魔法の森に常人が住める訳ないだろ!いい加減にしろ!
窓から漏れる自然光が、正邪の網膜に届いて起床を促す。
極めて健康的な朝だ。
「…やぁ、おはよう、正邪」
「…死ね」
———すぐ側に『先生』が居る事を除けば、だが。
何故頼んでもいなければ呼んでもいないのに、こうも毎度毎度朝一番の時間を台無しにするのだろうか。
その癖、正邪より遅くに寝ているのに、まるで眠たいと言うそぶりを見せない。
どんなバイタリティをしているのか逆に分からないものだ。
「元気になって来たね、流石は正邪だよ」
「当たり前だろ、私は妖怪なんだから」
実の所、この『先生』の家に来て、短くない日にちが経っていた。
正直、最悪な日々だった。
酷いのは、風呂とトイレ。
ベットから一歩たりとも動けない正邪は、勿論風呂にもトイレにもいけない。
そうなると、必然的に第三者の助けが必要だ。
そう、『先生』の、助けが。
勿論、『天邪鬼』として助けを借りるなんて事は出来ない。
しかし、乙女としての尊厳もある。
正直に言おう…汗臭いのだ。
逃亡生活では、必死であるが故に体臭はあまり気にならなかったし、行水に行こうと思えば何とか行けた。
しかし、こうもベットで寝たきり生活をしていると、シーツに汗と汚れが溜まるし、寝てばかりで寝汗も多い。
憎たらしい『先生』は今の所、顔色一つ変えずにいつもの偽善な微笑みを続けているが、正邪は耐えられない。
トイレもそうだ、漏らすのは論外だ。
『先生』に風呂はどうか、トイレはどうかと尋ねられた事もあったが、悉くを突っぱねてしまった正邪に残された道は一つだった。
夜中に、先生に気付かれずにこっそり済ませる事。
結果的に言えば、失敗だった。
ベットから出たのはその時が初めてだったし、治りが早いと言っても、足の至る所の骨がバキバキだった正邪にとって、歩くという行為は遥かに難しかった。
具体的には、ベットを出て扉を開けたタイミングで転倒し、痛みに大声を上げてしまったのだ。
そこに、『先生』が飛んできた。
『先生』は正邪を見るなり、『大丈夫!?』だとか、『どうしたんだい!?』だとか宣っていた。
正邪は何も言えなかった。
風呂とトイレの為にここまで騒ぎ立てたという事実を、『先生』に知られたくなかった。
しかし疑問を無言で返し続けるうちに。
『…もしかして…トイレ?』
不覚にも、正邪の肩が跳ねてしまった。
気まずい無言の間。
不意に、『先生』が動いた。
『先生』の一方の腕が腰に回され、もう一方は太ももに。
腕、足の負担の少ない横抱きで、正邪は持ち上げられたのだ。
『うわっ、うわぁっ!!おっ、降ろせ!!』
一瞬何をされたのか分からなかった、しかしそれがお姫様抱っこなのだと理解すると、正邪は『先生』の頭を叩いて反抗した。
単純に恥ずかしかった。
しかし、そんな抵抗をものともせず、『先生』はトイレに到着し、ドアの前で待つどころか———
『やっ、やめろって!!一人で出来るから!!やめろっ!!』
『ごめんね、でも危険だから』
…まぁ、そういう事だ。
『先生』の表情は硬く、鼻の下を伸ばすなんて事もしなかった。
淡々と、興奮も下心も無く。
敢えて言うならば…介護?
言外に正邪に魅力がないと言われている様で少々腹が立ったが、それよりも恥ずかしさの方が勝っていた。
風呂も、直接シャワーや湯船に浸かったわけではないが、服を脱がされて、蒸らしたタオルで全身を拭かれた。
これも下着一枚で、恥ずかしかった、思い出したくもない。
…一人でやっていたら、確かに怪我が酷くなっていたかもしれない。
その考えがよぎって、頭を振る。
———それは違う、一人でも出来たし、アイツのせいで恥ずかしい目にも遭わされた。
だから、違う。
『先生』は助けなんかじゃない、ただの偽善者で、愚かな人間だ、と。
目の前でニコニコ笑う男を睨み付ける。
「そんなに睨まないでおくれよ、ご飯、置いとくからね」
「…チッ」
正邪の腕もかなり回復した。
スプーンすら持たなかった手のひらは、痛みはあるが茶碗を持てるまでに回復した。
もう、『先生』のあーんなんて気色悪い真似はされずに済むのだ。
ただ、この時点で気付いたこともあった。
『身代わり地蔵』と『打出の小槌(レプリカ)』が無くなってる事だ。
いつもの服装が『先生』の家の服に変わっていた時点で気付くべきだったが、色々な事が起こり過ぎて気付かなかった。
多分、あの『先生』の事だ、この家の何処かしらに保管してあるのだろう。
怪我が治ったら、直ぐにでも探し出して、こんな家からはおさらばだ。
部屋を出て行った『先生』を横目に、正邪は歯を磨きつつ、トレーに盛り付けられた朝ごはんに目を向けた。
白米、味噌汁、オムレツと野菜の盛り合わせ。
ここでの食事は栄養バランスがいい、それに美味い。
一度はご飯をひっくり返した事もあったが、この親切を『受け入れた』訳じゃない、『利用している』だけという結論で自分を納得させた。
それに、何もする事がない、むしろ苦痛なこの状況。
楽しみなのは、食事くらいだ。
「…んぐ」
咀嚼する。
やっぱり、美味しい。
腹が立つ美味さだ、店でもやってるんじゃないのか。
あっという間に皿の上が空になったところで、正邪は布団に寝転がって、また眠ろうとした———その時。
「おーーーい!!いるかー?邪魔するぞーー!」
「っ!?」
一音一音がはっきり響く、明瞭かつ高い声。
芯の通ったその声に正邪は驚き、反射的に布団をかぶってしまった。
「慧音先生!?ちょっと今は手が離せないので、先に上がってくださーい!」
「あいわかった!」
先の声を聞くと、『先生』の声が小さいものに聞こえてくる。
多分、面と向かって聞いていたら鼓膜がビリビリと震えていただろう。
そんな事より、『慧音先生』、だと?
名前だけ、聞いた事がある、寺子屋の教師だ。
自分のことを知っているかも知れない人間。
途端、布団の中が蒸し暑くなったような気がした。
バレたら———全部が終わる。
「客間は…いや、ここは寝室か、はて、どこだったかな…」
「っ!」
扉の音が鳴る。
すぐ近く、この部屋の扉の音。
唇が乾く。
心臓が暴れる。
———早く、出て行ってくれ。
「…ん?」
「…っひゅ」
声の向き、視線、布団越しに感じる。
———-こっちに気付いた。
不味い、不味い、不味い。
布団を捲られたら、誤魔化せない。
今すぐここから逃げる?
無理だ、今の足じゃ、走る事も出来ない。
歯が震える、冷や汗が止まらない。
「…誰だ?」
声、既に枕元にまで来ている。
瞬きが出来ない。
心臓がうるさいのに、心臓が止まってる様だ。
苦しいのに、呼吸すら出来ない。
布団を捲る手が、すぐそこに———
「慧音先生」
別の声。
落ち着いた、優しい声、『先生』だ。
「その子は、怪我をしてて、今うちで治療しているんです…人見知りだから、そっとしておいてあげて下さい」
呼吸が、戻って来る。
大きく深呼吸しようとして、それをグッと堪え、少しずつ息を吸った。
「ああ、そうか…すまなかった…君も、悪かったな」
「…」
背筋の汗が酷い、服が張り付いて、酷く気持ち悪い。
しかしまだ、動けない。
「客室はこっちですよ」
「そうだったか、しかし、貴方が暫く休んでいたのもこの子の為だったか」
「えぇ、ご迷惑をおかけして申し訳無い」
「いやなに、元々一人でやっていたからな、問題は無いさ」
「この埋め合わせはいつもの居酒屋で…」
「ははは、それならご馳走になろうかな」
「ふふ、それよりも、暫くの出勤日程の調整を———」
「あぁ、そうだったな———」
二人分の足音が遠ざかる、扉の音が鳴る。
錆び付いた体を無理やり動かして、恐る恐る、布団から顔を出す。
2人は居ない、響くのは正邪の心臓の音だけ。
「っはぁ…はぁ、はぁ…はぁ…」
危機は去った。
ようやくソレを認識出来て、抑えていた呼吸が息を吹き返した。
本当に、生きた心地がしない。
頭がぼーっとする。
布団から出たのに、熱気の殻で包まれている。
極度の緊張で、酸欠でも起こしたか。
————まぁ、正体がバレるよりマシだ。
正邪は別に人見知りでも何でもないが、『先生』が機転を効かしてくれた。
『先生』が何を思ったのか、何を勘違いしたのかは知らない。
しかし、正邪にとっての窮地を救ったという事実だけは残る。
全く、『先生』のおかげで助かった。
「…ぁ…?」
…助かった?
『先生』の?おかげで?助かった?
———あ、だめだ、これは。
完全に、考えてしまった。
嘘で塗装したアイデンティティから、溢れてしまった。
反発すらなく、漏れてしまった。
あってはならない、本音。
「っあ…ちがう…ちが、っちがう…」
熱気の殻が壊れて、冷たいモノで包まれる。
寒い、震えているのに、喉が焼けるように熱い。
瞳が揺れて、瞳孔が開く。
否定しても、否定しても、他ならない自分に指を差される。
————今のお前は、一体何だ?
あ、『天邪鬼』だ、私は『天邪鬼』だ!!
どんな助けも嗤って、仇を返す、嫌われてこその『天邪鬼』だ!!
じゃあ『助かった』って何なんだ、感謝してこその『天邪鬼』か!?
違うだろ!違うだろ!?まだ私は『天邪鬼』なんだ!!
全部嘘だ!!『先生』の優しさも!あの助けも!!あの粥も!!全部全部全部嘘だ!
私は『天邪鬼』だ、自分を鼓舞しようとして———出来ない。
「…ふっ…ぐ…ぅ…うううう…」
堪えても、嗚咽が、涙が漏れる。
情けない声を聞きたくなくて、精一杯顔を枕に押し付けた。
こんな気持ちになるのも全部アイツのせいだ。
アイツが私を助けたからだ。
あの優しい目が、私を射抜くからだ。
ここに、居るからだ。
———もう、だめだ。
今日中に、ここを出る。
これ以上こんな所に居たら、おかしくなってしまう。
「おーーーい!少し外出するからね!!昼までには戻るよー!!安静にしててねー!!」
「っ!!」
昼、まで。
昼まで、アイツの姿が消える。
おあつらえ向きだ。
まるで、運命が今すぐに決行しろと叫んでいる様に。
直ぐに二人分の足音と話し声が扉越しに響き、続いて扉の音がバタンと鳴る。
残った音は、正邪の心音と呼吸音だけ。
「………」
途端、正邪の身体は酷く小さく、この家は酷く大きく見える様に錯覚してしまう。
腕も、足も、息も、視線も、心臓すらも、まるで自分じゃない誰かが動かしている様で、頭がくらくらする。
———これは何だ?
アイツはこの家から、目の前から居なくなったのに、安心どころか、喉が閉まって息が苦しい。
強引に空気を飲み込んで、それでも動悸がする。
それは異様な喪失感だった。
最早嗅ぎ慣れたこの家の匂いすらも、何かが欠けている。
本能的に、正邪は頭を振ってその考えを吹き飛ばす。
逃避、と言うより、正邪はそれに対してどの様な名前をつければ良いのか見当も付かなかったからだ。
「…『打出の小槌(レプリカ)』と『身代わり地蔵』を…取って、逃げる…出来るだろ、それくらい…一瞬だろ、直ぐ終わらせて…ここから…逃げないと…」
ボソボソと、言い聞かせる。
小さな声は響く事なく空気に溶ける。
しかし、行動に移す宣言としては十分だった。
正邪は滑り落ちる様にベットから這い出、子鹿の様に震える足でゆっくり立ち上がる。
未だ完全に治癒していない骨の奥が、ヒビが残る骨の外が、衰えた筋肉が、ボロボロの靭帯が。
痛い、痛い、痛い。
「ふぐぅっ…!!…ぐぅ…!!」
トイレに行こうとした時に、転倒してしまったからなのか、痛みが酷い。
痛みに歯を食いしばり、涙すら浮き出る。
それでも、正邪は歩を進めた。
全ては、逃げる為の反則道具を回収する為に。
この家を出る為に。
———-『自分』を、確固たる物に補強する為に。
ご拝読ありがとうございます。
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1日2話投稿…身体…待ってくれよ…!!