微睡んで、僅かばかりの覚醒。
吐き気は無い、ベットが固くない、飛び起きて周囲を警戒する必要も無い。
久しぶりに、ゆっくりと起きられる———筈だった。
「…やぁ、おはよう正邪…ゆっくり眠れたかい?」
「…うるさい、なんで、起き抜けにお前が居るんだ」
すぐ隣の椅子に『先生』が座っていた。
途端に心地良い起床が最悪の物に変化する。
なんだって朝からこんな奴の顔を見ないといけないんだ。
心配だから見ていたとでも言いたいのだろうか。
それこそありがた迷惑だ、誰も頼んでない、意味の無い行動だ。
「君が心配で、ね」
「…気持ち悪い」
あぁ、やっぱりだ、心底気持ち悪い。
身体を『先生』の反対側に向け、極力彼の方を見ない様にする。
彼の発言も、もう無視だ。
ずけずけ心に入り込んで来るのが、耐えられない。
「気持ち悪いかい?すぐに薬を———」
「てめぇだよ、偽善者が」
思わず反応してしまった。
馬鹿らしい、昨日の態度を見ていなかったのか?どう考えても『先生』が気持ち悪いと言う意味にしか聞こえない筈なのに。
それとも、本気で心配して———
…また、これだ。
こんな考えが、こんな思考が、くだらない。
横目で『先生』を睨むと、彼は少し傷付いた表情で笑っていた。
その姿を見て、多少の溜飲は下がる。
「…はは、そりゃそうか、所で体は痛むかい?」
「…」
「お腹は…空いているかい?」
「…空いてねぇから、さっさと消えろよ」
このまま、質問攻めされるのではないか。
『先生』の声なんてもう聞きたくなかった正邪は、そんな事態に恐れて、はっきりと『先生』を『拒否』した。
なのに———
く〜きゅるきゅるきゅる。
身体が、それを許してくれない。
「…〜〜〜!!」
「…ふふふ、今から何か、朝食を作ってくるからね」
…正邪だって一人の女の子で、一端の乙女だ。
お腹の音もこうもはっきり聞かれると恥ずかしいし、更にそれをこの男に聞かれたとなると———
もう、顔は真っ赤で。
怒っているのか、恥ずかしいのか、自分でも分からなくて。
言葉にする事も遥かに遠く。
正邪は口をパクパクさせて、キッチンに向かう『先生』を見送る事しか出来なかった。
◆◆
「お待たせ、正邪」
「…待って、ない」
正邪は布団に覆われていた。
一対の角が僅かに布団を押し上げている。
骨折で腕が動かせない彼女だが、身じろぎしてなんとか布団に引き篭もる事は成功した様だった。
正邪のその防御体制に、『先生』は思わずクスリと笑ってしまいそうだったが、穏やかに言葉を告げる。
「そんなに恥ずかしがらないでおくれよ、胃に優しい粥を作ったから」
「…」
正邪が、耳の辺りまで顔を出す。
その瞬間、布団の中では分からなかった匂いが鼻腔をくすぐった。
味噌と、米の甘い匂い…それと、卵の匂い?
鼻先が、僅かに湿る感覚。
出来立てで、湯気が上がっているのだ。
視界を上げると、湯気の立つ茶碗を持った『先生』が、ニッコリと微笑んでいた。
その笑顔が鬱陶しいが、今だけはそれを感じなかった。
食欲の方が、今は優っている。
———だが。
「…いら、ない、捨てちまえ、そんなの」
彼女は悲しいほどに、天邪鬼だった。
これが天邪鬼なのだ。
嘘を吐けた、私はバカみたいな正直者なんかじゃない。
不思議な満足感で胸が一杯になる。
頭の中がぐるぐるして、これで良い、と、アイデンティティがそう叫ぶ。
腕が動けば、彼女は茶碗をひっくり返していただろう。
「栄養を考えて作ったけど、不味くはないと思うよ」
「…」
無視。
「お願いだよ、食べてくれないかな?」
「…」
粥の中身が木製のスプーンで掬われ、僅かに近付けられる。
食欲が、暴れ出す。
嘘で、それを雁字搦めに縛り付ける。
私はこんな物要らない、と。
「君が心配なんだ、少しでもいいから…ね?」
「…っ」
うるさい、うるさい、うるさい。
もう我慢出来ないと、怒鳴ってしまおうと、正邪は口を開いた。
「…っ…」
「…?」
だが、言葉が続かない。
口が小さく開いて、半開きの状態で、動かない。
「…!…ちょっと待ってね」
「…?」
なんで、口が開いたままで動かない?
なんで、あの男はスプーンに向かって息を吹き掛けてる?
「ほら、もう、熱くないから」
「…っ…!!」
『先生』が、少量の粥が入ったスプーンを、正邪の口にやる。
…それは。
それは、駄目だ。
駄目だ、駄目だ駄目だ。
やめろ。
口、閉じろ。
閉じろ、閉じろ!閉じろ!!
「はい、あーん」
スプーンが、正邪の口に差し込まれる。
———なんで。
(なんで…こんなに…!!)
思考の中ですら、言葉が続かない。
決壊しそうな感情は、幾つもあった。
なんでこんなに美味しいのか、なんでこんなに自分は馬鹿で、情けないのか。
なんでこんなに…優しく接するのか。
もう、収拾が付かない。
瞳から、混ざり合って最早何なのかすら分からない物が溢れ出す。
「…っんぐ、ふぐっ…」
飲み込む。
口の中の物も、感情も、溢れ出す物も。
一ヶ月マトモな物を食べていなかった正邪に、これは劇毒だった。
蕩けるほどに、甘い毒。
胃の中の善意が、正邪のアイデンティティを土足で犯して、ぐちゃぐちゃに散らかす。
「…熱かったかい?」
「…っ黙れ…さっさと…っ次、出せよ…」
せめてこの顔を見られない様に、俯く。
マトモな思考が出来ない頭は、『次』を催促する。
溢れて頬を伝う物が、薄い布団にシミを作っていく。
『先生』は何も言わない。
何も言わずに、スプーンをまた差し出す。
「…んぐ」
もう、怒りも何も無い。
いや、嘘だ、怒りはある。
ただ、オーバーフローしてしまったのだ。
だから浮かぶのは一つ。
早くこの時間が終わって欲しいと。
諦めだった。
「…んぐ」
『先生』の顔を見たくない、見れない。
あの偽善者の顔を見たら、またおかしくなる。
だと言うのに、その偽善者の施しを黙々と受けている自分が、情けなくてしょうがない。
「…んぐ」
…
「…んぐ」
…また、沸々と怒りが湧く。
『先生』に、ではなく、間違いなく自分に。
『悪くない』と、感じてしまっている自分にだ。
認められない。
何がお粥だ、何が、『君が心配』だ、何が優しさだ!!
認められるか!
認められるか!!
認めてやるもんか!!!
「…」
「…正邪?」
歯がギリギリ鳴って、苦痛を呼ぶ。
心と身体が正反対なこんな状態は、耐えられない。
身体がおかしい、『先生』をまるで認めているかの様で。
心は正しい、『先生』なんか偽善なのだ。
私は正しい、身体がおかしい。
正しく在る為には、辻褄を合わせろ。
『悪くない』、そう感じている身体の芯を、ひっくり返すのだ。
「どうし———」
「ぅあああッ!!」
———ガシャン。
正邪の手が、『先生』の持つ皿に直撃する。
甲高い音が響いて、一瞬の無音が流れる。
手が骨折しているのに、だとか、そんな事は考えもしなかった。
床に粥が広がって、匂いがそこらに充満する。
食欲を唆る匂い、身体の温まる熱気。
それは吐き気を催し、背筋に嫌な汗を作る原因だった。
正しい、何も間違ってない。
正邪はそう言い聞かせて、嘲る様に顔を歪めるが、『先生』の方を見ることが出来ない。
嘲りの笑顔は引き攣った笑顔とも呼べない代物でしかなく、瞬きも出来ずに、床に広がる粥を見続けることしか出来ない。
皿をはたき落とした手が、今になって激痛を呼ぶ。
芯から響く骨の叫びが、正邪に汗を吹き出させる。
なのに、身じろぎも出来ない。
身体が、目が、思考が、固まって動かない。
「…正邪」
ビクン。
動かなかった身体が、いとも容易く跳ねる。
正邪の視界の先の、包帯にまみれた手のひらは、僅かに震えていた。
まるで自分が折檻を恐れる子供の様で、必死に震えを止めようと身体に力を込める。
けれども、震えは止まらず、それどころか視界までも揺れる。
違う、違う、違う。
こうじゃない、こんな反応じゃない。
私は悪趣味に笑って、アイツは訳の分からないモノを見る様な目で私を見て、やっぱり偽善だって、吐き捨てる筈で。
そうなって…私は…
私は…
手のひらが痛くて、骨が悲鳴を上げて、考えが纏まらない。
そんな時、『先生』の声が響いた。
「…怪我、してないかい?」
反射的に、『先生』の方に顔を向ける。
…期待していた答えは、『何をするんだ』とか、『ふざけるな』とか。
なのに。
なのに…なんで…コイツは…
———-なんで、その目を止められないんだ。
「…ぁあ…っぅあ…」
「破片は…うん、刺さってないね」
声が、漏れる。
嗚咽が、溢れる。
なんで、そんな目で見るんだ。
『天邪鬼』の私を、そんな目で見るな。
「手の方は…」
「いつっ…」
「少し…痛めちゃってるかな…」
『先生』が、私の手のひらを割れものを扱うかの様に撫でる。
包帯越しでも痛みが走り、思わず声が漏れてしまう。
「駄目だよ、こんなことしちゃ」
それは、待ち望んだ答え。
善意で塗装された、自画自賛とエゴが透けて見える言葉。
やっぱりだ、やっぱりだ!
お前は自分の偽善を優しさと勘違いして、それに酔いしれているだけだ!
間違いない!やっぱり怒ってるんだろ!?折角用意した粥を、この私が弾き飛ばしてやったんだから!!
そんな目をしていながら!心の内は違う!!
お前は結局!自分の事しか考えてないんだよ!!
なんだ?次の言葉は『優しさを無下にするな』か?それとも『用意されたものくらい食べろ』か?
死ね!死ね!!死ね!!!
やっぱり大嫌いだ!!
お前なんて嫌いだ!!
心の底から嫌いだ!!
『悪くない』なんて感じた私も!こんなクソみたいな善意も!全部嘘だ!!
これで心置き無く、お前を嫌いになれる!!
これで心置き無く!私は私を!!『天邪鬼』だと———
「もっと自分を大切にするんだよ」
「…ぁ……ぇ…?」
愉悦に歪む笑顔に、ヒビが入る。
なに、いってるんだ?
自分を大切にしろ?
怒りじゃない、不満でもない。
ただ純粋な心配。
『先生』の瞳が、優しく正邪を射抜く。
「…ぁ…」
正邪の瞳が、激しく揺れ動く。
真綿でゆっくりと首を絞められる感覚、正邪の動悸が激しくなっていく。
途端に、目の前に散らばった粥の残骸が、無性に虚しいものに変わる。
「……」
無意識が、正邪を突き動かす。
それに、床に落ちた粥に手を伸ばしてしまったのだ。
直後、その手を『先生』に優しく掴まれて、頭を撫でられる。
「私が片付けておくからね、ついでに軟膏も取ってくるよ…一応聞くけど…おかわりはいるかい?」
掴まれてから、正邪の意識が戻った。
反射的に『先生』の手を引っ剥がす様に腕を引っ込める。
思考が麻痺した様に、上手く働かない。
ぼうっと、連続的に事実が現れていき、正邪の中に無理矢理押し入っていく。
頭を撫でられた感覚に、喉を掻きむしりたくなる。
『先生』の言葉に、正邪は歯を食いしばる。
今になって、手の痛みがぶり返して来る。
———私の気も知らないで、また、呑気に心配そうな言葉を掛けてくるな。
喉を振り絞って、声を絞り出す。
「…い、いら…いらな、い…」
「…そう、かい…また昼にも用意するから、その時はしっかり食べてね」
絞り出した声は、あまりに弱々しい。
———それじゃ…拒否出来ていないのと、同じじゃないか。
まるで、駄々を捏ねる子供みたいな姿。
これまでどんな助けでも拒否してきた『天邪鬼』から、遠く掛け離れた姿。
目の前で粥と皿を掃除する『先生』の姿が、脳に残り続ける。
正邪は、ぎゅっと目を閉じた。
痛みからなのか、涙腺に溜まった涙が、まつ毛と涙袋を濡らす。
やがて、足元と共に、パタンと、扉が閉められた音が鳴った。
「…私は…何をやってるんだ…」
アイデンティティの亀裂が、深くなる。