紛れも無く奴に会いたくない   作:ぶーく・ぶくぶく

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ルーン美術館に入るには、正面から堂々と入るのが一番だった。

 

もちろん、正面から入るには顔がいる。

 

その顔として選ばれたのが、太陽系古典美術鑑定の権威、ダビンチ博士だった。

 

本物の博士には、いまごろホテルの一室でぐっすり眠ってもらっている。睡眠薬入りの高級ワインと、レディの完璧な偽造招待状。あれで怒るようなら、学者より軍人になった方がいい。

 

そして今、白髪の鬘に丸眼鏡、皺だらけの人工皮膚をつけたコブラは、ミスティを連れてルーン美術館の大理石の玄関ホールを歩いていた。

 

「これはこれは、ダビンチ博士。お待ちしておりましたわ」

 

深緑のドレスをまとった女が、優雅に一礼した。

 

「初めまして。わたしがルーン美術館の館長、アングルです」

 

「お招きにあずかって光栄だね、館長」

 

コブラは老教授らしく杖をつき、鼻にかかった声で言った。

 

アングル館長の視線が、隣のミスティに移る。

 

「……そちらのお嬢さんは?」

 

「助手のミスティだ。学生だがね、良い機会だから、名高いルーン美術館の収蔵品を見せてやろうと思ってね」

 

ミスティはむすっとした顔で、形だけ頭を下げた。

 

「助手です」

 

「まあ、そうでしたの」

 

アングル館長は微笑んだ。

 

「当美術館には、約四万点の美術品が収められております。従って、その一つ一つを鑑定していただくのは、とても無理かと思いますので……一応、こちらで指定したものに限って鑑定をお願いしたく存じます」

 

「なるべく、いいものを鑑定したいね」

 

コブラは、展示室の奥を眺めながら言った。

 

「たとえば、あのお尻なんか非常に勤労意欲をそそる」

 

アングル館長の眉が跳ね上がった。

 

「まあ、ダビンチ博士!」

 

彼女は振り返り、コブラの視線の先を見た。

 

そこには、白い石像があった。豊かな腰つきの女神像である。

 

「あなたは本当に鑑定家ですの? 美術品をそのような目でご覧になるなんて……野卑な!」

 

「いや、実にいい曲線だ」

 

「野卑ですわ!」

 

アングル館長は頬を紅潮させ、早口になった。

 

「あれはアントニヌス作のミザラ像です。その価値がいかなるものか、お分かりですの? あの像はZ歴二〇四三年の作品です。その時代に生きた古代人の心が、文明の跡が、あの腰の線に――」

 

「ミザラ像の制作は二〇四一年だ」

 

コブラがさらりと言った。

 

アングル館長の言葉が止まった。

 

「……え?」

 

「もっとも、首から下はアントニヌス本人じゃない。弟子のイザが二〇四五年に付け足したものだ。師匠の未完成作を引き継いだんだな。だから首の付け根だけ、研磨の癖が違う。ほら、あそこだ」

 

コブラは杖の先で、像の首筋を示した。

 

「右肩から鎖骨にかけての面取りが浅い。アントニヌスなら、あそこはもう半分だけ光を殺す」

 

アングル館長は目を丸くした。

 

「は……はあ……そ、そうでした。わたしとしたことが」

 

「いいの、いいの。四万点もあるからね」

 

コブラはにやりと笑った。

 

「尻だけ覚えていれば充分さ」

 

ミスティが横から冷たい目で見上げた。

 

「……そんなに大きなお尻がいいなら、ホルスタインとでも結婚したら? ダビンチ博士」

 

「嫉妬かね、助手くん」

 

「ちーがーいーまーすー」

 

ミスティはぷいっと横を向いた。

 

その視線が、隣の展示ケースで止まる。

 

「あ、あのドレス可愛い」

 

展示ケースの中には、鮮やかな緑色のドレスが飾られていた。

 

深い森のようで、宝石のようでもある。布地は古いはずなのに、緑だけが異様なほど生々しく残っていた。

 

「ああ、あれはパリ・グリーンだな」

 

コブラが言った。

 

「着ると死ぬぞ」

 

ミスティの顔が固まった。

 

「え。あんなに綺麗なのに? 呪いでも掛かってるの?」

 

「呪いより始末が悪い。古代地球で流行った、ヒ素を含んだ緑色の顔料だ。あの鮮やかな緑を出すために、人間はずいぶん危ないものを身につけていた」

 

「ヒ素って、毒じゃん」

 

「そうさ。ドレスが揺れるたび、乾いた染料の粉が落ちる。汗をかけば水分と反応して、皮膚から毒が入る。潰瘍、ただれ、慢性中毒、場合によっちゃ皮膚がんだ」

 

ミスティは一歩、展示ケースから離れた。

 

「うわ……」

 

「しかも、ダンスで裾が舞えば、目に見えない粉塵が周囲に散る。吸い込めば肺からも毒が入る。着た女だけじゃない。縫った職人、染めた職人、売り場で扱った連中もやられた」

 

コブラはガラス越しにドレスを見た。

 

「一番犠牲になったのは、作った者たちだろうな」

 

ミスティは、さっきまで可愛いと言っていたドレスを、今度は少し怖そうに見つめた。

 

「……こわ。おしゃれが命がけの時代があったんだねぇ」

 

「いつの時代も、美しさには代金がいる」

 

コブラは肩をすくめた。

 

「もっとも、現代の緑の染料は安全だ。安心して着るんだな」

 

「ダビンチ博士に言われると、安心できないんだけど」

 

「それは鑑定眼が育ってきた証拠だ」

 

アングル館長は、感心と困惑の入り混じった顔でコブラを見ていた。

 

「博士……先ほどから、言動は少々、その……奔放でいらっしゃいますけれど、知識は本物ですのね」

 

「言動も本物だよ、館長」

 

コブラは老教授の声で、にやりと笑った。

 

「美術品ってやつはね、上品ぶって見るだけじゃ片手落ちだ。誰が作り、誰が欲しがり、誰が泣いたか。そこまで見て、ようやく値が分かる」

 

アングル館長は言葉を失った。

 

ミスティが小声でつぶやく。

 

「……それっぽいこと言うと、ちゃんと博士に見えるのずるい」

 

「年の功だよ、助手くん」

 

「その顔、作り物じゃん」

 

「心はいつでも博士さ」

 

その時、天井の高い展示室の奥で、雷のような低い唸りが響いた。

 

ミロ星の夜が近づいている。

 

コブラは一瞬だけ、窓の外を見た。

 

昼の光が細り、遠い雲の底で青白い稲妻が走った。

 

ルーン美術館の壁面が、かすかに帯電を始めている。

 

アングル館長は気づかない。

 

ミスティだけが、ぴくりと指先を動かした。

 

その目が、楽しそうに細くなる。

 

コブラはそれを横目で見て、ほんのわずかに笑った。

 

今夜の本当の鑑定品は、まだ最上階にある。

 

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