逆さまのこころ   作:おんせんまんじう

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一方その頃…


寺子屋の担任と副担任

「はっ…はっ…はっ…」

 

 静寂に包まれた竹林に、息切れと足音が沈み込むように響く。

 額には玉のような汗。

 肩を大きく上下させながら、上白沢慧音は視線を彷徨わせた。

 

「こっちか…!?クソっ…」

 

 正邪の足跡を辿ってここまで来た。

 まるで「わざとらしい」とすら思えるほど、くっきりと残されたそれは、逆に罠のようにも思えた。

 

 だが、それでも構わなかった。

 今の慧音にとって、疑っている暇などない。

 

 問題はそこからだった。

 迷いの竹林に足を踏み入れた途端、土地の性質とでも言うべき何かに進行を阻まれ、正邪の行方は完全に見失われた。

 

「……っ!」

 

 焦りに瞳が揺れる。

 冷静さを保てと言い聞かせても、鼓動は高鳴る一方だった。

 この土地では『走れば見つかる』ような単純なことではないと知っているはずなのに、慧音はなおも足を止められずにいた。

 

 息が上がり、肺がきしむ。

 体力が尽きかけたその時、背後から声がかかった。

 

「よう、慧音、そんなに焦ってどうした?」

「…っ!!…妹紅!!アイツをっ、天邪鬼を見てないかっ!?」

 

 そこに立っていたのは、友人・藤原妹紅だった。

 慧音は、言葉を繋ぐより先に思考が先走り、ほとんど叫ぶように問いかける。

 

 この竹林を最も知る存在———彼女なら、きっと何かを知っているはずだ。

 

「ん、まぁ…見たっちゃ見たが…見た…と言うか、な」

 

 あやふやな言い回し。

 それでも、見た、と言う証言は慧音にとって値千金の価値があった。

 

「本当か!?頼む!!教えてくれ!!そいつはどこ行ったんだ!?背中にあの人は居たか!?」

「ちょ、ちょっと落ち着けよ慧音…」

 

 疲労も忘れ、慧音は妹紅の肩にすがるようにして詰め寄る。

 無理な動きで足が攣っても構わなかった。

 その剣幕に、妹紅がほんの少しだけ目を細めた。

 

 慧音にとって、『先生』とはそれ程の存在だった。

 この幻想郷において、人妖問わず、『子供』を導く意思がある人。

 共に過ごした時間は長くなくとも、彼の存在は慧音の中で決して小さくはなかった。

 

 人の味方でも、妖怪の味方でも無い。

 慧音にとって、『先生』は数少ない『子供』の味方であると言えた。

 

 ———そんな彼が、殺されたかも知れないんだぞ。

 

「っ落ち着いていられるか!お前も知ってるだろう!?寺子屋の副担任だ!!あの人が死んでるかも知れないんだぞ!!」

「分かってる!その人は今生きてるよ!今永遠亭で治療中だ!だから落ち着けって!」

 

 ———生きてる。

 

 燃え上がる怒りの様な何かが、一気に沈静化する。

 次いで、今なお生きていると言う、安心。

 彼の状態を心配して、憂慮。

 お門違いにも怒鳴ってしまったと、反省。

 

 渦潮の様にぐるぐる回る感情の中で、では天邪鬼は何処に行ったのか、と言う疑問が顔を覗かせていた。

 

「っ!?ち、治療中?っそ、そうか、それは良かった…いや、良くない、件の天邪鬼は何処に行ったんだ!?」

 

 再び慧音が問い詰めると、妹紅は口をへの字に曲げ、眉間に皺を寄せた。

 まるで、言葉の選び方に悩んでいるかのようだった。

 

「…」

 

 目を泳がせる妹紅に、慧音はつい語気を荒げてしまう。

 信頼する友人がまるで鬼人正邪を庇っている様な仕草で、慧音は少々気が悪くなっていた。

 

「なんで黙ってるんだ妹紅!会ったなら分かるだろう!?」

 

 慧音の言葉に触発されたのか、妹紅は迷いがあったその目を瞑り、そして今度はしっかりと慧音に向けた。

 続いて、ゆっくりと妹紅は告げる。

 

「いいか、落ち着いて聞けよ? 寺子屋の副担任を連れて来たのは、その天邪鬼だ」

 

 一瞬、風の音すら止んだ気がした。

 慧音の思考が、音を立てて凍りつく。

 理解が追いつかない。

 誰の話をしている?あの妖怪が?まさか。

 

「……は? な、なに? あいつが……あの人を? あり得ないだろう? そんな事をするタマだったか……? そもそも、妖怪がそんな事を……?」

 

 言葉を吐き出しながらも、慧音自身がその内容に驚いていた。

 信じられるはずがなかった。

 彼女の記憶にある『天邪鬼』は、そんな行動とは最も縁遠い存在だったからだ。

 

「私だって驚いたさ……なにせ……」

 

 妹紅が何かを言いかけて、ふっと言葉を飲み込む。

 目線を逸らし、唇を噛むようにして沈黙した。

 

 本当はもっと言いたいことがあったのだろう。

 けれど、それは簡単に話していいことではない、と本能が警鐘を鳴らした。

 ———土下座。

 『妖怪』としての誇りすら捨て、泥を舐めるような姿で誰かを救おうとしたあの光景が、妹紅の脳裏に強く焼きついていた。

 

 たとえ外道と蔑まれてきた存在でも、あれは———否応なく、人間の姿だった。

 

「いや、なんでもない」

 

 静かに言葉を閉ざすその声に、ただの言い淀みではない重みが滲む。

 慧音はそれ以上深く追及しなかった、いや、できなかった。

 

「……兎に角、今はあの天邪鬼は置いておこう。それよりも、様子を見に行った方がいいだろ?」

 

 その提案に、慧音は一拍の間を置いて、ようやくうなずいた。

 頭の中でまだ事実を整理しきれていない。だが、今最優先なのは『あの人』の容態だ。

 

「……分かった、妹紅がそう言うなら……確かに、あの人の容態を確認したい……永遠亭なら、大丈夫だと思うが……」

「……まぁ、着いてこいよ、案内するから」

 

 言葉の端に、ほんの僅かな迷いが残っていた。

 けれど、それでも前に進もうとする友人の背中に、慧音は素直に頷いた。

 

「……あぁ、ありがとう」

 

 二人の足音が、竹林の奥へと静かに消えていった。

 

◆◆

 

『頭の骨が折れて、脳が傷付いてる…医学的には頭蓋骨陥没骨折及びに、外傷性脳挫傷を起こしているわ…でも安心して、一命は取り留めた』

 

『目覚めるのは、最低でも数日から数週間後…後遺症も残るかも知れない…患者の自己回復能力が低ければそのまま目覚めないかも知れないわ…ごめんなさい、私の手が及ばなくて』

 

『…面会?………5分、いや、10分だけなら構わないわ、でも、出来る限り触れないで、でも声は掛けてあげて、それで目覚めるケースもある』

 

 重い扉を閉じた静寂の中で、慧音はふと顔を上げた。

 医者、八意永琳の言葉が、まるで風のように、何度も脳裏を通り過ぎていく。

 

 処置室を出た妹紅と別れ、独りでここまで来た。

 誰の言葉も聞こえない廊下を進み、静まり返った病室の扉を押して———

 そこにいたのは、包帯に覆われ、まるで別人のように変わり果てた『先生』だった。

 

 頭部はぐるぐると包帯で巻かれ、血の滲みすら隠されていた。

 瞼は閉じられ、ぴくりとも動かない。

 呼吸の音すら感じさせないほど、静かだった。

 けれど、首と腕にはいくつもの点滴が繋がれている。

 それはこの場における、彼の『生きている』という唯一の証だった。

 

 慧音は、そっと椅子を引き、ベッドのそばに腰を下ろした。

 言葉がうまく出てこない。

 けれど、それでも口を開くしかなかった。

 

「……大丈夫か?」

 

 返事はない。

 けれど、心が静かに震えた。

 

「……一体、何があったんだ?」

 

 息を呑み、視線が思わず下がる。

 あれほど穏やかに笑っていた人が、どうしてこんな姿にならなければならなかったのか。

 無力感が、胸の奥を締め付ける。

 

「……あの、天邪鬼と……何があったんだ?」

 

 怒りではなく、疑念でもない。

 ただ、知りたかった。

 あの子がなぜ、あんなにも乱れていたのか。

 なぜ、『先生』が命を賭けてまで———。

 

「貴方は子供を思い遣れる、導ける、立派な人だ……こんな所で……死なないでくれよ……!」

 

 手は震えていた。

 触れてはいけないと言われていたのに、伸ばしたくてたまらなかった。

 でも、どうにか堪えて、声だけを届ける。

 

「……また、来るよ」

 

 言葉を絞り出すように、慧音は席を立った。

 

 そのときだった。

 

「………慧音、先生」

 

 かすかな声が、空気を震わせた。

 まるで幻聴のようで、慧音は一瞬、振り返ることすらできなかった。

 

「っ!! 無理に起き上がるな……! 身体に障るだろう……!?」

 

 ベッドに駆け寄ると、そこには、ゆっくりと薄く目を開いた『先生』の姿があった。

 焦点の合わないその瞳が、慧音の方をかすかに向いている。

 

「っ……でも、良かった……!!」

 

 言葉にならない安堵が、全身を包む。

 涙が零れそうになるのを、必死に堪える。

 慧音の瞳に、光が戻っていた。

 

 かすかに開いた瞳が、病室の薄暗がりに光を宿す。

 

「……ここは……」

 

 かすれた声が喉の奥から漏れた瞬間、慧音は弾かれたように顔を上げた。

 

「っ永遠亭だ……喋らなくていいから……今は休んでくれ……!!」

 

 呼吸を乱しながら、慧音は思わず手を伸ばす。

 その温もりがまだここにある———そのことに安堵しながらも、心の奥に不安が渦巻いていた。

 

「……そうか、あの子が……」

 

 弱々しく呟いた声に、慧音の眉がぴくりと動く。

 何を言おうとしているのか、それが正邪のことだとすぐに察して、慧音の中に緊張が走る。

 

「…っ今っ、医者を呼んでくるからな…待っててく———」

 

 席を立とうとしたその瞬間、病床の彼が手を差し伸べる。

 

「だ、めだ」

 

 慧音の足が止まる。

 信じられない思いで振り返ると、彼の瞳が、はっきりと慧音を捉えていた。

 

「…っえ、どっ、どうして…」

 

 なぜ、目覚めたばかりで、こんなにも確かな意志を持っているのか。

 慧音は戸惑い、けれど相手の表情から、その揺るがない決意を読み取ってしまった。

 

「私は…今すぐにでもここを出ないと…」

「………なに、言ってるんだ、っ駄目だ!貴方が今目覚めたのも、奇跡みたいなものなんだ!!だから…頼む…貴方は休んでいてくれ…!!」

 

 感情があふれ出す。

 押し殺していた心配、不安、恐怖——すべてが今、彼の言葉で崩れ落ちていく。

 それでも彼は、静かに、けれどはっきりと首を横に振った。

 

「…ごめんなさい、慧音先生……それでも、私は行かないと……私は、先生だから」

 

 その言葉に、慧音の心が引き裂かれるようだった。

 

「…分からないよ、何が貴方をそこまで突き動かすんだ…!…あの妖怪の、あの鬼人正邪のせいなのか…!?答えてくれ…!!一体何があったんだ!?」

 

 問いかけは叫びにも近かった。

 それでも彼は、静かに目を伏せ、口元にわずかな笑みすら浮かべながら答えた。

 

「…大したことは、ないですよ……私は、看病しただけです………今、あの子は自分を見失ってる……自分を信じられなくなってる……今すぐにでも、いかないと」

 

 その口調に、嘘はなかった。

 だからこそ、慧音は悔しかった。

 

「…ダメだ……あいつは妖怪だ、貴方を騙そうとしてるんだ!あれは『天邪鬼』だ!!幻想郷転覆を目論んだ反逆者だぞ!?」

 

 それでも、彼は迷いなく言った。

 

「…そうなの、ですか?……でも、あの子は『子供』です。思春期の子供……迷子の子供は、大人が手を取らないと……」

 

 その一言が、慧音の心を撃ち抜く。

 

 迷っているのは、きっと自分の方だ。

 分かっていた。

 この人が、誰よりも『子供のために生きてきた人間』であることを。

 でも、受け入れるには、あまりに怖すぎた。

 

「死ぬかも知れないんだぞ……!!貴方は立派な人だ!私は貴方に死んでほしくないんだよ!!」

 

 叫び声は嗚咽まじりだった。

 それでも、彼ははっきりと答えた。

 

「慧音先生……私は……彼女のためなら、この命だって賭けられる」

 

 そして、彼は視線を慧音から外し、天井を見上げながら小さく、しかしはっきりと呟いた。

 

「……それに、ここで動かないと、私は二度と、自分を『先生』だと思えなくなる」

 

 慧音は、言葉を失った。

 『先生』が、『先生』であろうとする決意の強さに、羨望の様な物が胸を渦巻く。

 そして同時に、その為に己を擲つ姿は、あまりにも———

 

「…っ馬鹿……!!貴方は馬鹿野郎だ…っ…!!」

 

 声が震える。

 涙が溢れそうになる。

 けれど、もう止められないと分かっていた。

 

「っそんな言い方されたら……止められないじゃないか……!!」

 

 拳を握るしかなかった。

 それでも、彼の覚悟だけは、受け止めるしかなかった。

 

「……貴方は……貴方は、今も危険な状態なんだ、外に出れば、頭の傷から感染症を起こすかもしれないし、転倒すれば命取りにだって……」

 

 慧音は震える声で言葉を紡ぐ。

 彼の身体がどれほど脆い状態か、それを一番よく知っているからこそ、口にせずにはいられなかった。

 

 しかし、それでも——

 

「それでも、行きます」

 

 迷いの欠片もない声が返ってきた。

 慧音は思わず息を呑む。

 それは『頑な』でも『盲信』でもない、静かで強い意志だった。

 

 だからこそ、尚のこと食い下がる。

 

「……八意先生にも、絶対に怒られるぞ」

 

 呟くように言ったそれも、揺るがす力にはならなかった。

 

「それでもです」

 

 彼の声は変わらない。

 むしろ、問いかけるほどに意志は像を結び、輪郭を増していく。

 慧音の方が試されているかのような錯覚すら覚えた。

 

 彼の瞳を見つめる。

 そこには確かに、命をかける覚悟の炎が灯っていた。

 

「……天邪鬼の居場所だって、分からないんだぞ……そんな曖昧な情報で、どうやって探すつもりだ……」

 

 最後の一押しだった。

 けれど、それでも彼は、揺れなかった。

 

「承知の上です」

 

 あまりに自然にそう言ってのけるものだから、慧音は黙るしかなかった。

 そしてそのとき、気づいたのだ。

 その覚悟は、理屈では止められないものだと。

 

 彼の決意が、慧音の心にも火を灯す。

 

 ぎゅっと拳を握り締め、彼女は視線を落とす。

 そして、ゆっくりと、しっかりと、顔を上げた。

 

「……分かったよ。貴方がどれだけ固い決意を抱いているか、痛いほど分かった」

 

 その瞳にはもう、迷いはなかった。

 

「でも、一人じゃダメだ」

 

 慧音の声が、静かに響く。

 

「貴方だけに背負わせるわけにはいかない。……それは、人として…いや、そんな高尚なものじゃないな…私が、ただ『そうしないと』と、思うだけだ」

 

 正直、理論武装にしてはお粗末だ。

 

 それでも、教師として、そして友人として——

 今この人の選んだ道を、共に歩むと決めた。

 

「……力を貸すよ」

 

 慧音は一歩、彼のベッドへ近づき、そっと手を差し出した。

 その手には、教師としての誇りと、『慧音』としての決意が込められていた。

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