無機質に、私は雨に叩かれる、いや、私の体を叩くのは蠅なのかもしれない。
何も考えたくなかった。
何を考えても、どうせ答えは出ないと分かっていたからだ。
ただ、冷たい壁にもたれ、目を閉じていた。
考えることは、苦しむことと同義だった。
終わりの見えない無限螺旋は、私に虚無を与えていた。
だから、何も考えなかった。
もう、怒る元気もない。
悔しがる気力もない。
泣く力も、残っていなかった。
生きる力も、死ぬ力も。
手足の感覚が無かった。
まるで指が霧となってしまったように、曖昧だった。
雨が止んだのかどうかさえ、分からない。
ただ、どこか遠くの音が、自分とは無関係の世界の出来事のように響いていた。
そのときだった。
「……いた」
その声だけは、妙に現実的に響いた。
耳の奥に直接触れたような、現実が自分に近づいてきた音だった。
私が突き放し続け、そしてあの時、奪ってしまった物。
私にとって、それは罪悪の象徴だった。
二度と聞きたくなかった声だった、もう一度聞きたかった声だった。
現れて欲しくなかった、現れて欲しかった。
「…正邪」
博麗霊夢の時は顔すら見なかったのに、彼の声に、私はいとも容易く顔を上げてしまった。
湿った土の先には、上白沢慧音に背負われた、『先生』がいた。
頭に包帯を巻いて、まん丸に目を見開いて私を見つめている。
私が何度も憎んで、苦しんで、壊そうとして。
そして取り戻そうとした、あの優しい目が。
見窄らしい姿の私を写している。
「…ぁ…あ、ああ…」
私は、何を言えばいいんだろう。
生きていて良かったと、そんな言葉を言う権利も。
私を見ないでくれと、そんなちっぽけなプライドも。
助けてくれと、そんな希望を願う価値も。
殺してくれと、そんな絶望を乞う意味も。
どれも、私の口から出れば汚れた吐瀉物だ。
言う資格の無い感謝も。
淡く響く安心も。
全部全部全部、今の私にはあってはならない物だ。
白も黒も、希望も絶望も、ありとあらゆる物が混ざり合ったマーブル状の何かが胸の奥でぐるぐると渦を巻き、吐き出そうと舌の奥が疼く。
だが、それは声にも言葉にもならず、ただ濁った嗚咽だけを零した。
「…ありがとうございます、慧音先生…ここから先は、私一人で…」
「…ああ、行ってこい」
彼が近づいて来る。
不安定な足取りで、ゆっくりと、こちらの暗がりに歩み寄る。
「…見つかって、本当に良かった」
「…来るな…帰れ…」
いっぱいいっぱいに膨れ上がった胸から、ひしゃげた拒絶が漏れた。
これ以上あいつを見ていると、胸の奥の何かが壊れてしまいそうだから。
でも———
「…それは、出来ない」
あいつは、『先生』は真っ直ぐな瞳で私を射ている。
歩みは止まらず、されど力強い。
「私は、君の手を引きに来たから」
なんだよ、なんなんだよ、手を引くって。
そんな事のために、お前は。
誰も気付きやしなかったこの場所まで。
砕けた頭で、こんな汚い場所まで。
「っそんな…そんな事する理由なんて、っどこにも、ないだろ…」
「例え理由なんてなくても、私は君を助けるよ」
優しい笑顔で、そんな事、言わないでくれ。
私は、お前を殺そうとしたんだよ。
こんな私を、救おうとしないでくれ。
希望を与えないでくれ。
「っなんで…!っ私なんかの為に…」
「…私は、『先生』だから」
「…っ…!」
いつかに言われた言葉が、フラッシュバックする。
偽善者だと罵っていたあの時は、ゴミみたいな価値しかない、嘘吐きの大義名分だと思っていた。
なのに、今は。
言葉の裏も無い、ただ真摯な思いに心を揺らされる。
「…君が何をしてきたかは、今は関係ない」
ゆっくりと、しかし迷わず、先生はそう言った。
「私は今、この瞬間の君を見ている」
胸の奥がひどくざわつく。
それは過去を塗り替える言葉でも、罪を許す言葉でもなかった。
ただ、今の自分を丸ごと目の前に置いて、真っ直ぐ見ている眼差しだった。
「…そんなの…」
否定しようとした。
けれど、口を開いた瞬間、声が震えて形を崩した。
「君が生きていてくれることが、私は嬉しいんだ」
それは理由を持たない。
代わりに、理由を求めることすら許さない、無条件の肯定だった。
「…やめろよ…」
低く、押し殺した声が漏れる。
そんなことを言われたら、もう逃げ場がない。
全部が瓦解して、胸の奥に押し込めた何かが、破裂しそうだった。
先生はさらに一歩、私の方へ踏み出す。
湿った地面が、ぐしゃりと小さく鳴った。
「私はね、『天邪鬼』であろうとする君を立ち直らせたいなんて思っていない」
その言葉に、一瞬、心が揺れる。
立ち直れなんて、薄っぺらい同情の言葉が来ると思っていた。
でも、それは違った。
「君はずっと、『今』じゃないどこかばかりを見てきた…私は、そんな君を見捨てられない」
背中の奥がざわりと粟立つ。
『今』? 壊れて、腐って、無色でどうしようもない『今』を?
見捨てられない?
お前がそう思ったって、私は——私だけは、見捨てるしかないんだよ。
「…やめろって言ってるだろ…」
声はもう、震えて抑えが効かない。
「止めるわけには、いかない」
先生は、足を止めない。
背負われて来たはずなのに、傷だらけの身体でなお、真っ直ぐに私へ歩み寄る。
「君が自分を許せなくても、私は君を見放さない」
あと数歩。
その距離が、息苦しいほど近づいてくる。
「君が…『今の自分』を認められるなら——」
その目が、私の中の何かを捉えて離さない。
逃げ場が、もうどこにもなかった。
「私は、その瞬間のために全てを懸ける」
「止めろ…止めろ!っ止めろ!!」
吐き捨てるように叫んだ。
「妖怪に『今の自分を認めろ』なんて言うな!そんなもん、人間の理屈だろうが!私に押し付けるな!」
あの日記の内容が、脳の裏に現れる。
胸の奥の何かが、焼けた針金みたいに暴れ回る。
生々しい後悔が、私の首に手を掛けていた。
彼に赦されたら、それに縊り殺されてしまいそうで。
そんな人間みたいな後悔は、吐き出してはいけないと、脳が警鐘を鳴らしている。
だから私は、妖怪としての形ばかりの、ハリボテの矜持を振りかざした。
しかし、先生は怯まない。
「押し付けなんかじゃない」
その瞳はまっすぐだった。
「私も、君と同じだった。なりたいものしか見えてなかった」
言葉が、鋭く胸に刺さる。
知っている、お前は『先生』になろうとして、もがいた。
『私の中に「先生」がいたのだとしたら、今はどこに行ってしまったのだろうか。もう、戻ってこない』
あの時の日記の一節が過ぎる。
思わず視線を逸らそうとして、出来なかった。
私は彼と向き合う事しか出来なかった。
「だからこそ、君に同じ苦しみを味わってほしくない」
「ふざけるな…!お前と私は——」
弾かれたように、必死に否定する。
その否定の上から、言葉が重ねられる。
「妖怪だから?人間だから?」
先生は一歩、近づいた。
「そんなことはどうでもいい、何者でもいい、私は、私にとっての君を見ている」
吐き出そうとした拒絶が、喉の奥でひっかかる。
息が、震えた。
『私にとっての君』って、なんなんだよ。
お前の目には何が写ってんだよ。
鬼人正邪っていう皮を被った、何かだろ。
そこには一体何があるんだ?なんの意義があるんだ?
私の中身は、私を見限ってどこかに行ったんだ。
一体、お前の目には———
「お前には、何が見えてんだよ…!!小汚いクソガキだろ!?嘘吐きの成れの果てだ!!お前を殺そうとしたクズだ!!」
「違う」
「違わない!」
「違う!」
「っ違わない!!私はお前の頭をカチ割った!!お前の恩を仇で返した!!お前を認められなかった!!」
慟哭の様に、止まらない。
何のために叫んでいるのか、もう分からない。
私は一体、何をしたいのか、分からない。
『天邪鬼』だったら、こんな事をするのか?
何が何でも否定して、『天邪鬼』を取り戻そうとしているのか?
分からない、一体、何が私をこうさせている?
必死になって『先生』に噛み付いて。
『天邪鬼』じゃないなら、素直に話を聞けよ。
『今の自分を認める』、なんでこんなに必死になって無理だと叫んでいるんだよ。
まるで、『先生』に嫌われたいみたいだ。
———あぁ、そうだ。
私は、嫌われたいんだ。
『先生』を殺そうとした罪悪感が、私を突き動かしているんだ。
彼に嫌われる事で、罰を求めているんだ。
見捨てられて、絶望して、贖罪した気になって、死にたいんだ。
私は喉を裂くように願望を叫んだ。
「嫌えよ!見放せよ!それが正しいんだろ!!」
包帯の下で息を荒くしながら、『先生』はただ一歩、私の前に立つ。
「——嫌わない」
その言葉は、揺るぎがなかった。
「見放さない、私はかつて、自分を嫌って見放した、自分で自分を壊してしまった」
「……っ」
息が詰まる。
反論しなければと、喉が疼く。
「だから、君には同じことをさせない」
「…あっ、う…っうう…!っうううう!!こんな…こんなクズを、救おうとするな…偽善者…!偽善者…!!偽善者が!!」
言葉をなぞって、確かめる様に、頭に刷り込む様に。
思ってもいない嘘を吐く。
「違うよ正邪…君はクズでも何でもない」
『先生』の声は静かに、しかし確かに届いた。
「確かに、君は私を殴ったかもしれない、否定したかもしれない、でも、それだけの子なら…私を永遠亭まで必死に運んだりはしない」
じくりと、胸が痛む。
「っそれは……だってっ…!!」
「私から見た君はね、いつも肩を張っていた。誰よりも強く在ろうと、誰よりも逆らおうと———でも、瞳の奥では迷いがあった」
「……」
「そんな自分を覆い隠すように、君は理想を追う目をしていた」
視界が滲んでいく。
そんな事は無いと叫ぼうとして、短い嗚咽が漏れた。
「だから私はずっと思っていたんだ。君はただ、素直じゃない子だって」
『先生』は一拍おいて、私の目を見据えた。
「いいかい、君は——『君』だ」
優しい、目だった。
「誰かの理想に届かなくても、肩を張らなくても」
「……」
「理想が遠いからって、絶望する必要はない…そんな自分を許せないなんて、嘆く必要もない」
その声は、突き放すでも押し付けるでもなく、ただ抱きしめるように広がる。
「ただ、自信を持って、『自分らしく』生きればいいんだよ」
「それで、十分だ」
『先生』の言葉が、皮膚の下を通って温かい熱を届ける。
凪のように動きの無かった私の魂が、氷解して、大きな波を生み出す。
胸の奥が焼けるように熱くて、言葉が出ない。
否定しようと、喉に力を込めるのに、声が震えて形にならない。
「……っ、あ、あぁ……」
滲んだ視界の中で、『先生』の姿だけがぼやけずに残る。
どうして、こんなにまっすぐに見つめてくるんだ。
どうして、こんなに———私なんかを。
頬を伝うものを、もう誤魔化せなかった。
「……っやめろよ……そんなふうに言うなよ……」
それは初めて、嘘でも否定でもない、本当の言葉だった。
咄嗟に漏れ出た物でも、無我夢中に出した行動でもない。
ただ、ただ、素直な言葉。
小さくて、みっともなくて、でも確かに私の中から零れ落ちた声。
『先生』は、何も言わずにただ頷いた。
その眼差しが、痛いほど優しくて。
私はついに、否定を諦めた。
「…わ、私は…『天邪鬼』じゃないわたしでも、いいのか?」
「ああ、君は、『君』だから」
一呼吸の間も置かずに、肯定。
『天邪鬼』じゃない、何者でもない、『妖怪』と呼べるかも怪しい。
でも、私は『鬼人正邪』という一人の存在なのだと。
私の致命的な矛盾が、反発無く私の中で溶けていく。
決して無くなったのでは無い。
ただ、矛盾があってもいいと、そう認めたのだ。
まるで、妥協する人間の様に。
でも、これは妥協じゃない。
自分の欠点を認めてなお進む、ただそれだけの話だ。
「…私を、許して、くれるのか?」
「そもそも私は怒ってなんかないよ、正邪が罪の意識を感じる必要も」
私は、『先生』を永遠亭に届けてから、ずっと。
無量大数にも勝る罪悪の重りと、何も入っていない空っぽの箱を抱えていた。
それが、今。
ほろほろと崩れて、空っぽの箱の中身は、実は必須じゃないのだと気付いた。
『先生』が許してくれるだろうというのは、ほぼ確信していた。
これは、自分が自分を許せるか、そういう問題だった。
肩の荷が降りたとは、こういう事を言うのだろうか。
きっとこれは、自己満足なのかもしれない。
幻想郷の妖怪として、異端で、間違っていて、罪にすらなる程の異常なのかも知れない。
それでも、私は、それでいい。
妖怪としてのあり方を外れていても。
『天邪鬼』じゃないと分かっても。
私は、『私』だ。
私は、『鬼人正邪』だ。
「あぁ…ぅあ…ううううあああああ…!!」
私は『私』だから、ここに居ても良い。
進むべき道が分からなくたって、絶望する必要は無い。
理想と違うからって、今を否定する必要は無い。
再び、『先生』の言葉が浸透する。
湧き出るのは、溢れんばかりの安心。
それに溺れて嗚咽が溢れると同時に、『先生』は私を抱きしめた。
「…」
何も言わずに、『先生』は私を優しく抱いた。
ああ、涙が溢れて止まらない。
なぜこんなにも涙が流れるのか、分からないけれど。
私は、『先生』の胸の中で泣いた。
大きく、大きく。
子供の様に泣いた。
暖かい胸だった。
心臓の音がよく聞こえた。
壊れない様に、私は『先生』を抱き返す。
「…正邪、いこうか、一緒に」
「っうん…っうん…!!」
どこに、とは聞かない。
今はただ、彼と一緒に居たかった。