目的も、意味も無い逃避行の末、私は薄暗い路地の陰に座り込んでいた。
人々の喧騒は、遠くて近い。
耳の奥でざわめいては、膜越しの音のようにぼやけている。
狭い空間には、古びた木箱や錆びた空きビン、役目を失ったゴミが積もり、ネズミがちらと顔を覗かせた。
ここは、日差しも人の視線も届かない。
穢れた、忘れ去られた場所。
それでいいと思った。
誰も私を見ないなら、それはちょうどいい。
誰にも気づかれず、ここで朽ちるにはふさわしい。
「……」
私は力なく体育座りになり、額を膝に押し付けた。
胸が空洞になっていく感覚。
何もない。
価値もない。
生きている意味なんて、もうどこにもない。
だったら、死ねばいい。
その人混みに飛び込んで、アリの様に誰かに踏み潰されて終わればいい。
それなのに———
それができない。
なぜだ。
私は生きたいと思っているのか?
生きて、何になるんだ?
抜け殻の私が、何を望んでいるというんだ。
考えれば考えるほど、頭がぐらつく。
『天邪鬼』だからこうする———
そんな理由は、もう使えない。
分からない。
どうすればいいのか分からない。
前は一本道だった。
嫌いなものを否定し、ひっくり返して、ただ進めば良かった。
でも今は———どこも真っ暗で、道が見えない。
立ち止まるしかなかった。
ここで蹲り、終わりを待つしかなかった。
「……」
———じゃあ、なんで『先生』を助けたんだ?
私は誰に聞かせるでもなく、呟いた。
分からない。
理由なんて分からない。
身体が動いていたんだ。
仕方なかったんだ。
ああ、もう分からない。
何が正しい? 何が間違い?
誰か教えてくれ。
この矛盾を、終わらせてくれ。
「誰か、私を———全部終わらせてくれ」
誰かに殺されて欲しいのか、それとも、救って欲しいのか。
それすら分からなかった。
言葉が落ちた直後の空気は、あまりに静か。
鼓膜に響くのは、自分の呼吸音だけ。
吐くたびに、胸の奥から冷たいものがこみ上げてくる。
さっきまで走っていた身体はすっかり冷え切って、汗はもう乾き、ただ寒いだけになっていた。
———時間が止まったような感覚。
けれどその沈黙の中に、ふと、何かが違うと感じた。
風が通った。
それまではじっとりと澱んでいた空気が、急に肌を撫でるように動いた。
誰かが近づいてくる———そんな確信のない確信だけが、背筋を撫でた。
音は、しない。
それでも分かる。
誰かが、こっちに向かって歩いている。
迷いのない、まっすぐな足取りで。
私は、顔を上げなかった。
振り向く気力もなかった。
それでも、来たのだ。
「ねぇ」
殺してくれる人が。
「通報があって来たんだけど」
「…殺せよ」
自分でも驚くほど、乾いた声だった。
命令とも懇願ともつかない。
ただ、すべてを投げ出したような一言。
———私を、終わらせてくれと。
「あんた、随分と変わったわね」
「…」
その声は、やる気のなさそうな抑揚のない声。
博麗霊夢だとすぐにわかった。
けれども、そいつはその手を下さず、呑気に私に語り掛ける。
『随分と変わった』、その一言に、全てを見透かされている様な、不躾に覗き見られている様な気持ち悪さを感じた。
こんな奴に、私の苦しみを理解されている様な気がして、喉を掻きむしりたくなった。
こんなやつに、何が分かる?
いくら勘が鋭かろうが、あんたの想像で、私のこの感情を理解出来る訳が無い。
苛立ちが募る。
今度は語気を強めて言った。
「だから、さっさと殺せよ」
「なんで?」
間を置かずに帰って来たのは、短い三文字だった。
了承、拒否、そのどちらでも無い、疑問。
さも当たり前のように放たれた言葉。
理解に至るには、私は些か遠すぎた。
「は?」
意味が形を成して。
遅れて、言葉が漏れる。
「何、言ってんだよ…お前は博麗の巫女だろ、何が『何で』だよ、ふざけんてんじゃねぇぞ!!」
意味が分からなくて、それを吐き出す様に怒鳴る。
癇癪の様な叫びだった。
博麗の巫女の無機物な瞳は変わらない、暖簾に腕押しだった。
私の気持ちなんて知ったことかと言わんばかりに、博麗の巫女は言葉を続ける。
「だってあんた、妖怪じゃないし」
それは、処刑宣告だった。
粉々のアイデンティティを、更に吹き消す様な追い討ち。
心の奥に、静かな破裂音が響く。
怒りでも、悲しみでもない。
首が刎ねられたかの様に、四肢の感覚が消える。
惨めにも、じっと蹲るのみ。
それは『私』を否定された絶望というよりは、こんな奴にすら私は妖怪じゃないと言われるのかという、諦めが産んだ物だった。
分かってる、もう分かっているんだ。
私みたいな半端者は、何者でも無いことは。
でも、お前には。
私の葛藤も、苦しみも知らない、会ったことすら、数回しかない。
私を無条件に信じた『先生』とは、比べ物にもならないお前には。
言われたくない。
マグマの様に迫り上がる激情。
溢れて、零れ落ちた。
「…だったら…だったら、何なんだよ!!私はなんだって言うんだよ!!ふざけんなよ…!情けのつもりかよ…!!…クソ…!…クソ…」
怒号が喉をすべって、涙が滲んだ。
『天邪鬼』だから、毒を吐いた訳じゃない。
しかし、吐き出さないと何かに溺れそうだった。
感情という感情が溶けたマグマは直ぐに冷え固まり、どろどろと私の心の中でこびり付く。
それを吐き出そうと言葉を尽くしても、喘ぐように息を漏らすのみ。
どうしようもない苦しさに、涙が溢れた。
膝に顔を押し付けて、震えながら泣いた。
誰にも聞かれたくない、誰にも見られたくない、醜くて、弱くて、壊れた泣き声だった。
「知らない、私が知る訳ないでしょ」
霊夢の声は、まるでゴミ箱を蹴るように無機質だった。
そのまま、足音が遠ざかっていく。
背を向け、去っていった。
私を、殺さずに。
———今度こそ、私は一人きりだった。
上から、冷たいものが頬を撫でた。
暗い路地裏に、ポツポツと雨が差し込む。
直ぐに雨脚が強くなって、私の汚い服を濡らして、肌に張り付いて体温を奪う。
私の頬に、幾重もの水が流れていく。
寒くて、苦しくて、どうしようもなくて。
私はぎゅっと、手のひらを握って、誰にも見られない様に身体を縮こめた。
「………『先生』…」
気付けば、その名前を呼んでいた。
その資格なんて、ある訳が無いのに。
博麗霊夢が正邪を見つけた理由、それは勘です。