愛が重すぎる魔剣の主となった、生贄少女の成り上がり 作:パッタリ
城内の空気を背にした瞬間、ネアはようやく息を吐けた。
夜の冷たい風が頬を撫で、火照った頭を少しだけ冷やしていく。
「……とりあえず、外に出られた」
『油断しないで。まだ宿舎に帰ってないわ』
鞘の中のレセルが釘を刺す。
ネアとシャーラは城外へ抜け、人気のない通りまで移動してから、足を止めた。
目立つ変装をここで解くために。
シャーラは手際よく兜を外し、狐耳を一度だけぴくりと動かすと、小さく微笑んだ。
「それでは、団長様。工作がバレないよう、装備一式はこちらで処理いたしますわ」
「……処理って、どこに持っていくの」
「“消える”場所でございます。あ、鎧は持ち主のところへ」
さらりと言うのが怖い。
「それ、あとでちゃんと説明してよ?」
「もちろんでございますわ」
シャーラは鎧や装備を抱えると、闇に紛れるように去っていった。
ネアは一人になったことを自覚し、無意識に鞘へ触れる。
「レセル。帰ろう」
『ええ。帰って、皆に話を……』
その言葉が途切れた。
前方の暗がりから、足音が複数。
気配が、じわりと迫ってくる。
ネアはすぐさま半歩下がり、剣の柄を握った。
「……誰?」
闇の中から現れたのは、黒い外套の集団。
変装なのか、顔は布で隠され、目だけが淡く光って見える。
それは魔神教。
大教会での戦闘が終わり、撤退したはずの連中。
なのに残っている。
「……まだ王都にいたの?」
答えは、抑揚のない声だった。
「器の合図を受けて、我らは撤退した。だが一部は残った」
「器の思惑を確かめるため。あとは、さらなる混沌を望む者もいる」
淡々としている。怒りも、憎しみもない。
ただ確認のために動く、道具みたいな声。
ネアは剣を抜き、構える。
「何の用?」
外套をまとう男性が、一歩前に出てくる。
「すまんが、確認しに来た。お前が魔神の依り代になれるかどうかを」
『ネア、下がりなさい』
レセルの声が鋭くなる。
『こいつら、遊びじゃない。目的が最初からそれよ』
「わかってる……!」
ネアは踏み込む。
先手を取らなければ、多勢に無勢で押し潰されるだけ。
剣筋は鋭いものの、相手は数が多い。
二人、三人──いや、もっと。
連携している動きだった。
誰かが合図を出し、誰かが隙を作り、誰かが絡め取る。
そして何より、向こうの攻撃は、殺すためではなく捕らえるために最適化されていた。
(くっ、最初から拘束するのが狙い……!)
足元へ投げられる細い縄。
さらに刃を潰したような鈍器で肩を打たれ、体勢を崩す。
背後から腕を絡め取られ、膝が落ちる。
「っ……!」
ネアが歯を食いしばった瞬間、誰かが鞘を掴んだ。
『やめろ!』
鞘の中でレセルが激しく震える。
しかし、相手は迷うことなく鞘ごと引き剥がした。
「離せ……!」
ネアが叫ぶより早く、胸の奥がずぶりと冷える。
レセルが遠ざかる。
たったそれだけで、世界の輪郭が歪み始めた。
息が重い。視界が揺れる。力が、指先から抜けていく。
魔剣との結びつきが深すぎる──その代償が露骨に出た。
「……衰弱が早い」
外套の男性は、驚いたのかほんのわずかに声色を変えた。
「そこまで深い結びつきとは……」
だが、感情は薄いままだ。
ネアは押さえつけられたまま、喘ぐように息を吸う。
「……返せ……それは……私の大事な……!」
答える代わりに、男性が取り出したのは黒い結晶だった。
黒いのに、黒くない。
闇の中で揺らめくような光が、内側からにじんでいる。
まるで、黒い光。
見ているだけで嫌な汗が浮かぶ。
(……なに、それ……)
ネアは身をよじるが、押さえつける手は微塵も緩まない。
「依り代としての素質は、魔剣との強い……強すぎる結びつきがある者にも後天的に現れる」
外套の男性は淡々と言うと、黒い結晶をネアの手首の内側へ押し当てた。
「……っ!?」
冷たい、ではない。
痛い、でもない。
皮膚に触れた瞬間、結晶が溶けた。
黒い光が、ぬるりと形を失い、ネアの中へ染み込んでくる。
血管を逆流するような感覚。
胸の奥へ、何かが這い上がってくる。
(やばい……やばい……!)
叫ぼうとしても声が出ない。
舌が重く、唇が言うことを聞かない。
遠くでレセルの声が聞こえた気がした。
『ネア──!』
次の瞬間、視界が真っ黒に塗り潰される。
寒気が全身を覆い、音が遠のく。
最後に残ったのは冷えきった確認の声だけだった。
「……反応した」
「なら、可能性はあるのか」
喜びも悲しみもない声。
ネアの意識は、深い闇へと沈んでいく。
◇◇◇
そこは闇だった。
自分がどこにいるのかも、立っているのか倒れているのかもわからない。
ただ、冷たいものが体の内側を這う感覚だけが残っていた。
(……私、どうなったの……?)
声を出そうとしても、喉は動かない。
息も、心臓も、遠い。
なのに、闇の奥にふわりと輪郭が立ち上がった。まるで舞台の幕が開くように。
現れたのは美女だった。
角がある、翼がある、尻尾もある。
悪魔のようでありながら、恐ろしく整った姿。
その美しさは、人のものではない。
そしてその存在は、こちらを見下ろすように微笑んだ。
「まさか、このような者がここへ訪れるとは」
声が、頭の内側に直接響く。
美女はゆっくりと歩み寄り、手を伸ばし、指先がネアの頬に触れようとする。
ネアは反射的に、それを払いのけた。
ぱしっ、と乾いた音がする。
相手はわずかに目を細めた。
「おや。出会ったばかりの相手にそのような無礼。よくはないぞ?」
叱るような口調。
けれど、その目には愉悦がある。
ネアは歯を食いしばった。
恐怖で全身が震えているが、なんとか言葉を搾り出す。
「……ここから、戻りたい」
「それはできない」
相手は首を横に振ると、淡々と当然の事実として告げる。
「我が現世へ降臨するには、その世界における入れ物がなくてはならぬゆえに」
入れ物。
その言い方だけで、意味は理解できた。
理解できてしまった。
「私を……? まさか、あなたは魔神?」
「そうだ。お前を入れ物として使う」
決定事項かのように言い切る。
ネアの喉がひゅっと鳴り、視界が揺れた。
恐怖が心臓を掴んで締め上げる。
その時、ネアは思わず呟いてしまった。
「……レセル……」
名前が闇に落ちた瞬間、空間がひび割れた。
ぱきり、とガラスが割れるように、闇そのものに裂け目が走る。
裂け目の向こうから、白い光が差し込み、そこから一人の少女が踏み込んでくる。
白い髪に赤い瞳。
人の姿のレセルだった。
「……やっと見つけた」
レセルは、吐き捨てるように言った。
どこか疲れたような顔をしているのに、その表情は苛立ちで塗り潰されている。
「どうやら向こうの世界じゃ、再びわたしをあなたに握らせたみたいね」
ネアは息を呑む。
現実側で何が起きているのかはわからない。
でも、レセルがここに来られたということは、何かが繋がったのだ。
レセルは魔神をまっすぐ睨みつけた。
「とはいえ、魔神教は敵確定よ」
声が冷たい怒りを帯びる。
「ついでに、魔神もね」
魔神はわずかに目を大きく開けた。
そして次の瞬間、にやりと笑う。
「ふむ。このような敵意は久しぶりだ」
嬉しそうですらある。
「だが、神に敵対する愚かさは教え込まねばならない」
魔神が指を鳴らすように動かすと、闇がざわりと蠢いた。
「我の力の一片しかここにはないが……それでも、矮小で思い上がった者に罰を与えるには十分だろう」
ネアの膝が笑う。
体が震えて止まらない。
(……無理……勝てるわけが……)
けれど、レセルは一歩も引かなかった。
ずかずかとネアの方へ来て、その手を強く握る。
ひどく苛立った顔のまま。
なのに、声だけは妙に優しい。
「死ぬ時は一緒。だから安心しなさい」
「……安心できるわけ……」
ネアの声は震えていた。
だが、不思議と胸の奥の冷たさが薄れる。
レセルがいる。
ただそれだけで呼吸ができた。
やがて白い少女の輪郭が溶けた次の瞬間、そこには剣があった。
手の中には、剣の確かな重み。
『ほら。握りなさい』
声がいつもの距離に戻る。
ネアは剣を握り直し、震える指先に力を込めた。
(……怖い。でも……)
まだ安心はできない。
けれど、気は楽になった。
ネアは剣先を持ち上げ、闇の中で魔神と相対する。
魔神は楽しげに笑った。
「そうか。抵抗するか」
闇が深く脈打つ。
この戦いに勝っても負けても、現実は動く。
ネアは逃げずに剣を構え、ただ一つだけを思う。
(戻る。絶対に戻る。魔神の依り代になんかならない)
闇に満ちた舞台で、魔神と、魔剣を握る少女が向かい合った。