「…っ…っ!おえ…ッ…!ぅ…っぷ…」
鬼人正邪を覚醒させたのは、強烈な吐き気。
柔らかいシーツだとか、知らない天井だとか、そんな事は二の次に、正邪は目の前に迫る吐き気にただえずく事しか出来なかった。
起き上がる事も、手で抑える事すら出来なかった。
それ程までに身体が疲労していた。
胃の中は空っぽで吐く物は無い、ここ最近碌な物も食べていなかったからだ。
ふと、枕に押し付けられた耳が足音を捉える。
「…!起きていたのかい!」
「…ぅぷ…」
視線をドアにやると、驚いた様子の男が目に入った。
色白の肌と、優しげなタレ目が特徴的な男だった。
誰だ、と言おうとして吐き気に遮られる。
頭がガンガンと痛んで、言葉を出す所じゃなかった。
男は心配そうにこちらを見つめて、近付いてくる。
そうだ、この男は、私を背負ったあの———
「顔が真っ青じゃないか、今薬を出すからね」
そう言って、男は急いで棚を開け、何かしらの薬を取り出した。
こちらに向かってくる男を睨み付け、吐き捨てる。
「…な…い…」
「…?…何だい?」
喉がガラガラで、声が出ない。
だから今度はゆっくりと、はっきりと言い捨てる。
「いら…ない…!!」
善意なんて、受け取りたくなかった。
特段理由があるわけでもない、そういう生き方をしてきたのだ。
施しを受ける自分なんて、それこそ吐き気がする。
「…薬が嫌いなのは分かるよ、でも飲まないと」
何を勘違いしているのか、諌めるように男は言う。
それが気に障る。
違う、この男の何もかもが気に食わないんだ。
なぜ?答えはまだ出ない。
「うる…っさい…」
「…ごめんね、ちょっと我慢してね」
苛立ちをすり抜ける様に、男はいつの間にか正邪の寝るベットの隣に居た。
その手には水の入った大きなスポイトが握られている。
そして、その中にサラサラと粉薬を差し入れ、スポイトを弾いて混ぜ合わせる。
一連の所作に正邪は疑問を感じていた。
10秒も掛かっていない迅速さ。
なぜコップではなく、スポイトに入れるのか。
疑問が完結しない内に男は、スポイトの切先を正邪に向け———
「うぼぇっ!?」
———容赦無く、正邪の喉に突っ込んだ。
肺に入らない様、的確に差し入れられる薬入りの水。
苦しく、えずきを誘発するソレに、正邪は激しく抵抗しようとした。
しかし。
「ん…!んんんん…っ!!」
「暴れないで、すぐ終わるから」
男に身体を抑えられて、引き剥がせない。
抑えられて?違う、ただ腕を置かれているだけ、どこが『抑えられて』、だ。
引き剥がせないのは、疲弊し切った身体ゆえだ。
こんな人間も引き剥がす事の出来ない自分に、涙が出そうだった。
というか、えづき過ぎて実際に涙が出ている。
「っん…っはぁ…!はぁ…!クソ…なんなんだお前…クソ…」
「ごめんね、苦しかったよね…でも直ぐにでも飲ませる必要があったんだ…本当は、点滴があれば良かったんだけど…」
男は、正邪のヨダレでベタベタになった手のひらをハンカチで拭いている。
申し訳無さそうな顔をしていた。
その表情が、また正邪の気に障る。
「何を、飲ませた…」
「吐き気を抑える薬、傷薬、免疫を上げる薬、鎮痛薬だよ…永遠亭から一通りの薬は常備してあるんだ」
何故、気に障る?
ずっと感じていた疑問。
この身を焼き尽くす様に、動けない体が暴れ出す様に、憎悪が溢れ出す様に。
苛立ちが止まらない。
気付けば、口が開いていた。
「…気持ちいいかよ」
止まらない。
限界まで膨らんだ感情が堰を切って、激流となって正邪を襲う。
「何の力も無い、こんな雑魚妖怪の私を救った気になれて、あぁ!?どんな気持ちだよっ!!」
「駄目だよ、自分を卑下しちゃあ駄目だ」
男の言葉に、また怒りが湧く。
あぁ、そうだ、今、やっと分かった。
私を運んでいた時に掛けられたその言葉が、私の方を見て、にこにこへらへらと笑うその顔が、本気で申し訳無さそうにするその雰囲気が。
全部全部全部。
善意とかいう、クソッタレな物を見せつけられている様で気に食わないからだ。
そうさ、この男の行動は、善意を気取った、結局は自分が気持ちよくなる事しか考えてない、偽善でしかない。
なのにこの男は、それに気付いていない。
本気で優しさから助けていると、勘違いしている。
滑稽さからか、それとも嫌悪感からか、蛇口を捻った様に暴言が溢れ出す。
心の煮凝りが流れ出る。
「っ質問に答えろ!!『皆んなは妖怪なんて救わないけど、僕は救うんだ』、か!?『人とは違う事をする自分はカッコいいなぁ』、かぁ!?どれも偽善だ!!自分が気持ちよくなりたいだけだ!!」
「…」
その目を止めろ。
反論してみろ。
「図星か!?何も言えないか!?ヘラヘラヘラヘラうざったいんだよ!!僕は無害ですアピールか!?気持ち悪い!無償の愛とでも言うつもりか!?馬鹿馬鹿しい!ありがた迷惑なんだよ!!」
「…」
困った様に正邪を見つめる男。
それだ、その態度が鼻に付く。
その目を止めろ。
「その目を止めろ!!」
嫌悪も憎悪も無い、ただただ慈愛の籠った様な表情が気に食わない。
「その顔を止めろ!!なんだお前は!?意味が分からない!!さっさとどっか行けぇっ!!」
叫びに身体が軋む。
鄒俊して、男がゆっくりと口を開いた。
「私は、『先生』だから」
「………ぁ?」
言葉を吐き切った様に男、『先生』を拒絶した正邪の胸に、彼の言葉はすとんと綺麗に入り込んできた。
それを追い出そうと、腹の底から怒気が漏れる。
「寺子屋の副担任をしてるんだ、慧音先生と一緒にね」
「だからなんだ」
声が震える。
「私は子供の味方だから…君の様な子に恥じない行為をする事が、『大人の義務』なんだ」
「だからなんなんだ」
偽善だ。
自分を正当化してるクズの言葉だ。
全部嘘だ。
何が『大人の義務』だ。
碌に動かない身体でも歯軋りだけは立派に鳴る。
「君が私にどんな事をしようが、私は君の味方だから」
「…っうるさい、うるさい!うるさいうるさいうるさい!!」
『先生』の言葉がハッキリと聞こえる。
『私は君の味方だから』?だから助けたのか?だからこんなに優しいのか?
嘘、嘘嘘嘘。
正邪の本能の声が枯れる程に叫ぶ。
『先生』の目が、正邪の本能を攻撃する。
頭がおかしくなりそうで、頭痛がする。
馬鹿みたいな綺麗事は、もう聞きたく無かった。
「もう…どっかいけよ…!」
「そう、かい…君が私を信じてられる様に、努力するよ」
目を閉じて、首を壁側、つまり『先生』と反対方向に向ける。
この反抗が少なからず効いたのか、彼の足音が遠ざかっていくのが感じ取れた。
しかし。
扉の軋みが鳴って。
「そうだ、君の名前はなんて言うんだい?」
『先生』が尋ねた。
その瞬間、濃霧に塗れた正邪の思考に、一筋の閃光が走った。
(名前…?なんでだ…知ってるはずじゃ?いや、まさか、知らないのか…!?)
正邪は指名手配犯の身であり、そんな状態が一ヶ月も続いている。
流石に人里の面々も、妖怪の山の連中も、地底の奴らさえ天邪鬼の名を知っている筈だ。
なのに、『先生』は名前を尋ねた。
魔法の森という辺境に住んでいるためか、興味が無かったのか、ただ単に情報弱者なのか。
どちらにせよ、正邪にとってはありがたい話だ。
このままここに居ても、居場所がバレて襲われる心配が無い。
もっと言えば、ゆっくりと傷を癒せるかもしれない。
(だったら…偽名、そうだ偽名だ…こいつに私が指名手配中の鬼人正邪だとバレたら、一巻の終わりだ)
『先生』の言葉から数秒。
思案を巡らした正邪は、ポツリと、壁に向かって言った。
「…
「そうかい…正邪、安静にしてね」
パタン、扉が閉まる。
(………は?)
正邪の中には幾つもの疑心と策略があった。
どんな偽名を使えばいいか、何日ここに居たら奴らに見つかるか、どの様に振る舞えば『先生』に正体が知られずに済むか。
何を、どうやって、どのように嘘を吐くか。
頭の中はそれでいっぱいだったのに。
いざ脳から口へと飛び出したその言葉は、ただ自分の名前を言った事。
正直に。
そう正直に。
(…な、なん…で…なんで…?)
脳内で疑問の収まりが着かず、見開いた目でぼぅっと壁を見つめる。
自分の意思とは全く無関係に、漏れ出ていた言葉。
同時に、強烈な自己嫌悪。
正直に、素直に話した、話してしまった自分に嫌悪感が募る。
まるで、本心は彼を信じてしまっているみたいで。
自分では無い自分に、吐き気がした。
「全部、アイツのせいだ…」
感情の収集のつかない正邪に、まともな判断は出来ない。
ただ、『先生』のせいだと、自分は悪くないと肯定する事でしか自分を慰められなかった。
現実から目を背け、そして目を閉じる正邪。
疲れた頭に、すぐに眠気はやって来る。
瞼の裏に映ったのは、正邪のアイデンティティに、少しの亀裂が走る光景だった。
鬼人正邪がずっとイライラしてた理由は、『先生』にイラついていたのが6割、残り4割は自分の計画が失敗し、逃亡生活にて溜まったストレスです。
自分の苛立ちを何かと理由を付けて相手が悪いと当たり散らして発散しているわけですね、可愛いね。