「…」
目が覚めた。
だが、夢から覚めていない気がする。
開かれた瞼に力が入らない。
視線を横に落とす。
アイツが居た、椅子に座ったまま、寝ていた。
「…」
眠ったはずなのに、眠った気がしない。
酷い頭痛が、頭の奥の奥で唸り続けている。
苦痛が痛みとして出力されず、濃縮された不快感として出力されている。
あの文章が、ずっと胸に貼りついている。
何も言えない。何もできない。
ただ、私という存在のどこかが、
見えない悲鳴をあげ続けてる。
濁った嗚咽を吐き続けている。
「…」
「…ん、正邪、おはよう」
怒ればいいのか?
泣けばいいのか?
忘れればいいのか?
でも、どれもできない。
私の心は、固まり、溶けて。
荒れて、凪いで。
呪いの様にあの日記の内容だけが刻み付けられて。
今にも暴れ出しそうに落ち着いている。
「昨日、何かあったかい?ずっと寝ていたけど…」
「…」
私の中に、『私』がいない。
砕け散った『私』が、私を見ている。
残っているのは、ぐずぐずとした、柔らかくて、
爆発しそうな、得体の知れない塊だけ。
「…っ…」
身体がぐるぐる回転している様に覚束無い、吐き気がする。
血液が止めどなく正体不明の塊を運ぶ。
凍り付いた身体の前には、それはただの無意味な塊に過ぎなかった。
もう、何も変えられない。
全て壊れてしまったのだ。
凍った絶望が、私を包み込んでいる。
こんな私は、一体何者なのだろうか。
最早何を信じて、何を否定したかったのだろうか、分からない。
ただ、分からない。
霧の様な混乱が、私を抱いている。
『先生』はずっと優しかった。
認められなかった。
ついに認めてしまった。
何故、認めてしまったんだ。
それさえ無ければ、私が認めさえしなければ。
皮膚の下、マグマの様な潜熱が駆け巡る。
「…」
全部、見なかった事にしたい。
「取り敢えず、ご飯にしようか、その後ゆっくり話そうね」
アイツが、伸びをしながら席を立とうとする。
世界は緩慢で、まるでスローモーション。
絶望をゆっくり味わえとでも言いたいのか。
嵐の様な感情を処理する為なのか。
どうでもいい。
心の外側は、今にも暴れ出したいと騒いでいるが、内側には波風一つ立たない。
さながら台風の目の様で、悲しみも怒りも、全て無感情に通り過ぎて行く。
外の温度が感じられない。
こんなにも寒いのに。
心が凍って、溶けて、沸騰して。
変容を繰り返しながら、不安定な安定を続けるソレはまさに超臨界流体。
「…っ………」
重圧が、重くなる。
感情が圧死する重力の中で、世界にノイズが走って行く。
世界は止まって、私は無限の思考の海に立っていた。
私は天邪鬼だ、そう叫ぼうとして、私は水の中へ沈んでいった。
息が出来ない、何者でもない私に、そんな権利は無い。
何も出来ない、したくない。
このまま眠って仕舞えば、私は消えてなくなってしまうだろうか。
それでもいいかも知れない。
「…」
いやだ、そんなわけない。
死にたくなんかない、消えたくなんかない。
みっともない生存本能、もうそれしか道は無いのに、イヤイヤと首を振っている。
息が苦しい、なんでこんなに苦しいんだ?
「………」
なんでこんなに苦しいんだ?
なんでこんな思いをしているんだ?
どうして私はこんな目に遭っている?
どうしてこんなに苦しいんだ?
なんで私はここで寝ている?
どうしてこんな思いをしているんだ?
どうしてアイツは『先生』と言ったんだ?
どうして私はここにいる?
なんでアイツはここにいる?
どうしてあの日記を書いたんだ?
どうして私をあんな目で見たんだ?
なんで私を助けたんだ?
どうしてあの粥を出した?
どうして私はあの粥を払い除けた?
どうしてこんなに苦しいんだ?
なんでこんな思いをしているんだ?
どうして私はここにいる?
なんで?どうして?
「…………ぁ…あ…」
私は『天邪鬼』だった。
ずっとそうだった。
誰の言葉にも従わず、誰の助けも受けず、この世界を、歪んだままで生きてきた。
じゃあ……どうしてだ?
どうしてあんな日記ひとつで、心がこんなにもバラバラになった?
どうして———『優しさ』なんかで、こんなにぐちゃぐちゃになる?
どうして———『認められる』ことが、こんなにも苦しい?
あいつが悪いんだろ?
そうだろ?
あいつが勝手に踏み込んできて。
勝手に粥を差し出して。
勝手に日記なんて書いて、私の心を勝手に覗いて。
勝手に、勝手に、勝手に……!!
違う……私が悪い? 本当に?
私が弱かったから? 私が受け入れてしまったから?
……でも。
でも、私は、『優しさ』なんて求めてなかった。
ずっと、『反発』だけが自分を守ってくれると思ってた。
じゃあ……
あの温かさはなんだった?
あの声は? あの眼差しは?
あれは、あれは全部……罠だったのか? ただの、甘い毒だったのか?
どうして私はあれを受け取った?
どうして私は、『悪くない』なんて思ってしまった?
どうして、私は———壊れてしまった……?
誰のせいだ……?
……誰のせいなんだ……!?
……ああ、もう。
わからない……
わからないわからないわからないわからない。
だけど……だけど、一つだけ言える。
アイツがいなければ、こんなことにはならなかった———
「…っ」
そうだ、アイツだ。
アイツのせいだ。
全て!アイツの!!
『優しさ』なんて見せなけりゃ、私はこんなにも壊れなかった!
私の名前を聞かなければ、『正邪』なんて答えなかった!
勝手に粥なんか作らなければ、私はあんな味に涙を流すこともなかった!
あんな日記書かなけりゃ…私は、『わかってしまう』事なんて、なかった。
わかりたくなんかなかった。
理解なんか、したくなかった。
優しさの裏に、真実があったとしても、それが本物だったとしても。
そんなの、認めたら終わりなんだよ。
私は、『反発』で生きてきた。
『天邪鬼』であることだけが、私を私たらしめてきた。
その私にも…!
『自分を自分だって認めて生きて行く』?
『自分を受け入れる』?
ふざけんなよ。
ふざけんなよ!!!
私の命の形を、存在理由を!塗り替えるなよ!奪うなよ!!
お前が居るから。
私の『天邪鬼』は形を保てなくなったんだ…
お前が正しいから。
私の『間違い』が暴かれていくんだ…!
お前が『赦そう』とするから、
私は自分を裁けなくなるんだ!!
お前が『優しく在る』ことを選んだって?
知らねえよ。
それで私が壊れたなら、私は———
「…わ、た…し…は……」
お前を壊さないと、私の全部が壊れたままなんだ。
そうさ。
お前がいなくなればいい。
それだけで。
ただそれだけで。
きっと、きっと。
私は『正邪』に戻れる。
『ひっくり返す者』に戻れる。
だったら。
「…」
もう、迷う必要はないじゃないか。
「…正邪、横になって待ってて————」
ごちゅっ。
「———っあ、れ…?」
…あれ?
どうして、私は立っている?
手。
手が、この手に、血が…
手から何かが滑り落ちた。
ゴン、床から鈍い音が鳴って初めて、それが『打出の小槌(レプリカ)』だと分かった。
あれ?
なんで、これを持っていたんだ?
なんで、お前が倒れてる?
あれ?
あれあれあれあれ?
「…ぁっ…あ…お、おい…あれ?…おいって……」
赤い。
目の前が赤くて、赤が広がっている。
残像が、手に残っている。
記憶にノイズが走っている。
骨を容易く割った音、器の縁を砕いた音、入り混じって、最早何なのかは分からない。
中身に到達して、肉を直に触った様な気持ち悪い感触が首を絞めている。
血の匂いが充満している。
頬についた液体が滴り落ちる。
叩き付けた腕は確かに何かを砕いた。
この手で。
この、自分の手で。
一瞬だった、それは永遠の苦しみだった。
「………え…?…え……?」
体が震えている。
痛み?
違う、そんな物、今は気にならない。
これは、なんだ?何でこんなに体が震えている?
視界が、ひどく狭い。
目の前に倒れ込んだ『先生』の姿だけが、まるで暗闇に浮かぶ幻のように、そこにあった。
口から意味を伴っていない言葉が漏れている。
それは疑問の形をしていたが、自分でも何を問いかけているのか分からなかった。
ただ、『やった』のだ。
でも、『やった』という確信も、『やってしまった』という後悔も、まだそこにない。
ただ曖昧な概念だけ。
脳が、真っ白だった。
自分が何をして、何を見ていて、どこにいて、何をしてしまったのか。
すべてが遠くて、近い。
「……ははっ」
声が漏れた。
乾いた笑いだった。
心がついてこないまま、口が勝手に笑った。
おかしい。
何もかもが。
何もかもがおかしい。
『先生』は動かない。
なあ、何か言えよ。
いつもみたいに、優しい声で、何か言ってくれよ。
なぁ。
綺麗事でいいから、なんでもいいから。
『大丈夫かい?』でもいい。
『おはよう』でもいい。
起きてくれ。
頼むから————
「……ちが、ちがう……違う、違う違う違う……っ」
口から溢れる言葉は否定ばかり。
でも、自分がやったんだ。
殺すためじゃない。
『天邪鬼』であるために。
自分を守るために。
自分が壊れないために。
そのはずだった。
なのに———なぜ、こんなに寒い?
床に膝をついた。
服が血を吸って、生暖かい温度を伝える。
肩が震える。
涙が、勝手にこぼれる。
「……『せ、ん…せい』……『せん、せい』…『先生』…!」
吐き捨てるように言ったその名。
初めて口に出したその言葉。
慣れなくて、慣れなくて、口が回らない。
一生呼ぶ事なんてないと思っていた言葉を綴る。
一音一音を確かめる様に、『先生』を、呼ぶ。
こんなにも、ひどく優しく、虚しく響いた。
正邪は可愛いね。