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朝。
異様な静けさに目を開けると、外はまだ薄暗い。
テントから這い出すと、フランクとバッキーのエネルギーテントが閉ざされたままになっていた。
「……おい、二人とも、起きろ」
声をかけても反応がない。仕方なく覗き込むと、膝を抱えてぶつぶつ呟いていた。
「……降りろ、降りろ……降りろ……」
白目を剥くわけでも、気絶しているわけでもない。ただ、山の声に囚われて、自分の殻に閉じこもっている。
(やっぱりな。瞬間催眠で誤魔化しても、山の囁きに飲まれりゃこのザマか……)
背後でコブラが煙を吐いた。
「どうする?」
横で腕を組んだジェロニモが唸る。
「オイテイクシカナイ。……ダガ、テントノエネルギーモタナイ」
「俺がブースターセットを持ってる」
バックパックから取り出して見せる。
「これを予備のエネルギーカセットに繋げば……三日は持つだろう。それまでに戻れなきゃ、どうせ俺たち全員失敗ってことだ」
「エネルギーカセット、足りるの?」
デイジーが不安げに聞く。
「足りないな。誰かの分の予備を回すしかない」
すぐにデイジーが言った。
「私の分を使って。私は……貴方のテントに入れてもらえばいい」
思わず目を細めた。昨夜の事を思い出しながらも、口には出さない。
そしてリンダが静かに笑みを浮かべた。
「それなら、フランクには私の分を。ねぇ、コブラ……私を助けてくれるわよね?」
一瞬だけ、俺はリンダを見直した。てっきり切り捨てるかと思ったが、フランクを見捨てる気はないらしい。
コブラは肩をすくめ、シガーを指で弾いた。
「レディーの頼みだ。引き受けましょ」
山の風が吹き抜け、テントの布がはためいた。
「降りろ……降りろ……」
その声に、フランクとバッキーはまだ膝を抱えて震えている。
俺たちは、二人をテントごとこの崖の横穴に残し、さらに上を目指すことになった。
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出発前。
俺はバックパックからタブレットを取り出し、探査機からのデータを受信した。
画面の中で、数台の小型多脚が別ルートを順調に登っている。
映像はぶれもなく、地形データも正常だ。各種センサーの重力系にも異常はない。
「……やっぱり、山はあるんだよな」
そう呟きながら次の報告に目をやる。
微妙な低周波――それが観測されていた。AIには影響はないが、人間の脳には干渉しそうな帯域。
(これか……これと、なんらかの思念波が合わさって、登る者の認識を狂わせているんだろう)
だが問題はそこじゃない。
山は嵐の時にしか姿を現さない。物理的に存在するなら、なぜだ?
「降りろ……降りろ……」
まただ。
テントの中から、フランクやバッキーの掠れた声が漏れている。
俺の耳にも、風に乗ってその囁きがかすかに混じる。
だが、横で準備を進めているコブラも、先頭に立つジェロニモも、何事もなかったように動いていた。
(……そうか。原作で登り切ったのは、この二人だ。山の実在を信じ切っている自我の強さ。だから干渉されねぇんだろうな)
俺も、山があると信じている。探査機のデータが、それを裏付けてくれている。
だが――信じていられるうちに、自己催眠でも掛けておいた方がいいかもしれない。
ちらりと後ろを見る。
デイジーは唇を噛んで不安げに俺を見ていた。
リンダは気丈に振る舞ってはいるが、目の奥は疲労の色が隠せない。
「……行くか」
タブレットを閉じ、息を吐いた。
山はある。山は登れる。ただ、それだけだ。
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登り始めてすぐに気づいた。
「降りろ……降りろ……」の囁きが、ただの声じゃなくなっている。
耳に届くより先に、脳に叩き込まれるような圧。
その瞬間、俺の視界から山肌の一部がふっと消えた。
黒い空洞――まるで空に向かって落ちていくかのような錯覚。
「くそ……!」
慌ててロープを握り直し、意識を現実に縫い止める。
振り返ると、デイジーが震えていた。
「やめて……やめて……山はある……山はあるわ……」
呟きながら必死に爪を立てて岩を掴んでいる。
リンダも唇を青くして黙って登っていたが、肩の震えが止まらない。
(そうだよな……人間の可聴域に合わせてるなら、奴らには一番キツイ)
俺は獅子頭型の異星種。人間よりは耐性がある。まだ踏ん張れる。
デイジーの目がこちらを見た。
助けを求める目だった。
「仕方ねぇな……」
俺は体を寄せ、彼女の額に手を当てた。
「今から俺の声だけを聞け。囁きは聞こえない。風の音だけだ。
山はある。お前の前には確かに山がある。3、2、1――」
パン、と指を鳴らす。
デイジーの体が一瞬びくりと震えたが、すぐに少しだけ力が抜けた。
「……音が、消えた」
安堵の息が漏れる。
だが、その顔にはまだ緊張が残っていた。
耳を澄ませるようにして、首を振る。
「でも……耳鳴りがする。怖い……落ち着かない」
俺は小さく舌打ちした。
(効果はあるが完全じゃねぇ。囁きは消せても、不安感そのものは残るってわけか)
ロープの先で、コブラが振り返り「遅れるなよ」と声を飛ばした。
彼には囁きは聞こえていない。ジェロニモも同じだ。
(――そうだ。山を実在と信じ切ってる奴には、干渉できないんだ)
俺は深く息を吐き、デイジーの肩を軽く叩いて前を促した。
山はある。山は登れる。ただそれだけだ。
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吹雪きが牙を剥き始めた。
雪煙で視界は白一色、足場の岩肌すら判別がつかない。
このままでは登るどころか、ロープが絡んで全員まとめて墜ちかねない。
「ココダ!ワレメアル!」
ジェロニモの怒鳴り声に、俺たちは風をかき分けるようにして雪庇を潜った。
偶然とは思えないタイミングで現れた岩の裂け目。
狭い通路を奥へ進むと、三人ずつが身体を休められる程度の窪みが点々とあった。
ジェロニモ、コブラ、リンダが一つ。
俺とデイジーが一つ。
(……都合が良すぎる)
タブレットを開くと、探査機の軌跡データにはそんな裂け目は影も形もない。
実際に登っている俺たちの前にはあるのに、だ。
やはり――この山には、人為的な「誘導」が働いている。
エネルギーテントを展開し、吹雪の音が薄らいでいくと、デイジーが震える声で囁いた。
「レオ……私、こわい。抱いて」
一瞬、返す言葉を失った。
その目は冗談でも計算でもなく、本気で縋ってきている。
(……忘れさせてやるのが吉か。仕方ない。役得と思っとくか)
俺はゆっくりと彼女を引き寄せ、ネズミのマスクを外した。
露わになった金髪が揺れ、青い瞳が涙で濡れていた。
「ダイジョブダ。ヤマアル。オレタチノボレル」
裂け目の奥からジェロニモの低い声が聞こえてきた。
それに励まされるように、俺も彼女へ囁いた。
「大丈夫だ。山はある。俺たちは登れる」
額を撫で、唇を重ねる。
デイジーの体から緊張が解け、細い腕が俺の背に回る。
吹雪の恐怖も囁きも、今だけは遠ざかっていた。
二人はそのまま――互いの温もりに縋るようにして、夜を過ごした。
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裂け目の奥、吹雪は弱まり、三人はそれぞれテントを張った。
ジェロニモは一人で、コブラとリンダは同じテントに入ることになった。
ランタンの光の下、リンダは少し唇を尖らせるようにしてコブラを見つめる。
「ねえ、コブラさん。あなた……本当に、金塊が目当てなの?」
コブラは寝袋に横になったまま、煙草を咥えて肩をすくめる。
「欲しいのは“スリル”さ。金は二の次だ」
「……ホホホ、変わった方ですこと」
リンダは小さく笑い、視線を裂け目の奥に向けた。
その横顔には、ほの暗い野心がちらついていた。
ジェロニモがテント越しに低くつぶやく。
「オンナ……ナニカ カンガエテル。メ ヨコムイテル」
「……ふふ、鋭いのね」
リンダは寝袋に潜り込むようにして口を閉ざした。
だがその胸の奥では、別の炎が燃え続けていた。
深夜。
風の音に混じって、布の擦れる微かな気配。
コブラが熟睡している隣で、リンダは音を立てぬよう身を起こし、そっとテントの外へと這い出した。
吹雪の冷気が頬を刺す。
だが彼女の瞳は暗闇に輝き、笑みを浮かべていた。
(頂上に先に辿り着けば――金塊はわたくしのもの)
雪煙に身を溶かし、リンダの姿は裂け目から消えていった
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朝。
裂け目から吹雪は止み、俺たちは再び集合した。
だが――ひとり、足りない。
「リンダが……いない」
コブラが険しい表情で呟く。
ジェロニモは腕を組み、氷のような目で雪の斜面を睨んでいた。
「オンナ……ヌケガケ。イノチ シラナイ」
俺はタブレットを起動し、探査機の映像を確認する。
カゲロウ山の別ルートを登っていた多脚型の機械たちは、とうとう頂上に到達していた。
そのレンズ越しに――はっきりと映っていた。
「……701便」
雪に半ば埋もれた機体の尾翼。
そして、貨物室と思しき金属の裂け目。
伝説の機体が、本当にそこに存在している。
だが――リンダの姿はどこにもなかった。
タブレットの映像に映らない。熱源センサーにも、反応がない。
頂上に到達したはずなのに。
その瞬間、気づいた。
「……あれ?」
囁きが、消えていた。
昨日まで耳の奥に絡みついていた“降りろ”の声が、ふっと途絶えた。
なるほど――実在を確信したからか。
俺の認識はもう揺るがない。
「おはよ、レオ」
背後から声がして振り返ると、デイジーがフードを脱いで笑っていた。
目の下の影が薄れ、頬も赤みを帯びている。
「昨日のあれで、だいぶ調子いいみたい」
にやにやとコブラが目を細めて見てくる。
「へぇ……色っぽい顔してるな、デイジー。よかったじゃねえか、レオ」
「お、おいコブラ!変なこと言わないでよ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るデイジー。
だが、声の調子は以前よりも軽い。囁きに怯えていた時とはまるで違っていた。
俺は肩をすくめ、タブレットを閉じた。
「……まあ、元気になったんなら、それでいい」
だが頭の隅では、リンダの行方が重くのしかかっていた。
あの女は……頂上に辿り着けたのか?
それとも――。