『先生』の家は狭く、普通の西洋の一軒家ほどの広さしかなかった。
なのに、終わりの見えない洞窟のように広い。
10歩進む為に1分、部屋を1周するのに15分、致命的なまでの正邪の足の遅さが、その矛盾を生んでいた。
更に、酷い苦痛の中での探索。
叫びたくなる程の苦痛、それでも、彼女の頭に『やめる』の選択肢はなかった。
「っふっ…っふぅううう…ぐぅうう…っ…!!」
自分のアイデンティティを守る為に、一刻も早く反則アイテムを見つけて、ここを出る。
その考えで思考は埋め尽くされていた。
幸いな事に、『先生』の家は整理整頓が行き届いていて、どうしても探せない場所などは無い。
———しかし。
「クソ…ッ…!何処に…!何処にあるんだ…!!」
見つからない。
粗方の部屋、手入れの行き届いたキッチンや、僅かしか使用されてない物置部屋までも探した。
しかし、見つからないのだ。
残るはあと一部屋。
運が悪いのか、それとも捨てられてしまったのか。
多分、前者だろう。
あの性格からして、他人の持ち物を易々とは捨てない筈だ。
「んっ…くっ…」
壁を支えにしながら、最後に残った部屋の扉を開ける。
キィ、と、小さな軋みと共に、特徴的な匂いが鼻腔を貫いた。
インクと紙の、独特の匂いだ。
その部屋はまるで書斎だった。
両壁に沿って、二つ三つの本棚が対照的に置かれている。
正面には、文房具などが置かれた机、読みかけだろう本も積まれている。
遠目から見る限り、6割程は何かしらの教本のようだった。
特に国語、数学、理科の本が多いように感じる。
それ以外は、よく分からない人物が書く、よく分からない本ばかりだった。
外国産の横文字の本もあれば、全く読めない文字の物もある。
それが何かの論文だろうが、興味深い物語だろうが、正邪には興味も湧かない代物ではあるが。
———それよりも。
「あ、あった…っあった!」
机の上に、並んだ二つの異物。
この空間には異質なモノ、『身代わり地蔵』と『打出の小槌(レプリカ)』だ。
軋む身体を無視して、前進。
誰も居ないのに、椅子をどかし、奪い取るかのように机の上の二つをぶん取って懐に入れる。
「ははっ…やった…これで———-」
瞬間、二つの反則アイテムに気を取られて窄んでいた視界が、あるものを捉える。
同じく机の上に置かれている、一冊の本…いや、それよりも小さな物。
カバーは折れない程に厚く、地の部分も通常の本よりも少し厚い。
表題は短く、『日記』。
その時、正邪の背筋に電流、とまではいかないが、軽い瞬きが走った。
———ここなら、アイツの本音が書いてある。
あの『優しさ』、あの『瞳』、あの『言葉』。
全てがまやかしだと、偽物の嘘だと断定できる証拠が、この『日記』にある。
———ここなら、アイツの弱みが書いてある。
それをバラして仕舞えば、嫌われて仕舞えば、あんな態度も取れなくなる。
自分の行動が如何に偽善的であったかを思い知る。
…分かっている、そんな物は希望的観測でしかない。
だから、自分に嘘を吐く。
ある筈だと、無きゃおかしいと。
『天邪鬼』として生きる為に、必要なのだ。
アイツを認められない、認めたくない。
だからこそ、この身体も、この心も認める、確たる証拠を、決定的な理由を———
『日記』に伸びる腕は止められない、それに気づいた時点で、こうなる事が運命付けられたかの様に。
これは正しい行動か?
無意識に浮かぶ、同時に、身体がガクンと落ちそうになる。
頭痛が、脳を締め付ける。
まるで、疑問に押しつぶされるかの如く。
———正しいさ、正しいからやっているんだ。
これからも、正しくある為に、必要な事だ。
正邪のアイデンティティが、あらん限りの力でそう叫んでいた。