──あなたが参戦するかどうかは、また追って連絡します。
大巫覡との謁見の最後、ルーク達はそう言って帰された。
現在は神殿の外、夕闇の迫る街並みに空を見上げている。道ゆく人たちは夜の闇になる前に急ぎ足で家路についていた。汚れた服の大工、籠にいっぱいのパンを詰めた主婦、カバンのようなものを持った青年。がやがやと騒がしい目抜通りの道の風景。
ひゅうと風が吹く。
いつの間にか気温は、ぬるいくらいになっていて、頬をゆっくりと撫でていった。
いつも通りの光景。
だけど、そのいつも通りの中には武装した兵士が追加されていた。
『……マ、帰りますか』
ぼりぼりと顎を掻きながらアルタニャは言った。
神殿の中で見せていたような慇懃な態度は幻だったかのように霧散して、いつもの粗野な彼の仕草になっていた。
「そう、ですね」
香辛料の嗅ぎ慣れない香りが漂ってくる。
気の早い酒場では明かりが灯されて笑い声が聞こえてきた。避難はまだだろうか、とルークは思う。
(いや、流石に混乱を招くか)
まだ、魔王を観測してから数時間しか経っていないのだ。
万単位の住民にパニックを起こさせるのは愚策も愚策とすぐにわかるから。いずれ、戦いの準備が整って、公表してもいい段階になれば避難指示が来るはずだ。ルークは思い直す。
『俺ァ、待機所のとこに戻るがよ、お前らはどうすンだ』
アルタニャはコキコキと首を鳴らしながら言った。
何するんですか、とルークが尋ねれば『酒だ』と端的な返事が返ってくる。
アルタニャは帰る。で、あれば、ルーク達も拠点に帰り、身体を休めるなり準備をするなりしなければならないだろう。
ルークの帰る家とは、すなわちスゥの所だ。
「かえります」
『オウ、そうかよ。気をつけてな、命知らず』
ひらひらと手を振りながら男は大通りの人混みに紛れていった。
青年は、空の端が深い藍色に変わっていくのを背に、スゥの家のある街の外れへと歩き出した。
◆
『え、えぇー!? 戦いに、行くんですか!?』
ルーク達がスゥの家に辿り着いたのは、もう月が昇り始めている頃だった。金色に光る丸が、スゥの家の窓から藍色の夜空に浮かんでいるのが見える。
『ど、どうして』
ルーク達を食事の用意をして待っていたスゥがまん丸に、青い目を見開いて言った。手にある鍋がちゃぷんと音を立てた。
大サソリの討伐に行くというから、心配しながら待っていたら、とんでもない事に巻き込まれて帰ってきたのだ。スゥは“もしかしてこの人、マトモそうに見えてとんでもない人なんじゃないか”と思い始めていた。
『どうして、そんな事態に……』
「ぼくが、そう、したいから」
とルークが答えれば『はぁ』となんとも要領を得ない返事。
クリーム色を肩口に切り揃えている彼女は、ひとまず鍋をラグの上に置き、木のレードルでかき混ぜながら訝しそうな顔をした。
『なんだか、やっぱり、ルークさんはヘンですよ』
レードルで撹拌された具材が鍋の中でゆったりと上下する。
食欲を誘う、ミルクと小麦の混じった暖かな香りが部屋に広がった。
「そうかな」
「そうだな」
と答えたのはアスナヴァ。
ルークはえっ、と声を漏らした。
彼女の家は二部屋しかなく、玄関からすぐの部屋が一番大きな一辺が三メートルくらいの部屋だ。蔓で編んだ籠や、ロープ、寝る時に使うゴザや薄手の毛布が丸めて雑然と置かれていた。
料理も基本的にここでする。一番広いから。彼女はもう一つの、物置のような人一人がやっと入れるくらいの部屋からハーブを持ってきて、パラパラと鍋にふりかけながら言った。
『でも、まだ避難指示は出てないです。兵士の方々は何やら慌ただしいのは見たんですけど』
スゥはそう言いながら立ち上がり、奥の箱から両手で持つくらい大きな、30センチはあるかという平たいパンを取り出しながら何かを思い出すように視線を上にやる。スゥの家の一番広い部屋で、食事の席で座っているルークは立ち上がり、腰からナイフを抜き取りスゥに近づいた。
「これから、いわれるのかも」
そしてスゥがルークを見たのを確認すると、後ろから“切り分けるよ”と手でパンを指差した。亜麻色が揺れて肯定を表すと、ルークは慣れた手つきでパンを五等分にした。
『えっ、誰に聞きました、その話。これから言われるって』
ルークが切り分けたパンを配りながらスゥが言えば、ルークは少し考え込んだように顎に手を当て、天井を見た。天井から吊り下げられている油を燃やすランプの炎がちろちろと揺れていた。
「んー、……あっ」
荷物を戦闘用に整理しなおしているアスナヴァは料理が並び始めたのを見ると、ゴザの上に座り直し、配膳を手伝った。シュンカは家の外を軽く飛んでいる。運動がてら、偵察だ。敵はいないと思うが。食事前には戻ってくるだろう。
『分かりました? 言葉、分からなければ断片でも大丈夫ですから』
最後にコップを用意して、スゥはこてんと頭を傾げる。
この“分かりました?”は、異邦人のルークが、表したい適切な語彙を見つけたか? という意味である。
スゥは想像する。蠍討伐のあと、ルークがアルタニャと共に神殿に行ったという事は。
偉い神官に会ったのかもしれない。それこそ、中級神官の中でも上位の人に。
もしかして上級神官かも、という思いが一瞬頭をよぎったが、上級神官は15人しか居ないのだ。立場的にも物理的にも会えるはずがない、と考えを打ち消した。
「うん、えっと、あれは」
『あれは?』
「あ、そう。だい、──大巫覡さまだ」
大巫覡。
言うに及ばず、陽光教のトップ。特に当代は生ける伝説とも巷で言われるほど、特別な美貌と、知性と、能力を兼ね備えた雲の上の存在である。
この時、スゥは乙女がするにあるまじき、口をあんぐりと開けた顔をしていたことは、当然と言えば当然のことなのであった。
◆
夜。
食事を終えて、就寝の準備も終えて、眠りに落ちるころ。
外はもうすっかり凍える気温になって、人気もなくなる時間帯。
スゥの部屋の隅で、ルークは旅の荷物にある毛布にくるまりながら、うとうとと、天井を見ていた。
火の消えたランプが静かに佇んでいる。
横からはアスナヴァの寝息が聞こえる。スゥの寝言がむにゃむにゃと耳に入る。外では高い声の鳥がホーホーと鳴いていて、ルークは微睡み、意識を夜の闇に溶かしていった。
風が頬を撫でる。
パッと目を覚ますと、
晴れた青空に雲が少し流れている。
外の、青空。
寝転がった状態から、上半身だけを起こせば、あたり一面には実った麦畑。
遠くでは風車がゆっくり回っていた。
人の気配はひとつもなかった。
「ここは……」
ここは、覚えている。
ルークの原風景。ソラナム王国の景色。
さっきまで砂漠の、スゥの部屋で寝ていたはずなのに全く違う景色を前に、ルークは上半身だけを起こした状態で、妙に霞がかった思考で、“夢か”と理解した。
風が吹く。
太陽の陽気に、一斉に穂が揺れて、さわさわさわと水の流れる音の様な、複雑に何十にも重なった音を奏でた。
懐かしい。
そう思ってルークが目を閉じると、ふと左手に少し冷たい、小さな感触があった。
「……なにしてるの? カランコエ」
「あら」
青年が尋ねれば、真っ赤な瞳に、白い髪。今日は特に結んでもおらず、風に遊ばれるままにしている少女は、ルークが後ろでつっかえにしていた左手をさわさわと小さな両手で触りながら、瞬きを繰り返していた。
「ぶようじんな誰かさんのかわりに、しらべてあげてるのよ」
よくよく見ると、彼女の瞳には魔法陣のような紋様が浮かび上がり、ゆっくりと回っていた。
ルークは一瞬何のことか分からず惚けるが、すぐに気がついた。
「女神さま……いまは大巫覡さまのやつか」
「さあ?」
白い魔女はルークと目を合わせる事なく、肩をすくめるばかり。青年は時々触れる、彼女の細くて小さな指の感触を感じながら、確かに不用心だったな、と思った。
一応、あの大巫覡は未来の女神だろうと確信はしていたが、見知らぬ人物ではあるのだ。そんな者から齎された“種”というものが、果たして本当に安全なのか疑うのは至極当然のことだった。
これはルークが悪い。どんな事も絶対はないのだから。油断である。青年は深く反省をした。
「うごかない」
「はい」
腕が痺れて体勢を変えようとした時に、少し怒ったような声がする。解析をやってもらっている手前、ルークは素直に頷き、腕の痺れに耐える決意をした。
「ふぅん」
「何か分かった?」
「うるさい」
「ひどいなぁ」
カランコエが何か思わしげに声を上げるので、ルークが聞いてみれば返ってきたのはぴしゃりとした返答。
青年は困ったように眉を下げて笑って、邪魔はしないようにしようと空を見上げた。
秋の、高い空だ。
どこまでも続きそうな、どこまでも落ちていきそうな蒼穹。
雲がゆっくり流れている。
時間がはちみつのように、ゆるやかに流れて、呼吸も必然と静かになっていった。
土の匂いと、麦の微かな匂い。
ソラナム王国の勇者であるルークの原風景。もう、久しく見ていない景色。
確か、前に見た時は、迷宮で死にかけた時に、ルークの魂を彼女が鍛造した時の──
「あっ、そっか」
「なに?」
「何でここに来たのかって思ったけど、そっか。カランコエが魂のレベルまで見てくれようとしているからか」
あの大巫覡に何かされていないか、この魔女は、魂のレベルで精査してくれている。そのことに気がついて、ぼんやりとした明晰夢のような頭でルークは口角を上げた。白い魔女は眉を顰めて、ぺんとルークの肩を叩いた。
ごめんよ、とルークは笑いながら、声は出さずにまた空を見上げた。
どれくらいそうしていただろうか。ぼんやりとした意識に、ゆらりと揺れるように濃淡がやってきては、揺らぐ。
そんな中で彼女の、もう何度も聞いてきた、ぶっきらぼうだけど、相手にしっかり向いている声が入ってきた。
「はい、おしまい」
「終わったの?」
この空間がなんだかとても居心地が良くて、そう尋ねてみたのだが、魔女さまは自分の仕事が疑われているように感じたらしく、血のように真っ赤な目を細めてジロリと睨みつけた。
「そういってるわ」
「そっかぁ」
じゃあ、じきにこの夢からも醒めるだろう。
そんな確信があった。それがあんまりにも名残惜しくて、この、目の奥がツンとするほど懐かしい空間にいつまでもいたくて、ルークは名残惜しげにつぶやいた。
「……? カランコエ?」
すると、すすす、と目の前で移動する気配があって、ルークは思わず視線を下げる。魔女はルークの伸ばした脚の間に座って、向かい合うような形になっていた。そのまま彼女はルークの左手を持ち上げ、自分のもう片方の手でごしごしと擦り始めた。ちょうど大巫覡の紋様があるあたりを。
「…………」
「あの、カランコエ。何でそんな左手の紋章擦ってるの?」
返事はない。
魔女は眉間に皺を寄せて、ごしごしと擦り続ける。
「…………」
「カランコエさん? あの、ちょっと痛いんだけど、あの、カランコエー?」
やがて、ルークの左手に刻まれた大巫覡の“種”の紋章が消えないことを悟ると、彼女はぽいと青年の左手を放り投げた。そして忌々しげに地面をねめつける。
「……ちっ」
その、あんまりな態度にルークも苦笑いだ。
風がまた吹く。麦と同じ色の前髪を数束さらっていって、流れていく。カランコエに一房ある、ルークの同じ色の髪もおんなじように風に遊ばれていた。
青く澄んだ秋の空が、まるで水面のように波打って、ルークはこの空間が終わりに近いことを悟った。
だから、隣で立って、ずっと険しい顔をしている魔女に声をかけた。
「カランコエもこっちおいで。ほら。一緒に座ろう」
ぽんぽんと自分の左側の地面を叩く。
秋晴れの気温は、決して寒くはなく、太陽の暖かさを感じるにはもってこいだった。じんわりと、照らされた指先から血が巡るような感覚がある。
「この時間が終わるまで、ゆっくりしよう」
ね? とルークが首を傾げれば、普段無表情がデフォルトの魔女は、少し無言になって止まった後、相手に考え直させるようにぽつりと言った。
「べつに、これ以上なにかおこるわけじゃないわ」
魔女の回答を聞いて、ルークはまた笑う。
別に、何かして欲しいわけじゃない。何か特別なことが欲しいわけじゃない。
こんな気持ちのいい天気なのだ。
だから。
「何もなくても良いんだよ。ただ、君といれれば」
そう、ただ、一緒に並んで座れれば。
すこし無言の時間が過ぎて、ちいさな魔女は何も答えず、ルークの横にゆっくりと三角座りをした。
青年は力みのない自然な表情で、目尻を下げながらまた空を見た。
「いい天気だね」
返事はない。
ただ、横にはさっきまでなかったちいさな彼女の温度と、呼吸の感覚が伝わってきた。
麦の穂が揺れる。カランコエの少し甘い香りがする。
空の青色が揺れる。意識がだんだん微睡んでくる。
何処かで海の生き物が鳴くような、響く遠い声がして──
世界は形を失っていった。
◆
「はっ」
顔にかかる朝日で、ルークは目を覚ます。
何だか、懐かしい夢を見ていた気がする。
すでに気温は上がり始めていて、肌が少し汗ばんでいた。
『あっ、起きられましたか?』
部屋の中ではスゥが食事の準備で動いていた。その横を、配膳を手伝う影があった。ルークは驚く。
「カランコエ」
「なに?」
あの、寝坊すけな魔女が珍しく、ルークより先に起きて、着色の準備をしていたのだ。
それになんだか、どことなく機嫌も良さそうだ。
呼び止められた彼女は首を回して、ルークを見る。だが何も言わない。睫毛で縁取られた目はしっかりと青年を写して、黙っている。なにか、ルークの言葉を待つように。だから、青年は思わず考えていたことを口に出した。
「今日はずいぶん、早起きなんだね。びっくりしちゃった」
その後、ルークの顔面に木の実が飛んできたのは割愛しよう。
◆
「それじゃあ、女神のみめぐみに感謝します」
はい、どうぞとスゥが薦めて朝食は始まった。
相変わらず車座になって、真ん中にある少しへこんだ鍋を囲むように。
『そういえば』
パンをスープにつけていたスゥが思い出したように口に出す。
ルークは皿に盛られた、乾燥した木の実のようなものを口に含みながら彼女の方を向いた。少し酸味のある甘さが口に広がる。口内がさっぱりとした。
『今朝方、教会のほうからおふれがありました』
硬いパンにつけるスープは、酸味のあるいくつかの具材の切れ端を煮込んだものだ。暑さに知らず知らずのうちに疲弊していた内臓にはよく合う。いくらでもパンが食べられそうな味付けだった。
『内容は──街の外に敵出現。戦えぬものは、避難の準備をせよ。だ、そうです』
薄いヨーグルトのような飲み物を飲んで、パンを口にしながらルークは頷いた。スゥはすこし言いづらそうに躊躇ったあと、おずおずと言いたくない内容を口にした。
『あとは、異邦人のルークとその一行は、昼にミルシット軍本部まで来るようにと』
朝ご飯の時間は進む。
目覚めたばかりの内臓に、酸味の多い野菜やスープ、穀物のパンが入って体のエンジンをかけていく。
口の端についたスープを拭って、ルークはうん、と頷いた。
スゥが何度も口を開いては閉じて、やがてか細い消え入りそうな声で告げた。
『召集です。ルークさん』
外が微かに慌ただしい。
まだ明け方の、早い時間帯に誰かが走る音がする。街が目を覚ましていく。
うん、と青年は頷いた。
また、剣を取る時が来たのだ。
戦いの足音は、すぐそこまで聞こえてくるようだった。
魔王侵攻まで、あと、2日の、朝の話だった。