「邪魔だぁっ!!どけぇっ!!!」
人里を駆ける。
駆けて、駆けて、駆けて———
何度も咳をして、痛みで涙を流して、それでも走った。
幸い、人が邪魔で進めないなんて事はなかった。
「おい…あれ、指名手配中の…」
「最近見なかったのに…」
「だれか!博麗の巫女様を呼んでくれ!!」
人は勝手に掃けていき、進行方向に道を作って行く。
巻き込まれたくないという意志をひしひしと感じる、何か汚い物を見る様な、悪意も。
忌避も、嫌悪も、普段なら心地良く感じていたはずだった。
誰かに睨まれ、避けられ、囁かれる視線と言葉。
それは「天邪鬼」として、私の存在を証明してくれる心地良い毒だったはずなのに———
今は、何も感じない、感じる余裕が無い。
耳に飛び込む嫌悪も、遠巻きのざわめきも、背筋をなぞる侮蔑も、なにもかも。
「お、おい、あいつ、何背負ってるんだ?」
「人だ…人だぞ!あいつ人背負ってる!!死んでるぞ!!」
「自警団でもいい!早く呼べぇっ!!」
正体がバレる?
知らない、そんなのはもうどうでもいい。
もしバレて捕まったとしても、それで『先生』が死んだら———それが一番、許せない。
人の顔という名の風景が過ぎて行く。
人の声、人の気配、土を打つ足音、道端に干された布が風に煽られる音、全てが鼓膜を打ち鳴らす。
喧騒が膨れ上がって、頭がズキズキする。
頭が割れそうだった。
目の奥が痛む。
肺は焦げた鉄のように重い。
なのに、走る。
ただ、走る。
誰にも捕まらないように、できる限りの速さで。
誰かが驚きの声を上げた気がした。
誰かが名を呼んだ気がした。
でも、何も返さなかった。
ただ、一歩でも速く、一秒でも早く。
『先生』の命がこぼれ落ちる前に。
私の手から、二度と戻らないところへ落ちてしまう前に。
視界の端で、誰かが後ずさる。
誰かが逃げる。
子どもが泣く。
どうでもいい。
私は、ただ走った。
潰れそうな膝と、悲鳴を上げる背中を引きずって。
背負った命が、少しでも長く繋がるように、神にも縋るような思いで———
「っ!?ぎゃぁっ!?」
足元が何かに引っかかり、全身が宙に浮いた。
手を突き出して受け身を取ろうとするも、『先生』を抱えたままでは無理だった。
パキッ——鋭く、乾いた音が指から走る。
「…づぅっ…!!」
痛みを振り払うように、『先生』の状態を真っ先に確認する。
動きはないが、傷は増えていない。
安心しかけた刹那、その向こうに立つ人影に気付いた。
「貴様、鬼人正邪だな?なぜその人と一緒にいる?」
通る声、耳に残る響き。
『先生』の家で聞いた、あの時と変わらぬ、冷静で、真っ直ぐな声。
———上白沢慧音。
寺子屋の担任、多分、『先生』の同僚。
足を引っかけたのも、たぶんこの人だ。
憤怒と困惑を剥き出しにして、慧音は睨んできた。
「答えろぉっ!!なんでその人を背負ってる!!殺したのか!?」
「っ違うっ!!」
反射的に叫ぶ。
違う?
———本当に?
殺してない?それはただの願いだ。
事実から逃げた言葉に過ぎない。
でも、それでも叫ばずにはいられなかった。
『先生』を殺したと、自分の口から認めたくなかった。
慧音の視線が胸を抉る。
剣のような怒りと、切なさを帯びた絶望。
ああ、これが『先生』の人望なのだ。
私なんかと違って、誰かに信じられていた人。
——罰だ。これは罰だ。
私なんかが『先生』を傷つけた代償。
それで、終わってもいいはずだった。
『妖怪』としての最期として、捕まって終わる。
仇討ちで討たれて死ぬ。
それで、典型的なストーリーでいいはずだった。
……でも。
「言い訳は貴様を捕らえた後で聞いてやる!!その人を離せっ!!」
「…嫌だ…」
そうやって、諦めるなんて事は、認められないんだ。
どうやっても、諦められないんだ。
足掻いて、足掻いて、その末に。
その末にどんな結末が待っていようが。
誰かを助けるという発想すら持っていなかった、この不器用な私でも。
この人を救えるなら———
「っなら…力尽くだっ!!」
「っぁあッ!!」
折れた指で懐に手を突っ込み、反則アイテムを取り出す。
己が為に収集した貴重品を、誰かのために使う。
もちろん、そこに躊躇いは無かった。
取り出したのは、『身代わり地蔵』。
弾幕の被弾を地蔵に押し付けて、無かったことにする反則。
厳密に言えば、化け狸の秘術により世界を騙して因果を書き換え、結果の対象を無理矢理地蔵に移す代物だ。
つまり、『正邪を捕らえる』と言う結果は、『地蔵を捕らえる』へ書き換わり、それが完了しない限り、次の行動へ移れない。
つまり———
「っらァっ!!」
「っなに!?」
明後日の方向に『身代わり地蔵』を投げ捨てて仕舞えば、アイツはそれを追うしかなくなる。
「っぐぅぅうううっ…!!あと少し…だっ…!!『先生』…っ…!!」
怒号を上げて走り去る上白沢慧音を横目に、私は『先生』を背負い直して、すぐさま踵を返して走り出す。
走る、走る、走る。
一度転んだせいか、身体の痛みが際立つ。
骨が、筋が、折れた指が、走るたびに叫んでいる。
そして———
ああ、重い。
あの人の身体が、まるで鉛のように重い。
肉の塊を担いでいるような、そんな不気味な重さ。
……寒気が走った。
首に回されていた『先生』の腕が、氷のように冷たい。
先ほどまで感じていた吐息が、今は———感じられない。
喧騒の中で、あの人の気配だけが、まるで消えていた。
「…だめだ、だめだ、それは、っだめだろ」
限界の足を更に早める。
吐きそうな血を飲み込んで、走る。
「っやだ、いやだ…やだぁっ…」
涙が溢れて、止まらない。
早く、早く、早く。
着いて、永遠亭に。
身体が痛い、全身が痛い。
何より痛いのは、自分の無力さが突き刺す現実。
「っふぐっ…ぐっ…ぇぐっ…」
情けない声が漏れて、とめどなく瞳から雫が落ちる。
立ち止まりたく無かった、走らないと、気が狂いそうだった。
気づけば、足元の土が変わっていた。
人里を抜け、目前に広がるのは鬱蒼とした竹林。
「っ『先生』っ……もう少しだから……くそっ、永遠亭はどこだよ……どこにも、ないじゃないか……っ」
記憶では、人里外れの竹林に永遠亭があると聞いていた。
それなのに、どこまで走っても見えるのは無機質な竹ばかり。
風も、道も、目印さえもない。
焦りと後悔が胃を締め上げる。
あんなに調べたつもりだったのに、自分には関係ない場所だと、都合よく目を逸らしたツケだ。
終わりだ。
視界に広がるのは、ただひたすらな緑。
そこに、絶望の二文字が滲む。
「…ぁあ…ぁああああ…!!」
狂おしいほどの竹林を、闇雲に踏み荒らす事しかできない。
我武者羅に走って、探して。
大粒の涙が流れて。
自分を痛めつける様に、走り続けて。
———無力な現実が肩にのしかかって。
遂に私は、立ち止まってしまった。
そのまま、膝から崩れ落ちる。
「っぅああああ…!!」
空は圧倒的な曇天で、竹林の陰が更に陽の光を遮っている。
暗く、惨めで、喉が絶望を絞り出した。
声と共に、首の皮一枚で繋がっていた気力が、こそぎ落とされる様に折れていく。
———もう無理だ。
もう、立ち上がれない。
体も心も限界で、自分の無力と言う名の闇が胸に食い込んで、私は遂に意識を手放そうとした。
———その時。
「おい」
「っ!?」
鋭い声が、空気を裂いた。
ぶっきらぼうで、針を刺す様な声。
私は肩を跳ねさせて、勢いよくそっちを見た。
白髪の髪と、赤のもんぺ。
浮世離れした、病的なまでに白い肌。
———間違いない、藤原妹紅。
弾幕ごっこでは死んでは蘇る自爆上等の戦い方をするイカれた女。
感情の読めない瞳が、私を貫いて、すぐにその後ろの『先生』へと注がれる。
「その背に背負ってる奴、寺子屋の副担任だろ…お前、その人に何した?」
「っるっさい!っ永遠亭はどこだ!!今すぐっ!今すぐ答えろ!!」
縋った。
藁にもすがる思いだった。
今なら———脅せば、力ずくなら、なんとかなるかもしれない。
そんな甘い幻想が一瞬脳裏を掠めた
一筋の蜘蛛の糸だった。
そう、引っ張ればすぐに千切れる、頼りない希望。
「…もしかして、治しに来たのか?お前が?」
無理。
そんな言葉が浮かんだのは、妹紅が私の方を睨んだ瞬間だった。
力尽く?脅迫?今の私が、この女に。
出来ない、力の差がありすぎる。
すぐ考えれば分かるはずなのに。
『先生』のためならと盲目になっていた私に、現実は見えていなかった。
———じゃあ、どうすればいい?
鄒俊の間を置いて、浮かんだ言葉をそのまま絞り出した。
「だから、っ何だよ…!頼む…頼むから、教えてくれ…!!」
『頼む』。
『お願いする』。
『力を借りる』。
これも、初めての経験だった。
人への頼み方すら知らない私には、不器用な言葉の羅列。
私みたいな存在が、救いを乞うなんて。
馬鹿みたいで、滑稽で、でもそれでも。
こんな私でも、『先生』だけは救わせてくれ。
こんな、私でも。
こんな———
嘘だけを信じて、人を騙して、反発して、この幻想郷をひっくり返そうとした、私、を?
信じてくれるのか?
私は、どんなに助けを求められようとも、絶対に手を貸さなかった。
こんな私は、助けてもらえるのか?信じてもらえるのか?
『先生』なら。
『先生』だけは私を助けてくれるし、信じもしてくれるだろう。
そんなただ一人かも知れない人を、私は———
今更になって、悪寒が全身を包んだ。
自分のしでかした事が、今まで積み重ねてきた物が、私の心臓を締め付けて、恐怖を呼んだ。
———私は、どうすれば?
再度の質問。
今度は、頭の奥の奥で思考した。
どれだけ惨めでも、どれだけ卑しくても、どれだけ尊厳を捨てても。
私が、信用されるためには———
「…確かに、一刻を争う容態みたいだが…お前はあの『天邪鬼』だろ?…どうにも、信じられないな———」
「…おっ、お願いします…!!私はっ、私はどうなってもいいので!永遠亭の場所を教えて下さい…!!お願いです…!!」
土下座だった。
『先生』をそっと降ろし、額を泥に押しつけた。
人を敬うことも、言葉を尽くして願うことも、慣れてなどいない。
それでも、今の私はそれを選んだ。
ただ、『先生』を———
「っ!?や、やめろよっ、分かったから、土下座とか止めろよ、な?」
耳に届くのは、困惑、憐憫、混乱、少しの警戒。
声色から感情の色を読み取れた、こちらへの敵意は少なく、そこに、心から安堵する自分がいた。
今なら、騙し討ちできるかも知れない。
きっと、『私』ならそう考えていた。
でも、そんな悪巧みは肉どころか骨すら無く、心の内は祈りだけだ。
「…分かった、その人は私が永遠亭に連れてく…だが、お前は連れていけないな…どんな心境の変化があったか知らないが、お前は『反逆者』だ、連れていくわけにはいかない」
「…分かった…」
それでも、十分だった。
妹紅は、ほんの一瞬だけ私に目をやった。
無言の問いかけも、余計な情けもない視線。
ただ、『先生』を背負う。
会話はなかった。
行間も、余白も、何も。
彼女は『先生』の身体に漂う『それ』に、すぐ気づいたのだろう。
一瞬、目を見開いたが、何も言わなかった。
何も聞かなかった。
黙って、竹林の奥へと姿を消した。
それが、最後だった。
私は、その場に残された。
静かだった。
ほんの少しして、背中にあった重みが、もうどこにも無いことに気がついた。
温もりも、腕の感触も、あの頼りない呼吸も、もうどこにも無い。
『先生』は、いなくなった。
もう、手の届かないところへ行ってしまった。
今度こそ、私はひとりきりになったのだ。
助ける。
その一心で、走って、叫んで、痛みに歯を食いしばって。
その全てが終わった。
終わって、残ったものは———
やっぱり、何もなかった。
得たものも、赦された実感も、なかった。
心の中に満ちるはずの何かは、跡形もなく消えていた。
満ちるどころか、空っぽのまま、風が吹き抜けていくだけ。
分かってた、全部。
こうなる事は、分かってた。
全部は、私のエゴで、わがままで、足掻き。
その結果の見返りは、求めていなかった、はずだった。
「…………」
気がつけば、私は歩き出していた。
どこへ向かうでもなく。
誰を頼るでもなく。
足が、動いていた。
身体中の痛みが、声にならない悲鳴を上げていた。
折れた指、擦り切れた膝、咳き込む肺。
どこもかしこも壊れかけていた。
でも、それすら———
もう、どうでもよかった。
痛みすら、私の中には届かない。
ブリキの人形のように。
乾いた関節でぎこちなく歩く、壊れた玩具のように。
私はただ、足を前に出していた。
心も、意思も、どこにも無い。
何のために歩くのかも分からない。
ただ、歩いていた。
空っぽの胸の奥に、何かが沈んでいく音がした。
それは、希望の死骸だったのかもしれない。
みっともなくて可愛いよ正邪。