飛ばしても問題ないかも。
Vがマックスタックとぶつかり合う爆音が、遠くビルの谷間を震わせていた。ネオン色の夜空が、一瞬だけ白く染まる。閃光弾か、それとも何かもっと物騒なものか。
カツオは、そんなことを気にしている余裕もなく、ただ車を走らせていた。
(Vさん、大丈夫なのかな……)
息が肺の奥で焼けるように熱い。
大通りは避けて、監視カメラの死角を縫うように、細い裏路地から裏路地へと渡り歩く。
足もとには割れた瓶と、濡れた新聞紙と、正体不明の黒いシミ。
角をひとつ曲がったところで、カツオはようやく足を止めた。そこは、高層ビルの隙間に押し込められた細長い空間だった。
壁際には、段ボールとボロ布で組んだ巣のようなものが、いくつも積み上がっていた。
息を整えながら、そのひとつに背中を預ける。薄い紙がぐしゃ、といやな音を立てて崩れた。
「……あ?」
低い声が、暗がりの奥から転がってきた。
「おい、よそもん。そこで何してやがる」
影の中から、白髪まみれの男がぬっと現れた。髪もヒゲも伸び放題、肌は煤けて皺だらけ。
近づいてきた途端、鼻につく酸っぱい臭いがカツオを包んだ。
「そこは俺の寝床だ。とっとと消えろ」
「え、あ、その……」
怒鳴られるとは思っていなかったカツオは、思わずたじろぐ。足もとはまだ震えている。さっきまで銃声が聞こえていたのだ。
それでも、ここから追い出されれば、また開けた場所に出ざるを得ない。
「こっちだって追われてるんだよ。少しだけ、ここにいさせて______」
「知らん。いいか坊主、ここは俺の場所だとっととデテケ!」
「坊主って言うなよ。僕はカツオっていう名前が」
「坊主は坊主だ。名前なんざここじゃ何の意味もねぇ」
男はぴしゃりと言った。線の細い目が、暗がりの中で細く光っている。
「俺のことはジジイとでも呼べ。俺はお前のことを坊主って呼ぶ。それで十分だろ」
「……勝手に決めないでよ、じいさん」
口では反発しながらも、カツオは壁から離れきれなかった。 Vの姿が脳裏にちらつく。あのバカみたいに強い人がいなければ、自分はここまで辿り着くことすら出来なかった。
「ちっ……」
男は舌打ちをひとつ。それから、崩れた段ボールを足で蹴飛ばし、少しばかり隣へとどかして空間を作った。
「そこなら座っていい。寝床は壊した分、あとで直してもらうぞ、坊主」
「へっ最初からそうすりゃいいものを」
カツオは、その場に腰を下ろした。
ひんやりとしたコンクリートが、妙に冷たく感じた。
夜が明け、路地の上を走るホロ広告の光が色を変えながら揺れている。
「お、ちょうどよかった。飯の時間だ」
ジジイと自ら名乗った男が、ポケットから細長い銀色のパックを取り出した。その表面にはかろうじて文字が残っている。
NCカロリーバー/0.1エディー/1500kcal
ジジイが指先でぺり、と封を剥がした瞬間、腐った油と焦げたプラスチックを混ぜたような臭いが、狭い路地にぶわりと溢れた。
「うっ……」
カツオは反射的に顔をしかめる。
「食べ物、だよね?」
「燃料だよ」
ジジイは平然とした顔で答えた。中から現れたのは、色のよく分からない長方形の固まり。
表面には人工的なテカリがある。
「一応、腹には溜まる。0.1エディーで一日ぶんのカロリー。貧乏人の味方ってやつだ」
「味方って顔じゃないけど……」
「文句言えるうちはまだ贅沢してきたってことだ」
ジジイはその塊を、雑に半分にちぎると、片側をカツオへ放ってよこした。指にまとわりつく謎の油が、妙にぬるりとして気持ち悪い。
覚悟を決めて、端を少しかじる。
「……っっっ」
一瞬で後悔した。しょっぱいような、苦いような、甘いような、とにかく“何かの味”が過剰に詰め込まれている。
噛めば噛むほど、舌の上でその“何か”が分解されて、別の不快な“何か”に変わっていく。
「コレ……あえて不味く作ってるだろ……」
「そりゃ少しでも安く作るためにコストを抑えてるんだよ。不味いから安い、不味いから、俺たちの口に入る」
ジジイはどす黒い固まりをじっと見つめほんの一拍だけ、息を整えるように目を閉じた。
そして、小さく言った。
「……いただきます」
その言い方があまりにも自然で、場違いなくらい丁寧だったのでカツオは思わずジジイの方を見た。
ジジイは表情ひとつ変えずに、もそもそと噛み続けている。
その姿は、食事をしているというより、機械が燃料を補充しているようだった。
(……ナイトシティってほんと、こういうところだけよく出来てるよな)
かつて父と一緒に行った高級レストランの光景が、ふと頭をよぎる。
白い皿に綺麗に盛られた肉。香りだけで酔いそうなワイン。さっき口に入れたこの固まりは、その正反対だ。
でも腹の底に、確かに栄養が溜まっていく感覚があった。
「……ねぇ、じいさん」
「なんだ」
「さっき、“いただきます”って言ってたよね」
ジジイの噛む音が、ぴたりと止まった。ほんの一瞬の静止。けれど、その一瞬がやけに長く感じる。
「……聞こえてたか」
「いや、まあ……この街で、そんな言い方する人、あんまり見ないし……あんた、育ちよかったの?」
ジジイは答えず、黙ったまま残りの固まりをちぎって口へ運ぶ。噛む。噛む。まるで何も感じていないように。
「……そうだな。前は、もっとマシなもんを食ってた」
「前って、いつ?」
「坊主には関係ねぇよ」
それだけ言うと、ジジイは残りを一気に噛み砕き、油でべとついた指先をズボンで拭った。
2日目の朝は、いつもどおりのナイトシティの騒がしさで始まった。
上からはホロ広告の音声が降ってきて、遠くでは銃声。
路地に面したメインストリートを、企業ロゴのついたトラックが轟音を立てて通り抜ける。
その全部から切り離されたみたいに、ここだけが時間の流れから取り残されていた。
「おい坊主、起きろ。タダで寝床借りたんだから、せめて片付けくらい手伝え」
「う……分かったよ」
灰色の朝靄の中、カツオは言われるがまま、湿った段ボールを運び、破れた布を干す。路地の奥からは、他のホームレスたちがちらほらと顔を出してきた。
「ようジジイ、昨日は久しぶりに騒がしかったな」
「こっちはただの迷子だ。すぐいなくなる」
「誰が迷子だよ」
男たちは、カツオを一瞥してから、あっさり興味をなくしたように視線を外した。
ただ、自分たちの世界との世界は別だと、本能的に線を引いている感じだった。
昼過ぎ。日陰でも暑い時間帯、ジジイは壊れた義足を外して工具でいじり始めた。
「それ、自分で直してるの?」
「直すってほどじゃねぇ。ただ、だましだまし動くようにしてるだけだ」
よく見れば、その義足は何度も修理の痕があった。高級品だったはずの箇所に安物の部品が継ぎ足され、テープで無理やり固定されている。
以前、父と一緒にアラサカの重役たちを見た時の光景が頭をよぎる。
彼らのサイバーウェアは、どれも磨き上げられ無駄のないラインで光っていた。
同じ義足でも、ここまで落ちるものなのか。
「じいさん、さ。前ってもしかして_______」
「アラサカだよ」
ジジイが、不意に言った。
「え?」
「だから前の勤め先だ。アラサカ。役職もそこそこ上だった。部下もいた。家もあった。家族もいた」
工具の動きは止まらない。ただ声だけが、少し過去を見ていた。
「でも上司がしくじってな。その尻拭いを俺に押しつけた。組織のためにとか何とか、もっともらしいことを言ってよ」
「……それで、クビになったの?」
「そうだよ。会社も家も、あっという間に全部なくなった」
ジジイは義足を戻し、金具をカチリとはめた。
「次の日には、妻と息子が消えていた。靴も、服も、2人の気配も何もねぇ。まあ置き手紙なんて、気の利いたもんは最初から期待してなかったけどな」
カツオは、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
彼の父もアラサカの重役だった。上司たちと笑い合い、煌びやかなパーティーに母を連れていき、その傍らでカツオは完璧な“跡取り息子”を演じていた。
けれど、父が死んだ途端―――
母は、父の上司と再婚した。新しい男は、カツオを見るたびに、目の奥であからさまな嫌悪を浮かべた。
最後の日。スーツケース1つと、小さな封筒だけが玄関に置かれていた。
封筒の中には、クレジットチップが一枚。それがさよならの代わりだった。
「……僕も、さ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「僕のパパも、アラサカだったんだ。偉い人で。でも死んだら、母さんはすぐその上司と結婚してさ。僕のことは、前の男の子供ってだけで……」
ジジイがじっとこちらを見る、その視線に色はなかった。
「手切れ金だけ渡されて、捨てられたんだ。『これで好きに生きなさい』って。好きに、なんて……言われてもさ」
カツオは、自分でも驚くほど静かな声で言っていた。
「だから、さ。家族に捨てられるのが当たり前とか、仕方ないとか」
一度言葉を切る。
「そういうの、やっぱり納得できないよ」
ジジイはしばらく黙っていた、やがてゆっくりと目を閉じる。
「……そうだな」
小さく、それだけ答えた。
3日目の朝。
いつもどおり安っぽいホロ広告の音と、遠くの銃声と砂混じりの風。
路地の入口が青と赤の光で満たされたのは、そのすぐあとだった。パトカーのサイレン。狭い路地に、企業製のタイヤが泥水を跳ね上げる音が響く。
「……来やがった」
誰かが小さく呟いた。ホームレスたちが一斉に身体を縮め、壁際に寄る。
それは警官を目にした時の避ける動きじゃない。もっと深いとこ恐怖が植え付けられた反応だった。
制服姿の男が1人、車から降りてくる。装備はどれも新品でピカピカに磨き上げられている。
「おい、サトウ。テメェがここのまとめ役なんだってな?」
警官が、ニヤニヤと笑いながら言った。しかしその目は全く笑っていない。
「なんだ、いつもの奴は来ねぇのか?」
ジジイ――サトウは、低く問い返した。
「ああ? 前のアイツか」
警官は肩をすくめる。
「あいつなら、署のトイレで頭吹き飛ばしたよ。銃をくわえてな。掃除係が文句言ってたぜ、いい迷惑だってよ」
ホームレスたちの間に、ざわ、と小さな波が走る。サトウの眉がわずかに動いた。
「ってわけでよ、今月からは俺たちが担当だ。ルールは簡単。6人分、ひとり50。合計300エディー。払えばここに居る権利をやる。払えなきゃ」
警官は、わざとらしく路地の出口のほうを顎でしゃくった。
「街の外に出て行ってもらう」
街の外。ノーマッドとギャングと、汚れた空気と、野ざらしの土地。ホームレスたちにとって、それは別の言葉に置き換えるまでもない。
“死刑”だ。
「おい、今月ぶんは……」
「期日にはまだ」
「前の奴は、月末って言ってたじゃねぇか!」
口々に抗議の声が上がるが、警官は耳をほじる仕草をしているだけだ。
「俺は前の奴じゃねぇ。俺のルールに従え。今払え。そういう話だ」
サトウが、近くの連中に視線を送る。
「……いくらある」
「全部で250だ……これが限界だよ、サトウ」
「あと50か……3日、いや2日ありゃ何とか」
「2日後にまた来てやる義理が、俺にあるのか?」
警官が、腰のホルスターからピストルを抜いた。銃口が、サトウの眉間へ向けられる。
あまりにも滑らかな動作だった。
「ここに居たいなら、今払え。それが出来ねぇなら」
「……だったら」
サトウが、ゆっくりと義足を見下ろした。
「だったら、俺を連れて行け」
「サトウさん!」
ホームレスのひとりが叫ぶ。
「俺が年長者なんだ。動ける手は残しとけ1番のガラクタが出て行く。それが1番、筋が通るだろ」
その言葉には諦めと、どこか奇妙な優しさが混ざっていた。警官はにやりと笑う。
「そうこなくちゃな。じゃあジイさん1名、郊外送りってことで」
そう言ってサトウの肩を掴み、乱暴に引き寄せる。そのままパトカーへと押し込もうとした。
その時カツオの頭の中で、何かがぷつりと切れた。
(まただ)
玄関に置かれたスーツケース、封筒ひとつ。母の背中。何も言わずに去っていく足音。
胸の奥が焼けるように痛い、気づけば身体が勝手に前に出ていた。
「待って!」
自分の声が、狭い路地に響いた。
「なんだ、お坊ちゃん。邪魔するなら、テメェもまとめて」
「僕が払う!」
警官の言葉を遮るように、叫ぶ。
「300エディー。今、払う。それでいいだろ!」
ポケットに入れていたクレジットチップを、カツオは乱暴に引き抜いた。警官はひったくるようにチップを奪い取ると、端末にかざした。
「……へっ。本当に払いやがった。おっと、坊やはいいとこの育ちか?」
「うるさい。ルールは守ったんだろ。だったら早く消えろ」
言い終わる前に、心臓が激しく跳ねた。膝も少し震えている。それでも視線だけは逸らさなかった。
警官は小さく舌打ちし、サトウの肩から手を離した。
「チッ、つまんねぇの。じゃあ今日はここまでだ。せいぜい、このクソみたいな路地裏で長生きするんだな」
パトカーがまた青と赤の光を残して去っていく。サイレンの音が遠ざかると、静寂が戻ってきた。
「サトウさん……大丈夫?」
振り返った瞬間、怒号が飛んできた。
「テメェバカか!!」
サトウの顔はさっきまで見たことがないほど歪んでいた、様々な感情が混ざった闇鍋みたいな表情。
「何で止めた!何で俺が、やっと終われるところだったのに……こんなクソみてぇな現世に、引きずり戻すんだよ!」
「だって」
「俺はなぁ……!」
サトウの声が、かすれて震えた。
「俺は、出世するために、何人も踏みつけてきた。部下を切り捨てて、見知らねぇ奴らの人生を壊して……
家族に優しくする余裕すらなかった、そのツケが回ってきただけなんだよ。
クビになって、家族に捨てられて、人知れずくたばる。それでやっと帳尻が合うんだ!」
カツオは、唇を噛みしめた。
「知るかよクソ野郎」
サトウは、疲れたようにその場に腰を下ろした。
「自己犠牲で終われるなら、それでやっと楽になれると思ってた。それをテメェは、勝手に」
「勝手に、じゃない!」
カツオは、思わず叫んでいた。
「僕は、見てられなかったんだよ……また、誰かが、ああやって捨てられるのを」
最後の言葉は、自分に向けたものに近かった。サトウは何か言いかけて、やめた。喉の奥で、壊れた声がうろうろしている。
「くだらねぇ偽善だよ、坊主」
「そうだよ。くだらないよ。でも、僕はそういうくだらないことをやりたかったんだ」
言い合いはそこで途切れた。残ったのは、重たく湿った沈黙だけだった。
夜。ネオンの明かりが路地の上を流れ、遠くでまた爆音が響く。
カツオは、ボロい段ボールの上に横になりながら、目をつぶっていた。眠れない。でも起きていると認めるのも、なんとなく癪だった。
(……なんであんなジジイの為に身銭を切ったんだろう…)
彼自身、どうしてか分からない。ただ、あのまま見送っていたら、一生後悔しただろうことだけははっきりしている。
足もとのほうで、乾いた咳がひとつ聞こえた。
「……カツオ」
名前を呼ばれて、心臓が一瞬止まる。ここに来てから何度も坊主とは呼ばれた。でも、本名を呼ばれたのは、さっきが初めてだった。
今もまたその声が自分の名を確かめるように、ゆっくりと口にする。
「……ありがとよ」
カツオは狸寝入りのまま、動かなかった。動いたら何かが壊れてしまいそうで。
「こんな……俺なんかのために……金まで出してくれて……本当に…ありがとな……」
言葉の最後はほとんど息の音だった。それでも、その震えでサトウが泣いているのが分かった。
目を開けなかったのは、たぶんお互いのためだった。
(なんで、僕……)
気づけば、目尻が熱かった。理由なんて分からない。
サトウが可哀想だからでも、自分が惨めだからでもない。
ただひとつだけ確かに言えることがある。
彼が救ったのは、サトウだけじゃなかった。彼自身のこともほんの少しだけ救えたのだ。
これでACT-3は完結です。
次回からはACT-4 バカと新合衆国の野望 俺たちがその気になりゃ大統領だってぶっ飛ばせる!! が始まります。
ああ、始まってしまう。