過労死サラリーマン、銀河の無茶振りに挑む 〜地球の存亡は10年後の星間会議(ミーティング)で決まるそうです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第68話 氷の聖櫃と皇帝の天秤

 シベリアの永久凍土、その厚き氷の鎧の下に隠された『ロシアン・アーク研究所』。

 バイカル湖の冷徹な湖水を天然の冷却材として利用する、この巨大地下施設は、今、静寂とは程遠い、しかし極めて抑制された熱狂に包まれていた。

 

 地下第五層エネルギー実証実験区画。

 強化ガラスと鉛で何重にも遮蔽された実験チャンバーの中で、その「奇跡」は静かに、そして力強く脈打っていた。

 

 それは直径五メートルほどの巨大な円筒形の水槽だった。

 だが中を満たしているのは水ではない。淡い翠玉色(エメラルドグリーン)に発光する粘性流体。

 そしてその中心に、かつてアレクセイ・ペトロフ博士が凍土の底から持ち帰った『シベリアの星霜菌』のコロニーが、複雑怪奇な幾何学模様を描きながら浮遊していた。

 

 菌体は呼吸をするように明滅を繰り返し、そのたびに水槽に接続された極太のパワーケーブルを通じて、信じがたい数値の電流が計測器へと送り込まれている。

 

「……出力安定。炉心温度、摂氏二十五度で固定。……臨界反応ありません。あまりにも……あまりにも静かです」

 

 白衣に身を包んだ若い研究員の報告する声が震えていた。

 それは恐怖ではない。目の前で起きている物理法則の書き換えに対する、純粋な畏敬の念だった。

 

 ペトロフ博士は腕を組み、モニターに表示される数値の羅列を見つめていた。

 彼の痩せこけた頬は数ヶ月に及ぶ不眠不休の研究でさらにこけていたが、その瞳はかつてないほどの輝きを放っていた。

 

「……核融合炉のように一億度の熱も必要なければ、放射能漏れの恐怖におびえる必要もない。……彼らはただそこに在るだけで、空間の熱エントロピーを逆転させ、純粋な電気エネルギーへと変換しているのだ」

 

 ペトロフはガラス越しに、その翠色の光を見つめた。

 

 この数ヶ月の研究成果は、「劇的」という言葉では生温いものだった。

 女神ロッドが示した通り、この星霜菌は熱エネルギーと放射性物質を糧とし、それを無害な物質と膨大な電力へと変換する性質を持っていた。

 

 彼らが開発したこの試作炉『アーク・ワン』は、わずかな放射性廃棄物を投入するだけで、半永久的に、しかも極めてクリーンに、小都市一つ分の電力を賄えるだけのエネルギーを生み出し続けている。

 

 排熱はゼロ。排出されるのは、放射能を完全に抜かれた安定同位体の重金属のみ。

 これはエネルギー革命であり、同時に環境浄化の最終兵器だった。

 

「所長。……廃棄物処理槽のデータが出ました」

 

 別の研究員が興奮気味にタブレットを差し出す。

 

「投入した『マヤーク核施設』由来の高レベル廃液サンプル……放射線量がバックグラウンドレベルまで低下しています。分解率は99.999%。……完全にただの水と泥になっています」

 

「……ああ」

 

 ペトロフは深く頷いた。

 

 これこそが、彼が夢見た光景だった。

 ロシアの大地を、いや地球全体を蝕む核の呪い。チェルノブイリの石棺の中でくすぶり続ける悪魔の火も、海洋を汚染する廃棄物も、この緑の微生物の前ではただの餌に過ぎない。

 

 彼は人類を救う鍵を手にしたのだ。

 

 だが、その歓喜の裏側で、ペトロフの心には常に冷たい風が吹いていた。

 

 この研究所の至る所に配置された監視カメラ。

 そして、常に背後に控える無表情なFSB(連邦保安庁)の監視員たち。

 彼らの目は、科学的探究心とは無縁の、冷徹な計算の色を帯びていた。

 

 彼らはこの奇跡を「救済」ではなく「力」として見ている。

 

 ペトロフは知っていた。このエネルギー効率は、兵器に転用すれば悪夢のような破壊力を生むことを。

 無限の動力を得た潜水艦、大気を焼き尽くすレーザー兵器、あるいは……。

 

(……女神よ。私はこの道を正しく歩めているのでしょうか)

 

 彼は心の中で問いかけた。

 

 その時、研究所全体に低い警報音が鳴り響いた。

 緊急事態ではない。それはこの施設の真の支配者が降臨することを告げる、恭しくも威圧的な合図だった。

 

「――大統領閣下が到着されました」

 

 ウラジーミル・ボグダノフは、重厚な防寒コートを脱ぎ捨て、仕立ての良いスーツ姿で実験区画へと足を踏み入れた。

 彼の周囲には、隙のない動きで周囲を警戒する護衛官たちと、科学アカデミーの幹部たちが付き従っている。

 

 だが、その場の空気を支配していたのは、圧倒的にボグダノフ一人だった。

 彼の氷色の瞳は、挨拶もそこそこに、一直線にチャンバーの中の翠色の光へと向けられた。

 

「……これがそうか」

 

 ボグダノフはガラス面に手を触れそうなほどの距離まで近づき、その光を見つめた。

 

「報告書では読んでいたが……実物は想像以上に美しいな。……まるでこの星の魂そのものを見ているようだ」

 

「……閣下」

 

 ペトロフが一歩前に進み出た。

 

「ご覧の通りです。実験は成功しました。……この『アーク・ワン』は過去七十二時間、出力変動率0.01%以下で安定稼働を続けています。……これはエネルギー問題の解決策であると同時に、我が国が抱える核廃棄物問題を根底から解決する唯一無二の手段です」

 

 ボグダノフはゆっくりと振り返り、ペトロフを見た。

 その表情には、以前のような冷淡な疑念はなく、ある種の深い満足感が浮かんでいた。

 

「……よくやった、アレクセイ。……君は約束を果たしたな」

 

 彼はペトロフの肩に手を置いた。その手は温かく、しかし万力のように強かった。

 

「この技術があれば、ロシアは甦る。……石油や天然ガスといった古い時代の血液に頼る必要はなくなる。

 我々は、星そのものの力を血管に流す新たな巨人となるのだ」

 

「……はい」

 

 ペトロフは頷いた。そして意を決して切り出した。

 

「……つきましては閣下。……この成果を、いつ、どのように公表されるおつもりでしょうか?

 ……G7のサイボーグ技術、中国の農業技術に対し、我が国もまた人類に貢献しうる偉大な発見をしたことを、世界に示すべき時が来ているのではないでしょうか」

 

 その問いに、ボグダノフの目がわずかに細められた。

 彼は即答せず、再び水槽の中の光へと視線を戻した。

 

 沈黙が実験室を支配する。研究員たちは固唾を飲んで、皇帝の裁定を待った。

 

 ボグダノフの脳内では、ペトロフの理想論とは全く異なる次元の、冷徹な地政学的計算が高速で展開されていた。

 

 公表か、秘匿か。

 その天秤はこの数週間、彼の中で激しく揺れ動いていた。

 

 秘匿のメリットは明白だ。

 この技術を独占し、極秘裏に軍事転用を進めれば、ロシアは数年以内にG7の軍事力を無力化する非対称兵器を手に入れることができる。

 無限の航続距離を持つ無人潜水艇、衛星軌道上からの高出力エネルギー照射。

 それらは、西側の『神の盾』すら貫く矛となり得る。

 

 だがデメリットもまた、致命的になりつつあった。

 

 アメリカの動きだ。

 CIAとNSAの諜報網は、執拗にシベリアのこの一点を嗅ぎ回っている。

 偵察衛星の監視は日増しに厳しくなり、FSBは研究所周辺で数名の「旅行者」を拘束していた。

 

 彼らは気づいている。ロシアが何かを隠していることを。

 

 そして、トンプソン大統領が先日、介入者との会談でロシアへの懸念を表明したという情報も、独自のルートで入手していた。

 介入者は「心配ない」と答えたらしいが、疑心暗鬼に陥ったアメリカがそれを額面通りに受け取る保証はない。

 

(……隠し通せる時間は、もう残り少ない)

 

 ボグダノフは冷徹に分析した。

 

 もしこのまま秘匿を続ければどうなるか。

 アメリカはこれを「未知の大量破壊兵器の開発」と断定するだろう。

 そして「世界の安全を守るため」という大義名分を掲げ、先制攻撃――サイバー攻撃によるインフラ破壊か、あるいは特殊部隊による強襲――を仕掛けてくる可能性がある。

 

 介入者からの「核を使うな」という警告がある以上、全面核戦争にはならないとしても、局地的な軍事衝突でこの研究所が破壊されれば、ロシアは未来を失う。

 

 何より、「隠れてコソコソと兵器を作っていた悪党」として世界中から指弾されれば、ロシアは国際社会で完全に孤立する。

 中国ですら、ここぞとばかりにロシアを見限り、恩を売るために西側に加担するかもしれん。

 

(……ならば逆手を取るか)

 

 ボグダノフの口元に、微かな笑みが浮かんだ。

 それは、窮地に立たされたチェスプレイヤーが、起死回生の一手を見出した時の笑みだった。

 

 隠すから疑われる。

 隠すから弱みになる。

 

 ならば晒してしまえばいい。

 ただしただ晒すのではない。「兵器」としてではなく、「聖なる救済」として。

 

「……ペトロフ博士」

 

 ボグダノフは静かに口を開いた。

 

「……君の言う通りだ。……もはや隠しておくべきではないな」

 

 その言葉に、ペトロフの顔がぱっと輝いた。

 

「……! ででは……!」

 

「ああ。公表する」

 

 ボグダノフは断言した。

 

「だが、ただ論文を発表するだけでは足りない。……我々はもっと劇的に、そしてもっと政治的に、このカードを切らねばならん」

 

 彼は懐から一本の葉巻を取り出し、弄びながら歩き始めた。

 

「……アメリカは今、疑心暗鬼に陥っている。『ロシアは何か危険なものを隠している』とな。……その疑念が頂点に達し、彼らが引き金を引こうとするその直前に、我々は掌を開いて見せるのだ。

 

 『見ろ、我々が隠していたのは銃ではない。傷ついた地球を癒やす包帯だ』と」

 

 ボグダノフの声に、熱がこもり始めた。

 

「想像してみろ。……我々がこの『星霜菌』による放射能除去技術を、全世界に向けて無償で、あるいは極めて安価で提供すると宣言したらどうなる?

 

 ……フクシマの処理水に悩む日本、老朽化した原発の廃棄物に頭を抱えるヨーロッパ諸国、そして核実験場の汚染に苦しむ小国たち。……彼らは我々をどう見る?」

 

「……救世主として見るでしょう」

 

 ペトロフが夢見るように答えた。

 

「その通りだ」

 

 ボグダノフは頷いた。

 

「我々は一瞬にして、『怪しい軍事国家』から『地球環境の守護者』へと変貌する。……そうなればアメリカはどうする? 我々を攻撃できるか?

 

 ……いや、できん。そんなことをすれば、彼らは『地球を救う技術を破壊しようとした環境の敵』として、世界中から袋叩きに遭う。……これこそが最強の『盾』だ。介入者のシールドなど目ではない、世論という名の絶対的な盾だ」

 

 それはあまりにも見事な戦略の転換だった。

 平和利用を最大の外交兵器として利用する。

 純粋な科学的成果を、冷徹な政治的抑止力へと昇華させる。

 

「……そして」

 

 ボグダノフは水槽の翠色の光に顔を近づけた。その瞳に野心の炎が映り込む。

 

「……世界がこの技術に依存しきった時。……世界のエネルギー供給の鍵を我々が握った時。……その時こそ、ロシアは真の意味でこの星の支配権を握るのだ」

 

 彼は振り返り、ペトロフに命じた。

 

「……準備を進めろ博士。……来週、私は世界に向けて緊急声明を発表する。……場所はここ、バイカル湖畔だ。……この清らかな水を背景に、我々は世界に向けて高らかに宣言するのだ。『ロシア・ルネサンス』の始まりをな」

 

「……はい!」

 

 ペトロフは感極まった声で応えた。

 彼の純粋な理想は、大統領の冷徹な計算と奇妙に合致し、一つの巨大な奔流となろうとしていた。

 

 ボグダノフは執務室に戻るヘリコプターの中で、眼下に広がるシベリアの白い大地を見下ろしながら愉悦に浸っていた。

 

(……見ていろトンプソン。そして龍岳山。……貴様らが神の玩具で遊んでいる間に、私はこの星そのものを味方につけたぞ)

 

(……どうせバレているのなら、堂々と見せつけてやるのが王の戦い方だ。……さあ世界よ。ひれ伏す準備はいいか?)

 

 北の凍土から放たれようとしている光は、西の鋼鉄の輝きとも、東の豊穣の緑とも違う、冷たく、しかし何よりも強く世界を照らし出そうとしていた。

 

 三つの極が揃い踏みする時。

 人類の歴史は、かつてない混沌と、そして奇妙な安定の時代へと突入することになる。

 

 その幕開けのファンファーレは、間もなく鳴り響こうとしていた。

 

 その頃、月面の観測ステーションでは。

 全てを見通す孤独な脚本家、相馬巧が、スクリーンに映るボグダノフの決断を見て、深く安堵のため息をついていた。

 

「……よし。……よしよし……!」

 

 彼は拳を握りしめた。

 

「……ボグダノフ、よくぞその判断をした! ……軍事機密として隠し通して自爆するバッドエンドルートは回避だ! ……『公開して牽制する』。……その手があったか。……さすがは元KGB、性格が悪くて助かったぜ……!」

 

『マスター。シミュレーション結果が更新されました』

 

 イヴの声もどこか弾んでいる。

 

『ロシアによる環境技術の公開は、G7諸国との緊張関係を一時的に緩和し、技術的相互依存関係を構築するきっかけとなる確率が78%まで上昇しました。……これは、世界のパワーバランスを『三すくみ』の安定状態へと導く決定的な一手となります』

 

「……ああ。……これでようやく、舞台の役者が全員正しい位置についたな」

 

 巧はリクライニングシートに深く体を預けた。

 

 西のサイボーグ。

 東のバイオ。

 北のエネルギー。

 

 三つの異なる進化の道が、互いに牽制し合い、刺激し合いながら螺旋を描いて上昇していく。

 それは彼が夢見た、最も理想的な(そして最も胃の痛くなるような)脚本の形だった。

 

「……さてと」

 

 彼はまだ見ぬ未来の展開に思いを馳せながら呟いた。

 

「……ロシアの発表が終わったら、またG7の連中が泣きついてくるだろうな。『我々にもその技術を!』って。……やれやれ、また忙しくなりそうだ」

 

 神の代理人は、心地よい疲労感と共に、次なる調整(アドリブ)の準備を始めていた。

 

 世界はまだ終わらない。

 物語はここからが本番なのだから。

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