過労死サラリーマン、銀河の無茶振りに挑む 〜地球の存亡は10年後の星間会議(ミーティング)で決まるそうです〜   作:パラレル・ゲーマー

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第69話 バイカルの誓いと三極の完成

 世界で最も深く、最も透明な湖、バイカル。

 「シベリアの真珠」と謳われるその湖面は、初冬の張り詰めた空気の中で鏡のように静まり返っていた。

 だが、その静寂は、湖畔に設営された巨大な特設ステージを取り囲む数千のメディアと、衛星回線を通じてその光景を見守る数十億の人々の熱気によって、今にも破られようとしていた。

 

 気温は氷点下十五度。吐く息が白く凍る極寒の中、ステージの中央に一人の男が立った。

 ロシア連邦大統領、ウラジーミル・ボグダノフ。

 

 彼は、防寒用の厚いコートをあえて着用せず、仕立ての良い漆黒のスーツ姿で、凛然と風の中に立っていた。

 その背後には、どこまでも青く深いバイカルの湖面と、雪を頂いた山々が、天然の舞台装置として荘厳な背景を作り出している。

 彼の横には、緊張で顔を強張らせたアレクセイ・ペトロフ博士が、まるで聖遺物を守る守護騎士のように、厳重なケースを抱えて控えていた。

 

 ボグダノフは、ゆっくりと演台のマイクに手を掛けた。

 その動作一つ一つが、計算され尽くした演出だった。

 彼は、世界中のカメラが自分の表情の一微粒子までをも捉えていることを意識しながら、氷のように冷たく、そして鋼のように力強い声を発した。

 

「――親愛なるロシアの市民諸君。そして、世界中の友人たちよ」

 

 彼の声が、スピーカーを通じて寒空に響き渡る。

 

「……長い間、我々ロシアは沈黙を守ってきた。

 西側諸国が宇宙からの客人に浮かれ、東の隣人が大地の変貌に熱狂する間、我々はただじっと耐えてきた。

 ……多くの者は思っただろう。『ロシアは終わった』と。『あの巨人はもはや時代の落伍者だ』と」

 

 彼はそこで一度言葉を切り、自嘲気味に口の端を歪めた。

 

「……だが、それは間違いだ。

 我々は眠っていたのではない。……我々は耳を澄ませていたのだ。

 空の彼方ではなく、我々の足元、この母なる大地の深淵からの声に」

 

 ボグダノフは、隣のペトロフ博士に合図を送った。

 博士が震える手でケースを開く。

 中から取り出されたのは、翠玉色(エメラルドグリーン)の光を放つ液体で満たされた特殊なガラスシリンダーだった。

 その中では、無数の微細な粒子が、まるで呼吸をするかのように明滅を繰り返している。

 

「……見よ。これこそが、シベリアの永久凍土が数百万年の時を超えて守り抜いてきた、この星の記憶。……『シベリアの星霜菌』である」

 

 会場の巨大スクリーンに、その微生物の拡大映像が映し出される。

 そして、それに続いて流された映像こそが、世界を震撼させることになった。

 

 チェルノブイリの炉心溶融物(コリウム)。

 人類が触れることすら許されない死の塊。

 それに群がった星霜菌が、見る見るうちにその致死的な放射線を喰らい尽くし、無害な土塊へと変えていく早回し映像。

 

 さらにその過程で発生した膨大なエネルギーが、都市の灯りを煌々と照らし出すシミュレーション映像。

 

 会場から、悲鳴に近いどよめきが上がった。

 それは兵器の公開ではなかった。

 それは、人類が半世紀以上抱え続けてきた「核のゴミ」という呪いからの、完全なる解放の宣言だった。

 

「……信じられるかね?」

 

 ボグダノフは、優しく問いかけるように言った。

 

「……この小さな命は、我々が犯した過ちをその身に取り込み、浄化し、あまつさえ光へと変えてくれるのだ。……これは科学ではない。……これは赦し(ゆるし)だ」

 

 彼は両腕を広げ、バイカル湖の広大な自然を指し示した。

 

「……我々にこの奇跡を授けたのは宇宙人ではない。……西の『介入者』でも、東の『太歳』でもない。……この地球そのものだ。……我々の前に現れたのは、この星の意思、女神『ロッド』である!」

 

 女神ロッド。

 その名は瞬く間にインターネットの海を駆け巡った。

 

 ロシアにも神が現れた。

 だがそれは、空から来た異邦人ではなく、我々が住むこの大地そのものの化身だという。

 

 その物語(ナラティブ)は、宇宙人という未知の存在に心のどこかで不安を感じていた人々の心に、強烈な安心感と、そして郷愁にも似た感動を呼び起こした。

 

「……G7の諸君は空を見上げ、肉体を機械に変える道を選んだ。……中国の友人は異形の神と契約し、大地を変質させる道を選んだ。……だが、我々ロシアは違う」

 

 ボグダノフの声が熱を帯び、高らかに響き渡る。

 

「……我々は、この星と共にあることを選んだ!

 ……空へ逃げるのでもなく、大地を犯すのでもなく、ただこの星の傷を癒やし、その恵みを享受する。

 ……これこそが、真の人類の在り方ではないか!」

 

 彼は拳を握りしめた。

 

「……ここに宣言する!

 ……本日よりロシア連邦は『環境再生超大国』として生まれ変わる!

 ……この星霜菌の力を用い、我々はチェルノブイリを、フクシマを、そして世界中の核の汚染地帯を、再び緑溢れる楽園へと戻すだろう!

 ……エネルギー不足に悩む国々には、この星の鼓動から生まれた無尽蔵の電力を分け与えよう!」

 

 そして彼は、最後の決め台詞を放った。

 

「……これは覇権ではない。……これは奉仕だ。……世界よ見るがいい。……ここからロシア・ルネサンスが始まるのだ!」

 

 演説が終わった瞬間、バイカル湖畔は割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。

 それは、恐怖に怯える民衆の悲鳴ではなかった。

 希望を見出した人々の、純粋な称賛の嵐だった。

 

 「ロシア万歳!」「ロッド万歳!」「地球を守れ!」

 

 世界中の環境保護団体が、即座に支持を表明した。

 エネルギー危機に喘ぐ小国たちが、ロシア大使館に殺到した。

 

 かつて「悪の帝国」「戦争屋」と呼ばれた国のイメージは、たった数十分の演説と一つのガラスシリンダーによって、「地球の守護者」へと鮮やかに塗り替えられたのだ。

 

【ワシントンD.C. ホワイトハウス】

 

 その中継を見ていたジェームズ・トンプソン大統領は、手にしていたコーヒーカップを壁に投げつけた。

 陶器の砕ける音が、静まり返った執務室に響く。

 

「―――クソッ! ……やられた! 完全にやられたぞ、あのアイスマン(ボグダノフ)め!!」

 

 彼は悔しさに顔を歪ませながら、部屋の中を歩き回った。

 

「……見ろ、あの白々しい演説を! 『奉仕』だ? 『赦し』だ?

 ……よくもまああんな歯の浮くような台詞がポンポンと出てくるものだ!

 ……奴の腹の中は、真っ黒な石油よりもドス黒いというのに!」

 

 国防長官のマティスも、苦虫を噛み潰したような顔で腕を組んでいた。

 

「……見事な一本背負いですな、大統領。……我々が『ロシアは未知の兵器を隠し持っている』と糾弾する準備をしていた矢先に、奴らは『これは掃除機です』と言って出してきやがった。……しかも世界中が拍手喝采だ。……これで我々がロシアの施設を攻撃する口実は、完全に消滅しました」

 

「……ああ、その通りだ」

 

 トンプソンは頭を抱えた。

 

「……もし今、我々がロシアン・アーク研究所に手出しをすれば、アメリカは『地球環境の敵』『癌の特効薬を燃やす野蛮人』として、世界中から袋叩きに遭う。……手も足も出せん」

 

 CIA長官のサリバンが、重い口調で付け加えた。

 

「……それにあの技術。……放射能除去と常温超伝導……。

 ……軍事転用すれば恐ろしい兵器になることは明白ですが、現時点では『平和利用』の看板があまりにも強固すぎます。

 ……介入者様が『直ちに危険ではない』と仰った意味が、ようやく分かりました。……確かに兵器ではない。……兵器以上の外交核爆弾です」

 

 トンプソンは窓の外を見つめた。

 

「……結局、我々はロシアを認めざるを得ないということか。……G7の経済制裁も、これでは維持できんぞ。……世界がロシアの技術を求めているのだからな」

 

 彼は悔しげに、しかしどこか認めざるを得ないという諦観を含んだ声で呟いた。

 

「……三極化か。……西のサイボーグ、東のバイオ、そして北のエネルギー。……世界はあまりにも綺麗に割れてしまったな」

 

【東京 首相官邸】

 

 日本の反応は、アメリカのそれよりも遥かに複雑で、そして切実だった。

 

 緊急招集された閣議の席上、郷田総理は険しい表情でモニターを見つめていた。

 その隣で、的場科学技術担当大臣は、祈るように手を組んでいる。

 

「……総理。……これは……」

 

 的場の声が震えていた。

 

「……我が国にとってこれは……無視することのできない提案です」

 

 その場の全員が、その意味を痛いほど理解していた。

 

 フクシマ。

 あの震災以来、日本が抱え続けてきた終わりの見えない重荷。

 処理水の問題、除染土の処理、そして廃炉への遠い道のり。

 

 それがロシアの提示した技術――もしそれが本物であれば――によって、全て解決するかもしれないのだ。

 

「……分かっている」

 

 郷田は呻くように言った。

 

「……喉から手が出るほど欲しい。……国民もそれを望むだろう。……被災地の復興が一気に進むのだぞ。……これを断ることなど、政治家としてできるはずがない」

 

 だが、と経済産業大臣が口を挟んだ。

 

「……ですが総理。……ロシアに頭を下げるということは、エネルギー安全保障の首根っこをボグダノフに握られるということです。……常温超伝導による送電網、そして廃棄物処理。……一度そのシステムに依存してしまえば、我々は二度とロシアに逆らえなくなります。……G7の結束にもヒビが入るでしょう」

 

 ジレンマ。

 究極のジレンマだった。

 

 国民の安全と国土の浄化を取るか。

 同盟国との協調と国家の自立性を取るか。

 

 郷田は目を閉じた。

 ボグダノフのあの氷のような微笑が、目に浮かぶようだった。

 

(……足元を見おって。……上手い手を使いやがる)

 

「……的場君」

 

 郷田は目を開けた。

 

「……CISTで同等の技術を開発することは可能か?」

 

 的場は苦しげに首を横に振った。

 

「……無理です。……介入者様の技術体系とは根本的に原理が異なります。……あれは地球固有の、全く未知の生物学的プロセスです。……我々がゼロから開発するには、数十年はかかるでしょう」

 

「……ならば選択肢は一つか」

 

 郷田は、覚悟を決めたように言った。

 

「……交渉だ。……ロシアと交渉するしかない。……だがただ依存するのではない。……我々にはG7の『代替装備技術』がある。……バーターだ。……技術と技術の交換条件で対等なパートナーシップを結ぶ。……それしか、我々が生き残る道はない」

 

 彼は拳をテーブルに叩きつけた。

 

「……ボグダノフの狙いはまさにそこだろう。……G7の包囲網を、日本という一番弱い鎖の輪から食い破るつもりだ。……上等だ。……その誘い、乗ってやろうじゃないか。……ただし、ただでは食わせんぞ」

 

 日本は揺れていた。

 そしてその揺らぎこそが、世界が「三すくみ」の状態へと移行していく決定的な瞬間でもあった。

 

【月面観測ステーション】

 

「―――ふぅぅぅぅぅぅ…………」

 

 コントロールルームのリクライニングシートの上で、相馬巧は肺の中の空気を全て吐き出すような、長く深い安堵のため息をついていた。

 彼の目の前のスクリーンには、バイカル湖畔で熱狂する民衆と、ホワイトハウスで頭を抱えるトンプソン、そして東京で決断を迫られる郷田たちの様子が、マルチウィンドウで映し出されている。

 

「……できた。……ついにできたぞ……」

 

 彼は天井を見上げて呟いた。

 

「……G7、中国、そしてロシア。……三つの極が、それぞれ異なる『神の力』を持ち、互いにそれを喉から手が出るほど欲しがりながら、同時に互いを決定的に破壊することはできない。……完璧な三すくみの完成だ」

 

 イヴが満足げにデータを提示する。

 

『はいマスター。……シミュレーション結果も極めて安定しています。……この状態であれば、大規模な軍事衝突のリスクは今後五年間で12%以下まで低下しました。……各国は武力による解決よりも、外交と技術交換による利益の追求を優先せざるを得ません』

 

「……ああ。……ロシアが『環境』というカードを切ってきたのが決定打だったな」

 

 巧はニヤリと笑った。

 

「……ボグダノフの野郎、本当に性格が悪い。……だが、その性格の悪さが結果として世界を救った。……核兵器なんて物騒なものより、『ゴミ掃除』の方がよっぽど強力な外交カードになるなんて、皮肉なもんだ」

 

 彼は起き上がって、大きく伸びをした。

 肩の骨がポキポキと鳴る(擬体なので音だけだが)。

 

「……これでようやく一息つけるか?

 ……介入者としての俺の仕事も、太歳としての俺の仕事も、一通り種まきは終わった。……あとは彼らが育てた果実をどう分け合うかを見守るフェーズだ」

 

『そうですねマスター。……当面の間、緊急の介入が必要な事態は発生しないと予測されます。……マスターも少しは精神を休めることができるかと』

 

「……休めるか」

 

 巧は手元のコーヒーカップを手に取った。

 中身は空だったが、今の彼には最高級の美酒の味がした。

 

「……長かったなぁ。……死んで生き返って、神様ごっこさせられて。……胃が痛くなるような綱渡りの連続で。……ようやく世界が安定軌道に乗った」

 

 彼は窓の外の地球を見つめた。

 そこには三色の光が――青い西側、赤い東側、そして新しく加わった翠色の北側が――複雑に、しかし美しく絡み合いながら輝いていた。

 

「……まあ、どうせまたすぐに誰かが余計なことをして、俺の胃を痛めつけるんだろうけどな」

 

 彼は苦笑した。

 

「……でも今は……。……この静けさを少しだけ楽しませてもらおうか」

 

 孤独な脚本家は、自らが書き上げた第一部の完結を祝して、空のカップで乾杯した。

 

 世界は均衡を手に入れた。

 核の冬の恐怖は去り、代わりに高度な政治と技術の駆け引きが支配する、冷たくも熱い新しい平和の時代が訪れようとしていた。

 

 だが巧は知っていた。

 均衡とは、崩れるためにあるものだということを。

 そしてその崩壊のきっかけは、得てして神々の計算の外側にある、あまりにも人間的な「感情」から生まれるものであることを。

 

 だが、それは明日の話だ。

 今日だけは、この完璧な盤面を眺めて眠ることにしよう。

 

「……おやすみイヴ。……そしておやすみ地球」

 

『おやすみなさいませマスター。……良い夢を』

 

 観測ステーションの照明がゆっくりと落ちていく。

 月面の静寂の中に、神の代理人の寝息だけが静かに響いていた。

 

 人類の、そして相馬巧の、束の間の休息の時が始まったのだった。

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