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再び隊列を組み、頂上を目指す。
風はまだ強いが、昨日よりははるかに登りやすい。
俺は最後尾でタブレットを確認しながら登っていた。探査機は既に頂上付近を探索しており、701便の姿を何度も送ってくる。だが――人影はない。
「……レオ、どう?」
デイジーが前を振り返って俺に声をかける。
「機体は確かにある。だが、リンダはいないな」
「ふーん……アイツ、途中で凍っちゃったのかもね」
デイジーは軽口を叩いたが、その目には不安の影があった。
その時だった。
ジェロニモが先頭で立ち止まり、岩壁に打ち込んだハーケンを指差した。
「ココ……ナニカ アル」
俺とコブラが追いつくと、そこには裂け目があった。
雪に半ば埋もれた、小さな横穴。
中を覗くと――暗闇の奥に、赤い布が引っかかっていた。
「リンダのスカーフじゃねえか」
コブラが拾い上げる。雪で濡れてはいたが、鮮やかな赤はまだ消えていない。
「やっぱり、このルートを登ってたんだ」
さらに奥にライトを照らすと、靴跡が続いていた。
だが、すぐに途切れている。
床は不自然に平らで、岩盤というより――加工された床のように見えた。
「……やっぱりか」
俺は呟く。
「ここ、自然の岩穴じゃない。古代火星人の遺構だろう」
デイジーが息を呑む。
「ってことは……リンダは中に?」
「かもしれない。だが、姿は見えない」
俺はタブレットを操作し、探査機を一台呼び寄せた。
機体は脚をかちかちと鳴らしながら裂け目に入り、暗闇へ消えていく。
やがて映像が送られてきた。
――赤黒い壁に刻まれた奇妙な文様。
――そして、奥に転がる何か。
「……ッ」
映像を見た俺は思わず息を呑んだ。
そこにあったのは、人影だった。
顔は雪に埋もれて見えない。だが――着ているコートは間違いなくリンダのものだった。
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囁き声は、ただ「降りろ」と耳を苛むだけじゃなかった。
もっと深いところ――思考そのものを侵食していた。
女一人で命綱も無しに崖を登る?
常識的に考えれば狂気の沙汰だ。
それに、仮に頂上にたどり着いたとして――二十トンもの金塊をどうやって運び出すつもりだったのか。
人間一人が背負えるのはせいぜい数キロだ。
冷静に考えれば、初めから不可能な算段だ。
だが……俺たちは誰一人、それを口にしてこなかった。
いや、口にできなかった、というべきか。
――「山はある」
――「山は登れる」
コブラやジェロニモのように“信じ切る”強固な自我を持つ者を除いて、俺たちは囁きに操られ、肝心な部分を思考の外に追いやられていた。
(……選別、か)
タブレット越しに映る遺構の内部。
壁一面に刻まれた文様は、ただの装飾にしては複雑すぎる。
重力波のセンサーに干渉する低周波の発信源も、この中だろう。
古代火星人――俺たちがそう呼ぶ存在。
彼らは、ただ山を偽装して隠したんじゃない。
登ろうとする者を“試して”いたんだ。
「リンダは……その試験に落ちたのかもしれないな」
俺は小さく呟いた。
デイジーが俺の隣で震える声を漏らす。
「……選別って、じゃあ私たちも?」
「そうだ。俺たちは、まだ続いているんだ」
裂け目の奥で、探査機の映像が途切れた。
砂嵐のようなノイズの中、最後に一瞬だけ――
壁面に浮かぶ無数の光点が、人間の目のようにこちらを見返しているように映った。
俺は深く息を吸った。
「進むしかない。遺構が何を試してるのか、確かめるためにな」
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確信があった。
これはただの幻覚でも、精神汚染でもない。
俺たちは――試されている。
「……古代火星人の選別、か」
俺は小さく呟いた。
耳の奥にまとわりつく「降りろ」の囁き。
視界の端を掠める、消える山影。
デイジーも、バッキーも、フランクも心を折られた。
それがこの遺構の役割なのだろう。弱き者をふるい落とす装置。
だが俺は違う。
俺の中に、はっきりとした意志がある。
(――山はある。俺が信じる限り、ここに存在する)
自己暗示をかける。
ただし、さっきまでの「催眠」ではなく、もっと深いところだ。
呼吸を整え、心拍を落とす。
タブレットに映るデータを睨み、現実を数字で塗りつぶす。
温度、気圧、重力波、すべて“山が存在する”と示している。
俺は数字を信じる。数字は嘘をつかない。
――囁きが遠のいていく。
耳の奥で、何かが剥がれ落ちていく。
デイジーが驚いたように俺を見つめた。
「……レオ、今、顔が違った」
「違った?」
「まるで……囁きが効いてない人みたい」
俺は笑ってみせた。
「効かせないようにしたのさ。これは試練だ。
なら、答えを示してやる。俺は“降りない”。最後まで登る」
ジェロニモが肩をすくめて片言で言う。
「オマエ……ツヨイ。ワタシ、ソンケイ」
コブラはシガレットをくゆらせながら、にやりと笑う。
「へぇ、レオ。あんた、ただの獅子面じゃなかったわけだ」
俺はタブレットを握りしめ、進行方向を指さした。
「試されているなら、突破するだけだ。
選ぶのは俺たちだ――山じゃない」
吹雪の向こう、頂上の影が一瞬だけ鮮明に見えた気がした。
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吹雪の音に紛れて、デイジーが小さく震える声を漏らした。
「……やめて、やめて……山はある、山はあるって、言い聞かせてるのに……」
その肩を俺はがっしりと掴んだ。
「デイジー」
「……っ!」
彼女の青い瞳が涙に揺れて俺を見上げる。
「囁きに耳を貸すな。山はある。俺がいる。数字も証明してる。だから――信じろ」
デイジーは一瞬、呼吸を止めたように見えた。
「レオ……」
「俺を信じろ。俺はこの山を登りきる。お前を頂上まで連れていく。
だから、もう迷うな。囁きなんかに負けるな」
しばしの沈黙。
やがて、デイジーの唇がわずかに震え、決意の色が宿る。
「……わかった。信じる。あんたの言葉なら……信じられる」
俺は頷き、デイジーの額に手を当てた。
「よし、それでいい。俺たちは二人で一つだ。お前が囁きに揺れそうになったら、俺が叩き直す。だから離れるな」
「……うん」
彼女はぎゅっと俺の腕にすがりついた。
その姿を見て、コブラが煙を吐きながら茶化す。
「お熱いこったな。まぁ、女に泣かれるよりゃマシか」
ジェロニモが鼻を鳴らす。
「ツヨイ オンナ ノコ、ツヨイ オトコ イル。ソレ イチバン」
俺は二人に返事せず、ただ前方を睨んだ。
「試練がなんだ。俺たちは登る。必ずだ」
吹雪の裂け目を抜け、再び岩壁に取り付く。
デイジーの手の震えは、もう止まっていた。
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再び岩肌を登りはじめた頃だった。
デイジーが「ひっ」と声を上げ、足を止める。
「……レ、レオ! 山が……ない……!」
彼女の視界には、ただの虚空が広がっているのだろう。
山も岩も、ただ足元から先がすべて消え失せてしまったかのように。
手が離れそうになり、ロープがびくりと震えた。
「落ちる……! いやだ……!」
俺はすかさず声を張り上げる。
「見るな! 囁きに惑わされるな!」
振り返ったデイジーの瞳は涙に滲み、狂気の縁で揺れている。
だが俺は、彼女の頬をぐっと片手で押さえた。
「思い出せ。俺の言葉を」
「……っ」
「山はある。俺が証明した。探査機も、数値も、俺たちの足場も――全部だ。
俺を信じろって言っただろう!」
その瞬間、デイジーの肩が震え、口から小さく掠れた声がもれた。
「……あんたの言葉なら……信じられる」
そして彼女は、消えたはずの虚空に再び手を伸ばした。
そこには確かに岩肌があり、指がしっかりと掛かる。
「ある……あるわ……! 山は……ある!」
俺は頷き、ロープを引いて支えた。
「そうだ。お前の目が嘘をついても、俺が真実を見せる。忘れるな」
デイジーは涙を拭い、強く頷いた。
「……もう、大丈夫。私、落ちない」
彼女の背中に力が戻るのを感じた瞬間、俺も確信した。
この山は幻覚で人を選別している。
なら、抗える意志を持つ者だけが――頂上に辿り着けるのだ。
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タブレットに映るノイズ混じりの信号。
「……SOS……こちら……七〇一便……レディ……応答せよ……」
一瞬、耳を疑った。だが確かに聞こえた。
「……レディ?」
横で画面を覗き込んだコブラの顔色が変わった。
普段どんな状況でも飄々としている男の、初めて見る真剣な眼差し。
「おい、今の……もう一度流せ」
「間違いない。701便からのSOS信号だ」
俺は唾を飲み込みながら答える。
「しかも発信者は……お前の相棒、レディだ」
コブラはタバコを指で弾いたが、火をつけなかった。
その代わりに低い声で言う。
「そうか……やっぱりだ」
「知ってたのか?」
「……俺がこの山を登る理由は、金じゃない。
墜落したあの機体に――レディが乗っていた。
俺は、ずっとあいつを探してたんだ」
言葉に嘘はなかった。
囁き声に惑わされず、迷わず進めた理由。
それは“金塊”ではなく“相棒を助ける”という、揺るぎない目的があったからだ。
「だから俺は、この山が幻でも罠でもどうでもいい。
レディが呼んでいる限り、登るしかねぇんだ」
吹雪の向こうで、幻のように浮かぶ701便の機影。
それは囁きでも幻覚でもなく――コブラにとっての唯一の真実だった。
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吹雪は嘘のように止み、深い藍に染まった蒼天が頭上に広がっていた。
氷雪に覆われた頂は、異様な静けさを湛えている。まるで世界そのものが息を潜めて、この瞬間を見守っているかのようだった。
「……レディ!」
コブラは一歩も迷わなかった。
幻影のように佇む701便の残骸へ駆け寄り、錆びたハッチを力ずくでこじ開ける。
中から差し伸べられた細い手を、彼は迷わず掴んだ。
「コブラ……」
弱々しい声が漏れる。
雪と氷に埋もれていたその姿を、コブラは両腕に抱き上げた。
頬に氷が張り付き、息は浅いが――確かに生きていた。
「……待たせたな、レディ」
その顔に浮かんだ微笑みは、今まで見たどんなものよりも静かで力強かった。
一方、ジェロニモは黙って岩壁に膝をついていた。
彼の手の中には、雪に埋もれていた白骨の一部――朽ちた羽飾りをあしらった首飾り。
「……アナタ、イタ」
彼は静かに呟いた。
「父ハ 臆病者ト 言ワレタ。逃ゲタ 言ワレタ。
ダガ 俺 信ジナカッタ。父 必ズ 山ノ上ニ イルト」
握りしめた骨に雪が舞い落ちる。
その声は震えていたが、誇りに満ちていた。
「父ハ 逃ゲナカッタ。登ッテ 力尽キタ。
――勇気アル 登山者トシテ」
ジェロニモの頬を一筋の涙が伝い落ちる。
だが彼はそれを拭わなかった。誇りとして刻むように、ただ黙って立ち上がった。
蒼天の下で、それぞれが「登る理由」を果たした瞬間だった。
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俺とデイジーは、雪に半ば埋もれた702便を見下ろしていた。
探査機が周到に積み上げた金塊の山が、夕日に鈍く光を返している。
「……ほんとうに、あったんだ」
デイジーの声には驚きと恐怖、そしてほっとした響きが混じっていた。
俺は肩をすくめる。
「当然さ。幻覚だの囁きだの、いくら騒ごうと実物はここにある。
――だからこそ、“試されていた”んだろうな」
囁きは俺たちの自我を揺さぶり、山そのものを幻に変えようとした。
だが、信じて登り切った者だけがこの現実に触れられる。
俺はしゃがみ込み、手袋越しに金塊を掴んだ。
冷たいはずの金属は、ずっしりと重く、否応なく「現実」を突きつけてくる。
「レオ……本当に持って帰れるの?」
「帰るさ。全部は無理でもな。俺は夢想家じゃない、リアリストだ」
「わぁ……本物……!」
デイジーは両手で金塊を抱きしめ、青い瞳を輝かせた。
「わたしの! やっと、わたしのものになったのよ!」
その様子に思わず苦笑が漏れる。
「それで満足か? なら残りはぜんぶ、俺の探査機に積み込んでおくぜ」
振り返ったデイジーが、頬を膨らませる。
「ずるいわよ、レオ! 一緒にここまで来たのに!」
「ははっ、だから言ったろ? 信じてついて来いって。
ちゃんと分け前はやるさ――俺なりのやり方でな」
背後では探査機が無言で回収用カプセルを展開していた。
AIが黙々と金塊を小分けし、軌道船までの搬送準備を整えていく。
俺はにやりと笑い、デイジーを見やった。
「なあデイジー、囁きに惑わされずここまで来たんだ。ご褒美くらい、神様も許すだろう」
彼女は涙ぐみながらも笑みを返した。
「……うん。わたし、レオの言葉を信じてよかった」
金は回収する。
だが同時に俺たちは、“山の試練”を生き延びた証を手にした。
欲望と恐怖を胸に抱えながら、俺は金塊の山を前に深く息をつく。
「さあ――仕事の時間だ」
蒼天の下、吹雪は跡形もなく消えていた。
探査機のアームが唸りを上げ、金塊を次々とカプセルに収めていく。
黄金の輝きと、横でふくれっ面をするデイジー。
どちらも俺にとっては、十分に価値あるご褒美だった。