倒れ伏す『先生』の背を、私は見下ろしていた。
目の前にあるのは、ただ、静止した一つの影。
ぴくりとも動かない。ぬくもりも、言葉も、戻ってこない。
あの人は———私の手で、倒れた。
空っぽだ。
私の中の何かが、真っ黒な空洞になっている。
冷たい、何もない、何も響かない。
『私』が、私に問いかけてきた。
「アイツは、嫌いになれたか?」
———なれなかった。
「アイツを、否定できたか?」
———できなかった。
「アイツの言葉は、嘘だったか?」
———嘘じゃ、なかった。
「じゃあ、お前は、誰なんだ?」
わからない。
わからない。
わからない。
私は……私は…………
『先生』を壊せば、『天邪鬼』が帰ってくるはずだった。
それが、『私』の証明になるはずだった。
でも、戻ってこない。
何も、変わらない。
いや———失われただけだった。
『先生』の名前を、呼んでみた。
「…せん…せい…」
掠れた、頼りない声が喉の奥から漏れる。
名前を呼んでも、返ってくるのは沈黙だけ。
ただ、じわじわと、自分の中に『現実』が染みてくる。
服に滲む血のように、
確実に、取り返しがつかなくなっていく感覚。
私が、殺した。
この手で。
誰より優しくて、私のことを見てくれたかもしれない、その人を。
「違う、ちがう…違う…!」
頭を抱える。
否定する。
でも、どれだけ叫んでも、『それ』はそこにある。
「認められたかった」――そんな思考が過った瞬間、喉が冷たく凍りつく。
そんなの、私じゃない。
そんな感情は、私にあってはならない。
それは、私が『天邪鬼』じゃない証拠だ。
だけどこの胸を焼き尽くすような罪悪感と。
骨の髄まで染み込むような後悔と。
この全身を沈めるような絶望は。
———紛れもない『本物』。
「…もう……いやだ……」
何もしたくない。
いや、何もできない。
何も、残っていない。
殺しても、何も変わらなかった。
『先生』がいなくなっても、空虚が残っただけだった。
私は、このままここにいればいい。
このまま、動かずに、腐っていけばいい。
誰にも許されず、誰にも肯定されず。
この罪悪感と、自己矛盾に、ずっと沈んでいれば———それが罰だ、贖罪なんだ。
私は、そっと座り込んだ。
ゆっくりと、意識も、沈んでいく。
まるで深海に溺れるように。
もう、光も、苦しみも、何も、届かない。
———その時。
「……ぅ……」
耳が、音を拾った。
反射的に、私は顔を上げた。
そこにあったのは———
「っせ…せん…せい…!! 『先生』…! 『先生」っ!!」
足元の血を踏み越え、膝から崩れるようにその傍へ飛び込む。
肩を、服を、小さく揺さぶるたびに、柔らかい音が返るだけだった。
『先生』の目は半開きで、何かを見ているようで、何も見ていなかった。血が眼球を濁らせ、まるで壊れかけのガラス細工のように光っていた。
私は本能的に、頭から視線を逸らす。
見たくなかった。
あの色を、あの形を。
気持ち悪いからじゃない、罪悪感が、後悔が、それに形を与えて私の心に突き刺さるから。
「……おきろよ…『先生』…! なぁ…返事しろよ…!!」
叫んでも、返ってくるのは沈黙と冷たい空気だけだった。
でも———あの呻き声は、確かに先生の声だった。
助かるかもしれない。助けられるかもしれない。わずかな希望が、身体の奥底を蹴り上げた。
私は震える手で先生の首筋に触れた。
脈?分からない。
心臓?自分の心拍音のせいで、何が何だか分からない。
何をすればいい?何が正しい?心肺蘇生?止血?どうやって?
血が止まらない。
自分の服を引っ張って、頭に押し当てた、でも意味がない、ただ血が、赤が、私を嘲笑うように広がっていく。
分からない。何も分からない。
「っくそ…っ、なんで…! なんで止まらないんだよ…!」
助けたいのに、救いたいのに、私の手は、何一つ分からないまま空を切る。
それでも、私は動いた。
泣きながら、シーツを引き裂いて包帯代わりに巻いた。
ぐちゃぐちゃにして、血で汚れて、それでも構わなかった。
ぐるぐる巻いて、縛って、何もかもが間違っている気がして。
それでも、何かしないと、気が狂う。
矛盾してる。
今までの私なら、絶対にこんなことしなかった。
でも———止められなかった。
助けたい、それだけが、私の全てだった。
「お願い…お願いだから……生きてて……!」
でも、血は止まらない。
意識も戻らない。
温もりが手の中から、どんどん抜けていく。
このままじゃ———ダメだ。
考えが一つ、頭をよぎった。
———永遠亭に、連れて行こう。
簡単なことだ。
でも、私はずっとそれを思いつかなかった。
誰かを頼るなんて、誰かを救おうとするなんて、私の辞書には無かったから。
「『先生』っ、今すぐ連れてくから! 死ぬなよ…! 頼むからっ…!!」
恐怖はあった。
今さら外に出れば、誰かに見られる。
指名手配の身、捕まれば、殺されるかもしれない。
でもそんなの、どうでもよかった。
痛む体も、砕けそうな骨も、『天邪鬼』じゃないという絶望も、全部、全部、霞んでいた。
ただ、『先生』を助けたい。
その一心だけで。
「ぐっ……っああ……っ……!!」
私は『先生』を背負った。
崩れそうな膝、千切れそうな背筋、でも、そんなものは意識の外だった。
この人を、私は殺した。
この人を、私は…助けたい。
一歩、また一歩。
痛みが悲鳴を上げる。視界が歪む。息が詰まる。
それでも、私は走り出した。
朝を切り裂くように、肌寒い風の中へ。
私にできることは少ない。
でも、それでもいい。
空っぽでも、もう偽れない私でも、これだけは、これだけは本物だから。
◆◆
魔法の森を抜けたあたりで、私の体力はほとんど尽きかけていた。
いや、正確には———尽きかけていたのは、命そのものだったのかもしれない。
「げほっ…! ごほっ! っう、ぅおえっ……!」
喉が焼ける。
化けキノコの瘴気が肺の奥を犯していく。
咳と吐き気が、容赦なく私の身体を内側から引き裂く。
それでも、足を止めなかった。
後ろで『先生』の吐息が、微かに、首元で生きていた。
体力が切れても、骨が軋んでも、目の前の道だけを見て走る。
幸い、迷うことはなかった。
『先生』がいつも歩いていたのだろう、草を踏み慣らした細い獣道が、私を導いてくれていた。
「先生……もう少し……! すぐ……すぐだからっ……!」
声を出すたびに肺が悲鳴を上げる。
でも構わなかった。生きていることを信じたくて、何度も言葉を発した。
もうすぐ人里が見えるはず。
そこを抜ければ、永遠亭は近い。きっと———
見つからないように回り道をする、里を避けて森を迂回する、そんな発想は最初からなかった。
恐怖も、計算も、存在していなかった。
———早く。
———早く、助けないと。
———早く。早く。
その思考で、私はいっぱいだった。
その時だった。
『私』が、私に囁く。
———どうして、そこまでして助けたい?
分からない。
分かるはずがない。
得もしない。
誉れもない。
利も、報いも、なにもない。
まして、『天邪鬼』なら、こんなこと、するはずがない。
助けたところで、『私』が戻ってくるわけでもない。
『天邪鬼』としての誇りも、戻らない。
ただ、無様に生きて、ただ、足掻いているだけ。
なのに。
なのに、私は———
いいじゃないか。
助けたいと思ったんだから。
それだけで、もう理由になる。
支離滅裂だ。
過去の私と矛盾している。
一貫性なんて無い。
まるで、人間みたいな、弱くて、情けない在り方。
でも、それでも———
「うぐぅ……うああああっ!!!」
私は、私のすべてをかなぐり捨ててでも———
「絶対に助けるからっ!! だから…!!」
震える脚を叱りつけ、砕けそうな膝に命じるように地面を蹴る。
空っぽになったこの命を、今だけは燃や尽くす。
まるで一瞬の閃光のように、すべてを照らす。
「だからっ……!! 死なないで……っ!!!」
叫んだ。
それはもう、『天邪鬼』でも、『私』でもなかった。
砕け散ったアイデンティティの亡霊でも無い。
その残骸から立ち上がった———
紛れもない、『私自身』だった。
その魂の叫びが、今にも崩れ落ちそうな空に、真っ直ぐに響いていった。
可愛いよ正邪…『先生』の死に向かう体、すぐ側で感じてね…