中層階の展示室には、巨大な窓があった。
ミロ星の都市を一望できる、厚い透明装甲の窓である。
昼間は白い街並みが地平線まで続いていた。
だが今、その街が変わり始めている。
遠くで警報の鐘が鳴った。
低く、長く、地の底から響くような音だった。
ミスティが窓に駆け寄る。
「なに、あれ……?」
都市全体を覆うように、巨大な透明ドームがゆっくりと展開していた。
幾重もの防護膜が重なり、光を反射しながら空を閉ざしていく。
その直後、街そのものが沈み始めた。
ビル群が、道路が、広場が、まるで舞台装置のように地面の下へ下がっていく。
昼間は賑わっていた都市が、夜を前にして、地中へ逃げ込んでいくのだ。
観光客たちが窓辺でざわめいた。
誰かが言った。
「夜が来る!」
その声に応えるように、空の色が変わった。
青から紫へ。
紫から黒へ。
そして黒雲の腹の中で、白い稲妻が走った。
ミロ星の夜が、口を開けた。
コブラは老教授の姿のまま、窓の外を眺めていた。
「この星の夜は地獄だ」
ミスティが振り返る。
「地獄?」
「ああ。夜に出歩く奴は誰もいない。飛行機も車も、外へ出た途端に電磁嵐でバラバラになる。センサーは焼け、制御装置は狂い、金属の骨組みは雷を呼ぶ」
コブラは杖で窓を軽く叩いた。
「このルーン美術館は、建物全体が一つの避雷針になっている。夜になると、雷はこの塔へ集まる。近づくことも、出ていくこともできない」
窓の外で、稲妻が塔の先端に落ちた。
一瞬、展示室の照明が白く震える。
「まさに自然が作り出したガードマンってわけだ」
「宇宙船なら耐えられるんじゃないの?」
ミスティが聞いた。
「耐えるだけならな」
コブラは肩をすくめた。
「だが、乗り降りするハッチがない。船体は無事でも、外へ出た瞬間に人間の方が焼き肉だ」
「……なるほど」
ミスティは窓の外の雷を見た。
怖がっている顔ではない。
むしろ、光の流れを追っている。
稲妻がどこから生まれ、どこへ落ち、どの壁を伝って消えるのか。
それを目で数えている。
その時、背後から柔らかな声がした。
「どうですか、博士。お仕事は捗りまして?」
アングル館長だった。
いつの間にか展示室の入口に立っている。
その笑顔は昼間と変わらない。
だが、窓の外で雷が光るたび、彼女の影が床に長く伸びた。
コブラは振り向き、芝居がかった仕草で胸を押さえた。
「それがどうも、雷ってやつは苦手でね。あいつが鳴るたびに、ついへそを押さえてしまう」
「まあ」
アングル館長は扇子で口元を隠した。
「ホホホ。博士にも可愛らしいところがおありですのね」
「学者はへそを大事にする生き物でね」
「では、今夜は展示場を締めますので、お仕事は明日になさっては?」
「ああ、そうしよう。雷と古美術の相性は悪そうだ」
「賢明ですわ」
アングル館長は静かに一礼した。
「お部屋は上階にご用意してあります。お食事もそちらへ運ばせましょう」
「ありがたいね。助手くんも育ち盛りでね」
「わたし、子供扱いされるほど育ち盛りじゃないんだけど」
ミスティがむっとする。
アングル館長は微笑んだまま、二人に背を向けかけた。
そして、思い出したように振り返る。
「あ、そうそう」
「まだ何か?」
「夜は展示場へはおいでになりませんように」
その声だけが、少し冷たかった。
「間違いがあっても、保証しかねますので」
コブラが片眉を上げた。
「間違い?」
「ホホホ」
アングル館長は楽しそうに笑った。
「番犬ですわ」
ミスティの視線が、展示室の奥へ向く。
昼間、何もなかったはずの廊下の向こう。
壁の中から、低い唸りのような振動が伝わってくる。
「彼らは、とても狂暴ですから」
「犬に噛まれるのは好きじゃないね」
「噛まれるだけで済めば、運がよろしい方ですわ」
館長は優雅に一礼した。
「では……お二人とも、おやすみなさい」
扉が閉まる。
展示室には、コブラとミスティだけが残された。
窓の外では、都市が完全に地中へ消えていた。
地表に残っているのは、雷に打たれるルーン美術館の塔だけだ。
ミスティが小さくつぶやく。
「番犬って、犬じゃないよね」
「ああ」
コブラは窓の外を見たまま笑った。
「名画の横で小便をしない程度には、躾がいいらしい」
「コブラ」
「何だい、助手くん」
ミスティは指先を軽く振った。
青白い火花が、その爪先で小さく跳ねる。
「この建物、夜になると電気の流れが変わる」
「ほう」
「壁の中を、何かが歩いてるみたい」
コブラは白髪の鬘を少し直した。
「そいつは楽しみだ」
「楽しみなの?」
「もちろん」
彼は老教授の顔で、いつもの笑みを浮かべた。
「美術館ってのは、夜の方が本性を見せるものさ」