弾けたタイプ   作:シニゴ

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一年生(前編)

 

 私、鵜城トハが、自身の銃を手にしたのはゲヘナ学園一年生の頃の……蝉すら羽化できなくなるぐらいに暑い、夏のとある日だった。

 

 習慣の自習勉強を終えて、さあ次は何をしようかと考え込んだ。この季節になると、学園のあちこちで公園プールがオープンされて、祭りやイベントなどの夏独特の催しが開催されるのだが、私はそう言ったものに、まるで興味が湧かなかった。

 

 自分はこれを、生来的なものだと結論付けていた。

 

 何故なら、小学、中学そして今のゲヘナ学園に通う中で、誰かと集団で纏って、遊びに出たことがあまりなかったからだ。

 

 まだ幼い小学生、そして中学生の頃には友達と呼べる人間はまだ居た。誰かと一緒に遊ぶことは楽しかったし、馬鹿な話題で盛り上がり、放課後に、校内で数時間を潰したこともある。

 

 でも人付き合いを重ねていくうちに、段々とそれそのものが煩わしくて、自身が理想としていたものからかけ離れていくように感じた。誰か一人を招けば、そいつの友達が此方の輪に入ってくる。共用できる話題がなければ、探さなければならない。悩みがあれば、「友達だから」といった如何にも一般論ぽい押し付けがましい理由で、相談に乗ってやらなければならない。

 

 

 好みが異なったり、価値観が違えば意図しないうちに相手を傷つけ、気づけば孤立していた。

 

 

 

 その時になって、漸く私は気づいた。私はただ、好きな時に、好きな事を、好きなようにやりたいだけなのだと。

 

 そこに相手への配慮なんてないし、あったとしても、結局のところ、それは自分本位のものである。だから私はゲヘナに入学した。治安と生徒の素行の悪さで知らぬ者の居ない、ゲヘナ学園へ。だれも彼もが自由に生き、勝手を謳歌するような環境であれば、だれも私を気に掛けたりしないだろう。

 

 

 気にかけられない。誰も私に配慮しない。だから私も、気にかけたり配慮してやる必要はない。一般論が通用しない学園だからこそ、私は他者から押し付けられる、非常に煩わしいそれとは無縁な場所で生きていけるのだと考えていた。

 

 

 ……そう、考えていた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。前日に荷物は運び終えていた。だから後は、くたびれたダンボール箱から生活用品の諸々を取り出して、家具を組み立て、自身の好みに合うよう配置し、衣服や制服をクローゼットに収納するだけだったのだ。それを当時の「温泉開発部」は見事に吹き飛ばしてくれた。近くのコンビニへ昼食を買いに行って外出していたのがせめてもの救いだった。

 

 なんてたって、当時の温泉開発部が設置した爆薬は、一般的とはいえ地表から屋上まで40m以上はある15階立てマンションの基礎部分を、意図も容易く粉砕するほどの量だったのだから。私の巣は砂上の楼閣の如く、呆気なく崩れさった。

 

 そこから先も、苦労は続いた。

 

 文字通り住処が無くなったので、学園にどうすればいいのか問い合わせると、私と同じ被害に遭ったマンションの住民や新入生達からの問い合わせが殺到しているので、後日連絡すると言って、一方的に通話を切られた。私は呆れて、端末を隔てた連絡先に怒鳴る事もできなかった。

 後日も何も、私はついさっき自宅と財産の一部を失ったのだ。どうやって其方の言う「後日」まで過ごせば良いのか。

 

 

 

 結局、私は伝えられた「後日」までとある生徒の世話になるのだが、それについては次の機会に話すとしよう。

 

 

 

 話を戻すが、今の私には目標がなかった。正確には、何がしたいのか分からない。こういった時は散歩にでも出て、何か目新しい物でも探しに行くのが一番だった。冷房の効いた室内で一日を過ごすのも良いが、あまりにも長居すると、体は冷気に慣れ、じっとしている事そのものが不快になる。

 それに今日のような殺人的な猛暑であれば、ヘルメット団やスケバン達も、流石に外を出歩かまい。適当な喫茶店やコンビニにでも逃げ込んで、冷房の効いた屋内で冷えていることだろう。

 

 

 私は、珍しいものが好きだ。それは私にとって、一種の快楽の源であり、生きる理由の一つでもあるからだ。だから私は、それこそ小学生の頃から一人で散策に出ることが多かった。当時いた友達の一人も誘わずに、心の底から湧き上がる冒険心を糧に、夏も冬も雨の日も、当時住んでいたトリニティの学園区域を探索し尽くした。

 

 そんな私が、今はゲヘナを練り歩き始めようとしている。ありきたりな表現だが、人生とは本当に何があるか分からない。こういった()()()()こそが、人生を豊かたらしめるのかもしれない。

 

 

 

 

「待ちやがれー!この弾なしがぁあ!」

 

「止まれーさもないと次は当てるぞ!」

 

 余談だが、このキヴォトスでは銃や弾丸といった凶器は、日用品である。ベッドへ行く前に、歯を磨く為に使う歯ブラシと歯磨き粉。料理を口に運ぶ為に使う箸とフォーク。そして今、私が着ている衣服と靴のように日常の中に溢れている物である。

 

 それこそ、スーパーやコンビニなんかでも売られているし、簡単な手続き経る必要もない。気に入った銃を手に取り、レジで金を払えば誰でも簡単に所有できるのだ。

 

「そこだ!」

 

 ヘルメット団の一人が、止まって膝をつき、他よりも安定した姿勢で引き金を引いた。私はそれに辛うじて反応し、利き足に力を込めて射線の外へ逸れる。

 

「避けるなよクソ!弾代だって私らには安く無いんだぞ!」

 

「だったら安く済むよう、腕を上げなさい」

 

「チィ!その余裕も今のうちだ。全員構えろ!」

 

 隊長と思しき人物が、号令する。後に続く団員が膝をつき、一斉にARやらSMGやらの雑多な銃の口を此方に指向する。狙いは一斉射撃か。

 

「撃てぇ!」

 

「チッ」

 

 舌打ちの後、すんでのところで私は蜂の巣にならずに済んだ。全速で走っているせいで満足に後ろを確認できなかったが、隊長の大声のお陰で、連中が何をしようとしていたのかは見ずとも分かった。

 

 彼女達の銃弾が数発、背中を掠めたがなんとか路地に入り込めた私にとってはどうでも良い事だった。狭い直線通路の此処ならば、ヘルメット団は数の利を活かせない。一人一人が順に、体のあちこちを側壁に擦りながら前進するしか無い。

 

 そんな場所で、多人数を無力化できる代物を放り投げてやると、どうなるだろう?私はウエストポーチから筒状のそれを二つ取り出し、うち一つのピンを抜く。

 

「あぁクソ!戻れ戻れ!」

「急にこっちくんなよ!狭いんだから!」

「良いからバックしろって、あいつ何かする気だ!」

 

 そう怯えるヘルメット団の先頭目掛けて、トハは閃光弾を気怠げに投擲する。

 

 投擲したと同時に彼女は振り返り、再び走り出す。正面の大通りへの出口へ疾走するトハに、激しい後光が差す。振り返ると先頭のショック状態のヘルメット団を跨ぐように、後続が進もうとしていた。彼女は冷静に残りの閃光弾のピンを抜き、同じく投擲。後に続く者達の視界と聴覚を混乱させて、人通りの多い大通りへと姿を消していった。

 

 

 

 

 

 このキヴォトスでは銃や弾丸といった凶器は、日用品である。故に世間ではこんな認識がある。「銃を持たない人は裸で歩いてる人より少ない」という認識が。

 

 ネットのどこのサイトの書き込みだったかは忘れてしまった。学校のクラスメイトが口にしていた事だったのかもしれないし、ついさっき「弾なし」と罵倒された時、脈絡もなく思いついたのかもしれない。

 

 どちらにせよ、未だに愛銃の一丁も持たない私はゲヘナどころか、キヴォトス全体で見ても変人な部類なのだろう。

 自分自身、幾度か銃を手にする事はあった。ある時は友達に誘われて、ある時はスーパーの一角で店員に勧められて。しかし、そのどれを手にとっても、ピンと来なかった。寧ろ、金を出してまで身につけなければならない物なのか、と思う事すらあった。

 

 金は大切だ。何を学ぶにしても、実行するにしても、得るにしても貨幣は欠かせない。かといって金がこの世の全てだとありきたりなことは言わない。ただ、金のない人生よりもある人生の方が、彩豊かなものだろうと私は捉えている。だから、それなりに金の使い道について、考えて生きてきたつもりだ。昔も、今も。

 

 ヘルメット団を撒いた事を確認して、閃光弾の残りを確認する。

 

 ベルトに巻き付けたポーチのチャックを右に引いて、中身を数えると四個の閃光弾。ヘルメット団相手に、二発はやりすぎたと感じた。銃の狙いも連携も杜撰な連中に、閃光弾二発は勿体無かった。一発で十分だった。考えれば考える程、腹立たしい。どうしてあんな社会の負債の集まりに、私が閃光弾二発分の費用を浪費しなければならいのか。

 

 おまけに、随分と長く走ったせいで、汗もかいた。全身の汗腺が、この夏の湿気を吸って吐きだしているかのように、私は汗だくになったいた。

 こんな事になるなら、散策などしようと思い至らなければ良かった。そもそもどうして、こんな猛暑にヘルメット団は出歩いていた?額の汗が目に沁みる。力任せに乱暴に手で拭っても、すぐにまた濡れる。拭っても拭っても、決して乾かず、視界はぼやける。恨めしく、キヴォトス全土を無差別に照りつける太陽を見上げても、事態は何も改善しなかった。適当な場所でも見つけて、涼むしかない。

 

 頭を上げて、周囲を確認すると人気がない。並立する家屋も何処か色褪せていて、活気というものが感じられない。ただ何処かで、夏の猛暑の擬音のように鳴いている蝉だけが、目には見えなくとも、存在を露わにしていた。どうやら、私は知らぬ間にゲヘナのスラム街に迷い込んでいたようだ。

 

 無法者のテリトリーに長居する必要はない。出だしから散々だったため、此処らで帰宅しようと決断するのに、時間は掛からなかった。踵を返して、来た道を辿って行くと、今や誰にも使われていない公園が左手側に見えてきた。

 

「……水」

 

 水飲み場があった。公園を囲う木々の影に隠れるように下部から上部に向かって湾曲している。英語のLを逆さにしたような台の上部に、突き出るようにある蛇口に、私は手を伸ばす。

 水勢なんて気にせず、ハンドルを目一杯回す。まるで源泉のように噴き出る水道水を顔に浴びせ、次に飲み下す。水の勢いが強く、口の中がチクチクとしたが、喉の渇きが消えていく快感に比べれば歯牙にもかけ得ぬものだった。

 

 

 顔が冷え、意識が幾分か明瞭になった時、私は顔を上げた。再び、腹立たしい日光が視界を照りつけるが、そんなことは気にもならなかった。

 

 何故なら、公園の出口の先、公園に面する車道の上に、黒い何かが見えたからだ。始めは蝉とか、虫の死骸かと思っていたが、距離の割には大きく見えたし、近づいていくごとにそのことがはっきりと分かっていった。黒い物体から数えて10mといったところで、それの正体がはっきりと分かった。

 

 黒猫だ

 

 痩せこけて、おでこと首元の左寄りに親指の長さぐらいの引っ掻き傷があり、禿げてしまっている。飼い猫ではない事は明らかだ。放し飼いだとしても、たったの一日でこれほどまでの傷を、どう作るというのか?

 

「……お腹、空いてるの?」

 

 野良猫とは、私の知る限り餌と自分以外に酷く警戒的な生き物の筈だ。それこそ、自身の何倍も大きな人間が近づいてくる事を知っていれば、一目散に自分だけが入れるような狭所に逃げ込んでしまう。だと言うのにこの薄汚い黒猫は、しきりに地面を舐め続けている。アスファルトが猫の好物だなんて聞いた事がない。

 猫の関心先に、興味を抱いた私は彼女、或いは彼を驚かせないようにそっと、しゃがんだ。所謂ヤンキー座りで、猫が必死に舐めとろうとしている、口先の先に注目する。

 それは……潰れた子ガニの死骸だった。車か或いは心無い生徒に踏み潰されたのか、潰されて出た体液がこの参るような日差しによって乾燥し、接着剤のような役割を果たして、煎餅のように平らで歪になったサワガニの死体を、車道のど真ん中にへばりつかせていた。

 

 これまで、似たようなカニの死体を見た事はあるが、そこに猫は居なかった。ましてや幸運の象徴として知られる黒猫と、こんな形で出会う事になるとは想像もしなかった。

 

 そんな「彼」と私が仮定した黒猫の様は、何処か私にとって、見るに耐えない物のように感じた。彼にとって、死骸は逃げることのできない都合のいい餌なのだろうが、それは明らかに、何らかに踏み潰された物である。人が意図して或いは意図せずして平らにされたそれを、猫のような親しみある動物が食べると言う光景は、どことなく実行した者の悪意を感じる。些細な事で良いから、何かしてやりたかった。そう思ったときには、私を追いかけまわしたヘルメット団への恨み言など、頭の隅にも存在しなくなっていた。

 

 ポーチから、消費した閃光弾のピンを一つ取り出す。リング状の金具から、曲げて固定された棒状のピン本体を器用に取り出すと、それを人差し指と親指で摘み、ヘラのように扱って、子ガニを地面から剥がしてやろうとする。

 そこで漸く黒猫の彼は私に気がついたのか、頭を低くし、背中を高くするといった、典型的な警戒の姿勢をとった。全身の毛を逆立たせ、痩せこけていた体は幾分か膨らんで見えた。

 

「待ってなさい」

 

 トハは踵を返すと、公園の水飲み場へ駆けた。そして片手に溜めれるだけの水を溜めると、それを溢さぬように慎重な足取りで、彼の元へと戻っていった。そして手の水をへばりついたカニに注ぐ。水分を取り戻して、柔くなった死骸は、ごく僅かながらも膨らみ、いとも簡単にピンでアスファルトから剥がすことができた。

 

 ピンで死骸を跳ばし、後退る黒猫の傍へカラカラと転がす。数秒此方を凝視して、噛み砕ける程度には厚さを持った死骸を咥えて、廃屋の影となる場所へと走り去った。

 

 感謝の一つも示さず逃げていく様が、実に猫らしい。そうふと思い、トハはその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 公園を後にして、十分程度経った。もうそろそろスラムの境界を超えてもいい頃だと思ったその時、例の黒猫──彼が、通る者の居ない交差点の中央に、ドンと待ち構えていた。

 偶然出会したにしては、彼はあまりにも落ち着いていた。骨が浮かび上がりそうな身体を、無理して膨らませようともしない。イカ耳にもならず、白濁なヤニを蓄えたその目で、じっと此方を見つめる。

 

 彼は、後ろ脚をあげて左耳の付け根を掻く。そして、非常にのんびりとした速度で立ち上がり、私から見て十時路の右手側に延びる道路へ、トテトテッと歩き出した。私はこの再会に、何処か運命的なものを感じた。黒猫は、餌を剥がしてやった時とはまるで人が違っていた様に見えたし、スラムの境界まであと十数メートルというところで、出会したのだ。偶然というには出来すぎていて、しかし人為的なものかと言われれば、そうだとは納得できない。超自然的な何が、私と彼に働きかけているように思えてならなかった。

 

 

 私の視線は彼を追い、思いついた時にはすでに、彼の後を尾けていた。私の膝ほどの高さで右へ左へ揺れる尻尾を目で追って、一時間は歩いた頃、住宅の密度は完全に解け、自然公園の外周フェンスに辿り着く。錆に食われた連続模様は、何度も切られて継がれ、最後は支柱ごと傾いていた。彼はそこにできた僅かな隙間をすり抜け、私はフェンスを跳び越えた。道はアスファルト製の車道からブロック型のコンクリートが敷き詰められた通路になり、それは根に押し上げられて波打ち、継ぎ目から小さな植物が生えている。周囲に緑が増えてきた。

 

 彼の尻尾がふいに左へ切れ、背丈よりわずかに高い鉄柱に、黒地の板が目に入る。塗装は泡を吹いたように剥がれ、縁は錆で瘡蓋のように厚くなる。けれど文字は、まだ読める。黒から浮かび上がるような白で、硬質なフラクトゥールの線が残っていた。「Flat Hotel」と読めた。彼の尻尾が看板の根元をかすめ、また前へ揺れた。

 

 私の視線も、それにつられて正面を向く。そこには件のFlat Hotelと思しき建築物があった。珍しい構造をしている。好奇心が湧いて、彼を追い越す。

 

 最初は遠くの空に、灰色の塊が引っかかっているだけに見えた。建物というより、地平から突き出た地層の断面のようだった。

 建物に近づいていくごとに、その異様さは何処か冷淡で、見る者の脳裏に焼き付く程、強烈なものになっていった。Hotelと命名されるには、あまりにも無機質で彩りのない外観をしている。

 外周をぐるっと回ったが、まるで要塞のようであった。基礎部から屋上まで100%コンクリート製だ。ところどころ経年劣化で黒ずんだり、浮かび上がったような茶色に変色していたが、スラムの車道のようにひび割れている箇所は、地表から見た限り一切なく、その堅牢性を黙然と示していた。

 

 堅牢といえど、窓はある。あるが、それは寧ろ敵の侵入を防ぐ為に銃器を突き出し、撃つための「狭間」と呼んだほうが正確で、等間隔のパンチングが壁面の緊張を乱さない。建物の屋上は、角に行くほど、コンクリートの端が刃物みたいに鋭く切り立っていて、全体の物々しさを強調している。

 

 見上げる角度が限界に達したところで、私はやっと立ち止まった。この建物は、客に安らぎを与えるというより、護ることに特化したような異形を誇っていた。

 窓の小ささも、櫓のように四隅に設計されている塔も、壁の厚みも、すべてが何かから護ることに固執しているように見えてならない。

 

 

 

 そんな構造を取る建物から数歩下がった私は、鳴き声で、背後に居た彼に気づく。この物珍しい建造物に、心の内を沸き立たせ、はしゃいでいた私をじっと見つめていた。そんな彼に合わせるように、私もじっと見つめ返す。彼を見下ろし、思いついた事をハッキリと述べた。

 

「他にもあるの?」

 

 他にも、私の心を満たすようなものがあるのか?そう聞くと、彼は鼻先を左へ向けて歩き出す。

 

 

 数歩程、歩いた所に如何にも頑丈そうな鋳鉄製の扉があった。建物の切り立った屋上を見上げることに夢中で、見落としていたのだろう。

 見た感じ、観音開き式の構造だったので、無骨な取っ手を両手でしっかりと握り、引っ張る。すると、重厚な軋みを立てて、内部が露わになった。内部は言わずとも廃墟で、人の営みの痕跡は遠い昔に消えたようだ。

 

 入り口の正面に構える、幅広な階段を登って一階、二階……そしてこれまた重厚な扉を押し開け、屋上に出る。屋上の塔のように設計された四隅を見て回った。まるで何か、巨大な機器でも設置していたような痕跡があり、私はそれを暫く眺めた。

 

 用事が済み内部に戻るが、映画で見るように、天井を忍ぶように伸びた配管が途切れていたり、重厚なコンクリートの天井が落ちたような跡はない。所々で雨水が滴り、床を濡らしていた場所もあるにはあったが、外部の公園の荒れようと比較すれば、随分と整っていた。

 

 それでも、やはりというべきか。壁面の一部がひび割れていたり、コンクリートが剥離して内部の鉄筋が露出している部位があった。途中で足場が崩れた螺旋階段の手すりや、足場と足場をつなげる鋼鉄の金網通路は全体的に錆びが強く浮き出ていた。

 

 形あるものは、やはり崩れてゆくのか。中央階段よりも近かった螺旋階段を下って、一階に向かう。これ以上長居すれば、廃墟となって初となる本格的な崩落に巻き込まれるかもしれない。

 

 エントランスへ続く、微かにグレーでペイントされた通路を通り、外に開かれた扉をくぐろうとする。そこで、彼にまた出会した。彼は私の右足の脛から脹脛にかけて、通り抜けざまに自身の脇腹を擦り付ける。そして、エントランスに座す幅広階段の影となる位置に座り込んだ。

 

 

 彼はまだ、私に見せたいものがあるらしい。

 

 

 トハは口の両端を上げて、踵を返す。待ち侘びていたような足取りで、彼につく。スマホを取り出し、ライトをつける。

 

 すると目の前に、仕切りが見えた。鋼鉄製の他よりも一層錆びたドアと、その仕切りだ。長い月日を経て酸化したため、このドアだけは他のものよりも、一層赤く錆びていた。日もくれ、入り口から差し込む日光の光量も限られた中で、彼女の目に映ったそれは、遠い昔に、ここで流血沙汰でもあったかのような想像を働かせた。

 

 空唾を飲み込む。足元の彼に目をやると、黒猫は光があまり届かないこの場でも、十分に目立つ金眼で少女を見上げ、開けてみなとでもいうかのように鳴く。

 

 彼女は意を決して、その赤錆の取っ手に手を伸ばす。握った弾みで、ドアの表面の浮き出るように風化した錆びが、砂山の崩れる時のようにサラサラと音を立てて滑り落ちる。やっとの思いで取っ手を引ききり、ドアの向こうの世界を目に収めるが、眼下に延びる階段は、地下へと根を伸ばしていた。当然、日光など届く場所ではないので、ここから先は、スマホに備え付いている光源だけが頼りとなる。

 

 彼はトハの導き手になったつもりか、或いは猫の五感をもってすれば、暗闇の世界など恐るるに足らぬのか、先行した。

 

 そんな彼に追い縋るように、トハも、地下への入り口へ足を踏み入れた。

 

 

 

 無人になった一階は、まるで呼吸しているかの様にエントランスから一陣の風を迎え入れた。風は甲高い、歓喜を滲ませたような音を響かせながら廊下を駆け抜け、建物全体の骨組みを震わせていた。

 

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