』
ルークは魔王のプラズマ砲の余波で遠くなった耳に、小さくかわいらしい声を聞いた。それはウルペスのすぐそばにある存在が発している声だった。姿なき、別次元からの来訪者。
それが、ウルペスに力を貸している。
『おお、かみぃッ!』
魔王の足元の影から、骨と皮だけの狼が飛び出してくる。剣を振るウルペスの腹を食い破る位置に飛び出た不意打ちの一撃は、確実に彼では対応が間に合わない場所とタイミングに展開されてしまう。
ダメだ。
ウルペスが死んでしまう。ルークは彼の背中を見ながら心で叫んだ。彼は戦うことは出来ても、ただの学生なのだ。こんな魔王戦にやってこれるほどの力はない。
彼が死ぬ。
だが。
『概念付与──“Balmung”』
「オゥラァッ!」
ウルペスの剣が蒼く輝き、攻撃の軌道がねじ曲がる。
剣の残像が見えるほどに高速に加速して振るわれた刃は、魔王の影から出てきた狼を消し飛ばし、そのまま跳ね上げるように腹に向かった。
明らかに今までのウルペスでは出来ない挙動。
一瞬の攻防。
魔王は迫ってくる剣を見つめ、
パン、と響き渡る乾いた音。
立ち昇る煙は、魔王の腹の奥から。最後に隠し持っていた、腹の奥の
『く、ハッ』
魔王が嗤う。
口の端から赤黒い血を流しながら。
『これ、は、想像してなかった、でしょ……アはハッ』
魔王の一撃が腹に直撃したウルペスは時間が止まったように固まっていた。
──勝負事の世界は、特に戦闘では。一つの判断ミスがいとも容易く勝敗へと直結してしまう。
腹を破られれば、場所次第では人は簡単に死ぬ。
『アはハッ、アハハハハ!』
俯いたまま固まったウルペスを見て、魔王は笑い出した。
上半身だけで地面に落ちたまま笑って、笑って、涙を流した。
ウィオラ・アルデーンスの身体は動き出す。この場から逃げるために。仰向けの上半身のまま、手だけをつっかえにして後ろに下がり始める。
逃げて態勢を立て直して、もう一度この学院に虐殺をもたらすために。
「おい」
そんな魔王の片手を、がしりと掴む者がいた。
「逃げンな。傷なんか、ねぇよ」
ウルペス。
赤茶色の髪と、蒼白く輝く瞳を持って、彼は腹から僅かに流れる血を片手で払った。
『ハ? なぜ……』
なぜ、死んでいない。
なぜ、致命傷を負っていない。
そんな疑問から魔王の口がポカンと開かれた。
答えはウルペスの側できゃっきゃっと笑う声から齎された。
『“
別次元からの来訪者による強化。
今のウルペスの肉体は、岩よりも硬く、擬似的な不死のようにも見える状態を獲得していた。
「そういうこった」
ウルペスが蒼いオーラを纏いながら剣をゆっくりと構えて近づく。
ゆっくり、距離が開いた魔王のもとへ。這いずり逃げた魔王を眠らせるために。
僅か5歩程度で埋まる二人の距離は、じわりじわりと近づいていく。ウルペスの剣が揺らめくように蒼くなって、青年は一歩素早く踏み込んだ。剣を振り下ろす。そのわずかな瞬間。ウルペスは1秒にも満たない時間固まって、目を閉じた。
「終わらせてやる」
次の瞬間にはもう、覚悟を決めた顔しかない。
ここで姉を殺す。
もう二度と、こんな事をしなくていいように。
一歩、踏み出す。
彼と姉の物語を終わらせるために。
一歩踏み出す。
ピンと何かに引っ掛かった。
地面が爆ぜた。
「トリップマインッ……!」
魔王が黒い泥のような液体を吐きながら憎々しげに吐き捨てた。
設置型の爆弾。ワイヤーに引っ掛かった相手を爆破する兵器。それにウルペスが引っ掛かったのだ。
捲れ上がった地面は上としたが逆になるまでめちゃくちゃにかき混ぜられて、土埃が立ち込める。
魔王は、これであの追跡者から逃れられたかと淡い希望を抱き──
「……そうかよ」
煙の中から、無傷のウルペスか歩いてくる。
『なっ……んで!』
爆発は、短剣が防いでいた。
動けないルークが指先だけで投げた剣が爆風と破片からウルペスを守ったのだ。
魔王が気がついた時には、精悍な顔つきの青年はすぐ目の前にいた。
見上げるほど高い身長の彼が、蒼い剣を構えていた。
「さよなら、姉さん」
自然な動作で。
家のドアを開けるように。
ウルペスは大剣を、自分の姉の腹にスッと差し込んだ。
鳥も風も、吹いていなかった。
静かで、穏やかで、力んでいたものが切れたような幕引きだ。
脱力した魔王がピンと引き抜いたのは、何かのリング。
はだけたローブの中、魔王の胴体には無数の、弾丸と同じ匂いのする爆発物がぐるりと括り付けられていた。
自分の身体を餌にして、最後のトドメを刺した人物を道連れにする攻撃。
しかし爆発は無かった。
不発だった。
『アは……』
もう何も遮るものがないウルペスの剣は、魔王の腹をまっすぐに貫いている。抵抗はなかった。スッと刃はローブの中に埋まっていき、反対側に抜けたのだ。
魔王は一瞬おおきく目を見開いて、両手をこわばらせ、脱力した。
再生は始まらない。もう限界を迎えていた。
「なンで爆破しなかった」
ぼろぼろと崩れていく魔王の身体。
先ほどまでの戦場からは考えられないほど呆気ない幕引き。
口を硬く引き結んだ彼が、剣の柄を握りながら尋ねた。鋒はまだ、姉の腹に埋まっている。
『存在値の、ほせいかな……』
こふ、と口から空気を吐きながら魔王は空を見た。
ウルペスは見慣れた彼女の口が血に染まっているのを見ながら思った。
いま吐き出した空気は、もう二度と戻らない。息を吐いて、吸うことはないのだ。いまから彼女は再び死にゆくのだから。
死が確定したからか、ウィオラの声帯は課せられた縛りから抜け出し、自由に言葉を紡げるようになっていた。
ふ、と息が漏れる。気を抜くと全て抜け切ってしまう風船のようだった。
『そこの、勇者さん……? 気づいてますか? この、せかいの……。人に知られれば知られるほど、その存在のあたいは……つよく、きょうこになっていく……』
所々から煙を上げて、地面に倒れ伏すルークに魔王は目を向けた。
『信仰のあり方によって……信仰対象の姿が変わるように……信じるひとの願いによって……ひとはかわる……勇者の、あなたは……少しズレていて、……ぐりっち? だから、その恩恵には、あずかれないのだけど』
普段であれば、狂人の戯言と切って捨てるような難解な発言。理解し難い考え方。
だが、別の次元を覗いた魔王の口から語られるという事実が言葉を無視できないものとする。
誰かに観測されるほど、その存在は強固になっていくという事実を。
ルークはその恩恵には与れないことを。
『だから……さっき
魔王は少しだけ首を動かして、自分の腹を見た。
そこには何重にも巻きつけられた、不発に終わった爆発物があった。最後の悪意の罠が目覚めることなく役目を終えていた。
結界がパリンと割れる。
閉じた空間が壊れて、風が入ってきた。土の匂いが戻ってきた。
森の奥の、静謐な空気が。
『だから、ね。だれかが……
姉が何を言っているのかウルペスには完全に理解することは出来ない。
胸の内側が細かく震えて、吐き出す言葉すら揺らいでしまいそうになる。
「誰かって……だれだよ」
『さぁ? でも、きっと……』
魔王の目から紅色が薄くなる。
空は正常に戻り始めて、遠くでアスナヴァが駆け寄ってくる。生徒会長のセヴェリン達が怪我人のキャロルを運ぶ姿が見えた。
『助けて、くれたのは……わたしの、ことば、きいて、いのってたのは……』
あぁ。
──なつかしいね、ウル
裏口の木のドア。軋むノブ。
食糧庫にこっそり入った時の、空気の冷たさ。領民のみんなが耕してる畑。緑が濃い作物の青臭いにおい。挨拶してくれる若いお母さんと、鼻垂れの子供。夕方に遠くから聞こえてくる馬車の車輪。
ウィオラの声は、溶け出した魂によって空気に響き渡り、声なき声として響いた。通常では起きない事が、魂を弄るカランコエの手によって引き起こされる環境になっていた。ルークは動かないボロボロの身体で倒れ伏しながら、今この歪んだ空間に結果的に発生した奇跡のような事象を聞いていた。
ウィオラは遠くを見つめて言う。
──なつかしいねぇ、ウル。
ウルペスが堪え切れなくなって、震える手で地面に横たわる姉の上半身を抱きしめた。半分になって血も失った姉の体はひどく軽く、簡単に持ち上げられた。あんなに差があった身長は、いつの間にかウルペスが大きく飛び越していた。
『ふ、ふふ……なきむし』
抱き上げられたウィオラが力なく笑う。
狂ったような笑いではなく、微笑むように。仕方のない弟を、愛おしむように。
最後の、別れ。
最後の言葉。
その時間を1秒も逃したりしないようにウルペスは深く息を吸って。
『いいや、まだ終わらないさ』
どん、と吹き飛ばされた。
少し離れて尻餅をつく彼が、“何しやがる”とウィオラに目を向けた時、彼女の腹がもぞりと
『こんな、こんな綺麗な幕引きで、“最悪”? いいや! いいや!』
その瞬間、全員の脳裏に閃く“最悪”の気配。
「な、んだテメェッ!!」
ウィオラの腹が縦に裂ける。
赤黒い液体が滴って、中からモゾモゾと人一人分の大きさのものが這い出てくる。
瞬間、重たくねばつく空気。
強者が現れた時特有の重圧が一気に加重されて、ウルペスは心臓が止まったかと錯覚した。
『はははくくく!』
蒼燕帝国でルーク達が味わった、あの感覚と同じ白黒の髪の存在。そんな世界の敵が、ウィオラの腹からタチの悪い手品のように出てきた。
『終わらないさ! こんなんじゃ、まだ、まだ、“最悪”じゃ──』
相手の存在を知らないウルペスは反応が遅れる。
ルークは目が霞んで見えていないが、
やばい、やばいやばい!!
こんな時に出てくるか!?
──そいつは! あの蒼燕の勇者を討った魔王だ!
「ぁ、ぐ……」
だが動けない。
それを知って、漁夫の利を勝ち取ったと知っていてこの“ザ・ワースト”は出てきたのだから。ここからは蹂躙をばら撒けると知っていて、白黒の魔王は笑って、最悪を振り撒こうと両手を広げ──
カキン、とウルペスとルークと魔女。そして近くまでいたアスナヴァを囲うように薄紫の結界が展開された。
最悪の魔王は目を丸くする。
それと同時に魔王であったウィオラの体のエネルギーは急速に膨れ上がり、一箇所に収束していた。
『はっ? ……なにを……』
──“アンチマター”
『……まさかっ、まさかまさかまさかッ!? お前ェ! 最初からこれを狙って──』
最悪の魔王の分体は、唯一色付いている色違いの両目を大きく見開いて、絶叫し、自分の下半身と未だ繋がっているウィオラに素早く手を翳した。
『存在変革──ッ』
『ねぇ、ウル。ウルペス』
ウィオラはそんな状況を理解していないかのように、穏やかに話し続ける。腹から魔王を生やした冒涜的な光景のまま、空を眺めながら。
自身を囲う紫の檻で外に出られなくなったウルペスは壁を何度もドンドンと叩いた。
「おい! 何を……! 何をしてやがる!」
『──ねえ、ウル』
ウィオラの体に収束していたエネルギーが一点に集まる。
生成されるのは、たった0.000116gの最悪の物質。
別次元から引っ張ってきた設計図で作り上げた、ここまで隠していた最後の最後の切り札。
『お前はっ、今後一切──ッ』
最悪の魔王が絶叫するように指で窓を作り叫ぶ。
そんな声を意に介さないように、彼女の声はただ一人に向かっていた。
紫の結界の中で守られている、彼女の弟に。
ねぇ、ウル。
『ウル。──おっきくなったね』
ウィオラは最後に震える、もう二度と力の入らない手を精いっぱいに伸ばして、赤茶色の髪を撫でるように、隣接するように展開したウルペスが入っている薄紫の壁に触れた。
『ウル、たくさん、好きなことをして』
その言葉の真意は分からない。
だけど、彼女が向ける弟への紛れもない、純粋で、輝いていて、真摯な想いだけは分かった。
姉は笑う。
いつまでも泣き虫坊主だった弟へ。
世界に羽ばたく自分の希望へ。
万感の思いを込めて。
──“いつか、ながい時間が経ったあとに”
その後でいいから。
“あなたの冒険の、お話を聞かせてね”
──反物質爆弾。
起動。
「おい、おい! 返事しやがれ! おいッ!」
立ち昇る真っ白な景色の中。
ウィオラの身体を起点としてTNT火薬5トン分の爆発が起きた。
彼女の周囲30mは何も残らず、200メートル地点まで木々が薙ぎ倒される。結界の外は真っ白に染まって、何もかもが消し飛んだ。
数分ののち、ウィオラの絶命と同時に解除された紫の結界から出てきたウルペスは。
頬に感じる風を受けて、立ち尽くした。
あまりに静かで、呆気なく、現実味がない幕引きで。
なんだか、姉の、どこか大雑把で強引なお話の終わりにぴったりで、妙に理解してしまった。
空が藍色に染まっている。
一番星が瞬き始めている。
戦いは、終わったのだった。
静かに、誰も人間は死ぬことなく。
あぁ。
世界に轟く絶対討伐種も、女神の加護を授かった王国の勇者も、禁忌を犯した魔女も。
世にひしめく強豪の誰も彼もを出し抜いて。
最後に本懐を遂げたのは、ただの普通の、弟がいる貴族の少女だった。
これはそんな結末。
ただの女の子が、ひとつの気持ちだけで、英雄豪傑、悪鬼羅刹を出し抜いて最後に笑っただけのお話。
弟に贈る言葉をずっと待っていただけのお話だった。
ねぇ、ウル。
大好きだよ。
紅瞼の魔王討伐戦
──これにて幕引き。
次元に覗く瞳『
ランク【B+】→【S -】
討伐完了▶︎『勇者ルーク』『魔女カランコエ』『ウルペス・アルデーンス』
次回、第五章エピローグです。