『アスナヴァ隊長!』
『小隊長、次の場所どこすか? ……え? まじすか』
『ニイの嬢ちゃん』
懐かしい記憶は。
泣きたくなるほど、輝いていて。
『何してるんすか? あ、包帯なら手伝いますって』
『この前、キンジャールがほら、あそこの飯屋あるじゃないですか、あそこで辛い奴を調子乗って頼んで……』
『今度の訓練は遠いっすねー』
思い出すのは。
いつも何気ない一コマで。
仲間達の横顔で。
『何見てるんすか? 小隊長』
──いや、なに。お前の顔が面白くてな。
『えぇっ!? よりにもよってそんなひどいこと言います!?』
──ふふ
記憶の中の彼らに会えるのは、もう、自分しかいないのだ。
彼らは映像でしかなく、新しい話を紡ぐことはできないのだ。
分かっている。
◆
『しまったな』
ある過去の夏の日。
まだ小隊長に就てからまだ日が浅いころ。
アスナヴァはいちど猪の肉を腐らせた。
保管庫の管理が悪くて、汁が湧いてしまったのだ。
鼻腔の奥に届く、思考を強制的に埋め尽くす強烈な匂い。細菌や蛆に注意を払いながら鼻を覆って処理をした。
カフチェク共和国にしては暑い夏の日だった。
それとおんなじ匂いを
仲間の身体から嗅いだ。
『……キンジャール、フルークト、ウカーザチェリ、スメリスチ……』
笑い顔が思い出せる仲間たちは、部下たちは、
あの日の肉と同じく、腐臭がする蛆の湧いた眼窩でこちらを見て、
『恨んだ目でもいいから、もう一度、目を合わせたかった』
意思のない身体はもう、何も応えてはくれないのだ。
◆
「……む」
かくん、と頭が落ちる感覚でアスナヴァは目を覚ました。
どうやらベッドのふちに座った状態でうたた寝をしていたようだ。手には背嚢から取り出した剣の手入れ道具が握られている。
『森狼の牙から作られた魔除けの首飾り、今ならたった3500アウル!』
がやがやと人の声が聞こえる。
流れの商人が商品を広げて、冒険者や町の住民に対して商売をしているらしい。
現在アスナヴァ達がいるのは、モレンディという名前の人口500人程度の小さな宿場町だ。
位置がちょうど大陸随一のアダマンスヌス帝国と、勇者ルークの故郷である農業が主要産業の小さなソラナム王国の中間にあるので、行商人や冒険者が旅の途中でよく利用される。それもあってか宿と、商人、あと綺麗な井戸水で賑わう小さな町だ。
「よっ──と」
アスナヴァは手にある手入れ道具を、ベッドの近くにある背の高い、少し角が欠けた木のテーブルに置いて立ち上がった。
彼女は部屋の真ん中を横切って、窓の木の板を上に押し上げ、風を取り入れるように調整をする。昼下がりの、少しぬるい風が癖のある銀髪を揺らす。初夏の気温は少しずつ上がってきていて、日向を出歩くと服の下で汗ばむ程度になってきていた。
「ふふ」
彼女は誰もいない室内で、気温のことで思い出して小さく笑う。
最近分かったことだが、勇者ルークは暑がりで、移動の際は彼女の何倍も汗をかいていたのだ。代謝がいいのか、それでも悪い香りはしないと彼女は思う。だが、すかさず揶揄えば、まだ経験の浅い勇者は顔を真っ赤にして照れながら怒っていた。
その様子を思い出すとどうにも、頬が緩んで口角が上がってしまうのだ。あの恥ずかしさやら、何やらが混ざった顔でこちらを見る表情が。いつもの戦いの時にする、真剣な表情からは考えられないほど豊かな彼の顔色が見られるのが楽しくて。
逆に魔女のカランコエは汗をかかない。
というか暑かったり、足が疲れたりするとすぐに剣に変身して勇者の懐に収まるからだ。なんとも彼女らしい。
だから剣の重さの分、勇者ルークが汗をかく羽目になるのだが。
ぎし、ぎし、と。
廊下で歩く音がする。
木の軋む音の大きさからして、あまり体重は重くない。きっと宿の従業員の娘だろうとあたりをつけた。アスナヴァは無意識に警戒していた筋肉を解く。
彼女がいるのは、モレンディの町にあるいくつかの宿のうち、『カンテラと鈴』という宿の二階で、窓がしっかりある点をシュンカが気に入り、ここを宿としようと決めたのだ。
昼前に着いた一行は近くの定食屋で食事を済ませ、早々に荷物を置いて買い出しに出掛けていた。アスナヴァは道具の手入れがあるので留守番をしている。
だから今日は、旅の途中の。
何もない一日の話だ。
◆
アダマンスヌス帝国にあるダイアー魔術学院での任務が終わり一週間。後任の治癒術師への引き継ぎがあったアスナヴァはルーク達より遅れて学院を出発した。
が、なぜか早々に合流が出来たのだ。
理由は明快。
勇者は帝国から1日の距離にある村にいて、なにやら依頼を解決していたから。なんともまぁ、彼らしいといえば彼らしいが、とアスナヴァは思ったものだ。
思いがけず村で再会したアスナヴァは嬉しいやら呆れやらで絶妙な表情をしていたはずだ。
モレンディの町はそんな村から更に4日の距離にある。
帝国からそれなりに離れていて、ソラナム王国まではあと一週間ほど掛かる距離。だからこそ、ルーク達には一度補給が必要だった。
今ごろ勇者は魔女と共に携帯食料、主に硬いパンや干し肉の調達に加えて、折れてしまった針と頑丈な糸を購入している筈だ。
アスナヴァは宿に残って自身の薬草や包帯の点検、補充、そして腰に下げている細剣の手入れを行おうとしていた。
「よし」
壁に立て掛けてあった愛剣の革帯を解く。
ベルトを外して脇に置いておけば、あっという間に剣だけの状態になった。ベルトが解かれたことで、木の床に敷いておいた使わない薄い布の上に、ベルトと剣本体の間に挟まっていた細かな土や草のかけらがパラパラと落ちた。
アスナヴァは布の上に剣を置き、鞘から引き出す。
そして刀身を光に翳して目の高さまで持ってきて刃こぼれがないかどうかを確認した。
「無い、な」
集中していた息を吐き出す。
外からは子供のはしゃぐ声がする。
旅人相手に呼び込みをする商人の威勢のいい声が重なった。
窓の外からはところどころに植えられている木々と、木材で出来た家が見えた。町の周囲をぐるりと守っている石壁も年季が入っていて、安心感がある。きっと夜間でも魔物を寄せ付けないのだろう。
大きな街ほどでは無いが、長閑でいい町だった。
アスナヴァは机の上に一旦置いてあった手入れ道具に手を伸ばし、袋の中から取り出した綿で刃についた血や油、前の手入れに使った古い油を丁寧に拭き取っていく。
「…………」
丁寧に、確実に。
ふわ、と外から風が吹いてきて、パタパタと羽ばたきの音が聞こえてきた。アスナヴァは顔を上げる。
「シュンカか」
声をかけながら窓の方を見てみれば、ぴ! と元気の良い返事が返ってきた。窓の外は逆光ですこし眩しい。
『はい、アスナヴァさま。シュンカ、ただいま戻りました!』
霞色をした子龍は部屋のベッドの枠組みに器用に止まると、アスナヴァの手元を見ながら首を傾げた。
『お手入れですか?』
「ああ」
銀の麗人は頷く。
剣は鈍ってはいけない。
地味で面倒で、何に繋がるかすぐには分からない作業も、いざという時に後悔しないためにやり続ける。
“手入れを怠ったから何かを守れなかった”、と言わないためにアスナヴァは細かな点検や作業を怠らない。
常に繊細で、透明で、鋭く尖っている彼女の雰囲気は、アスナヴァの心持ちからきていた。
『綺麗でございますねぇ』
「そうだな」
シュンカは彼女のそういう細かな所を旅の途中、何度も見て知っていて、そういう部分が好きだった。だってその几帳面さは、彼女が誰かを思う気持ちそのものだから。
イェン・シュンカは人の、無意識に漏れ出る細かな所作にある、誰かを思いやる気持ちが好きだった。
それはあの地味な麦色の青年もそう。彼の行動はいつだって無言の気遣いで溢れていた。
まだ蒼燕帝国で、人間だったころ。
背中を撫でてもらった感触や、誰とも話せないくらい辛いときに間にスッと入ってくれた後ろ姿を覚えている。
「触るなよ、切れてしまう」
『はい、承知しました』
アスナヴァは綿で何度も刃を拭き取っていく。
しばらくそうして無言で作業をして、視線を手元に落としたままシュンカに声をかけた。
「どうだ、この町の鳥たちとも友達にはなれたか」
『はい! モレンディには尾羽が綺麗な美人さんがいるそうで、お会いさせていただきました! とても可愛らしい方でしたよ』
そうか、とアスナヴァは相槌を打ちながら鍔の溝を針で掻き出していく。移動途中に対岸へ渡るために川に入ったからか、川土が少し溜まっていた。水に濡れないように気を付けていたがこればかりは仕方がない。
丁寧に、細かなところまで。
作業をしつつ、アスナヴァは今うしろで、手入れをぼんやりと眺めているシュンカは、どうやって鳥と友達になっているんだろうかなんて考えながら新しい油を取り出した。
『そういえば、聞いたのですけど』
手入れをする麗人は慣れた手つきで金属製の、手のひら位の容器から植物の油を使い古した布に取り、剣に塗っていく。部屋に独特の、詰まるような油の匂いがすこし漂った。
『明日は雨になりそうと鳥さんたちが教えて下さりましたよ』
薄く、丁寧に。
油を塗っていく。
「雨か」
外から鳥の鳴き声がする。
聞こえる方向は、昼食を摂った定食屋の方からだろうか。あそこの昼食の、この地方にいるという牛に似た家畜のステーキは美味しかった。
「なら、雨衣を取り出しやすい位置に入れておくよう、彼に言っておかないとな」
はい! とシュンカが返事をする。
アスナヴァは刃の部分を塗り終えて、次はガードの部分も薄く油を塗っていく。
その時ふと、指に油がついて、人差し指と親指を擦り合わせ、ぬるりとした感触が伝わってきた。
脳裏に、あの時仲間の身体を抱き上げた時に触れた、黒く濁ったぬめりのある体液を思い出す。
「…………」
外からはガラガラと馬車の音がする。
夏の気配を感じさせる元気のいい子供達が旅人に話をせがむ声が聞こえて、若い冒険者が気前よく応じている声がする。
その裏で、瞼の裏で、仲間達の原型をとどめていない骸が写し出される。現実と、記憶。今と過去。それらは切り離せるものではなく、日常のかすかな端に残り続けていた。アスナヴァはまだ、あの場所を覚えていた。
──プーシカ、シチート! ヴィットロカ、どこだ! 返事をしろ! くそ、ぁぁあ!
『シラーチ! シラーチィ!』
『いやだ! 嫌だ! 私を置いていくな! まだ、まだだ! 私は、私はぁ!』
風が吹く。
髪を揺らす。
気持ちよさに目を閉じる。
睫毛が揺れる感覚がする。
昼後の満腹の身体に、ほどよく暖かい気温。外から差してくる暖かな日差し。木の香り。
穏やかだ。
あの時から考えれないほど。
アスナヴァは思った。
いつだって心の一部はあの地獄にいて、ふとした時に足を引いてくる。
ぴ、ぴ、とシュンカが鳴いて鼻を鳴らした。
『なんだか良い香りがしますね』
ああ、とアスナヴァはゆっくりと目を開き、応じた。
「私の香油だな」
香りの元は、枕元に置いてあった、小瓶からのものだ。アスナヴァがカフチェク共和国で救護団にいた時から愛用しているもの。
少し癖のある髪の手入れに使うペルシークの香油。花のような香りがして、匂いも甘すぎずさっぱりとしていて好みだった。
それを、この前の村でたまたま行商人が取り扱っているのを見かけて、少し割高だったが思わず買ってしまったのだ。
過去なんてどうやっても取り戻せないものだと知っていても、
懐かしくて、手に取ってしまったのだ。
「使ってみるか?」
『! 良いのですか!』
アスナヴァはなんとなくそう提案をした。
シュンカはぴん、と尻尾を立てて、目を大きく見開いた。
銀の麗人は立ち上がりながら手を布で拭い、小瓶を取ってシュンカに手招きをする。
彼女が改めてベッドのふちに座り直すと、シュンカはパタパタと翼を動かしてアスナヴァの両脚の間に着地した。風圧でふわ、とシーツの端が捲れ上がった。
『よ、よろしくお願いします』
「ずいぶん姿勢がいいな」
『こういう時、どうしたらいいのか分からなくて……』
シュンカの身体は、朝方の空のような鱗に覆われているが、尻尾の先端や翼の付け根は羽毛が生えている。いま彼女はちょうどアスナヴァに背中を向けている形だ。ぴんと伸びた背中が愛らしい。
アスナヴァは香油の瓶を開けて、少しだけ手に取り、一声かけてからシュンカの鱗の一部に塗ってやった。
「変な感覚はないか?」
『……はい……とても、よい香りです……』
アスナヴァはしばらく香油を付けていない手でシュンカの身体をマッサージし、反応を見る。シュンカの身体はツルツルとしていて、それでいて柔らかさを感じる。不思議な感触だ。アスナヴァの細い指が触れるたび、彼女はくすぐったいのか鳴き声を漏らしていた。
「よし、もう少し塗ろうか」
『はいぃ……』
アスナヴァの手つきですっかり脱力したシュンカに、香油を少し薄めて塗っていく。あまり香りが強すぎてはいけないだろうとほんのお遊び程度に。
翼の先から、尻尾まで。
揉んでやるたびに、気持ちよさそうな声を出す龍にアスナヴァは、ふふ、と少し笑った。
「イェン・シュンカの手入れだ」
『あら……ぁ……ぁぁー……』
剣を丁寧に手入れするように。
小さな仲間に丁寧に。
「シュンカ。ルークが好きか?」
『はぃ……ぅ、…………ぅえっ!?』
満腹の腹に、眠気が一筋さしてくる。
慌てた龍の翼がパタパタと動いて、香油の香りが広がった。
アスナヴァは少しのイタズラで、揉み込む手にすこしだけ、痛くないように細心の注意を払って力を込め、シュンカが振り返らないようにすると、彼女は素っ頓狂な声を出しながら体を捩った。
『えっ、えっ、え、あ、アスナヴァさま! いまのは! いまのは、よくないと思います! わたし、いまのは! よくないと!』
「暴れない、あばれない」
なんだか繰り返しの作業に瞼が重たくなってきて、涼しい風が眠気を誘う。
目を閉じれば。
──死んだんだ、死んだんだぞ。みんな、みんな、死んだ。手も足も出ないで……! あんな、どうでもいい存在みたいに……っ
あの地獄が蘇ってくる。
『アスナヴァさま! ぴ、ぴぃ!』
「ふふ」
だが、この景色は。
あの終わりの島で蹲って、立ち止まって、全てをやめにしようとした時から歩いてきた先の景色だ。
つらくて目を閉じて何も考えたくない時から、あの優しい勇者に手を引かれて辿り着いた景色だ。
『もう、噛みますから、噛んでしまいますよ!』
「ふふ、すまない、揶揄いが過ぎた」
どんな景色もいずれは、移り変わる。
歩けば、見えるものは変化していく。季節が変わるように。
アスナヴァは微笑んだ。
「私も、彼が幸せになって欲しいと願っているよ」
『……!』
頑張る人は報われるべきで。
この、どうしようもなく非情にも思える世界で、どうしようもなく非情になりきれずに、もがいているひとが眩しくて。そんな人には笑っていて欲しくて。
──そして、出来ることなら。その時に横に立っているのは自分がよくて。
我が儘だな、とアスナヴァは苦笑しながら、優しくシュンカの頭を撫でた。
向き直っていた子龍は金の瞳をぱちくりさせて、自身を撫でる麗人を見つめていた。
と、その時。
『ku kuku』
尾羽が鮮やかな翠色の鳥が一羽、窓に止まった。
シュンカがパッと顔を上げて、ふむふむと頷くと、慌ててバサリと翼を広げた。
『た、たいへんです! 市場の方で茶髪の、おそらく、いじ……ルークさんがトラブルに巻き込まれているようでございます!』
そのままシュンカはパタパタと羽ばたき、外に出て行こうとする。
アスナヴァはやれやれと言いながら剣のベルトを素早く調整し、腰に吊るした。
「あの子は本当に、──忙しないな」
薬品が入ったポーチを付けながら、ドアを開ける。
シュンカの先導に従い、部屋を出ていった彼女の口許には微かな笑みが浮かんでいた。
パタン、と。
ドアが閉まる。
部屋に静寂が戻ってくる。
誰もいない宿の一室には、香油の香りだけが残っていた。
そんな、何もない、旅の一日。
あの日々と地続きの、アスナヴァ=ニイの一日。