ぎらぎらと照りつける太陽の下。
砂漠でルークは自分の手の中にある短剣を見つめ、かたかたと震えていた。
肌を刺すような熱気の中。
加護を喪った。
その事を理解した勇者──ただの青年ルークの動揺は他者には分からないほど深く、重たく、急速だった。
「はっ……はっ……ぅ」
砂漠で気温も40℃を優に超えるというのに、彼は真っ青になり、冷や汗を吹き出し震え出す。そして膝をついて、口を押さえ。
「お、ぇ」
吐いた。
びちゃびちゃと手の隙間から溢れた体液は、砂地の、乾いた粒子に落ちて、水を吸って黒ずむ。
先導していた神官服のスゥは慌てたようにぱたぱたと駆け戻って来る。
ルークの肩に手を置いていたアスナヴァはしゃがみ込んだ勇者に合わせて膝をついて目線を合わせた。
「おい、深呼吸しろ、大丈夫だ。私がいる。深呼吸だ」
アスナヴァは周囲を警戒したのち、麦色の青年の背中をさする。
ルークの呼吸音には水音が混じっていて、ひゅ、ひゅ、と不規則だった。
シュンカは空中に飛び上がって旋回を始めた。この場で一番索敵能力が高いのは彼女だったから。
「う、ぁ、は……はッ」
アスナヴァがルークの額に触れる。
彼の肌は、この炎天下だというのに氷のように冷たかった。
嘔吐の反射で涙に濡れる瞳が、一瞬あがる。アスナヴァの水晶のような瞳とかち合う。
「……っ」
その、揺れて揺れて、不安でたまらない目を見たアスナヴァは、吐瀉物で口許が汚れているのも気にせず、勇者をぎゅっと抱きしめた。彼の身体はどこにも力が入っておらず、抵抗なくアスナヴァの身体と隣り合った。
「聞け、心臓の音を。私はここにいるぞ。さぁ、深呼吸だ」
アスナヴァの胸に勇者の引き攣るような呼吸の乱れが伝わる。鍛え上げられた腹筋と胸筋が情けなく、収縮を繰り返していた。
強大な魔物にも一歩も引かず。絶望的な魔王との戦いでも先陣を切るような勇者だが。彼は、どうしようもなく救えなかった人を悼み、生き物を殺す自分を許せない、傷だらけで生きている男なのだ。
「あ、アスナ、ヴァ……さんっ」
ぎゅっ、と掴む力が強くなる。
青年ルークが、溺れる人がもがくように喉をの奥を震わせながら、アスナヴァの薬品の匂いがする服にしがみついた。
「あぁ、そうだ。私だ」
締め付けられているにも関わらず、アスナヴァは目を閉じて穏やかに笑う。そして青年の頭を撫でた。
ふー、ふーっ、と強制的に呼吸を整える声がする。
ルークは始めて戦場に出た時のように、体に染み込ませたやり方で息をした。精神ではなく身体的な機能から平静を取り戻すように、酸素を回していく。
やがてルークはゆっくりとアスナヴァから離れ、最後に一度目を閉じて肺の中の空気を入れ替えると、立ち上がった。
「もう平気か?」
「……はい、お見苦しいところを」
「そうか」
ルークは少し疲れた顔つきで、また荷物を背負い歩く準備をする。アスナヴァは無表情に頷いた。普段であれば残念そうな素振りのひとつも見せるのだが、こういう時はただただ、心配の色を浮かべていた。
こうしてなんとか落ち着きを取り戻したルーク一行は再びスゥの街を目指して歩き出す。だが、先ほどまでの元気はなく、すこし項垂れながら糸のついた人形のように体を動かしていた。
◆
『Ukankiwa! ¡Jichhax uñjasmawa!』
そして数時間歩いたあと。
近づいてきた街を囲う壁に、スゥが杖を振り上げて叫んだ。
遠くに見えていた街の入り口。そこにあったのは、4メートルほどの、砂漠の砂と同じ色の岩壁だ。
馬車が3台は余裕に通れそうな門には偶数人のペアで門番が立っていて、頭部には布を巻き、上半身には白色のチュニック。革の胸当てをしていた。
下はダボっとした生成り色のズボンで、下で膨らんでそのまま黒い革のブーツに仕舞われている。砂が侵入しないような作りになっているようだ。
『Khitinakasa uka jaqinakaxa?』
門番の男が何か言う。
ジロリと、日に焼けた目元がルーク達を見た。
対してスゥは短く
『Jupanakax saririnakawa』
と言い、それだけで門番の男は興味なさそうに欠伸をひとつして、スゥの方を見もせず、顎で街の入り口を指した。
こうしてルーク達は街に入ることができたのだった。
時刻はすでに夕方の終わり頃になる時の話だ。
◆
『よぉ、使い走り。今日もちょろちょろとやってきたか?』
茜色の西陽に目を細めながら門を潜るとき、髭が生えた門番の1人がニヤニヤと笑いながら声をかけてくる。
内容自体は相手を心配したようなものだが、内実は嘲りだ。だが、スゥは内心を悟られないように、それなりの笑顔を浮かべて答えた。
『来ましたよ』
スゥは今代の大巫覡に仕える神官の一人である。
とは言っても、下級も下級。祭りの際の儀式や、行事に参加できる事などなく、いつも準備や作業に走り回る裏方だ。
儀礼を執り行う大神官や、その付きの従者などのような煌びやかな部分は一切ない。ましてや今代の大巫覡に会う事などもってのほかだった。
『オゥ、そうかよ。ならまた今度な。お前みたいな下級はそうやってペコペコ頭下げんのが好きなんだろ?』
はははと門番の男は笑う。
スゥは曖昧に笑って、波風を立てないように街の中へ、オレンジ色に染まる土地へ、不思議な旅人たちを案内した。
『こちらです、こっちの奥に』
砂漠の街、ミルシットは中央に大神殿を戴く大きな街である。
規模は端から端まで歩くのに一時間はかかるほどだ。
中央にある、恵みの大オアシスのお陰で5万を超える人々が暮らしていた。
『おぉ、神官さま。今日もお勤めありがとうございます』
腰の曲がった老人が、歩いている途中で足を止めて頭を深々と下げる。だが、頭を下げている相手はスゥではない。
『いえ、あなた方の働きあってのものです。また、頑張りましょう』
煌びやかな宝石を首から下げて、手首には装飾や儀礼用のバングル、腕飾り。10歳くらいの従者を2人従えた中級の神官であった。
『な、なんとありがたいお言葉』
老人は感激して、乾いた目元に涙を浮かべる。皺だらけの皮膚に沿って、その水は流れていった。
その、横にいるスゥには見向きもしない。
やがて老人はペコペコと頭を下げて、何度も神官の方を振り向きながら満足げな表情で元々の道を歩き始めた。
その途中、すれ違うスゥの裾の長い神官服を踏んづけて、彼女はツンのめる。だが、老人は気にした風はなかった。老人の目にはあの、キラキラとした神官しか写ってないのだから。
「Esne bene?」
転びかけたスゥを、まだ暗い顔のままの青年が気遣わしげに声をかける。何を言ってるのか分からなかったが、スゥはあえてニッと笑い、手に持った手作りのぼこぼことした粗末な木の杖を振り上げて言った。
『わたしの家はもっと奥なので! もう少し頑張りましょう!』
道中でも、帰り道を前から、大きな荷車をひく“走り駱駝”が無理やり細めの道なのに通ろうとしてきたので、壁に張り付くように避けたり、そのせいで靴に汚れた土が付いたり。
奴隷の狼獣人が歩く鎖が緩んでいて、足を取られそうになったり。
道中の露天で、せっかく客人が来たのだからといつもの固くて大きいだけのパンではなく、少し高めのナッツが練り込まれたパンを買おうとして、お金が足りないと思われて断られたりしたが、なんとか普通のパンは買えた。
スゥにはいつもの事だったが、なんだか後ろに異国の客人がいるとずいぶん恥ずかしく思えた。
柄にもなく、張り切ってしまって、それで案の定失敗してしまって恥ずかしい。彼らはもう、わたしの事を頼りない先導者と見てるんだろうなぁ、と。
『あ、はは、これで買えました! それじゃ、行きましょう! わが家まであと十五分もしませんから!』
人を避けながら進む。
誰も彼もスゥの方を見向きもしない。
人を避けながら。奥へ、奥へ。
少し先の道で、中級の別の神官が露天商から高そうな布を渡されているのを見た。商人の表情はにこやかで、笑っている。
スゥはなるべく音を立てないように一本横の道を進んだ。なんとなくこの光景を見られたくなかったから。
こんな、誰にも顧みられず、尊敬もされない下級の神官。それがスゥだった。どこにでもいる、スラムよりは少し上等程度の身分。それでも、スゥはこの仕事が好きだった。
祈りに貴賎はないと言って、6代前の大巫覡さまが仕事も身寄りもない子供達にも解放してくれたのがこの“下級”の神官なのだから。
街の奥に進む。
段々と道も細くなっていって、家の作りも粗末になっていく。岩壁の家から、土を固めた家に。道端には酔い潰れた人が寝息を立てて、人の格好もボロボロになる。すれ違う人の目つきは剣呑なものになっていた。
『さ、着きました! 上がってくださいな!』
そう言ってスゥは、目の前にある壁が所々剥がれた小さな家を差し示した。
スゥの家は、T字路を奥に進んだ行き止まりのこじんまりとして古い奥まった場所にある。部屋自体は二つしかなく、ドアは最近壊れて閉まりきらないが家だ。
『よいしょっ、と』
スゥが慣れた手つきで閂を外し、中に入ると砂っぽい匂いがした。
締め切っていた窓を開けると、夕陽が筋になって室内を照らす。細かい砂が光の中をふわふわと漂っていた。
数日ぶりの帰宅。
まさか次の“陽光の儀”に使う果物を取りに行った帰りに、大砂蚯蚓の進行ルートを踏んでしまうとは思わなかった。果物を無事に手に入れて、さぁ帰ろうとした時に地面が揺れて、全身の冷や汗と共にその場を飛んだものだ。
このウィラカラ砂漠において、地面が揺れたらそれは砂の化け物の合図だ。すぐさま、手に持っているものを放り投げて逃げなければならない。
なのに、避けようも逃げようもない、真下から感じた感覚に、スゥはたまたま奇跡的な反応速度でやけくその回避行動を取れたのだ。
結果、ダメだったのだが。
「Gratias tibi ago, Su」
少し沈んだ顔の青年が、笑顔を作ろうとして引き攣った顔で知らない言葉を吐いた。意味は分からなかったが、感謝の言葉だとは推察できる。
スゥは頷いた。この青年が、助けてくれたのだ。
もう、死ぬしか無いと思っていたスゥを。
彼女は自分の家に、遠慮しながら入ってくる青年の顔を観察する。
彼は背がびっくりするほど高くて、後ろにさらさらとした、枯れ草のような色の髪を伸ばしている。
顔立ちはすごく穏やかで、なんというか目線が優しいのだ。
すこし遠くから、こちらを見守っているような、そんな言い表しがたい視線。
「<ruby><rb>Num vere hic manere mihi licet?</rb><rp>(</rp><rt>本当にここに泊まっていいの?</rt><rp>)</rp></ruby>」
彼がまた、スゥの目を見つめて尋ねた。
その目元には赤い跡がある。
『はい! 何を言ってるかは、分かりませんが!』
この青年は、どこか不思議だ。
ものすごく身のこなしが軽やかなのに、どこか頼りないような、支えてあげなきゃいけないような危うさがある。
彼は出会って大砂蚯蚓から助けてくれた後。しばらく歩いていると、いきなり剣を振ったと思ったら、震え出して、呼吸が荒くなって、ついには嘔吐したのだ。
その後、彼はえぐえぐ泣いていた。
スゥはこの人、大丈夫なのかな、と気遣った。
なにか大切なものをなくした時に、人はどうしようもなく泣いてしまう。なくなったものを確かめるたびに、寂しくなって。
そう、寂しい。
悲しいは、寂しい。
喪失した穴が胸と繋がって、外の砂にさらされてしまうように。
風が吹けば、削られる。夜の砂漠の寒さと、砂のざらつきで。
スゥは、この人もそうなのだろうと思った。
首の穴にある留め具を外して、肩に留めてある紐を解く。
そして腰にある固定用の紐も緩めると、神官服は前と後ろにスリットが入る形になって簡単に頭から引き抜ける。
生成り色の薄手の長袖姿になる。
借り物である神官服から伸びる紐や、裾を丁寧に畳んで、所々ほつれているラグのそばに置いた。
「|Num sanguinem aut contusionem habes? 《血が出てたり、打ち身のひどいところはない?》」
薄い格好になったスゥに、まだ暗い顔の残る青年が尋ねた。
彼は指をくるくるとして、スゥの体の周りを心配するように言う。
『……? はい! 大丈夫ですよ!』
たぶん、心配をしてくれているのだと思う。
スゥは相手の声のトーンだとかでそれが分かった。
正直、下っ端も下っ端の自分にここまでしてくれる価値はあるのかな? とも疑問に思う。
スゥは上級神官たちのような難しい言葉や魔法を使えるわけでもないし、巫術も少し風や光を起こす程度のものだ。
今代の、歴代で一番だという大巫覡さまのような力も、はっと目が離せなくなるような美貌もない。
スゥはちら、と後ろを見る。
背の高い青年と、異国風の顔立ちをした女性が荷物を隅の方に寄せていた。
「Su?」
『はい、スゥです』
青年が見つめてくるスゥに、不思議そうに尋ねる。彼女は笑顔で答えた。
彼はスゥと呼ぶ。
名前も本当は別に覚えてもらわなくてもよかった。
自分のことなど、きっと覚えていても何にもならないようなものだから。大砂漠の砂粒ひとつ記憶したって、周りには無限に同じようなものがあるし、意味などないのだ。
生まれつき、そうなのだから仕方ない。
世の中には役割というものがある。
明日にはスゥの上司である神官に今回の件を報告しなければならないだろう。
『粗末なもので、すいません』
スゥはそう言って先ほど買ったパンと、フチの欠けたコップ。そこに乳製品を薄めた飲み物を注ぐ。ぬるい液体が揺れた。
そして干したブドウと、親指の爪くらいの大きさがあるワニャの豆。それらをなるべく上等なラグに敷いてスゥは振る舞った。
彼女が手をつけず、地面に腰を下ろした青年たちの口にこんな食事が口に合うかと見守っていると、彼は伺うようにスゥを見た。
『遠慮はなさらず……あ、食べたくなければそれでいいですから』
スゥが手で示せば、あの不思議な青年はすこし考えた後、右手を軽く握って額に当てる。
「
スゥはハッと息を飲む。
なんと言ったのかはわからない。
だが、これは祈りじゃないのか? と。
陽光の教えの他に、祈りがあるなど聞いたこともない。
だったのなら。彼らが当たり前のようにやった
『Dea?』
そして彼が言った言葉のワンフレーズ。
──dea
それこそは、スゥの仕える大巫覡を表す言葉のひとつだったのだから。
目の前の青年は、スゥの知らない文化を持って、当たり前のように祈り? を行った。
どくどくと心臓が妙に脈打つ。息が詰まった。
祈り、というのはこの陽光の教えを実践している砂漠の民しか持たない高等な文化だ。少なくとも、スゥはそう教えられていた。
外の世界、近隣の国にはそんな文化はなく、野蛮で奪うことしかできない恐ろしい国だけが広がっている。
ここだけが。砂漠のミルシットだけが、文化を持ち、祈りを持つ。
選ばれた国だと。
じゃあ、彼らは
「Saporosum est, quamquam aliquantulum difficile」
食事に手をつけて、そう言って笑う青年に。
どこからか、近くの地域から来たとてっきり思っていた青年が。
「
笑う。
疲れたように、泣き腫らした顔のまま、へにゃりと笑う。
そんな、不思議だけど、強いのか泣き虫なのか、ちょっと頼りなさげな彼が。助けてあげないとダメそうだと思った彼が。
全く別の、遥か遠くの、スゥの常識にないところから来た可能性を考えて、じっとりと少女は震えた。
わたしは、彼らを。
彼を──
◆
夜。
端がボロボロのラグを寝具としてスゥの家で寝ていた一行。
雑魚寝のようなスゥの家の一番広い部屋には規則正しく寝息を立てるアスナヴァと、横でシュンカが寝ていた。
だが、一つだけ抜け殻のように人がいない場所がある。そのラグの横には白い剣が置かれていた。
星が瞬く夜。
風が砂を撫でるしゃりしゃりとした音。キー、キーという虫の鳴き声。
そんな中、しゃらんと剣が変身して白髪の魔女になった。
彼女はペタペタと裸足で部屋の中を歩き、迷いなく家のドアを押し開ける。細かな砂の感謝が足裏に伝わるのを感じながら、空を見上げる。
風が吹く。
砂漠の夜は冷え込んで、寒かった。
「……」
そこでは、圧倒されるほどの、矢が降ってくるような勢いの星々が全力で夜の天体ショーを披露していた。
カランコエは歩く。そして家の裏に回り込むと、ふん、と鼻を鳴らした。
「…………」
スゥの家の裏。
大通りと反対にある、人気も物もない隙間の誰にも見られない場所では。
「……、ぅ……」
麦のように、やわらかな色をした青年が、膝を抱えて顔を押し付けて、小さくなっている。
「…………カラン、コエ?」
ふと。
契約のせいか。
ちいさな魔女が近くに来たことに気がついた青年が顔を上げた。
その瞳は、揺れて濡れて、月光を取り込んで淡く光っていた。