/*/ 『ベンガル星 ― 砂塵の幻戦士』第二節 /*/
「捕虜が逃げただと!?」
怒号が砂の谷を揺らした。
焼け跡の砦から吹き下ろす風が、灰と血の匂いを運ぶ。
「捕虜(コブラ、レオ、ミーシャ)と飯番の幻影(ロック)が、捕虜を連れて逃げ出しただと!
追っ手を掛ける! ホーク、乗れ! 追うぞ!
見せしめに捕虜の竜の首を落とせ!」
号令が終わるより早く、ホークは竜鞍に飛び乗っていた。
夜の中で竜の鱗が金属のように光り、地を蹴った瞬間、風が爆ぜる。
――部族長の竜。主を選ぶ気高き獣。
その背でホークは一息に刃を抜いた。
「……すまない」
振り返ることなく、斜めに振り下ろした一刀。
竜の首が、夜気を裂いて飛んだ。
黒い血が星を呑み込み、熱砂に散る。
ミーシャの支配者だった竜。
その命が断たれた瞬間、彼女の幻体もふっと淡く光を失い、
音もなく――消える筈だ。
怒号、蹄音、砂嵐。
逃げる捕虜たちの影は月明かりの先に揺れ、
ホークの胸に問いが渦を巻く。
――これでいいのか。
命令に従った。それが戦士の義務だ。
だが、あの瞬間のミーシャの目。
消える直前、微かに微笑んだように見えたのは幻か。
ロックはきっと悲しむ。
自分を恨むだろう。
だが、それでいいのか。
自分は何をしたいのか?
何のために剣を振るうのか?
答えは、まだ見えない。
ただ、風だけがホークの頬を打ち、
砂の匂いと共に血の温もりを運んできた。
その夜、ベンガル星の空に一つの星が流れた。
それがミーシャの魂なのか、幻の残光なのか、
誰にも分からなかった――。
/*/ 『ベンガル星 ― 砂塵の幻戦士』 幻の終焉 /*/
「いたぞー! あの丘の上だー!」
夜の静寂を裂く怒声が、風に乗って響き渡った。
焼けた砂丘を越え、追撃の影が迫る。
月明かりに照らされた丘の頂――そこに、ミーシャとロックが立っていた。
風が吹く。
ミーシャの髪が舞い、ロックの外套が翻る。
竜の血で濡れた砂が、足元でざらりと音を立てた。
「おお!? 捕虜が……女が消えていないぞ!」
追っ手の一人が叫ぶ。
幻であるはずのミーシャが、まだ“存在している”。
支配者たる竜が倒された今、彼女は本来、霧散しているはずだった。
だが――彼女はそこに“立っていた”。
ロックが振り返る。
その瞳は、すでに恐怖を知らぬ戦士の光を宿していた。
「僕らに支配者は必要ない。
僕らは――二人で生きていく」
「二人で生きていくだと!? ふざけるな!」
怒声が返る。
竜が歯を剥き、両手を掲げて吠えた。
「貴様はオレの顔に泥を塗ったのだぞ!
幻影が支配者なしで生きていけるものか!」
ロックは静かに剣を抜いた。
その刃は月を映し、蒼く光る。
「ミーシャを守るためなら……僕は生命をかけて戦う!」
追っ手の竜が嘲るように嗤った。
「生命をかけて戦うだと? グハハハハッ! 出来るわけがない!」
砂が震える。竜の両手が広がる。
「貴様はオレの幻影! オレが死ねば貴様も消える!
戦うなど出来るはずが――」
その瞬間、空気が凍った。
ロックの身体が疾風のように動き、
剣閃が夜を裂いた。
――ズバァンッ!!
竜の巨体が一瞬にして沈黙した。
刃が喉元を貫き、黒い血が弧を描いて散る。
炎のような目が見開かれたまま、巨体は崩れ落ちた。
追撃の兵たちが息を呑む。
「お、おおお!? どうしたというんだ……!」
「支配者が……消えたのに――幻影が、消えない!?」
ロックは剣を握ったまま立っていた。
胸の奥に熱がある。
それは命ではない。
だが確かに“燃えて”いた。
ミーシャがその胸にすがりつく。
涙が頬を伝う。
「ロック……あなた……生きてる……!」
「……ああ」
ロックは静かに答えた。
「僕はもう幻じゃない。
君と共にある限り――僕は“生きている”。」
月が二人を照らした。
風が砂を攫い、竜の血を飲み干す。
その夜、幻の民は初めて“生命”を得た。
それは、支配から解き放たれた最初の夜。
そして、愛が幻を超えた瞬間だった。
――砂漠の果てで、風が新しい名を呼んだ。
「ロック」
「ミーシャ」
その名は、もはや幻ではなかった。